〈Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI〉への私見ーわたしは乾にひっくり返ってみてほしい
「現代短歌」No.102(2024年5月号)の特集は、〈Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI〉だった。乾遥香の責任編集により、40名が集められたこの企画には、わたしも公募から参加させてもらっている。
突然の身の上話で恐縮だが、わたしはこの企画に期待していた。学生短歌会から離れて、当時とは筆名を変えたわたしは、想像していたよりもずっと無名だった。もちろん、学生短歌会に所属していたときも全く有名ではなかったけれど、その肩書きすら失い、Twitter(現X)にただ漂流し、誰とも繋がらないひとりに成り下がったと感じた。孤独だったわたしは、公募で選ばれたことが素直にうれしかった。乾さんはわたしのことを覚えてくれていたのかもしれない。
ただ、誌面を読んで愕然とした。特に対談では、自分には理解しがたい理論がいくつも並んでいて、読み込むにも相当の時間を要した。自分なりに理解するために、乾の他の仕事にも目を通した。そのため、こうしてリアクションをするまでに、1年以上経ってしまった。
乾はアンソロジーや、その他の仕事を通して、分断を強調する。過剰ともいえる世代論や、知り合いの歌人を「ちゃん」、「くん」付けで呼ぶしぐさも、その一端を担っているが、そんなことはもはや揚げ足取りにすぎない。
なによりの問題は、乾があらゆる面に行き詰まりを感じていることにある。
対談で、夢がないなんて言ってるうちに、本当にないのだと実感が湧いてきた。短歌に限った夢じゃない。
※太字は引用者による。
乾:まわりのみんなが、自分の歌を後世に残すことを目指して短歌をやってるとは思わないし、そもそも何が秀でてるかを判断する力が分散しているので。協力しないと名歌は生まれないけど、みんな協力しないので、もう無理だと思う。
瀬戸:名歌をつくることが?
乾:うん。「歌壇は崩壊に向かってる」んですよ
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」pp.59~60
※本文中の太字は引用者による。
対談のタイトルにもあらわれるように、乾は「遅れて」歌壇にやってきて、ある種の黄金期に間に合わなかったという意識を随所で滲ませる。そして、同じく「遅れて」やってきた同世代について、「みんな協力しない」からと、歌壇の崩壊を予言するのだ。従来、歌壇の構成員が協力して、ある一首を名歌に仕立て上げてきた。その過程において、既存の名歌の多くは、一首単位で流通してきたはずだ。しかし、乾は一首単位での鑑賞には疑義を唱えている。
乾:そもそも私が一首を話すのが好きじゃないっていうのもありますよ。短歌一首をほめる言葉は、食レポか授業になっちゃうから。
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」p.62
※本文中の太字は引用者による。
瀬戸:「この歌でしょ、このときにみんな引用するのは!」みたいなのが、発生することは減ってるなっていう感じはある。
乾:この対談前に、同世代と話したんですけど、「一首をほめられたら笑っちゃうよね」って。私は笑っちゃうんですよ。ある一首を「これ大好きです!」「心のお守りです」みたいにされたら。うれしくないわけじゃないけど、そんなはずないって思っちゃう。
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」p.60
※本文中の太字は引用者による。
