<きちたび>シンガポールの旅2025🇸🇬 日本人が忘れてしまった日本軍によるシンガポール占領後の華僑大虐殺

🇸🇬 シンガポール 2025年2月12日/18日

日本人にとって、シンガポールのシンボルといえば「マーライオン」。

そして、巨大カジノを中核とする統合型リゾート「マリーナベイ・サンズ」だろう。

私が訪れた日も、世界中の観光客がここに集まり記念撮影に興じていた。

しかし、これら有名観光スポットが集中するマリーナ湾のすぐ近くに立つ日本に関係するモニュメントについて知る日本人はあまり多くない。

マーライオン像からわずか500メートル、シンガポールを代表する「ラッフルズホテル」のすぐ目の前に「戦争記念公園」と名付けられた正方形の公園がある。

まさにシンガポール市街地のど真ん中だ。

この公園の中央に立つ白亜の塔の名は「日本占領時期死難人民記念碑」、通称「血債の塔」である。

高さは68メートル。

4本の白い塔は、シンガポールを構成する華人、マレー人、インド人、ユーラシア人を表しているという。

「日本占領時期死難人民」とは、太平洋戦争中、日本軍に占領された直後シンガポールで起きた大虐殺の犠牲者のことだ。

1967年にシンガポール政府と華僑団体が集めた寄付によって建立されたこの記念碑の下には、日本の占領時代に軍によって虐殺された中国系市民の遺骨が納められている。

遺骨はシンガポール島内35ヶ所から掘り出され、身元がわからない大量の遺骨が600以上の甕に納められてここに眠る。

私も1980年代、バンコク特派員時代に何度かシンガポールを訪れたことがあるが、正直このモニュメントには一度も行ったことがなかった。

真珠湾攻撃と同時に始まった「マレー作戦」は、準備万端で臨んだ日本軍の連戦連勝で、破竹の勢いで南下した日本軍は、東洋におけるイギリス軍最大の軍事拠点だったシンガポール要塞を一気に攻め落とした。

緒戦の大勝利に日本中が沸き立ったことは知っているものの、そのシンガポールで日本軍が何をしでかしたのか、その詳細はほとんどの日本人が知らない。

中国や朝鮮での残虐行為についてはたびたび外交問題となりニュースとして取り上げられたが、東南アジアでの蛮行については戦後賠償と共に忘れ去られてしまった。

この記念碑の近くには別の戦争遺跡もある。

金融街の高層ビルが見えるエスプラネード公園にあるこの戦争記念碑は、2度の世界大戦で命を落とした英雄たちを追悼するためのものだ。

その中には日本軍と戦って死んだ兵士や市民も含まれる。

同じ公園には、「インド国民軍」の記念碑も。

インド国民軍は、捕虜となったインド兵を中心に日本軍の支援の下シンガポールで結成された部隊で、イギリスからのインド独立を目指し、日本軍と協力してインパール作戦などに参加した。

終戦前、インド国民軍の指導者だったチャンドラ・ボースがこの公園に戦死した兵士を慰霊する記念碑を立てたが、戦後戻ってきたイギリスによって破壊され、戦後50年の年に同じ場所に再建されたのだという。

今では多くの日本人ビジネスマンが駐在し、海外旅行先としても人気のシンガポールだが、ここでかつて日本は何を行なったのか?

関連図書に目と通しながら、今回の旅行ではシンガポールにおける戦争の痕跡を訪ねてみることにした。

マレーシアからシンガポールに戻り、私は多くの住民が犠牲となった中華街に宿をとった。

通りに吉祥と書かれた赤い提灯の飾りがあるものの、周辺は近代的なオフィスビルが立ち並び、新しいものと古いものが共存するなかなか魅力的な街である。

そんな中華街の交差点に一つのモニュメントが立っていた。

「SOOK CHING INSPECTION CENTRE」

日本軍がこの街を占領した直後、敵性分子摘発の名目で中国系市民をこの交差点に集めいわゆる「検証」を行い、多くの華人が命を落とした場所であることを示すものだ。

記念碑にはこう記されている。

『シンガポール占領から3日後の1942年2月18日、憲兵隊は1ヶ月に及ぶ反日分子掃討作戦を開始した。この作戦は日本語では「大検証」とか「華僑粛清」と呼ばれ、今日では一般的に「Sook Ching = 粛清」と呼ばれる。18歳から50歳のすべての中国系男性(稀に女性や子供も含まれる)が指定された検証場所に招集され、憲兵隊や協力者によって尋問された。』

