7月21日午後、石川県立図書館の会議室。能登半島地震について7人の県民にインタビューしていたところ、2時間ほど黙っていた男性がふいに口を開いた。
「私はずっと輪島におる人です。震災当日、命からがら避難しました。夜になると、街が真っ赤に燃えていて、恐怖で。会社も打撃を受け、同僚も散り散りになった。何回もよそに引っ越して、“輪島を捨てようか”と考えました」
男性は、途切れ途切れに語り始めた。
「それでも会社の再建を手伝うと決めたんです。復興に繋がると信じて、輪島に残りました。でも一生懸命に生きているのに、デマや政治利用に苦しめられている。本当に腹立たしい。本当に悔しい。なんでこんな目に遭うんだって」
そう言った瞬間、男性の目から大粒の涙がこぼれた。目頭を押さえても、涙は止まらなかった。押し殺してきた怒りや葛藤。ようやく言葉になったそれらが、せきを切ったように溢れ出した。
2024年1月1日。その日から必死に生きてきた男性を襲ったのは、震災による直接的な被害だけではなかった。
「情報」という名の“もう一つの災害”が、その心に容赦なく追い打ちをかけていた。
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ハフポスト日本版の相本啓太記者は7月19〜21日、東京大学大学院情報学環の開沼博准教授や研究室のメンバーと合同で、「能登半島地震における情報災害に関する実地聞き取り調査」を実施した。
今回の災害では、多くの人が甚大な被害に見舞われただけでなく、情報環境において人間が引き起こす「情報災害」が、被災地に不安や混乱をもたらした可能性がある。
調査班は、災害で大きな被害が出た能登半島を巡ったほか、被災者ら12人にインタビューし、その実態を記録した。
今回の男性の話からは、政治家の行動や報道への怒りのほか、SNSで“政治的な論争”に巻き込まれ、誹謗中傷の被害に遭っている実態がわかった。
※「災害経験」という極めてセンシティブなテーマであるため、取材を受けていただいた方については匿名で表記しています。
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「死ぬ時ってこんな感じなんだ」
涙を流した男性は、輪島市の会社員。人生の大半を地元の輪島で過ごしてきた。
2024年1月1日夕、男性は自宅の居間にいた。すると、カチャカチャと食器類がぶつかり合う音が響き、床が突然揺れ始めた。
能登半島で震度7の巨大地震が発生した。経験したことのない揺れで、“ぐるんぐるん”とかき回されるようだった。
「死ぬ時ってこんな感じなんだ」。四つん這いで伏せることもできず、何度も転がって体を打ちつけた。
テレビは停電で映らなくなった。ラジオもなかったため、家族と必死に歩き、航空自衛隊の輪島分屯基地に向かった。
スマホの電波も不安定の中、基地に避難してきた人たちが「ビルが倒れた」「輪島朝市が燃えた」と口々に話しているのを聞いた。外の気温は10度に満たず、夜は寒さで体がガクガクと震えた。
翌日は自家用車の中で過ごし、3日は帰省中だった家族を石川県外の自宅に送るため、朝から車で輪島を出発した。七尾までは通常、1時間ほどの道のりだが、凄まじい渋滞で9時間もかかった。
道路も壊滅的で、県外に出られたのは午後9時過ぎ。宿に到着し、テレビをつけると、変わり果てた地元の姿が映っていた。
「これが、輪島……」
家族を自宅に送った後、ホテルに1週間ほど滞在し、再び輪島に戻った。ライフラインは寸断され、職場も全壊。自宅は住めないほど壊れてはいなかったが、自身の心身は限界に近づいていた。
被災地とセットで写る政治家
「生まれ育った輪島の“壊れた姿”を見たくない」。男性は1日1回、給水や配給の時だけしか外に出なかった。
周囲の光景が目に入らないように、真っ直ぐ前だけを向いて移動した。街の様子を撮影している人もいたが、精神的にぎりぎりの自分にはとてもできることではなかった。
それでも情報は必要だった。震災後、情報収集のためSNSを積極的に見るようになったが、タイムラインは被災者の心を逆撫でするような情報で溢れていた。
しんどかったのは、「被災地とセットで写る政治家」の写真だ。
元衆議院議員・藤野保史氏(共産党)は1月3日、避難所の住民に話を聞いているような構図の写真をXに投稿。
翌日には「昨日の石川県能登半島地震調査が、今朝のしんぶん赤旗に」と、自身が壊れ果てた街の中に立っている写真が掲載された新聞記事の画像を発信した。
震災からまだ数日。紙面には「輪島で要望聞く」と書かれていたが、男性には“新聞に載ったことをPRしている”ようにしか感じられなかった。