「同世代」と、対談相手である瀬戸夏子(や、その他の年上の歌人)とのボーダーラインを引いているのが印象的だ。この「笑っちゃう」発言には、さすがに瀬戸夏子が異論を唱えているが、「そりゃあ瀬戸さんは、好きになれるほうの人だから。心が動く側の人ですから。」と一蹴されていた。4つ年下のわたしが乾と「同世代」かは不明だが、こうした意識は共有していないし、なんでも連作単位で評価すべきとは思わないので、世代で括られても困る。そして、歌壇の崩壊が名歌の流通(≒特定のシチュエーションで決まって引用されがちな一首としての地位づけ?)と結びついているのなら、そうした流通を否定する根拠はどこにあるのか。
また、乾は、一首の鑑賞に絡めて、既存の名歌と技術の連関についても指摘している。
乾:名歌の話でいえば、もうある名歌を思い出すときは、技術に目が行くよりも、一本の声に聞こえます。(中略)今はもっと、あらゆるものが生まれた後で後から作っているので、作り手が考えないといけないことが多くて。だから、単純に一首のことは言えない。書かれていることは一個じゃないし、つくり方も一本の線では説明できない。
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」p.63
※本文中の太字は引用者による。
あらゆるテクニックや、作歌における倫理が複雑化した位相において、作者はどのポジションで短歌を作っていくか考えなくては歌壇でサバイブできないということだと理解した。たしかに、現在「名歌」として君臨する短歌を思うとき、技術面はもはや背景にすぎず、名歌が名歌たるテクニカルな点を指摘することは、改めて一首を考察しようとする試みと同義だ。もはや一首が、その一首として存在することにこそ、歌の価値があるようにも思える。ただ、だからといって、それらの短歌は、今後名歌が誕生する可能性を否定するものではないだろう。誰もが心当たりのある名歌が生まれ、名歌とされていく過程でも、その傍らには有象無象の名歌でない一首がごろごろと並んでいたのだから。
短歌の技術面についての言及に、もう少し注目したい。別の頁では、短歌に単語を「連れてくる」テクニカルな手法に対して、疑いのまなざしを向けている。このように、乾は、短歌で「嘘」を見せることに対しては、潔癖な態度を一貫しているのだ。
乾:歌人としてどんどんプロパーになっていくなかで、嘘じゃん、書いてるじゃん、っていう気持ちが先行するのをどうしても止められない。
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」p.76
※本文中の太字は引用者による。
乾:ワードとして短歌へ誘拐してくるだけなら無限だから、無限のなかでみんなどうしてるんだろうっていうのはけっこう不思議。私は〈私〉視点から動かないから。動かさないことによって、言えることが限られ、かつ増えるじゃないですか。
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」p.76
※本文中の太字は引用者による。
ワードを短歌へ「誘拐」するという着眼点。たしかに作者の身辺を中心とした作歌と比べて、作られるジオラマの見え方は変わるかもしれない。でも、そうしたジオラマを「嘘」と否定することは、果たしてそれは「歌人としてどんどんプロパーになって」きたことに起因するものなのだろうか。こうした否定に首を傾げたくなる一方で、「誘拐」しない乾は、「私は〈私〉視点から動かない」という姿勢を強調する。
「私は〈私〉視点から動かない」という姿勢は、むしろ乾の批評精神にこそ強くあらわれるものだ。ここからは、最近の乾による評論を引きながら、アンソロジーを読む手掛かりとしたい。
どうやってあなたに嫌われないままあなたと傷つけあうかということが、評者としての私の仕事だと思う。(中略)もともと、万人向けのものなんてないのだ。だから、私が書評に書くのは「私とその本」のこと。その摩擦が、あなたにも関係があるということ。
乾遥香「Only diamonds cut diamonds. 」
※太字は引用者による。