そして、検証をパスした者は体や衣服に「検」の文字が刻印され、パスできなかった者は反日分子として処刑された。

犠牲者の数は「数万人」とこの記念碑には記されている。

2月18日の朝、私はこの中華街からバスに乗って、シンガポール島の中央部に足を伸ばした。

日本軍占領時代のシンガポールで何があったのか、そのことを学ぶために一番ふさわしい博物館を訪ねるためである。

その建物には「FORMER FORD FACTORY」と書かれた看板が立っていた。

かつてフォードの自動車工場があった場所で、ここでイギリス軍のパーシバル司令官が降伏文書に署名した。

当時の歴史的な建物が現在も残り、そこが戦争博物館として利用されている。

入館料は7シンガポールドル(約780円)だった。

この博物館の展示内容と事前に目を通していた本をもとに、シンガポールでの日本軍について概観していこうと思う。

入り口のモニターには、日本軍が侵攻する前のイギリス植民地だったシンガポールを撮影した古いフィルム映像が流されていた。

海に面した市街地を見下ろす高台にはイギリスが築いた要塞が写っている。

ペナン、マラッカと共にイギリスの「海峡植民地」に組み込まれたシンガポールはその首都とされ、インド、中国を結ぶ三角貿易の中継地として、またマレー半島で産出される錫の積み出し港として急速に発展、その地理的条件からイギリスは東南アジアの拠点として軍事要塞化を進めた。

行進するイギリス軍部隊の映像からは、白人は指揮官のみで大半の兵士はインド兵かマレー兵だったことがわかる。

海辺のリゾートで優雅な生活を楽しむ白人たちが映る一方で・・・

街には人力車を引く中国人の姿。

そしてシンガポール川には、貨物輸送のための大量の中国風ボートで埋め尽くされていたこともわかる。

そんなシンガポールに大きな変化が起き始めたのは1931年。

この博物館の展示もいわゆる満州事変の勃発から始まっていた。

1937年には本格的な日中戦争に突入し、華僑が多かったシンガポールでは侵略を受ける中国を支援する動きが活発化する。

険しい山に道路が造られ、大量の物資を中国に送り込んでいる写真が目を引いた。

説明にはこうある。

『1939年2月から9月にかけて、3200人以上の華僑志願兵が対日戦争を支援するため中国に軍事物資を輸送した。彼らは主にシンガポールとマラヤから来て、「ナンチャオジゴン(南僑機工)」として知られていた。これらの取り組みは、著名な実業家であるタン・カー・キーが率いるシンガポール中国救済基金委員会によって組織された。ボランティアドライバーとトラック整備士はそれぞれ中国通貨で月給30ドルを支払い、シンガポールと中国で基礎訓練を受けた。彼らは非常に危険で困難な条件の下で働き、多くは病気や行動中に亡くなった。』

こうした華僑による中国支援の動きが日本軍を苛立たせていたことが粛清の根底にあったのは間違いないだろう。

博物館には太平洋戦争直前に発行された雑誌の記事も展示されていた。

「朝日グラフ」1941年10月22日号、記事のタイトルは『極東の敵性基地シンガポール素描』。

その内容は、大英帝国におけるシンガポールの位置づけ、特に中継基地や錫、ゴムの積み出し港としての重要性を紹介する一方、巨大な軍港を持ちながら艦隊は遠隔地に配備されているとシンガポールの弱点についても触れている。

さらに、同じく1941年10月に発行されたこちらの海外在住日本人向けの雑誌「The International Graphic」には『対日包囲陣を衝く』と題された記事が掲載され、シンガポールを含む東南アジアが広く円で囲まれ、ABCD包囲網に対抗するため軍備増強の正当性を主張している。

こうした戦前の雑誌を外国の博物館で初めて見るというのも、なんだか奇妙な気分だ。

そしてこちらは、「日本拓殖協会」が1941年12月25日に発行した東南アジアの地図。

太平洋戦争開始直後に出されたこの地図には、東南アジアにおける原油や錫、希少金属など25の戦略的重要鉱物資源の産地がマッピングされている。

こうして日本が用意周到に南方作戦の準備を進める一方で、シンガポールの様子はどうだったのか?

