感想『異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ』
■はじめに
『異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ』とは、長串望氏が2017年から『小説家になろう』で連載している百合小説。第12回ネット小説大賞に受賞、2025年4月に書籍版が発売される。
本作についていくつか思うところがあり、文字に起こす。
商業デザインへの遷移の失敗
堅実な世界観と、ゆるふわなキャラ
グルメ要素
↪︎造語について文章量に対する進行度
↪︎物語構造への懸念
↪︎小目標の欠如百合である理由
↪︎キャラの葛藤『ゲームの中』の必要性
■商業デザインへの昇華の失敗
本作を手がけた長串望氏は以前から二次創作界隈で名を馳せており、古くはカゲプロや艦これ、少し前はまどマギやガルパンなど、幅広いジャンルで陰鬱ながら切なく、時折コミカルな独自の世界観を描き、高い評価を得ている。そのような二次創作時代を経て、満を持して発表した一次創作が本作『ゴスリリ』となる。
https://www.pixiv.net/users/576631
本作は限界ブラック社畜鬱病OLこと『妛原閠』が、気がつくと自身のプレイしていたファンタジーMMORPGの世界に入り込み、そこで天真爛漫な少女『リリオ』を見つけ、当初は遠巻きに観察するだけだったものの、次第に『リリオ』の朗らかさにほだされてゆき、ついには共に旅をするように、というのが、書籍版第1巻時点でのあらすじとなる。
この物語の主人公にして語り部である『妛原閠』の限界ブラック社畜鬱病OLという要素が、冒頭時点で作者が──鬱病については作中で診断持ちと明言するほど、強くアピールしたい部分で、読み手としても最も印象的な要素であるはず、という点を踏まえて、冒頭部分を引用する。
息苦しく重苦しく、締め付けられるような眠りから目覚めて、妛原閠は自分がひとりの暗殺者になっていることに気付いた。
自分で言っても意味が分からないけど、今もって意味が分からないのだから仕方がない。
ドイツ人作家の真似をしたところで文才のない私にはこのくらいが限界だ。
いや、果たしてドイツ人だったか。カフカってのはどうもドイツ人らしくない。
(中略)
まあ作家のことはこの際どうでもいい。言い出しておいてなんだけど。
カフカの『変身』については自分も迂闊なことは言えないが、主人公が孤独に死んでいくことで、むしろ残された家族の人生がうまく行く、という、原典のあまりに報われない内容を考えれば、これがウルウの生い立ちを示唆する文と解釈しても、『ゴスリリ』の冒頭のこの粗雑な扱いはちょっと見るに堪えない。
よく知られた通り、パロディは知らない人にとっては気まずい身内ネタでしかなく、また扱いを間違えれば、知ってる人からしても不興を買うという、誰も得のない諸刃の剣になりかねない。
少なくとも、デビュー作の一行目でやることが安易なパロディは、かなりの悪手だと思う。
例えば『虐殺器官』(伊藤計劃:著)における『理不尽なものは全部カフカだ』というセリフは、乱暴でありながら、カフカの引用そのものが、作品の内容に強く沿うものとなっている。個人的に、ここまでやってもまだ読者全員を味方にはできない、というのが、パロディの難しさだと思う。
また、この出だしのあとに、すぐにこのような文章に続く。
などと、いろいろととっつきづらいモノローグから始めてしまったけど、今後もこんな感じでやってくので合わない人は普通にここらでやめておいた方がいいと思う。
(中略)
平均的な文庫本一冊読み終えるのに二、三時間かかるとして、自分はこの与太話を読むためにそれだけの時間を捧げて後悔しないか、っていうのは早めに判断したほうがいい。
だって文句言われるのは私だし。批評はともかく文句は言われても困るし。
などと予防線を張っちゃったけど、誰にだよって話だよね。
自分のことを金を払っている読者様とはとても言わないけど、同時に、作り手が自らリスナーを選んだり試したり、また文字書きが言わば客に提供するものを『与太話』と形容することは、たとえ謙りや謙遜であっても、ほとんど言語道断だと思う。
そして、自作に対しての感想を予め制限するような叙述は、明らかにやるべきではない。
