自宅の庭にそびえる「戦争の証拠」 茂原海軍航空基地の掩体壕 「忘れないでくれ」…戦下の記憶は子や孫へ
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外房の中核都市・茂原には太平洋戦争中、関東防衛の一翼を担う「茂原海軍航空基地」が存在した。基地があった場所は三井化学茂原分工場や住宅街に変貌したが、戦闘機を隠すために造られた掩体壕(えんたいごう)が宅地や水田の中に今も10基、点在している。 市教委などによると、1941年9月、木崎、谷本、本小轡などの約150戸の民家や東郷国民学校(現・東郷小)、寺社が強制移転を命じられ、同基地の建設は始まった。配備された航空隊は関東防衛の任に当たり、敵機が襲来すれば空中戦を展開。基地から沖縄戦に出撃し、戦死した特攻隊員もいた。掩体壕は、主に基地の北側に約50基造られたとされる。
自宅庭にコンクリート製の掩体壕(高さ約6メートル、幅約30メートル、奥行き約14メートル)がある石井定夫さん(76)は、戦中の様子を亡き父、定良さんらから聞いていた。 農家だった石井家は基地建設に伴い、500~600メートル離れた借地に転居。新居を建てる際は、「空襲が怖くて大工がなかなか来てくれず、骨組みは建ったが、野ざらしの期間が長かった」らしい。 20歳前後で出征した定良さんは、海軍の通信兵として従軍した。出征前日の夜には、同基地の隊員と酒を酌み交わしたそうだ。出征当日、自宅近くの神社で壮行された際は、基地から離陸したゼロ戦が翼を左右に振りながら上空を飛行したことを覚えていた。この時のパイロットは、後に特攻で亡くなったと定良さんは語っていたという。 基地や周辺には敵機が襲来。日本軍の戦闘機の墜落現場に向かった近所の女性は、血を流しながら「お母さん、お母さん」と言う搭乗員を見たと戦後に振り返っていた。定夫さんは幼い頃、畑の中に埋まっていた空薬きょうで遊んだ記憶がある。市内では不発弾が見つかることもあった。
石井家が元の場所に居を戻したのは、戦後30年近くたってから。庭池があった場所に造られた掩体壕は、そのまま残されて今は物置として使われている。 戦争で弟を亡くした定良さんは戦後、茂原市の遺族会会長を長く務め、地元の小学生に自宅の掩体壕を説明することもあったという。孫の知彦さん(47)は祖父から「(戦争は)あってはいけないことだから、忘れないでくれ」と聞かされてきた。 生まれた時から掩体壕が身近にある知彦さんは「共存していくしかない。戦争があったことの一つの証拠。残していかないといけないものかと思う」と考えている。知彦さんの幼い娘も、この大きなかまぼこ形の構造物が飛行機を格納した施設だと理解している。掩体壕に宿る戦争の記憶は、断片的ながら子や孫に伝わっている。 (武内博志) ◇掩体壕 戦闘機を敵襲から守るための格納施設。茂原に現存する10基は個人の敷地内にあり、うち1基を市が1995年度から借り上げ、案内板を設置して管理している。構築作業には地元住民や学生も動員された。建設中に壕がつぶれ、兵士11人が死亡する事故も起きた。県内ではほかに、香取、館山、木更津の各航空基地で造られたという。
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