こちらは、1941年12月27日に出版された「Illustrated London News」に掲載された日本に関する記事。

見出しは『80年前には封建国家だった日本は、今あえて世界で最も強力な2つの国家に挑戦する』となっていて、明治時代の日本の様子がイラストで描かれていた。

記事は、日本の台頭は急速だったけれど、その没落も急激で壮観なものになるだろうと予言している。

そして、その年の8月には、オーストラリアからの援軍がシンガポールに到着ししっかり守りを固めていることが自慢げに紹介されている。

そして1941年12月8日、日本軍によるマレー半島上陸作戦が開始される。

すると、自信満々だったイギリス軍は防衛ラインを簡単に突破され、マレー半島に配備していた部隊を難攻不落とされたシンガポール島に撤収させ籠城戦を挑む決断をする。

怒涛の勢いでマレー半島最南端ジョホールバルを陥落させた日本軍は、1942年2月、シンガポール島を隔てる狭いジョホール海峡を渡り敵前上陸作戦を敢行した。

今回の旅行前に事前勉強のために読んだ太平洋戦争研究会編『太平洋戦争 16の大決戦』から、シンガポール攻略戦の経緯を引用する。

日本軍はイギリス軍をマレー半島先端のシンガポール島へ押し込んだ。イギリス軍の兵力は大雑把に約10万ともいうが、実際は約8万5000人程度だったようだ。しかもこのうち1万5000人は行政管理関係要員、すなわち非戦闘要員だったという。こうした兵力をアーサー・パーシバル陸軍中将が率いていた。

日本軍は航空攻撃でシンガポール要塞の砲台や石油タンクを叩く一方、ジョホールバルにありったけの大砲を集中した。10センチ加農砲16門、15センチ榴弾砲36門など計184門である。弾薬は合計で20万発以上になったが、10センチ加農砲と15センチ榴弾砲は1門あたり約700発だった。

イギリス軍の空軍部隊はほぼ全滅していたから、有効な反撃法はなかった。

日本軍のジョホール水道渡河は1942年2月9日から行われた。最も激戦が行われたのがブキテマ高地で、2月11日から始まったブキテマ三叉路の戦闘は14日には日本軍の砲弾が底をついた。軍司令部が一時戦闘中止を考えているうちに、パーシバル中将は降伏の使者を送った。

パーシバル中将の早すぎる降伏は、市内の水源が大被害を被ったことが最大の原因と言われる。人口55万のシンガポール市民(中国人、インド人、マレー人など)の生命を救うというのがその大義名分だった。

シンガポール攻略戦はわずか1週間だったが、日本軍は戦死1713人、戦傷3378人を出し、55日間のマレー作戦の損害をいずれも上回った。マレー半島上陸以来の損害は戦死3507人、戦傷6150人である。死傷者合計は平時の1個師団分にあたる。

シンガポールを占領した第25軍司令部は、捕虜にしたイギリス軍将兵をチャンギー刑務所などに収容する一方、インド人将兵はほとんどインド国民軍に編入させた。

1942年2月15日、シンガポールのイギリス軍はまだ多くの将兵を残しながら日本軍に降伏した。

その時の様子は、この有名な1枚の写真によって後世に伝えられている。

この後に及んで言を左右するパーシバル中将に対し、山下奉文司令官が「イエスかノーか」と迫るシーンは、英米相手に太平洋戦争に突入し不安を募らせていた日本人を大いに歓喜させた。

この有名な会談が行われたのが、ここ旧フォード工場だったのだ。

現在戦争博物館となったこの建物には、山下司令官とパーシバル中将の等身大の人形が用意され、会見場のテーブルが再現されていた。

「マレーの虎」と呼ばれた山下が軍刀を手に威厳ある姿なのに対し、長身のパーシバルはひ弱でおどおどした様子で描かれている。

チャーチル首相により「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と酷評されたシンガポールでの敗戦を象徴するような両者の表情のように見えた。

6時20分で止まった時計の下には、イギリス軍降伏の際に撮影された映像が流されていた。

イギリスの国旗を掲げたパーシバルたちが旧フォード工場に歩いてやってくる。

当時はまだ大きなフォードの看板が掲げられたままだったことがこの映像からわかる。

パーシバルらが会見場に入った後、車に乗った山下が遅れて到着する。

その様子は逐一映像で記録され、日本で繰り返し上映されたのであろう。

パーシバルは山下に対し降伏条件などについて長々と話し、降伏するとなかなか口にしなかった。

業を煮やした山下はパーシバルに「イエスかノーか」と迫り、パーシバルはしぶしぶ降伏を受け入れた。

しかし歴史は皮肉なもので、パーシバルはその後、捕虜として台湾や満州で収容され終戦を迎えるが、1946年東京湾の軍艦ミズーリ号艦上で行われた日本の降伏文書調印式にも参列している。

