「七歳の捕虜」が語る真実 2005/12/1

ニューヨーク・タイムズのニコラス・クリストフ記者が東京で嘘ばかり書いていた頃の代表作に 「日本兵が中国人少年を殺してその肉を食った」 というのがある。

三重県に住む旧日本軍兵士から聞いたとクリストフは書き出している。 老兵は「たった一切れしか食べなかった」が、 「妻にも打ち明けられない忌まわしい記憶」 は未だに彼を苛み続ける。そう告白する彼の「枯れ木のような手は震えていた」と。
しかし糟糠の妻にも話さなかったことをなぜ一見の外国人に語ったのか。ヘンに思った産経新聞の記者が老兵に話を聞いたら全く違った。

老兵は言う。クリストフが訪ねてきてさかんに人肉を食っただろうと言う。 中国人と違うからそんなことはしないと答えた。彼はそれでも「噂でも聞いたことはないか」と聞く。それで駐屯した中支の市場で滅多に見ない新鮮な肉が出ていたので買ってきてみんなですき焼きにした時の話をした。 食べているところへ憲兵隊がきて、何某を探しているという。 何でも中国人少年を殺して逃げたという話だった。 で、もしかしてこの肉はその子のではないかと冗談を言ってみんなで笑った。 それほど新鮮な肉だったという意味だ。 その話をクリストフは冒頭の一文に脚色した。たいした嘘つきだ。

彼はまた15年間の日中戦争で「日本軍は暴行略奪の限りを尽くし2000万人を殺した」と書いている。 江沢民の言う3000万人を1000万人ほど少なめにしたところがNY・タイムズの良識と言いたいらしい。
しかし2000万人でも15年間、休みなしで毎日3700人ずつ殺し、かつ略奪し続けなければならない。 日本軍が本当にそんな血まみれの軍隊なら、市場に新鮮な肉があればわざわざ買うか。奪えばいい。
日本兵が子供を殺したといって憲兵隊が出動して捜査するか。 この記事はクリストフ記者が朝日新聞本社ビルにオフィスを構えていた頃に書かれたものだ。 朝日に感化され、どんな嘘でもいい、日本を悪く書けばいい記事だと本気で思っていたことがよく分かる。

しかし、この記事は日本軍がいかに軍規に厳しかったかを見事なまでに証明してしまった。
中支にはもう一つ、日本軍のありのままの姿を伝える実話がある。

昭和18年6月、第37「光」師団は漢口から黄河のほとり河南省済源県に転進命令を受けた。 この地はかつて殷、周が都を置き、戦国時代には項羽や劉邦かま駆け回ったいわゆる「中原」にあたる。 同師団227部隊第7中隊約200人は黄河のほとり王爺廟付近で中国軍の大隊と遭遇する。中国側は5倍の兵員数だが、日本側は強かった。 たちまち半分をやっつけ、残りの中国軍は降伏した。
捕虜の中に7歳の男の子が紛れていた。 中国軍将校が預かっていた孤児で、名を俊明といった。 中国人将校が捕虜の身では子供の面倒もみられないということで第7中隊が代わって子供を預かることになった。 俊明はすぐに中隊のマスコットになった。 兵たちは俊明似合いそうな服や菓子を買ってきては可愛がった。 中隊が出撃するときは松山という日本名の朝鮮人家庭に預けられたが、その親子に「親なし子の捕虜の支那人」と苛められた。 いかにも朝鮮人らしい振る舞いで。 部隊は南に移動することになったが、引き取り手もなく、結局、子連れで転戦することになった。 戦いが始まると炊事班と後方で待機し、一段落すると、また合流する生活が続く。 その間に日本語の読み書きも教わった。

後に師団名の「光」を姓に日本に帰化した俊明は自伝『七歳の捕虜』の中で、別の部隊と行き会うと「その部隊にも孤児が引き取られていた」と書いている。 部隊は南支からさらにバンコクに移ったところで敗戦の知らせを受ける。 俊明はここで連合軍に戦勝国の中国に戻るか、敗戦国・日本に行くかを選ばされ、親代わりになってくれた日本軍軍医の養子になる道を選んだ。
俊明は熊本済々學高から熊本商大に進み、今は神戸で貿易商を営む。
江沢民は 「日本軍は子供を放り上げて銃剣で刺し殺した」と言い立てる。 彼も日本人の中で育っていればあんな嘘つきにならずにすんだのに。

微笑ましい逸話ですな~、日本人の優しさが顕れている。
一方で日本人の残留孤児を助けてくれた中国の人もいる、反日の中国指導部には反感を覚えるが、底辺に流れるこのヒューマニズムに国と国との対立を超えた人間の素晴らしさがまたある。
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