「うつ病者ピースボートで中南米を行く」
Blog4で、「水先案内人」としてピースボートに乗船して南太平洋の素晴らしいを旅したことを書いた。
その翌年の中南米での「水先案内人」は、うつ病状態ではあったけれど、旅がうつから抜け出るきっかけになるかもしれないとのかすかな期待もあって、引き受けた。
ベネズエラまで飛行機で飛び、カラカスから船に乗った途端に、私は大変なことに気がついてしまった。
甲板に出ると海、海、海。これはまずい。なぜかって、、、。死ぬのがすごく簡単なのだ。
うつ病者の多くは、「死にたい」と思うのではなく、「消えてしまいたい」と思う。「死にたい」という意識的欲求ではないので、縄を購入して首をつるような面倒なロジスティックを考えることまではしない。しかし、巨大なクルーズ船の甲板から見えるカリブの美しい海へ身を投げるのはたやすそうで「消えてしまいたい」の思いにかなりフィットする行動なのだ。
「決して一人では甲板に出ないこと」と自分に言い聞かせて、中南米の船の旅は始まった。
ベネズエラは世界最大の石油埋蔵量を持つ国だ。しかしごく少数の富裕層が富を占有し、貧困と政情不安は常態化していた。
1999年にウゴ・チャベスが大統領に選ばれ「21世紀の社会主義政策」スローガンの元に、格差の縮小、貧困の底上げ政策を次々と展開した。2002年にアメリ合衆国CIAが支援した軍部クーデターが起きたが、三日で収束し、チャベスが再び政権に戻った。
ピースボートのベネズエラでの企画の一つ、丘の上の貧困層の人々と交流するイベントに参加した。
カラカスでは貧乏人は丘の上に小さな家を建てて住んでいて、金持ちや中流層は平地に住む。ケーブルカーに乗って丘の上に向かった。かつては丘の人々の公共交通手段は皆無だったが、チャベスの政策の一環で、ケーブルカーが敷かれた。
丘の上の町のコミュニティセンターで私たちを待っていたのは、以前はドラッグと犯罪の巣窟だったゲットーを相互支援のコミュニティへと変貌させた地元の人々だった。30人のピースボート乗客たちは、50人ほどの地元の人々と交流した。それぞれが歌や音楽演奏を披露した。ピースボート側はよさこい踊りをベネズエラの人々に教えて、一緒に踊った。
20歳代のB君はすべての寄港地で和太鼓を演奏する目的を持って世界一周ピースボートに乗っていた。
私はカリフォルニア在住時代の90年代に、和太鼓の子どもチームを率いて教えていた。日本に住み初めてから10年近くは、太鼓を叩いていなかったのだが、現地の受け入れの人が迎えに来るまでの長い待ち時間に久しぶりに太鼓を叩かせてもらった。
汗がダラダラ出るまで一曲を叩いた。その時、体の内側が大きく動いた。太鼓を叩く喜びと楽しさの感情が明確に蘇った。真っ暗な体内に火が灯った気がした。
丘の上の交流イベントでもB君の太鼓演奏にジョイント出演させてもらった。
おそらくほんの2〜3分だったかと思う。
丹田が引き締まった。渾身の力がバチを握る両手に結集し鼓面に打ち下ろされた。
太鼓のリズムで筋肉が振幅し、太鼓の音で全身の細胞が潤った。
聞いている人たちが太鼓演奏をエンジョイしているのが見て取れた。日本の人たちの顔は輝き、ベネズエラの若者たちの体は踊っていた。
叩きながら涙があふれてきた。あとからあとから涙が出て止まらなかった。汗も撒き散らしていて、もう涙なのか汗なのかわからなかった。
涙をこぼすことなど久しくなかったのに、こんなにたくさんの涙。感情が戻った!