一方の山下は、米軍の反攻を受けてフィリピンでの戦いを司令官として指揮、その際に起きたマニラなどでの虐殺事件の責任を問われマニラ軍事法廷で死刑に処せられた。

こうしてイギリスのあっけない降伏により、シンガポールは日本軍によって占領され、その名も「昭南島」に変更される。

博物館に展示されていた写真には「昭南駅」という看板がかけられた駅に日の丸を掲げた蒸気機関車が入ってくる様子が写っていた。

山下奉文司令官がシンガポール入りする際には、7万5000人の戦争捕虜が沿道に整列し将軍の車を出迎えさせられた。

日本占領下のシンガポールには、ここは日本かと見紛うばかりの「昭南神社」が建立され、朝鮮半島や中国大陸で進められていたのと同様の市民に対する日本化政策が推し進められる。

日本語教育も積極的に奨励された。

その様子を伝える雑誌の記事。

『戦争前には40種以上もの言葉が雑然と使われていたと言われるここ昭南市も、今日では日常生活には日本語で事欠かないほどに日本語が普及され、帝国領土マレーの中枢拠点として遺憾のない建設ぶりを示しています。これは、劇場や映画館等で日本語劇や日本語歌謡が現地人によって上演されたり、各学校等でこぞって日本語教育や軍報道班の開いている日本学園等の努力によるところが勿論ですが、何といっても現地住民一同が、1日も早く日本語を使いこなすこと、これが日本人になる一番の早道なのだという希望と努力の表れということができます。いま昭南島の人たちは老人も子供も、男も女も日本語の勉強に一生懸命になっているのです。』

そして、シンガポールの食糧不足を緩和するために、日本は30万人をマレー半島南部に移動させ自給自足の農業コミュニティーを作る計画を立てた。

1943年11月、華僑協会の管理下、ジョホール州に新たな村を作り約1万2000人の中国人が入植し、12月にもまた新たな村が作られた。

この入植計画により、マラリアなどで300人から1500人が命を落としたとも伝えられるが正確な記録は残っていないという。

しかし、日本占領下のシンガポールで起きた最大の悲劇は、この記事の冒頭でも触れた華人虐殺だった。

再び、太平洋戦争研究会編『太平洋戦争 16の大決戦』からの引用。

一方、市民の44パーセントを占める華僑(中国人)に対しては恐るべき政策を実行した。大虐殺である。

シンガポールの中国人は義勇隊を編成して日本軍に真正面から戦い、苦しめた。ブキテマ三叉路で4日間にわたって日本軍の進撃を阻止したのは、こうした義勇隊の頑張りがあったからだとされる。中国人は、日本が中国本土を4年半にわたって侵略し続けてきたことに大いに敵愾心を燃やしたのである。

日本軍はシンガポールを昭南と改名し、軍政を敷いたが、中国人による抵抗を最も恐れた。そこで12歳から60歳までの中国人男子を街頭に呼びつけ、簡単な首実検をおこなって、怪しいとにらんだ者をその場で拘束し、次々に殺害していった。インド国民軍を組織してきた藤原岩市少佐は戦後、怒りと悔恨を込めて次のように書いている。

「無辜の民との弁別の厳重に行わず、軍機裁判にも附せず、善悪混淆数珠つなぎにして、海岸で、ゴム林で、或いはジャングルの中で実行された大量殺害は、非人道極まる虐殺と非難されても、抗弁の余地がない」

「シンガポールで6、7千人、ジョホールバルで4、5千人は処刑したであろう」とは、第25軍参謀辻政信大佐が“講話”という形で語ったこととして、シンガポール陥落後に軍政部員として赴任した大谷敬ニ郎憲兵大佐が記録しているところだ。

「シンガポールの大虐殺は、南京大虐殺に次いで、太平洋戦争中に起きた最も過酷な虐殺として位置付けられている。新聞の告知やラジオ放送に応えて多くの中国人男性が検問所に出頭しただけで、彼らは結局トラックに乗せられ海辺で虐殺されることになった。・・・犠牲者の報告には大きな幅があり、6000人(日本側の推計)から5万名(中国側の推計)という開きがある」(ヘンリー・フライ著「“昭南”の降伏」)