〈私とその本〉のことを私だけが書いても、乾遥香は我が強い、なんて括り方で話を終わらされてしまう。だから〈あなたとその本〉のことを、書いてこの世に増やしてほしい。これを読んでいる人が短歌の仕事に関わり、その仕事それぞれが社会的な影響力を持つことを、私は望んでいる。
乾遥香「書評には書くか書かないかしかない」
※太字は引用者による。
乾は〈私〉を介して、歌集の書評や、アンソロジー、同人活動などで他者の短歌と接続する。〈私とその本〉のことを、赤裸々に綴ることによって。そうした仕事には、短歌や社会全般への諦念が続々と明らかにされる一方で、乾は〈私〉に閉じこもることはない。むしろ〈私〉は、乾の外側、つまり批評対象である他者の歌集や、短歌にまで拡張されている。
「私」を摑んで離さない政治的な力を歌人は理解し始めている。道徳のみがかろうじて機能している現代社会を生き延びるために、「私」の範囲は拡大している。個人が自分事に思える範囲が広がったのだ(明らかに経験していないことを書くような作風も「私」の拡大と捉えれば、ほとんど全ての現代短歌を理解できる)。
※太字は引用者による。
先ほどアンソロジーの対談では、「嘘じゃん、書いてるじゃん」と言っていた短歌について、「明らかに経験していないことを書くような作風も「私」の拡大と捉えれば、ほとんど全ての現代短歌を理解できる」と豪語する(この評論文は、アンソロジー後に発表されたもので、その間にどういった心境の変化があったのかは不明である)。埋まることのない断絶を強調しながらも、〈私〉の範囲をどんどんと拡大するーーこの試みこそが、乾の仕事の本質ともいえよう。
乾は第3回BR賞を受賞し、その後1年にわたって「現代短歌」誌上で書評を連載した。なかでも、永井亘『空間における殺人の再現』と、我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』の書評は、いずれも拡大された〈私〉が色濃くあらわれたものだ。
意味の応酬に疲れているなら、永井亘の歌の一行を目で追うだけの体験はうれしいだろう。本来それが読書ということだったかもしれない。でも、既に二十四時間歌人の私が歌集に対してしたいことはただの読書じゃない。
※太字は引用者による。
だんだん、ちゃんと意味が通るとつまらなくも思えてくる。意味や道理があるんならこの作者である必要がない。そう思える私は、永井亘の作者イメージをこの一冊から問題なく確立できている。(中略)歌人は短歌から作者を読む。短歌では、消そう消そうとするほど消えない。
※太字は引用者による。
永井の『空間における殺人の再現』に対して、「二十四時間歌人」の乾は、その装丁にはじまり、現代短歌社賞受賞のことば、受賞時のプロフィール、歌集の発売日まで、あらゆる外部の情報をかき集めて、作者像を捏造する。そして、あろうことか「ちゃんと意味が通るとつまらなくも思えてくる。」、「意味や道理があるんならこの作者である必要がない」と、勝手に捏造した像すら、切って吐き捨てるのだ。そこには「誘拐」を訝しむときと、同じ顔が見え隠れしている。乾の短歌観にこじつけて、永井の試みを土足で踏み荒らすのと同然だ。
一方で、永井と同様、作者像を確立しにくい(プロフィールに基づく私性によって読み解くことが難しく思える)我妻の『カメラは光ることをやめて触った』には、好意的な評が寄せられている。
feminismとは、ひっくり返して考えてみて、いうやり方だから、私が現実の転覆にときめいてしまうのは仕方ない。現実にもそのトレースにも毎日うんざりさせられる。だから途中でつまらなくなることがない我妻の一首は、最後まで付き合ってもガッカリしないで済むところがうれしい。
※太字は引用者による。
短歌で作者に失望するとしたら、その判断は一首の後半でなされる。我妻は最後まで作歌や推敲における作者の快・不快を透けさせず、読者の予想を裏切ってくれる。我妻は「作家」だ。
※太字は引用者による。
