先日、「士郎正宗の世界展」に行ったところ、士郎正宗先生が自身の絵の特徴について「時間差立体派的(笑)に歪んでいる」と表現されていました。僕は原画を沢山見た後にこのコメントを読んだので、ああそうだなあ、その歪ませ方がすごいと納得をしました。
しかしながら、ネットを検索してみたところ、この「時間差立体派」という言葉について書いている人が見当たりませんでした。なのでその話を書いてみようと思います。
「時間差立体派」という言葉自体は辞書的な参照先がなく、士郎正宗先生の造語、あるいは士郎正宗先生が属する何らかの集団の中でのローカル言葉ではないかと思うので、聞かないと正確な意味は分かりません。では、この言葉を皆さんはどう思いましたか?どういう意味で捉えたかをまず自分で考えてみてください。
では、僕の解釈を書きます。
立体派とはキュビズムのことなので、時間差の観点からのキュビズムであると思いました。つまり、キュビズムが対象物を複数の空間的な視点を独特の画風をもって一枚の絵に合成する手法とするならば、時間差キュビズムは、複数の時間的な視点を独特の画風をもって一枚の絵に合成する手法ということになります。
一枚の絵の中に異なる時間的な視点が合成されたものとした場合、歪んでいるという言葉の意味も捉えられると思います。本来一枚の絵に入らないものを入れるためには、物の形は正確にはできません。時間の異なる絵を繋げて合成する必要があるため、必然的に歪むのです。
これは漫画という表現における代表的な技法です。漫画の絵は程度の差はあれ、必然的に時間差立体派になっていくものだと思います。
例えばこの絵を見てください。
このような絵は漫画では自然にあるものですが、時間の観点からは不自然です。なぜならば、絵が一瞬の時間を切り取ったものであれば、右と左にいる人が同時に喋っているということになるからです。しかし漫画の読者は漫画的な視線の流れに従って、右の人がAと喋ったあとに、それを受けて左の人がBと喋っていると捉えるでしょう。
つまり、時間が異なる人物が一枚の絵に合成されています。
もし同じ表現をアニメでした場合、以下のように右の人が喋っている絵と、左の人が喋っている絵は別のコマになると思います。
しかし、漫画ではこのように右の人が喋っているコマ、間のコマ、左の人が喋っているコマのようには一般的にしません(演出上必要な場合はすることもあります)。なぜならば、限られたページ数で物語を表現する上では効率が悪いからです。だから複数の時間を1つのコマに合成することで圧縮を試みます。
他に分かりやすい事例で言えば、拳銃の発砲表現があります。銃口が光り、オートマチックのスライドが下がり、薬莢が排出されるのを1コマで表現している絵を見たことはないでしょうか?しかしながら、動画的に捉えるのであれば、火薬が爆発して銃口が光ったあと、その反動でスライドが下がり、そして薬莢が排出されるという順序があるはずです。実際に発砲されている拳銃の動画の中のコマを切り取ってもそんな絵にはなりませんが、拳銃を発砲して、銃口が光り、スライドが下がり、薬莢が排出されるという一連の流れを瞬間的に描くのであれば、このように時間を合成するのが効果的な表現になります。
ちなみに、もしコマを分割して3つのコマで同じことを描いた場合、漫画演出上はスローモーションの表現として捉えられてしまうと思います。
この時間の合成がとても求められるのがアクションの作画だと思います。色々な漫画を見てみると、漫画の中にも「動画的なアクション」と「漫画的なアクション」の演出があることにも気づくのではないでしょうか?動画的なアクションは、1コマに合成される時間の視点が少なく、漫画的なアクションは時間の視点が多いです。漫画的なアクションの事例としては、例えば「あずみ」や「瞬きのソーニャ」などでよく見る表現として、1コマの中に主人公の姿が複数描かれ、何人もの人を連続して倒すものがあります。これは主人公の動きがとても速く圧倒的であることが表現され、好きなものですが、絵を写真のように一瞬を切り取ったものとして見る人が見た場合、なぜ同じ人が1コマに何人もいるのか?と疑問に思ってしまう絵かもしれません。
しかし、漫画を読み慣れている人はそうは思わず、コマの中の絵を追っていく中で、頭の中で自然に動画的に再構成して見れるものだと思います。
そして、ようやく歪みの話になっていきますが、このような複数の時間的視点の合成は人体でも行われるものです。例えば、漫画における発勁描写を考えてみます。