この大虐殺について、許雲樵・蔡史君編『日本軍占領下のシンガポール』から1946年に出版されたジャーナリストの証言を引用する。

上陸作戦の最中の数日間、住民(特に華人)に対する日本兵の態度はさほど悪くなかった。ところが、市内に進駐すると、その残忍な本性を露わにしたのだった。日本軍はシンガポール市内に入った後、橋のたもとや主要道路の角にはことごとく歩哨を立て、鉄条網を張り巡らし、住民が一歩も移動できないようにした。どうしてもこれらの関所を通過したければ、必ずまず歩哨に90度の最敬礼をし、身体検査を受け、そのさい禁制品を持っていなければ通過することができた。もし違反すれば、ビンタを喰らわされる。少しでも歩哨の機嫌をそこねようものなら、殴る、蹴るの乱暴を加えられた。時には、たとえ命乞いで頭を地につけたり、跪いてもかんかん照りの太陽のもとで、何時間も待たなければ、行動の自由が得られなかった。3日目(18日)には、ティオン・バレーに住む人々はみなタンジョン・パガの野っ原に集められ、機関銃に囲まれる中で「訓話」を聞かされた。すなわち、日本軍の巨大な力量を誇示したうえで、英国政府がかつてシンガポールを統治したことはすべからく忘れ、今後は日本軍の命令にのみ従うように、との警告を発した。この日は一応無事にすぎたが、一部の者はビンタを食らった。そこで市民は、その後「訓話」を聞くべく集合するようにとの命令が出ても、それはおよそこんなものだろうと思った。

翌日、また命令が出され、すべての華人は老若男女を問わず各地区の集合地点に集まれ、ということだった。集合地点は、ティオン・バレー、アッパー・クロス街、カンポン・マラッカのオード路、アラブ街、ゲラン、ニュートンおよびチャンギーなどであった。各自は5日分の食糧を持参しなければならなかった(マレー人とインド人は含まれず)。集合場所は、周囲に鉄条網を張り巡らし、昼夜を分かたず兵隊が銃剣をつけた小銃で警備しており、まるで戦場で敵と戦う時のようだった。住民は「検証」の印を得た者でなければ、誰ひとり出入りできなかった。各区とも、場所によって検証の基準はまちまちだった。職業をチェックする所や、容姿、容貌を観察する所もあれば、10人の中から1人か2人を引き出すところもあった。また、華人の指導者を呼んで容疑者を指名させたり、「第五列」の者にチェックさせることもあった。つまるところ、生かすも殺すもその意のままで、幸にして生き残る者もあれば、不幸にして殺されてしまう者もあった。こうして捕まった者の正確な数はわからない。山下奉文でも正確な数字はわからないはずだ。しかし、かなり信用できる統計によれば、その数はおよそ5、6万人である。最も少ない数字を出しているのは華僑銀行理事の周福隆であるが、その数字は2万5千人前後となっている。

この検証の結果、無数の寡婦や孤児が作られた。その後の調査で、ある者は外国へ強制労働のため連行され、ある者はチャンギーやベドック地区で機関銃による掃射を受けた後、非情にも海に放り込まれたり、自分で墓穴を掘らされ、その中に生き埋めにされた者もいることがわかった。このような大虐殺は人々の想像を絶するものであった。また、市内で検証が行われている頃、郊外の村でも大虐殺が行われた。生きている子の両足をつかんで引き裂いたり、子どもを出して両足をつかんで振り回しながら樹木に頭をぶつけ、脳漿が流れ出たものもあった。また、子どもを放り上げ、落ちてくるところを刀で受けて刺し殺したものもある。婦女子は、まず強姦、輪姦を繰り返してから、これを刺し殺した。

博物館の展示では次のように記されていた。

『日本は、日中戦争中に反日抵抗活動を支援したり、イギリスのために戦ったりした人を特定するつもりだったが、彼らの選別方法は一貫性がなく恣意的だった。刺青のある人は秘密結社のメンバーであると決めつけられた。滑らかな手やメガネをかけている人は、教育を受けており親英的だと疑われた。選別された男たちはトラックで遠隔地に運ばれ、そこで撃たれた。この恣意的で強烈な暴力により日本軍は大勢の中国人を威嚇することができた。粛清は1942年3月まで続いた。日本側は犠牲者の数を5000人と主張しているが、目撃者たちは少なくとも5万人とは犠牲になったとしている。』

