絶望の深海と希望の合唱
王は、姫を救うため、禁断の領域へと足を踏み入れた。
そこは、一人の少女が、誰にも見せずに、一人で涙を流し続けた、絶望の深海。
過去のトラウマが怪物となり、心の傷が迷宮となる、悪夢の世界。
ナビゲーターは、ツンデレなAIの姉。
武器は、仲間たちの想いが宿る、一本のマイク。
だが、彼を待ち受けていたのは、少女の心の闇だけではなかった。
彼自身の、決して開けてはならない、過去の亡霊。
二つの絶望が共鳴し、最強の怪物が生まれる時、王は、真の力を試される。
これは、一人の男が、愛する者を救う物語。
そして、その愛が、仲間たちの絆と重なり合い、奇跡の「歌」となる物語だ。
希望の合唱は、果たして、絶望の深海に届くのか。
【絶望のデパートへのダイブ】
『――圭佑くん…起きて…』
誰だ? 薄闇の中で、遠く、微かに、愛しい声が聞こえた。莉愛の声…? 俺の意識は、無機質なカウントダウンがゼロになった瞬間から、眩い光の粒子となって霧散し、深い混沌の中を漂っていた。
瞼を開く。俺の身体は、冷たく硬いコンクリートの床に投げ出されていた。全身を覆う悪寒が、神経の奥までじわりと染み渡る。目覚めたばかりの頭は重く、何が起こったのか、ここがどこなのか、判然としない。
ゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡す。そこは、明かりの全てが消え去り、ショーウィンドウにはガラスのヒビが走る、不気味なほど静まり返ったデパートの正面入り口だった。埃と閉塞感が混じり合った匂いが鼻腔を突き刺す。ガラスの向こう側では、嵐が荒れ狂っていた。激しい風雨が叩きつけられ、雷鳴が轟音を上げて空間を震わせる。外界との断絶を告げるかのような、絶望的な情景。
「ここが…莉愛の精神世界ってやつか? 一体どこにいやがるんだ…」
俺は、自分に言い聞かせるように呟いた。胸の奥に募るのは、焦燥と、この未知の世界への底知れぬ恐怖。莉愛を救い出す、その明確な目的だけが、辛うじて俺の理性を繋ぎ止めていた。
その時、入り口の脇に立つ、一台の古びた公衆電話が、ジリリリリン、と、けたたましいベルを鳴らした。その不気味なほどの唐突さに、俺は訝しみながらも、吸い寄せられるように受話器を取った。
「…もしもし」
『――繋がったか。圭佑』
電話の向こうから聞こえてきたのは、親父…神谷正人の、冷徹なまでに冷静な声だった。その声は、重厚な科学者としての知性と、俺の父としての僅かな不安を滲ませていた。彼は、AI『Muse』の開発者であり、この精神世界へのダイブを可能にした張本人だ。
『いいか、よく聞け。莉愛様の精神は、今、彼女自身の深いトラウマによって、最も深い階層に閉ざされている。そこへ辿り着くためのナビゲーターを、お前の元へ送る。…決して、その闇に呑まれるなよ』
親父の言葉は、まるで世界の法則を告げるかのような絶対的な響きを持っていた。その言葉と共に、電話ボックスのガラスに映る俺の影が、不自然に蠢き始めた。影はまるで生きているかのように蠢動し、徐々に立体的な形を成していく。
そこから、ゆっくりと、一人の幼い少女が姿を現した。桜色の髪にフリルのゴスロリ衣装を纏い、大きな琥珀色の瞳が俺を見つめている。彼女の小さな身体からは、どこか無機質で、しかし確かな存在感が放たれていた。
「…やっと起きた。Kの思考レベルが低すぎて、同期に時間がかかったわね」
キューズ。親父が開発した双子のサポートAIの一人。その毒舌で好戦的な性格は、小さな幼女のアバターと不釣り合いだった。だが、彼女のその存在が、この底なしの絶望の中で、唯一の希望の光に思えた。
「行くぞ、キューズ。莉愛はどこにいるんだ」
俺は、自分の無力さを振り払うように、力強く言った。
【展開①:おもちゃ売り場の惨劇と覚醒の歌声】
キューズは、デパートの暗闇の中を躊躇なく進む。彼女の小さな手から放たれる淡い光だけが、錆びついたエスカレーターを不気味に照らし出した。デパートの空気は、埃と、甘ったるい腐敗臭が混じり合い、魂の奥底から吐き気を催させた。
