「なるべく刑は軽く」主義も凶悪犯へ厳格に“獄門”言い渡し…名奉行・小田切直年の“裁き”の極意とは
凶悪犯・鬼坊主清吉を処罰し治安を回復
一方、法令通りに厳格な判決を言い渡して喝采を浴びることもありました。鬼坊主清吉(おにぼうず・せいきち)事件です。清吉は背中に鬼坊主の入れ墨を入れた強盗団の首領でした。 『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺』でも描かれていますが、直年が生きた時代は自然災害が相次ぎ大規模な飢饉(ききん)が農村で発生、江戸に飢民が流入してきました。その結果、犯罪や米屋の打ちこわしが横行し、治安は悪化をたどる一途。直年や長谷川平蔵は、その対策に忙殺される日々でした。 鬼坊主清吉はそうした世相を背景に登場し、徒党を組んで路上強盗や引ったくりなど、荒っぽい犯罪を繰り返していましたが、江戸から逃亡したところを捕縛されたのが1805(文化2)年。身柄は護送され、取り調べを担ったのが直年率いる北町奉行所でした。 そして、直年は「市中引き回しのうえ獄門」の判決を言い渡します。江戸の平和を取り戻すための判決に、大衆は安堵(あんど)しました。 実直でフェアな直年でしたが、危機に直面したときもありました。1793(寛政5)年、元配下の同心2人が江戸を追放されます。罪状は札差(ふださし)へのどう喝や収賄でした。 札差とは、武士が給料として得た米を担保にカネを貸す高利貸で、評判の悪い金融業者でしたが、だからといって役人が威圧するような行為は許されません。米問屋などから吉原でたびたび接待を受け、金品を受理していたのも、問題視されたようです(『御赦例書[おゆるしれいがき]より)。 知らぬところで元部下が犯した不始末として、幸い直年におとがめはありませんでしたが、監督不行き届きで罰せられても、おかしくない事態でした。それがなかったのは、日頃の清廉潔白な言動によるものでしょう。 直年の北町奉行在任は、19年に及びます。歴代の町奉行のなかでも4番目に長く、在任中の1811(文化8)年、69歳で死去しました。 69歳という高齢になっても奉行職にあったのは、幕府からも、庶民からも、厚い信望を得ていた証拠でしょう。
【参考図書】 ・『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫 ・歴史読本2007.7月号『名奉行仕置帖』丹野顯/新人物往来社 ・『江戸の町奉行』南和男/吉川弘文館 ■小林 明 歴史雑誌・書籍編集兼ライター。『歴史人』(株式会社ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)の編集を担当。また、『一個人』(一個人出版)への執筆をはじめ、webメディアでは『nippon.com』『ダイヤモンド・オンライン 』『Merkmal』などで連載を担当中。近著に『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)。
小林明