華僑の人たちが出頭するよう命じられた「検証」の場所は中華街だけで4ヶ所。

そのほかシンガポール島の各地に設けられた。

この検証で反日分子とみなされた人たちはトラックで海岸に連れていかれ、そこで組織的に殺された。

まさに南京大虐殺と同じやり方である。

多くの人が殺されたビーチは、日本人も多く利用するチャンギ国際空港のすぐ近くである。

こうした華人に対する虐殺事件は、シンガポールに限らず日本軍が占領したマレー半島の各地で報告されている。

つまり、偶発的に起きたものではなく、日本軍がある意図を持って組織的に行ったものなのである。

そして、この残虐な華人の掃討を計画し指示した人物が、当時は「作戦の神様」と讃えられた悪名高き辻政信参謀だったとされる。

マレー作戦に従軍した元兵士・荒井三男著『シンガポール戦記』からの引用。

敵性華僑の掃滅を指示したのは山下軍司令官、これを積極的に指導したのは辻参謀であった。河村参郎中将(昭南警備司令官、戦後シンガポール粛清事件の責任者として死刑)の遺書『十三階段を上る』によると、

「17日夜、私は突然歩兵二個大隊とすでに市内警備中の憲兵隊を併せ指揮し、新たに昭南市警備を命ぜられたのである。山下将軍は敵性華僑の剔出処断の要を説明し、細部は軍参謀長の指示によれと。鈴木参謀長は『敵性と判断したものは即時厳重処分せよ』とのことであった。鈴木参謀長は『厳重処分については種々論議もあるだろうが、軍司令官においてこのように決定されたので本質は掃蕩である。命令通り実行を望む』・・・」

敵性華僑の粛清を自ら立案し、自ら指導にあたったのは辻参謀であった。同僚の情報主任参謀杉田一次中佐は「一部の激越な参謀の意見に左右されて、抗日華僑粛清の断が、戦火の余燼消えやらぬ環境の間にと強行されたのである」と、軍上層部が辻参謀の暴走を食い止められなかったことを認めている。当の辻参謀は、シンガポール戦1ヶ月後の3月10日ごろ、憲兵隊で講話し、処刑について次のように述べたという。

「シンガポールが華僑の本場で胡文虎、陳嘉庚(筆者注:いずれも東南アジア華僑の実力者。とりわけ陳嘉庚は日貨排斥など抗日運動に活躍した)等一派が重慶政府と通じ、絶えず厖大な献金をしているほか、排日排貨の元兇的な存在であるので、これを徹底的に粛清するに決して、入市に先立ちこの弾圧を強行した。シンガポールで約6、7千。ジョホールで約4、5千名は処刑したであろう」。

検問者の対象は40万とも60万とも言われており、その基準は、①蒋介石政府への献金に関係した者、②金持ち、5万元以上の財産のある者、③陳嘉庚の共鳴者、④新聞従業員、学校教師、中学生、インテリ、⑤共産党員または、共産党員と見なされていた海南島出身者、⑥シンガポールにきて間もない者、5年以内の者、⑦入墨(いれずみ)をした者、⑧義勇軍とその予備兵、⑨政府関係の職員・・・ということで、華僑のほとんどがその対象となった。

第5師団はシンガポール攻略後、一部(2大隊)は河村少将の昭南警備隊に、主力はマレー半島(ジョホール州を除く)の各州警備に散ったが、ここでも敵性華僑掃滅が実施され、戦後その責任者が処刑されている。当時、第5師団は「反日分子を掃滅せよ」という命令を受けてマレー半島を警備していたのである。

とまれ、マレー半島ならびにシンガポール島の治安は、この一連の非道な粛清によって、ついに安定することはなかった。「情けは味方、仇は敵」と、征服者が敵地の住民を支配するにあたっての心構えを説いたのは武田信玄であった。平素武士道を口にする山下将軍が、みずからその日記で「使用上注意すべき男なり」と決めつけた参謀辻中佐の意見をいれ、指導をゆだねたことは大きな失態であったと言わざるを得ない。

世界トップクラスの人口密度を抱えるシンガポールでは、バスで長時間走っても住宅が途切れることがないが、軍事博物館のさらに北方のわずかに自然が残された丘に、シンガポール攻防戦で命を落としたイギリス軍将兵の墓地「STATE CEMETERY」がある。