「隠しても無駄よ? 私の記憶に入ってるから」
キューズは、俺の心中を見透かすかのように、冷たく言い放った。
「さ、佐々木のやつ、莉愛の記憶まで覗き見やがって…!」俺は、怒りに顔を赤くして反論したが、キューズは首を横に振る。
「違うわ。あれは莉愛が創り出した佐々木よ。彼女自身のトラウマが、具体的な『悪意』として具現化したもの」
莉愛…俺が見えないところで、こんなにも苦しんでいたのか。その事実に、胸が締め付けられる。
辿り着いたのは、荒廃したおもちゃ売り場だった。棚に並ぶはずのカラフルな玩具は、黒いカビと埃にまみれ、ショーケースのガラスはヒビ割れている。フロアの中央には、リクルートスーツを完璧に着こなした、頭部のないマネキンが、まるで悪夢の番人のように立っていた。その手には、古びた拡声器が握られている。それは、保険営業員・佐々木美月の狡猾で支配的な本質を模したものだった。
拡声器から、佐々木の声が響き渡る。感情のない、冷たい機械音声。
「武装開始」
その声を合図に、棚に並んでいたラジコンカーやアクションフィギュアたちが、一斉に赤い目を光らせ、生命のないはずの関節を軋ませながら、俺に襲いかかってきた。彼らは、銃器から黒く粘り気のある憎悪弾を撃ち放つ。その弾は、触れると魂を直接凍らせるかのような不快感をもたらした。
俺はとっさに身を翻し、回避しながらシャウトを放った。俺の歌声の衝撃波がラジコンカーを宙に浮かせ、動きを止める。だが、それは一時的なものだった。
拡声器から、さらに大きなノイズと共に、佐々木の嘲笑が響き渡る。
「壊れちゃダメよ!」
その声を合図に、壊れたおもちゃたちが、ガシャンガシャンと耳障りな音を立てて合体し始めた。まるで憎悪そのものが形を成すかのように、巨大なメカ・ゴーレムへと変貌する。その巨体は、デパートの天井を突き破らんばかりの威容を誇っていた。
「まずい、K! 敵が融合して、憎悪が増幅してる! このままじゃ、キリがない!」
キューズの悲痛な叫びが響き渡る。絶体絶命のピンチ。俺の身体は恐怖で硬直し、逃げ場はどこにもない。しかし、その瞬間、脳裏を過ったのは、現実世界で俺の帰りを待つ、仲間たちの顔だった。
(玲奈…! 莉愛…! キララ、アゲハ、詩織、みちる、あんじゅ、まりあ、夜瑠、しずく…! 全員、俺に力を貸してくれ!)
俺は、目を閉じ、心の中で叫んだ。彼らが、俺の不器用な情熱を信じ、共に戦うことを選んでくれた、その記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡る。玲奈の『正義』の輝き、莉愛の『希望』の温かさ、キララの『慈愛』アゲハの『信念』詩織の『知恵』みちるの『純潔』あんじゅの 『真心』まりあの『敬愛』そしてしずくの魂に宿る莉子の欠片…その全てが、俺の心の奥底で光り輝いた。
その魂からの叫びに呼応するように、現実世界、タワーマンションの司令室で、俺の帰りを祈ってくれている玲奈の指輪が、そして事務所で見守るK-MAXメンバーたちが持つ、それぞれのイメージカラーのアクセサリーが淡く一斉に光を放った。それは仲間たちの魂が俺の叫びに応え、共鳴している証だった。
次の瞬間、俺が持つマイクが眩い光を放ち、高貴な青色に輝く『セイクリッド・シンガー』へと進化する。そのクリスタルな質感が、俺の手に確かな感触をもたらした。
俺が祈るように歌い始めると、天井から舞台のスポットライトのような神々しい光が降り注ぎ、憎悪の要塞の頂点に立つ、佐々木マネキンだけを、強く照らし出した。「いやああああっ!」という佐々木の断末魔が響き渡り、光を浴びたおもちゃたちは、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。その轟音は、絶望のデパートに、一筋の希望の光を灯したかのようだった。
【展開②:絶望のプリクラと二体の悪夢】