『ゴスリリ』は作中通して、このような読者への語りかけがとても多い。メタネタは本来、読者からの信用を切り売りする行為で、そのために十分な裏打ちと下地が必要となる。少なくとも読者への語りかけの前に、物語内への語りかけは既に先行して完了しているべきだ。web連載版を履修済みならともかく、初見の人ならこの時点で本を閉じていてもおかしくはない。
加えて、こうした軽薄な語り口調の弊害は、特にウルウの『限界ブラック社畜鬱病OL』という設定を著しく損なう形で顕著に現れている。この設定から連想されるイメージと、開口一番に著名な作家を茶化してみせたり、愉快な感じのするメタネタを連呼するキャラクターは、ほとんど直感的に誤っていると感じる。同様の理由で、ウルウがこのゲームを廃人レベルで攻略していた、という設定にも引っ掛かりを覚える。
もちろん、『鬱病ならもっと鬱病らしく振る舞え』のような暴言は完璧に論外として、少なくともカフカの『変身』と『鬱病』の要素を同時に出すなら、主人公はもっと寡黙で、目覚めのシーンも、より苦痛を主張する不愉快なものが望ましかった、ということを言いたい。この時点では、ウルウのセリフの後にはずっと(笑)が付いて回っているように感じた。
総じて、本作のこのようないたずらに軽薄な語り口調は、本作が少なくともweb連載版では大いにウケて、そのネット上のノリを商業誌の媒体にまで持ち出してしまったこと、すなわち商業デザインへの遷移の失敗が、根底に存在すると考える。いわゆる野獣先輩に代表される身内ネタは、商業デザインとは致命的に相入れない。
■堅実な世界観と、ゆるふわなキャラ
本作の大きな特徴として、極めて堅実な世界観描写がある。登場する全ての野生動物、魔物に名前が付けられており、ちょっとした進化の系統や生態系の注釈まで存在する。
これが、第1巻時点でのもう一人の主人公にして、もう一人の語り部である『リリオ・ドラコバーネ』の視点から明細に語られる。『リリオ』は貴族の娘で、14歳の成人の儀として冒険の旅に出ているが、物語開始時点ではあてどなく森を彷徨い、下生えを鉈で薙ぎ払いながら、想像とは異なる冒険の現実と直面する。
個人的に、本作のこの下生えを鉈で切り払うという、本来なら無くても良いはずの地味な描写に代表される、地に足のついた堅実な『冒険』が、とても好ましいと感じた。実際、茂みの鬱蒼とした密度は想像する以上に壁も同然で、森を描写する上で木や地形ではなく、茂みを優先するのは、確かな実感を彷彿とさせる。また、何気なく語られる14歳の成人の儀式というワードも、異なる世界が端的に感じられて好ましい。また食料調達にしても、血抜きや解体の工程が丹念に描写され、そして単なる社会人のウルウは思いがけず野生動物を殺したとき、流れる血の生々しさに大いに狼狽える。
とりわけ、リリオがしれっとその辺で穴を掘って用を足すシーンは、生きている人間の避け難い気色悪さに忠実で、とても好ましいと感じた。
ごく個人的で申し訳ないが、『Gのレコンギスタ』でMSのコクピットがそのままトイレの座席としても機能する場面や、『デスストランディング』のサムのシャワー・トイレシーンなど、排泄の要素は、キャラの生きた人間としての質感に直結すると思う。
それだけに、リリオの牧歌的過ぎる雰囲気や、ウルウの『ゲーム内のスキルやアイテムを躊躇なく披露する』という態度は、せっかくの世界観を減ずるように感じた。
このように堅実な世界観なら、リリオは『レヴェナント』(マイケル・パンク)に出てくる、ラッコを乱獲しにやってきた白人に囚われレイプされながらも、隙を衝いてナイフで股間を滅多刺しにするインディアンの少女のような、『気高く、強い女』としての現地民像を見せて欲しかったし、ウルウルのスキルやアイテムの使用も、堅実さを損なわない程度にもっと不自由であって欲しいと感じた。
■グルメ要素
本作は『異世界食い道楽&温泉ツアー時々冒険』を名乗るだけあって、グルメ要素が非常に強い。これは当初こそ先の世界観の構築と併せて目新しく感じたものの、しかし毎食の度に描かれるとなると話は変わってくる。
まず、恐らくこうしたグルメレビューは、単になろうジャンルに求められる要素では無いのではというのが一点、次に、現地民のリリオはともかく、『以前はゼリータイプの栄養食品で食事を済ませていた』と述懐する元限界ブラック社畜鬱病OLのウルウが、立て板に水で食事の感想をつぶさに語る違和感が一点、最後に、頻出する造語との噛み合わせの悪さが挙げられる。