「被災者に寄り添う“ふり”をしながら、実際は災害を“政治活動に利用する機会”と捉えているのではないか。思わずそう思ってしまう」
山本太郎議員の投稿に……
1月5日からは、山本太郎参議院議員(れいわ新選組)が能登での活動を報告し始めた。
被災地では当時、人命救助や物資輸送ルートの確保が最優先されていた。与野党6党も同日、渋滞の原因にならないよう「国会議員の視察を控える」ことで合意していた。
そんな中、山本議員は車で現地入りし、松葉杖で被災地を歩く姿や、テントを設営する様子の写真をXに投稿した。
山本議員は「当事者の声を様々聞きとりした」と発信していたが、男性の目には「自分が主役の写真ばかり」と映った。しかし、山本議員の投稿には数万の「いいね」が集まり、支持者からは称賛の声が相次いだ。
こうした行動を擁護するかのように、「渋滞は発生していない」という投稿も見られるようになった。影響力の大きいアカウントが「金沢から七尾に到着。ここまで渋滞もトラブルも一切なし」と投稿した例もあった。
だが、実際に深刻な渋滞が発生していたのは、七尾から先の道だった。
国土交通省の資料にも、震災直後は被災地につながる主要道路の大半が通行不能となり、特に1月6日前後は国道249号(七尾~穴水)に交通が集中したとある。
「このままでは、地元の小さな声が“大きな声”にかき消される」ーー。
その日を境に、男性は自身が目の当たりにしてきた現実や光景を、SNSで積極的に発信するようになった。ミスリードを誘う投稿や、被災者の心を傷つける発信には毅然と反論し、事実を補足した。
だが、男性を待ち受けていたのは、「“能登は放置されている”ことにしたい人たち」からの、信じがたいほどの誹謗中傷だった。
「能登は放置されている」という主張
震災から時間が経つにつれ、倒壊した家屋の前で、“記念撮影”する人たちが増えた。そんな人たちは決まって、「能登は放置されている」とSNSに投稿した。
八幡愛衆議院議員(れいわ新選組)も当選前の2024年5月2日、倒壊した民家の写真をXに投稿し、「被災地をほったらかし」と発信している。
しかし、こうした「放置されている」という表現は、実際の被災地の事情を汲み取っているとは言えなかった。
まず、倒壊家屋や瓦礫の解体・処分にはそれなりの時間がかかる。例えば熊本地震では、全半壊した建物の公費解体と災害廃棄物の処理が完了したのは発災から2年後だった。
加えて、能登では地理的な不便さや宿泊施設の不足により、解体業者の確保が難しいという事情もある。
そもそも倒壊家屋は「ごみ」ではない。所有者の「財産」であり、貴重品や思い出の品も家屋内にある。遠方に避難している持ち主と連絡を取ったり、解体に立ち会ったりしてもらうだけでも相当な時間を要する。
このような事情を無視し、倒壊家屋だけを見て、写真を公開する。そして「放置」と断じる。政治家を含め、こんな発信が広がっていることに、男性は深い苦痛を覚えた。
「被害が甚大な分、復興のスピードは十分ではないかもしれない。でも、私たちはほったらかしにはされていない。政治批判のネタにされるのが極めて不快」
一方、男性のこんな指摘は、能登は“放置されている”や“見捨てられている”と主張する人たちに、「政府や行政を擁護している」と受け取られた。
誹謗中傷は次第にエスカレートしていき、「偽被災者」「工作員」といった言葉が飛んでくるようになった。
「能登ウヨ」という蔑称がもたらしたもの
「被災地では高い醤油しか買えない」と読ませる投稿に、「近くのドラッグストアで安い醤油も売っている」と書き込むと、「頭がおかしい」と罵倒された。
「倒壊民家を勝手に晒さないで」と呼びかけると、「政府を批判しないやつはずれている」と突き放された。
批判はあって当然だ。しかし、「行政を陥れる」ことが目的になると、多様な議論を単純化し、被災地の重要な課題を見逃すことになる。その結果、最も困るのは、辛い思いをしている被災者だ。
実際、珠洲市の泉谷満寿裕市長が2024年6月1日、復興計画に関する意見交換会で、「半分思い込みで国会で論争されていることがある。被災地の実情と違うと感じることがある」と指摘している。
男性はそのような環境下で、葛藤を抱えながら、どんな言葉をぶつけられても耐えてきた。だが、ついに心が折れそうになる出来事が起きた。
「能登ウヨ」ーー。「ネット右翼(ネトウヨ)」をもじった「能登に住むネトウヨ」という蔑称が、自分に向けられたのだ。
それは、震災から半年以上が過ぎたある日。地域の孤立を巡る誤った投稿を見つけた男性は、その投稿をX上で訂正し、「政治批判のために能登を利用しないで」と書き込んだ。
すると突然、「能登ウヨ」という蔑称を投げつけられた。輪島で生まれ、輪島で育った人間として、口にするのも嫌な言葉に驚愕した。