この本に、多くの短歌を読むときに私が見たがるような一人の表情は出てこない。我妻俊樹という名前の〈我 - 妻〉がだれのことも指していないように、はっきりとした輪郭を持つ登場人物もいない。(中略)主体や作者の姿を見たい私は、歌から痕跡を探そうと集中する。そして、歌を台無しにしないでいてくれるこの始末に、「作家」の姿を認める。
※太字は引用者による。
ここでも、短歌に書かれていることの外側(例えば、我妻俊樹という名前)からプロフィールを引用し、「主体や作者の姿を見たい私は、歌から痕跡を探そうと集中する」姿勢は変わらない。しかし、永井には「歌人は短歌から作者を読む。短歌では、消そう消そうとするほど消えない」と言い切ったのに、我妻には「歌を台無しにしないでいてくれるこの始末に、「作家」の姿を認める」と、反転した評価を下している。
ここで注目するべきは、我妻は乾によって、feminismという外部の文脈を強引に流されながら、「作家」として評価されていることだ。逆に、永井の歌集に対しては、外部の倫理的な文脈は導入されず、渋い評価を下されている。しかし、我妻はその短歌を評価されているというよりも、乾が「誘拐」してきたfeminismによって、勝手に高評価されているにすぎない。永井に対する酷評もさることながら、我妻に対しても、もはや短歌としての評価とはかけ離れている。結局のところ、政治的な主張を背負わされていない短歌など、乾にとっては存在意義がないのだろうか。
フェミニズムは、常に乾の論旨の枢軸を担ってきた。乾は、アンソロジーや、それ以外の仕事において、分断や連帯を強調しながら、ときに生活者/弱者としてふるまう。
六年前に短歌を始めて、気づいたら、私は女で、私はフェミニストだった。私はあなたと違う環境で六年を過ごし、そのために、あなたは私の言っていることが時にはわからないでしょう。書かなかった前提はあなたに共有されることがなく、あなたは、私の文章の意味や、私が受賞したことの意味がわからない。わからないことに傷つくべきだと思う。私も傷つく。
乾遥香「Only diamonds cut diamonds.」
※太字は引用者による。
「乾さんは仮想敵と戦っている」という趣旨のことを、もう数えきれないくらいの回数、言われてきた。「何と戦っているのか」とか「勝ちたがっている」とかも。これは、私が口調を変えても、書き方を変えても、女である限り言われることだろう。
乾遥香「書評には書くか書かないかしかない」
※太字は引用者による。
たしかに日本社会で、若い女性という属性は不利かもしれない。歌壇において社会的な読み方は(年上の男性歌人から?)批判されるかもしれない。でもだからといって、歌壇での乾の立場は決して弱いものではない。実際、書評を雑誌で発表する場面や、アンソロジーを編む場面で、つねに権力は働いている。そこで、〈私〉という権力をふりかざしているのは、他でもない乾なのだ。アンソロジーでも、BR賞受賞のことばでも、乾は権力に対して積極的な姿勢を隠さない。そして、一見連続していなさそうな乾の理論は、実はどれも強大な〈私〉に紐づいていることに気づく。
瀬戸:乾さんの判断だともうゲームチェンジャーは現れません。この競技は終了してます。でも、その満ぱんに詰まった玉入れの道具で世界を変えられるって思ってるわけだよね。どうやって世界を変えるの?
乾:こう説明することで短歌を手段だと思ってると思われたら癪だけど、でもゲームを繰り返すことでタレントは生まれるじゃないですか。
(中略)
乾:何をやってても短歌じゃなくてもいいかもしれないけど。繰り返していればタレントになれます。
瀬戸:そもそも別に短歌じゃなくてもいいってことね。
乾:そうですね。どうなりたいのって言われたら、タレントになる。(中略)ゲームは終わってるけど、この先のキャリアはあるんですよ。いくつかの条件をクリアしたら、あとは辞めないことでステップアップしていける。いいとこまできてるんで、私は。このまま辞めなければいい。
瀬戸:そうだね。影響力を持って何がしたいの?