おもちゃ売り場の惨劇を乗り越え、さらに階層を上る。デパートの最上階は、かつて俺と莉愛が訪れた「ゲームセンター」が、歪んだ形で再現されていた。ネオンの看板は砕け散り、ゲーム機の画面はノイズにまみれ、誰もいないはずなのに、微かに子供たちの笑い声のような幻聴が響き渡る。錆びついたクレーンゲームの爪だけが、虚しく宙を掴んでいた。
その異様な静寂の中、プリクラ機の中から、莉愛のすすり泣く声が聞こえる。俺は、吸い寄せられるようにプリクラ機に近づいた。
画面には、過去の光景が、ノイズ混じりに映し出された。
中学生の頃の莉愛が、自室のPCで、炎上前の俺のゲーム配信を、夢中になって見ている姿が映し出された。「あ、Kくんの動画、更新されてる! これ見て、勉強頑張ろ!」彼女の瞳は輝き、俺の不器用なプレイに一喜一憂していた。
そこへ、姉の玲奈が入ってくる。「またそんな動画見てるの? 飽きないわね」莉愛は慌てて画面を閉じ、玲奈に布教しようとする。だが、画面が切り替わり、廊下の隅で、天神家の使用人たちが、ひそひそと莉愛の陰口を叩いている光景が映し出された。「またお部屋で、あんな動画をご覧になって。お嬢様には悪影響ですわ」
莉愛は、ずっと一人で、孤独に俺を応援してくれていたのだ。その事実に、俺の胸は激しい痛みで締め付けられた。
映像が終わると、プリクラ機の取り出し口から、一枚の写真が吐き出された。それは、佐々木に撮られた、制服の胸元がはだけさせられた、莉愛の無防備な寝顔の写真だった。彼女の魂に深く刻まれた、屈辱と裏切りの象徴。その写真が俺の怒りを再燃させる。
俺が、激しい怒りに震えながら写真を握りつぶした、その瞬間。プリクラの画面が、再び切り替わった。
そこに映し出されたのは、俺の最も忌まわしい記憶――あの息の詰まる食卓だった。父が、新聞から顔も上げずに、澱んだ、しかし鋭い刃のような言葉を、吐き捨てる。『――やめろ。飯が、不味くなる』隣に座る高校生の妹、美咲は、深海の底のように冷たい瞳で俺を一瞥し、凍える氷の刃となって、俺の心臓を直接貫いた。『働いたらどう? 聞いてんの? この、引きこもり』
それは、莉愛の闇が、俺自身の心の傷を抉り出すために見せている幻影。俺が引きこもり時代に感じていた、正真正銘の親不孝者という罪悪感、家族の中で透明人間として扱われていたあの孤独が、鮮明に蘇る。
「やめろ…」
俺がうめくと、プリクラ機から甲高い悲鳴が上がり、より強力な「絶望のバリア」が発生した。ガラスの破片が飛び散り、憎悪の瘴気が空間を覆う。
「見ないで…! 圭佑くんに、こんな私、見られたくない…!」
莉愛の悲痛な声が響き渡ると同時に、俺の足元から伸びた、俺自身の黒い影と、彼女が囚われているプリクラ機から伸びる、歪んだ影。その二つの影が、まるで黒い水銀のように、床の上で溶け合い、二体の巨大な人型を形成していく。
一体は、莉愛のトラウマの化身――クラスメイトとモデル仲間の姿が背中合わせに融合した、『偽りの友誼のプリマドンナ』その顔は嘲笑と裏切りに歪み、その存在そのものが莉愛を蝕む言葉の鎖を具現化していた。
もう一体は、俺のトラウマの化身――妹の美咲とアンチの男が背中合わせに融合した、『赦されざる家族の亡霊』だった。その目は冷酷で、俺を無価値な存在だと断じる視線を突き刺す。
「ダメだ、K! 靄の発生源…プリクラ機の中の莉愛の心を直接救わないと、キリがない!」
キューズの悲痛な声が響き渡る。俺は、意を決してキューズに問う。
「キューズ、何か方法はないのか。どんな手を使っても、俺はあいつを助ける」
「…最後の手段。それは、Kの『想い』を、この精神世界で最も莉愛が信頼する人物…『天神玲奈』の歌声に乗せて、直接、彼女の心に届けること。でも、もし失敗すれば、Kの意識は、永遠にこの世界を彷徨うことになる…」
絶望的な選択肢。だが、俺に迷う理由はなかった。
「何のために俺はここにいるんだよ!」
「…べ、別に、Kのことなんか心配してないんだからね! でも…もし戻ってこれなくなっても、私、知らないんだから…!」