芝生が敷き詰められた美しい墓地だが、白い墓標はすべて日本軍が上陸したジョホール海峡の方向を向いていた。

丘の一番高い位置に作られたモニュメントには、この作戦で命を落とした兵士の氏名が所属部隊別に刻まれていた。

沖縄の「平和の礎」と似たような慰霊碑だが、何気なくその名前を眺めていて驚いたことがある。

その墓地のスタイルからイギリス人の名前を想像していたが、刻まれた兵士の多くがインド人だった。

こちらは「王立インド陸軍補給部隊」のもの。

こちらは勇猛で鳴らしたグルカ兵のライフル部隊。

グルカ兵はネパールの山岳民族で構成された。

そしてインド各地から派遣された連隊の名も見える。

こちらはインド中南部ハイデラバードの連隊である。

オーストラリア兵の名前もある。

ニュージーランドやカナダの空軍パイロットの名前もある。

香港や地元マレーの部隊も参加している。

イギリス本国がドイツとの全面戦争で身動きできない中、シンガポールには大英帝国のアジア太平洋地域から兵士が集められていたことがわかる。

ここまで来たら、日本軍が渡ったジョホール海峡を見てみよう。

そう思って再びバスに乗り、マレーシアとの国境を目指す。

Googleマップで現在位置を確かめながら、適当なところでバスを降りて海岸線に行くつもりだったのだけれど、降り損なって気がつけば国境検問所まで来てしまった。

バスに乗っていた満員の乗客が一斉に出国ゲートに向かう。

マレーシアに行く気のない私は困ってしまって引き返す道を探していると、係官が戻ることはできないので出国ゲートの方に進み、ゲート手前にある渡り廊下を渡ると入国ゲートの前に出るのでそちらに回るようにと教えてくれた。

シンガポールのような国でもさすがに国境はピリピリした雰囲気があり、ちょっと緊張する。

何とか無事に入国側に回ることができ、再びバスに乗って今度は国境近くにある公園で降りる。

国境に向かう長いトラックの列を眺めながら公園に入ろうとすると、不思議なことに入口が見つからない。

またもやGoogleマップに騙されて変なところで降りてしまったらしい。

それでもなんとか海峡が見たいと、草むらのような空き地を海岸の方に歩いていると野良犬が吠えかかってきて、これはヤバいと引き返しても黒い野良犬はずっと吠えながら追いかけてきた。

自分の縄張りを荒らされて怒ったのか、私がバス停に戻るために歩道を歩いていると後ろからこの野良犬が襲いかかってきたらしく、近くにいた警察官が大声をあげて追い払ってくれて危うく難を逃れた。

これですっかりジョホール海峡を眺める気力がなくなってしまい、一旦市街地に戻ることにした。

再びチャイナタウンに戻り、ぶらぶら散策する。

地下鉄の出口あたりは、観光客向けに再開発が進み、中華風の歴史的な建物がテーマパークのようにお化粧されていた。

テーマパーク的なこの界隈には白人観光客が多く、東洋的な異文化を求めてアジアに来ても自分たちに馴染みのある西洋的なお店につい入ってしまうみたいである。

チャイナタウンを歩いていると、立派な仏教寺院があると思えば・・・

ごてごてしたヒンズー教の寺院もある。

そんな中華街のはずれにあるこちらの建物は、戦争中日本軍に接収され、慰安所として使われていたという。

日本軍は街を占領した直後には略奪や強姦などの残虐行為を行なったものの、敵対勢力を排除した後にはマレー半島の各地に慰安所を開設し、軍の紀律を保ったと言われる。

もともと華僑協会の建物だったここも、そうした場所として使用された。

ホテルで一休みした後、夕方から再び地下鉄に乗ってシンガポールに残る戦争の遺物を見に行くことに。

まず訪れたのはシンガポール市街地の背後にある小高い丘。

街を一望できるこの丘にはシンガポールを開発したラッフルズが邸宅を構え、1861年にこの丘に砦が築かれると「フォート・カニング」と呼ばれるようになった。

砦は「フォートウォール」と呼ばれる石の壁で堅固に守られており、大半はすでに失われてしまったものの、唯一残ったこの門が19世紀の記憶を今日に伝えている。

門を囲む樹木は見上げるほど見事な巨樹ばかりで、「フォート・カニング」の頂に聳えるこれらの大木がシンガポール発展の一部始終を見届けてきたことを感じさせる。

そして1930年代後半、イギリスは日本との戦争を見据えて、ここ「フォート・カニング」に地下要塞を建設した。

「バトルボックス」と呼ばれるこの地下要塞は、実際に1942年のシンガポール攻防戦でイギリス軍の地下司令室として使われ、パーシバル中将らはこの地下要塞に立てこもって前線に指示を送り、降伏の決断もこの地下司令室で下した。