①地面を踏みしめる足と、②それを下半身から胴を経由して螺旋状に腕に伝えていく流れ、そして③掌が敵に当たるインパクトの瞬間、④当たった敵が吹き飛ぶ様子、全て異なる時間です。身体の部位ごとに少しずつ時間がずれているため、人体デッサンとしては歪んでいるはずです。
しかし、その歪んだ合成結果こそが、1コマに詰められる情報密度を最大化したものであり、漫画表現の持つ特異な良さでもあります。
これはアニメーター出身の漫画家が、「絵は上手いのに何か物足りない」と言われるときの原因の一つだと思います。アニメーションの絵は1枚の絵で1つの時間しか描きませんが、漫画の絵は絵を歪めてでも、複数の時間を1枚に合成しているため、絵から受け取れる情報が合成された時間の数だけ増えます。
先ほどの発勁表現のたとえで言えば、インパクトする瞬間だけの切り取った絵よりも、その前の地面を踏みしめてその力を掌に引き上げる時間が合成されている方が、情報量が多いと感じるというような原理です。
ちなみにアニメーション的な絵が漫画においては下手だというわけでもなく、動画の1枚を切り取ったような絵なのに、その前後が想像できるすさまじい絵を描く人もいます。こちらは絵の上手さによって成り立つもので、仮にそんなに一枚絵が上手くなくても記号的な手法で情報量を増やせるのが漫画の良いところだと思います。
これは漫画表現にアニメーションが劣っているということを言いたいわけではなく同じ絵に見えても媒体によって特性が異なるということだけを言いたい文章だと理解してもらいたくて書いています。
そういえば僕が前にSNSでこの「漫画表現は時間のキュビズムである」という話をしたときは、「メダリスト」のアニメの表現が、原作漫画の表現の再現になっていないという話題のときだったのですが、メダリストの漫画表現もすさまじい情報の圧縮があり、一つのコマ、一つのページの中に時間を分解した動きの情報を合成して、実際の映像であれば何分もかけてみるようなフィギュアスケートの演技を数秒間の間に頭に叩き込まれるような体験があります。
一方で、アニメでは時間に沿う形で描いていたため、目指している方向性が全く異なるわけです。そのため、漫画と比較すれば情報量がゆるやかで、ガツンとした体験は減っているかもしれませんが、その代わりとして、漫画では圧縮の過程で抜け落ちるものや、音などの漫画では表現が難しいこと、漫画表現ではどうしても抜け落ちてしまうものを補完するように描いていて、漫画では見えなかったものがアニメでは見えるようになったので、補完するようないいものだなと思いました。
さて、士郎正宗先生の漫画をその観点から見てみると、そのような情報の圧縮をアクションのコマの各所で行っていることが読み取れると思います。コマの最初に目を持っていくところと、最後に目をやるところに時間差があるかどうかを考えてみれば捉えやすいのですが、時間が動いているのに、物体としては破綻せずに見えていて、具象的に詳細に描いているように見えて、その背後に情報圧縮を目的とした抽象化と歪みによる合成が存在しています。
徹底的に情報を込めることを目的とした作画については、時間差立体派的な部分以外にも見て取ることができ、例えばパースの取り方があります。現在漫画の作画で用いられる写真をベースにしたものや3D作画では再現しにくい、感覚的なものを含んだ強めのパースで特に屋内は描かれることが多く、それはコマの中に必要な情報を詰め込むためではないかと思いました。画角的に入らないから描かないとかではなく、必要なものをコマの中に収めて描くためのパースです。
コマの外の解説文を含めて、一枚の紙の中に、他の漫画ではなかなか見られないような大量な情報量を詰め込むという手腕がそこにあり、それはアニメ化されたものには存在しない、漫画の表現媒体としての特性を使い切ったようなものだなと感じました。
具体的にどこがどうかは、これを読んでいる皆さんはご自身で単行本を確認してください。士郎正宗の世界展は大阪でも開催されるそうなので、それを見に行ってもいいです(なお、原画は複製原画になると聞きましたが)。
士郎正宗先生は自身の世間的な評判について、何屋なのかが分からないと言われがちというような話も書かれていましたが、この漫画表現の突き詰め方からして、僕の視点からは紛れもなく漫画家です。漫画という表現媒体に対しての探求心があり、表現技法として突き詰められていると感じるからです。
ここまで書いてきたものの、時間差立体派という言葉に対する僕の理解が正しいかは不明なので、実は完全に間違ったことを書いているかもしれません。もし、我こそは分かっているぞ!という人がいるならば、時間差立体派の意味について書いてみてくれると助かります。