人でごった返す鹿児島駅に落ちた爆弾、無数の遺体…かろうじて残った6畳の防空壕で女学生の私は母の遺言を胸に暮らした【証言・語り継ぐ戦争】
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■塩田 律子さん(93)鹿児島市中山町 【写真】〈貴重写真・焼け野原に残った防空壕〉塩田律子さんの養父伊藤勇さん(手前)と養母ツネさん(中央)が写る=1945年、鹿児島市加治屋町(塩田さん提供)
「律子、おりこうになりなさいね」。1940(昭和15)年10月、母・岡部みつぎは私にそう言い残し病死した。享年43。父の仕事で岐阜から中国の大連に移り住み7年目、私は数えの9歳だった。 両親と姉、兄2人、私の6人家族で、姉は長野県へ嫁いでいた。母が死んで間もなく、今の鹿児島中央高校(鹿児島市)にあった第一高等女学校近くに住む伯父夫婦の養子となった。 養父母は50代で子どもがいなかった。養父は新聞社勤務で、私は家を守る養母に厳しく育てられた。大連から様子を見に来た長兄が、好きな読書もせず養母に従う私を見て「かわいそうだ」と泣いたほどだった。 養母との関係に悩むたび、「人の言うことを聞き、周りをよく見て、迷惑をかけない」という実母の遺言を思い出した。言葉の意味を考え、おりこうにしていれば家族と会えると期待していた。 しかし太平洋戦争が始まると「もう会えないかもしれない」という覚悟に変わった。44年9月に陸軍少尉の長兄がインパール作戦で戦死した。実父に届いた骨つぼには遺書だけがあったという。
初めて戦争の恐怖を体験したのは、45年4月8日。鹿児島市立高等女学校1年生だった。友人と甲突川沿いを散歩中、空からごう音が響き、見上げると敵機の機銃掃射だった。 民家に飛び込み無事だったが、外は爆撃であちこちから火の手が上がった。わが家は焼け、長兄にもらった宝物のげたも灰になってしまった。 家を失った私たちは、空襲前に敷地に掘った深さ2メートル、広さ6畳ほどの防空壕(ごう)で暮らした。空襲は怖かったが、壕で近所の人とごはんを食べたり、おしゃべりしながら玄米つきをしたりして、安らいだ時間もあった。 6月17日の鹿児島大空襲は雨が降り、壕の床下にたまった雨水で焼夷(しょうい)弾の猛火を消した。養父の話では、敷地には不発の焼夷弾が百発以上あったそうだ。 焼け野原になった市街地は実に遠くまで見通せた。7月27日の昼、ドーンという音で見渡すと、鹿児島駅前にあった松の木の辺りから煙が上がるのが見えた。私は近所の子の手を引いて一目散に壕へ駆け込んだ。
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