もしかしたら、もしかしたらこれをきっかけに治るかもしれない。そんな期待が首をもたげた。
山を降りるケーブルカーの中でもその期待は続いていた。心なしかうつ病の症状としての身体のしびれ感が減ったような気がしていた。
ところが船に戻り、自分の船室のベッドに腰を下ろした途端に、朝出かけた時と同じ状態に戻っていることを知った。
期待は報われなかった。一時的なバウンスバックは24時間も続かなかった。
カラカスを出港した船は、パナマ運河をゆっくりと時間をかけて通り抜けた後、ジャマイカに寄港した。
ジャマイカといえばボブ・マーリー。70年代、祖国ジャマイカの抑圧されてきた同胞たちに向けて歌い、世界の若者たちをふるい上がらせたあのget up stand up for your rightsの歌に、その頃、学生だった私もどれだけ勇気付けられたか。
起き上がれ「自分の権利のために立ち上がろう」とボブ・マーリーはリズミカルに歌い、私たちは踊りながら立ち上がった。
いたるところにボブ・マーリーのポスターがあった。ドレッドヘアの人も多い。レゲエ音楽が街に満ちていた。
get up stand upの歌もしばしば耳にした。
あれだけ意識の高揚をもたらしたこの歌に、今の私は心も身体も微動だに反応せず、懐かしいと思う心すら動かなかった。
船上での私の講演を毎回聞きにきてくれた女性が、「一緒にスクーバやりませんか」と声をかけてきた。
そういえば、いつかカリブ海でスクーバダイビングをしたいと学生の頃夢みたっけ。
今、特に海に入りたい欲求はわかなかったが、他にしたいこともなかったので誘われるまま数人の人たちとグループになった。
港のスクーバショップでギアをレンタルする間に、急に奇妙な不安が頭をもたげてきた。
これできっと私は死ぬんだ。潜水したまま上がってこれなくなる。
そんな気がしてきた。溺れるのは苦しいだろうが、今のこの延々と続く苦しさよりはマシだ。
そう、このダイビングできっと死ぬ。という妄想が一気に膨れ上がった。
死ぬことが怖くはなかったのだが、家族に私がここで死んだことを知らせる遺書を書いておかなければとの考えに取り憑かれた。
「家族のみんなへ。私はカリブ海に潜って死にました。自殺ではありません。事故です。何もかも全てをありがとう。」
夫は日本語が読めないので、このようなそっけない内容を英語で書いた。
パスポートの間に挟んでおけば、必ず家族に届くだろう。
この後うつ病がもっと悪化してからは、こういう意味のない異常行動を次から次へとするようになった。
大学院の講師の職をメール一本打ってやめてしまった。何年か続けてきてそれなりに教えがいを感じていたというのにだ。
何よりも私にそのポジションを依頼した大学教授を慌てさせてしまったに違いない。申し訳なかったと思う。
こういう愚行をすると大抵数日以内に、後悔する。でももう取り返しがつかなくて、ひどい後悔と自己嫌悪と恥ずかしさとに悩まされる。
それでさらに症状が悪化する。
グアテマラではプエルトケッツアルで下船した。マヤインディヘナの村で女性のエンパワメント・プロジェクトを展開しているNGOグループと交流するピースボート企画に参加した。
グアテマラは私の人生で大きな意味を持つ国だった。中米を旅していた20歳代の後半に、その後の生き方を決定することになるマヤの少年との出会いがあったところだ。
ちょうどあの頃、グアテマラは内戦が悪化し、アメリカCIAの支援を受けて実権を握った軍部が、マヤインディヘナの多い農村部への焦土作戦をとるなど徹底した弾圧を行っていた。
最大20万人が死亡もしくは行方不明となった時代だ。
後ノーベル平和賞を受賞するリゴベルタ・メンチューの両親が軍事政権への抗議をリードしていた頃だ1996年に平和協定が結ばれるまで、恐怖の政治状況が長く続いた。
にもかかわらず、ピースボートで訪れた村々の活気あるメルカード(市場)、インディヘナ女性の着る色とりどりの民族衣装、濃厚な熱帯の花々の色に変わりはなかった。
高原のインディヘナの村の女性のエンパワメント・グループとの交流の後、私はそのリーダーの自宅に招待された。
グループの女性たちの多くが家族のメンバーの誰かを殺されたり、誘拐されたりしているという話は、病んだ私の心身にはとりわけ辛かった。体が末端からどんどん冷えて行くのがわかる。特に胸骨のあたりが冷たくて、痛いほどしびれていた。しきりに胸のあたりを撫で続ける私を彼女は不思議そうに見ていた。
突然電灯が消えて真っ暗になった。停電だという。この村では一日に何度も停電するのだと。
「でも大丈夫よ」と言って彼女がろうそくに火を灯した。
「あなたにはヒーリングが必要みたいだから、ちょうどいいわ。お風呂に入りましょう」
「お風呂?」
「そう。」
ろうそくを持って、彼女は私を外に案内した。
庭にある小屋が、マヤインディオの伝統的な蒸気風呂だった。
広めの小屋の中はぬるめのサウナのようだった。
私たちはタオル一枚で、ほとんど言葉を交わすことなく、ろうそくのゆらめく灯りの中にかなり長い時間座っていた。
80年代、90年代は北米インディアンの友人たちからイニピ儀式(スエットロッジ)に招かれることがよくあったが、そのいずれもが熱気の中、汗だらけになりながらパイプを吸い祈りを捧げる強烈な儀式だった。
マヤの伝統風呂も浄化の儀式だと後になって知ったが、その時はただジワーと汗が滲み出てくるのを感じながら、沈黙していた。私の調子悪さを感じ取ったのだろう。
私に話しかけることも、説明することもしなかったこのマヤ女性の優しさがありがたかった。
お風呂から出ても、電気は戻っていなかった。
「寝るしかないね」と言って彼女は笑った。
ガテマラ少年との20歳代の出会いは、私のエンパワメントのルーツなので、この連載でいつか書きたい。
北米でのイニピ儀式のことも、いくつものエピソードがあるので書けたらいいな。
でも、今日はここまで。