「バトル・ボックス」は現在ツアーに限り内部を見ることができるというが、私が訪れた時はすでに閉まっている時間で中を見ることはできなかった。

この日、私が最後に訪れたのは島の北東部にある「日本人墓地公園」だった。

住宅地の中に作られたこの墓地は、太平洋戦争と直接関係するものではなく、戦前からシンガポールで客死した日本人のために作られた共同墓地である。

意外なところでは、明治時代の作家、二葉亭四迷の墓などがある。

二葉亭四迷は1909年、朝日新聞の特派員としてロシアを取材した帰りインド洋上で病死、寄港したシンガポールで荼毘にふされた。

こちらの小さな石の墓は身売りされシンガポールにやってきた「からゆきさん」たちのお墓だ。

日本人娼婦が初めてシンガポールに渡ったのは1870年(明治3年)のことである。

貧困の中で命を落とした女性も多く、木標で作られてお墓が朽ちるのを哀れんだシンガポール在住の日本人たちが名前の代わりに「聖霊菩提」と刻んだ小さなお墓を立てたのだという。

そんな日本人墓地の一角に、太平洋戦争で命を落とした兵士たちも眠っている。

「陸海軍人軍属留魂之碑」「殉難烈士之碑」「作業隊殉職者之碑」と刻まれた3つの合同墓。

その奥には「納骨一万余体」と書かれた小さな石碑も置かれていて、多くの軍人の遺骨が名前もわからぬままこの墓の下に収められているのだろう。

他にも丹念に見ていくと、「近衛歩兵第四聯隊 慰霊之碑」など戦争にまつわるお墓も散見される。

中でも注目すべきは、日本人墓地の一番奥にある立派なお墓。

墓石には「南方軍総司令官 寺内元帥之墓」と刻まれている。

マレー作戦やシンガポールの戦いを直接指揮したのは第15軍の山下司令官だったが、第15軍は寺内元帥が率いる南方軍の一部であり、東南アジアでの戦闘の最高責任者を務めたのが戦前に陸軍大臣も務めた陸軍の大物、寺内寿一元帥だった。

南方軍総司令部は1942年9月にシンガポールに移転し、ラッフルズホテルを本部にして寺内もこのホテルで1944年まで過ごした。

寺内は敗戦まで南方軍総司令官の地位にあったが、終戦時には病床にあり、翌年マレーシアで抑留中に脳溢血で死去した。

寺内にとってシンガポールは最も輝かしい軍歴の地だったのだろう。

もう一人、こんな有名人の墓もあった。

墓石に刻まれた文字は「マレーのハリマオ 谷豊」。

福岡出身で2歳の時に家族に連れられてマレー半島に移住した谷は、満州事変に怒った華僑に妹を殺されたことをきっかけに盗賊団を結成、主に華僑を襲った。

マレー半島攻略を目指す日本軍はこの谷の盗賊団に目をつけ、軍への協力を要請、谷はイギリス軍が構築を目指す「ジットラ・ライン」で破壊工作に従事する。

こうした谷の活躍は日本国内で戦意高揚に利用され、英雄ハリマオをモデルに数々の映画やドラマが制作された。

しかし作戦中、谷はマラリアにかかり、シンガポール陥落後30歳の若さで亡くなってしまう。

谷の棺は仲間たちによってどこかに埋葬され、日本人墓地には戦後作られた記念墓が残されたというわけだ。

こうして日本人墓地を端から端まで見て歩いている間に、閉門の時間になったようで、いざ出ようと思った時には入口の門が閉まっていた。

開けてくれるよう頼みたくても付近には誰もいない。

仕方なく、ほぼ私の身長ぐらいある金属製の門扉をよじ登り、泥棒のようになんとか門の上を跨いで越えることができた。

いざとなれば、まだまだ俺はやれる。

妙な自信が湧き上がってきた。

今年は戦後80年。

第二次世界大戦を経験した人はほとんどいなくなり、戦争をしない世界を実現するために先人たちが苦労して積み上げてきた国際的なルールが次々に破壊されている。

日本でも南京大虐殺を完全否定し、あれは左翼がでっちあげたフィクニュースだと主張する間違った愛国主義がSNSで堂々と拡散されている。

広島・長崎の「被害」ばかりが強調され、日本がアジアの国々で行なった「加害」についてはあえて風化するにまかせている現状に私は危機感を覚える。

意識して学ぼうとしなければ、自国に都合の悪い情報は得られない時代だからこそ、自分から問題意識を持って学ばなければと思う。

自分の国を愛する気持ちは人間の素直な心である。

私は今の日本は、いろいろな問題を抱えながらも相対的にはいい国だと思っている。

しかし、歴史を知ったうえで語る愛国と知らないで語る愛国では、自ずと説得力が違うものだ。

満州事変から太平洋戦争に至る日本の歴史は、多くの教訓を私たちに教えてくれるものであり、風化させてしまうにはあまりにももったいないのである。

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