というのも、本作のネーミングは基本的に『エスペラント語』という実在する人工言語の組み合わせであり、これがまったくと言っていいほど聞き馴染みの無いワードばかりで、読み物として見た際の円滑性に著しく欠ける。具体的には『堅麺麭』など、単発ならまだしも、様々な食品名の羅列を要する食事パートでこれをされると、いわゆる『パルスのファルシのルシがパージでコクーン』じみた困惑を禁じ得ない。
また、これらのワードを首尾よく覚えたとして、食事パートが物語の根幹に関わることは特には無いので、覚えた単語がどこかのタイミングで活きることも無ければ、食事パートの度にまた別のワードが出てくるという、正直に文字をしっかり読み込みたい読者にはかなり厳しい構図となっている。またこれは、次に述べる部分と連動して複合的な問題としても見られる。
■文章量に対する進行度
ここまで触れてこなかったが、本作はリリオとウルウ、二人の視点を交互に移り変わる一人称視点の物語となっている。
これは例えばリリオから見た、すなわち『現地民から見た異世界人』という要素の補完としてはよく働くものの、ほとんど数ページごとに視点が切り替わる都合、キャラクターへの理解が少し進んだと思ったら再びリセットされるという仕様でもあるので、これも主にウルウへの理解の及ばなさに拍車をかけていると感じた。
また視点が交互に移り変わるという仕組み上、それなりの頻度で、ウルウの視点でやったことをリリオの視点から再び描写するということが発生し、これはキャラの深掘りという本来の機能以上に、如実に物語のテンポを阻害していると感じた。実際、書籍版1巻の内容は『ウルウがリリオをストーカーする』の一言でまとめられるはずだが、比較して書籍の文量は相当厚めで、読者としては読んだ文章量と物語の進行度がまったく釣り合っていないと感じる。
この、文章量と進行度の割合という要素は非常に重要で、例えばまったく退屈な文章であっても、密度感さえばひとまず満足感は得られ、満足感は『面白いという錯覚』に直結する。たびたびTwitterの創作界隈で引き合いに出される『羅生門は5000文字程度』というワードは、本来なら5000文字以上の文量を読んだ気になれる密度感への感嘆の文脈で語られるべきで、自作の薄味を誤魔化す免罪符にはやはりなり得ないと思う。
そして先に書いた『グルメ要素』との複合的な問題として、少なくとも日本人のウルウは読者目線で同じ疑問を共有できるが、現地民のリリオからは異なる言語も当然慣れ親しんだ母国語でしかなく、リリオ視点で描かれる料理シーンは、いよいよ本格的に『パルスのファルシのルシがパージでコクーン』めいて饒舌に難解な単語が羅列され、そしてこれが毎食のたびに発生する。
こうした問題は、序盤の終わりほどに、ウルウの女中、『トルンペート』が新たな語り部として仲間に加わることで、改善はおろか更なる混乱を招く結果となっている。このように視点が激しく移り変わる仕組みにするなら、当初から読み手としても(そして恐らくは書き手としても)視点の切り替えが円滑に完了できる三人称で描かれるべきだったし、実際かなり後の方で描かれる三人称のパートは、随分楽に読むことができた。
ついで、『小目標の欠如』も本作の弱点に挙げられると感じる。先に触れたように書籍版第1巻の時点で、内容は『ウルウがリリオをストーカーする』であり、その都度発生するイベントに場当たり的な対応は行なっているものの、物語を読む読者視点では、ウルウ達が明確に目指す『小目標』が存在しない。
『小目標』というのは物語の物語性を担保する軸であり、読者にゴールを通して今現在通過してる現在地を与える、いわば『読みたいと思うモチベーションの惹起剤』であり、またTwitterの連投Twと小説を明確に区別する分水嶺でもある。実際に、明確な小目標が設定されているweb版二一章以降は(やはりウルウの鬱陶しさは否めないものの)、ダークで陰鬱ながら、とても読み応えのある非常に面白いシナリオとなっている。これは意見が大きく割れると思うが、とりあえず自分は『商業誌である以上、小説であることに専念すべき』という考えだ。
■百合である理由
レイアウトの都合、この時点で解説するが、個人的にはこれは最後に置いてもいいほど重要な部分になる。
本作は百合小説である。
ウルウとリリオは、先に触れたトルンペートを巻き込んで三人でガチガチのレズセックスをするし、そもそも作者の紹介文に『三角関係百合』とハッキリと記載がされている。
そのうえで、特に百合である理由が見当たらない。