相手は与党に否定的な立場の人とみられ、「被災者なのに行政を庇うのか」と言葉を続けた。男性は、自らは野党支持者で、行政への不満も述べていると反論したが、返ってきたのは「肉屋に媚を売る豚」という嘲笑だった。
同様の中傷に苦しんだのは、男性だけではなかった。地元から声をあげていた被災者たちにも、「能登ウヨはアホ」「能登ウヨは自民党支持者」「能登ウヨは陰湿」というひどい言葉が向けられた。
なかには、「『能登ウヨ』炎上が大きくなればなるほど(中略)石川県、能登の復興が遅れているのが可視化、周知されることになるから自民党に対するダメージになる」と、政治的な“利用価値”をあからさまに語る投稿まであった。
こんな状況の中、事態はさらに深刻化する。2025年1月、毎日新聞が「『能登ウヨ』と呼ばれる人たちが行政批判をする被災者をたたいている」という趣旨の記事を配信したのだ。
毎日新聞の報道に対する怒り
記事のタイトルは「被災者を背後から撃つ者」。
2024年12月に能登を1週間歩いたという記者のルポで、「行政を批判するとたたかれる」と話す一人の人物の声を紹介し、その人物をたたいているのは「能登ウヨ」と呼ばれている人間だと報じた。
あまりに理不尽だった。そもそも「能登ウヨ」という言葉は、「行政批判をするとたたかれる」と主張する側が発信してきた蔑称だ。被災地の実情や地元の声を投稿するだけで、唐突に「能登ウヨ」とレッテル貼りされ、苦しんでいるのは男性たちのほうだった。
X内やアーカイブを確認してみても、同年4月に「能登ウヨ」という蔑称が登場し、その半年後に「政府擁護している連中を『能登ウヨ連』と名付ける」という趣旨の投稿がされていることがわかる。(現在は削除)
記事はさらに、「森喜朗元首相のお膝元で、保守的な土地柄なのか」「『おかみに文句を言わず、ひたすら感謝すべきだ』という意識が見え隠れ」と踏み込み、最後にこう結んだ。
「窮地の被災者を匿名で背後から撃つ『能登ウヨ』の卑劣と陰湿に、負けないでほしい」
男性は怒りと悲しさで頭が真っ白になった。「能登ウヨ」とレッテル貼りされ、誹謗中傷を受けてきた自分は、「卑劣」で「陰湿」なのか。窮地の被災者を背後から撃ったのか。
ちょうどその頃、男性は「能登ウヨ」という蔑称に対抗しようと、能登の美食を発信する「能登ウマイヨ」という言葉をSNSで広めていた。
復興には「人」が必要だ。少しでも地元に関心を持ってもらい、被災地の印象を前向きなものにしたかった。
そんな活動を続ける自分が、全国紙から断罪された。能登へのスティグマ(偏見)を生む蔑称が、ネットからリアルの世界に飛び出したことも辛かった。
毎日新聞は筆者の取材に、「取材で確認できた事実を元に、過度の非難や中傷を問題視する狙いで執筆しました」などと回答。取材や記事作成の過程についてはコメントを差し控えるとしている。
「能登ウヨという蔑称をいとも簡単に使う人間や組織が、能登や住民のことを本気で考えているわけがない」。男性は、「メディアへの信頼は地に落ちた」と語った。
復興を願ってはいけないのか
「今は更地ですが、叔母が住んでいた場所です」「母校は校舎が損壊しました。今は仮設校舎が建てられています」
2025年7月20日、男性は輪島市内を歩きながら、複雑な表情を浮かべた。震災から1年半。ようやく災害の爪痕を直視できるようになったという。
地震で隆起した海岸、豪雨災害に襲われた地域、崩れた道路。記憶と現実が交錯する場所に、自らの足で立つことができた。
しかし、心に刻まれた傷はまだ癒えていない。「能登ウヨ」などの蔑称が、どれだけ多くの人の声を封じ、心を折ったか。
あの言葉に傷つけられたのは、自分だけではなかった。同じように被災しながらも、能登から話題を提供していた人たちは、中傷を受けてSNSから去っていった。
中傷は今でも続く。最近では、参院選の石川選挙区で自民党候補者が当選した際に、「能登は高齢者が多すぎてまともに頭が働いていない」といった声が飛び交った。
これに対し、中能登町出身の立憲民主党・近藤和也衆議院議員(石川3区)は、「能登の方々への非難は勘弁して欲しい。有権者の判断は尊い。さらに傷ついてしまう」とXで呼びかけている。
男性は、「震災による直接的な被害だけでも辛いのに、地元の復興を願ったら意見が異なる人たちから中傷される。それが非常に辛いです」と呟いた。そして、次のように続けた。
「原発事故後の福島の人々が根拠のない情報によって差別・偏見を受けてきたということがようやくわかりました。まさに能登でも同じことが起きている」
「国や行政を真っ当に批判するのではなく、政治信条から“復興させたくない”人たちが大きな声をあげる。地元の小さな声は届かなくなり、本当に重要な課題や必要なものを見落としてしまうことになる」