「なるべく刑は軽く」主義も凶悪犯へ厳格に“獄門”言い渡し…名奉行・小田切直年の“裁き”の極意とは
同性愛者の心中という異例の事件を裁く
直年が奉行だった頃の判例を記録した『御仕置例類集』(おしおきれいるいしゅう)によると、彼の特徴は「犯罪者でも人としての名誉は重んじる」「なるべく刑は軽く」の2点にありました。心中事件などに、その傾向がうかがえます。 江戸時代、心中は重大犯罪でした。8代将軍・吉宗が道理に反するものと位置づけ、心中した者は遺体を晒(さら)し、埋葬さえしてはならない、また生き残った者がいた場合も死罪と、『御定書』(おさだめがき/法典)に明文化されていたほど、厳しく罰せられました。 直年が江戸北町奉行の座にいたとき、10歳の商家の少女と、19歳の奉公人が心中し、男だけが生き残るという事件が起きました。当時の最高裁判所である「評定所」の構成員は、男は『御定書』に従って市中引き回しのうえ獄門に処すのが当然との判断を示しました。 しかし直年だけが、どうも単なる心中ではないかもしれないとの疑念を抱き、異議を唱えました。調べた結果、少女が奉公人に性行為を強要したあげく、その最中に突然死したのが真相でした。そこで直年は、処刑はやむなしとしても、せめて埋葬はあって然(しか)るべきと主張したのです。埋葬と、遺体を晒すとでは、本人の名誉のためにも、遺族にとっても、意味がまったく違ってくるからです。 この案は結局退けられましたが、ケース・バイ・ケースによって刑を軽くしてやりたいとの考えが見てとれます。 また駿府町奉行時代には、男性同士の心中という、当時としては珍しい事件を裁いています。 30歳と18歳の2人の修行僧が、人にはいえない同性愛関係に陥りました。2人は富士の裾野で心中を図りますが、あいにく年長の方だけが生き残ってしまいます。このときも慣例に従い生存者を死罪に処する一方で、埋葬だけはできるように諮ったといいます(実際に埋葬されたかは不明)。 大坂東町奉行時代には、ある女盗賊に評定所が死罪を下すなか、1人だけ遠島(島流し)を主張した記録もあります。情状酌量を示す何かが、女盗賊にあったのでしょう。たとえ周囲と意見が異なろうが、過去の判例にこだわらず刑を軽くする——そうした考えの持ち主だったといえます。