乾:・・・・・・こう答えると嘘になるけど、虐殺を止めたり、ですよ。言ったそばから、思ってることとは離れていくけど。いっぱいいるんで、横並びだとね、暮らしていきづらいんで。だいたい、自分が思う通りになったほうが楽じゃないですか。
「このゆたかなところに、遅れてやってきて」p. 67
※本文中の太字は引用者による。
今、私は、短歌の世界を変えるのは私だと思う。そしてそれは事実だ。良いほうに変わる。私が考える、より良いほうに。それがどのくらい暴力的なことかはわかっていて、だから、受賞は難しいかもしれないとも、本当はすこし思っていた。
乾遥香「Only diamonds cut diamonds.」
※太字は引用者による。
乾は歌壇で権力を得て、「タレント」になる。虐殺を止めるために。このままでは、乾 =〈私〉は膨張し続け、いつか歌壇を覆うだろう。〈私〉は、自作の短歌にはワードを外部から「誘拐」しないけれど、他者の短歌には自身の倫理や信条をどんどん「誘拐」した読みを行う。それは作歌意図とは異なるかもしれないのに。そんな乾 =〈私〉が、他者の短歌との連帯(短歌の誘拐?)を試みるにあたって、短歌は短歌のまま、テクスト上にあらわれる詩の姿ではいられない。一首単位で独立しているわけにはいかない。〈私〉に接続させるには、複数の短歌から、その行間から、たったひとりの人を立ち上がらせる必要がある。そこで求められるものは、歌壇での位置付けや、社会的なポリシーを浮き上がらせるための、新しい私性だ。
「私」を摑んで離さない政治的な力を歌人は理解し始めている。道徳のみがかろうじて機能している現代社会を生き延びるために、「私」の範囲は拡大している。個人が自分事に思える範囲が広がったのだ(明らかに経験していないことを書くような作風も「私」の拡大と捉えれば、ほとんど全ての現代短歌を理解できる)。
※太字は引用者による。
この記事の中盤で引いた論旨を、もう一度引用した。乾遥香 =〈私〉は拡大し、あらゆることは歌人という像に回収される。像のかたちは、人間以外なにも許されない。今まで、作中主体という語とともに語られてきた「私性」は、作者=作中主体という凝りかたまった図式との距離を指す用語だった。一方、乾の要求するものは、それとはまた異なっている。ポリシーの表明という役割を与えられた、いわば「〈私〉性」ともいえる代物だ。
「短歌ブーム」という言葉はSNSの隆盛とともに語られてきた。その筆頭がTwitter(現X)だろう。乾はアンソロジーの対談でも、Twitterの影響をまったく隠さない。むしろ、一首を「食レポ」として評価するのではなく、複数の短歌を並べて、もしかしたらツイート(ポスト)もその横に並べて、そのかたまりを連作として評価しようとしている。しかし、その先にあるのは、短歌がひとつの詩型ではなく、ステートメントを述べる場として利用される未来でしかない。乾の言論に対して、年下かつ女性の体を持つわたしが連帯することはこの先もないだろう。理解の及ばない短歌すら自分の範疇に置こうとすることは、乾の持つ権力を利用した暴力である。それは、乾がフェミニストとして批判してきた規範や、影響力を持って止めようとしている虐殺と、もはや紙一重だ。
いま、短歌は分裂している。短歌は自分の思想を、他者と共有するために発表するための媒体ではない。SNSとの混同によって、短歌に侵食してきた〈私〉という影から抜け出せる短歌こそが、乾の暴走を止められると思う。そして、本来であれば、乾自身がおのれの暴走を止めるべきなのだ。繰り返しになるが、わたしは若い女性として、乾の行っている試みに賛同しない。そうした意見を発表することが、乾の「道徳」を見直す機会になることを願っている。
〈引用文献一覧〉
対談:乾遥香 ✕ 瀬戸夏子「このゆたかなところへ、遅れてやってきて」-「現代短歌」102号(2024年5月号)
乾遥香「編集後記に代えて」-同上
乾遥香「Only diamonds cut diamonds. 」-「現代短歌」93号(2022年11月号)
乾遥香「書評には書くか書かないかしかない」-「現代短歌新聞」148号
乾遥香「「存在する」という権力(の美)」-「短歌」2025年2月号
乾遥香「歌人の読書(作者としての問題)」-「現代短歌」96号(2023年5月号)
乾遥香「わたしは日本にひっくり返ってみてほしい」-「現代短歌」99号(2023年11月号)


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