言ってしまえば森の中でリリオが出会い惹かれるのはウルウではない別の男性でも何ら問題は無かったし、実際それを証明するように、中盤の同衾はわざわざ『ftnr版(ウルウ総受け)』『貝合わせ版』『男体化BL版』の三つのバリエーションが存在する。これはすなわち、本編百合の唯一無二性を自ら剥奪し代替可能性を示唆しているに他ならない。
(これもまたネット上のノリという感想が先行する)
まずもってのい字は、(これ自体が逆行的な考えかもしれないが)道徳的観念の成長は文明レベルと共にあると考える。衣食住足りて礼節を知るというわけでは無いにせよ、同性愛が『治療の対象』では無くなったのはほんの数十年前の話である。これを踏まえれば、平気で『盗人は見つけ次第その場で処刑』という考え方がまかり通る世界観で、同性愛が何の齟齬もなく存在しているのは、とても恣意的な解釈が必要となるはずだ。
作中ではその『恣意的な解釈』の説明として『神の存在』が何度も提示されるものの(ftnr展開もその『神さま』の加護により、性別に関わらず妊娠できる、という設定に基づく)、言うまでもなく、何でもアリは物語の無化と表裏一体のリスクを伴う。
あるいはせめて、『神の存在』で異世界人視点からは同性愛が何ら不思議では無いとしても、単なる社会人のウルウには、以前勤めていた会社で同性の後輩に言い寄られて手を出したら相手は冗談のつもりだったらしく、大問題となってブラック企業に追いやられ、以降心を閉したとか、あるいは逆に男性から酷い経験があるなど、何かしらの動機づけが欲しかった。
また三角百合と言っても、三人の間に軋轢はほとんどなく、お互いをお互いが仲良く分け合って、アクセント程度にジェラシーが描かれるだけというのも、単に物語的な起伏を逃していて残念だった。異世界人には既に成人と言えど14歳はやはりまだまだ子供で、だからこその幼い嫉妬や抑え難い衝動的な情動は避けられるわけもなく、そうした人間的な葛藤を省略してごく牧歌的な形で三人をくっ付けるのは、ほとんど不自然にも見える。
■『ゲームの中』の必要性
既に何度か触れた通り、本作はウルウ自身が以前にプレイしていたゲームの世界であり、いわゆるステータスやスキルのシステムが(プレイヤーであるウルウの視点からのみ)そのまま表示される。
これがそのままゲーム廃人だったウルウの作中での強度を担保していて、ゆえにおおむねの危機や戦闘シーンがどれだけ丁寧に描写されようと、それは予め決定づけられた勝利への出来レースでしかなく、作中の堅実な世界観と比して非常に危機感の無いものであることは先に軽く述べたのでここでは省略するとして、この『ゲームの中』という設定も、かなり後半になるまで活かされることはない。
序盤のほうで『一年の暦どころか、月の模様まで元の世界と一緒』という言及がウルウの口からされた時はほとんど色めき立ったものの、これが物語的な意味を持って回収されることは無かった。
こうした長期連載に求めるものでは無いし、そもそも元が犯人当てミステリ等の発想とは承知であるものの、のい字に限らずチェーホフの銃(もし小説の中でわざわざ銃の描写がされるのなら、それは作中で発射されなければならない)的な発想は、大抵の読者が普遍的に小説に求める要素だと思う。
つまり、この場合ウルウの目覚めた世界が『ゲームの中』であるならば、それは例えば『リリオやトルンペートは自我の無いNPCで、だからこそゲーム内イベントとして、広大な異世界で出会うことができた』というような形で回収されるのを期待するものであり、特にそんなことはなく途中まで『ゲーム内』の設定が死んでいるのは、単に肩透かしだった。もちろん、これはまったく極端な例であるにせよ。
後半で『他のプレイヤー』の存在や、今まで単なるオマケだった設定解説のコーナーがとあるギミックとして機能するなど、途端に色々な要素が目覚ましく活躍するだけに、序盤の窮屈さが特に悪目立ちだった。
■終わりに
まとめると、本作はやはり飽くまでweb連載におけるヒット作という印象を拭えなかった。部分部分では目を見張る描写が散見と言うにはあまりに多く見られるものの、書籍化にあたってのブラッシュアップがほとんど行われていないと強く感じる。後半の『奇病編』や『竜骸塔編』のsf的なアイデアと古き良きデルトラクエスト的な冒険小説の雰囲気と、何より『監禁生活編』の「そうだ!せっくすしてあげるから!」の見応えは抜群なので、このような筆致による既刊のブラッシュアップに、世辞ではなく本心から期待したい。


コメント