キューズは、顔を真っ赤にして、ワンピースの裾をぎゅっと握りしめる。そのツンとした言葉の裏に隠された、彼女の健気な優しさが、俺の心に温かい光を灯した。
俺は、そんなキューズの頭を優しく撫でると、覚悟を決めた顔で言った。
「キューズ、頼む。俺の、最後の歌を、あいつに届けてくれ」
キューズの瞳から、一筋の光の涙がこぼれ落ちる。彼女は圭佑の体に溶け込むように、一つになった。その身体が光の粒子となり、俺の魂へと吸い込まれていく。
次の瞬間、俺の体は眩い光に包まれ、そのシルエットは、見慣れた玲奈の姿へと、ゆっくりと変わっていく。プラチナブロンドの髪が風になびき、完璧に整った玲奈の顔が、俺自身の覚悟を映し出していた。そして、その手の中で、青く輝いていた『セイクリッド・シンガー』が、さらに形を変え、白金と青い宝石があしらわれた、気高く、そして優雅な王錫のようなデザインの『セレスティアル・ロッド』へと進化する。その輝きは、玲奈の女王としてのカリスマと、俺のプロデューサーとしての才能が融合した証だった。
変身を遂げた圭佑(玲奈)は、絶望のバリアに向かって、優しく、そして力強く、最後の歌を歌い始めた。その歌声は、玲奈の持つ『正義』の美徳を体現するかのように、空間の澱みを浄化していく。
だが、二体の怪物が、それを許さなかった。『プリマドンナ』の背後から、無数の「陰口」のテキストで編まれた、黒い鞭が、嵐のように放たれた!『亡霊』の指先から、「後悔」のテキストで編まれた、重々しい鎖が、蛇のように伸びてくる!
しかし、その全ての攻撃は、玲奈(K)に届く前に、仲間たちの「想い」が作り出した、光の防壁によって、弾かれていた。
最初は、玲奈一人の、気高い歌声だった。だが、その声に、キララの、太陽のように明るい『慈愛』の歌声が重なる。アゲハの不器用だけど、力強い『信念』のシャウトが重なる。詩織の全てを包み込むような、優しい『知恵』のコーラスが重なる。みちるの清らかな『純潔』のメロディが響き、あんじゅの嘘のない『真心』が、まりあの健気な『敬愛』が、次々と共鳴していく。
俺の背後に、仲間たちの半透明の姿が、光の粒子となって現れ、その手が、俺の背中を、そっと、しかし力強く、支えていた。それは、玲奈の姿をした俺が歌う、K-Venus全員の「想い」が乗った、奇跡の合唱だった。そのハーモニーは、俺たちの『絆』そのものであり、絶望を打ち破る、唯一無二の力だった。
その歌声は、シャドーモンスターたちの動きを止め、黒い靄を浄化し、プリクラ機そのものを、内側から眩い光で満たしていく。やがて、光が収まると、絶望の象徴だったプリクラ機はひび割れ、粉々に砕け散った。その轟音は、莉愛の過去の苦痛が終わりを告げた合図のようだった。
そして、その光の中から、ゆっくりと、一人の少女が現れる。
それは、ずっと会いたかった、俺の愛する妹、天神莉愛だった。
彼女は、涙を浮かべながらも、世界で一番美しい笑顔で、圭佑(玲奈)に向かって、こう言った。
「…うん。やっと、見つけてくれたね、お姉ちゃん。……そして、圭佑くん」
彼女には、わかっていた。愛する二人が、自分を救いに来てくれた、その全てが。彼女の瞳には、再び『希望』の光が宿っていた。
【展開③:二人の共闘、そして未来への覚醒】
しかし、戦いは、まだ完全に終わってはいなかった。
砕け散ったプリクラ機の残骸から、二体のシャドーモンスターが、再び姿を現したのだ。彼らは、俺たちを攻撃するでもなく、ただ、悲しげな瞳で、俺たちを見つめている。それは、莉愛の魂の奥深くに根ざした、トラウマの根源そのものだった。
「…!」
莉愛が、自分自身の闇の姿を目の当たりにし、息をのむ。
キューズ:「…ダメだ、K! 莉愛の意識を救出しても、彼女のトラウマの根源が、まだこの精神世界に深く根を張っている! このままでは、例え現実世界に戻っても、彼女の心は、いずれまた、この闇に引きずり込まれる…!」
絶望的な状況。しかし、俺の隣で、莉愛が、震える声で、しかし、はっきりと、言った。
「…大丈夫。圭佑くん」
彼女は、俺の手を、さらに強く握りしめた。その華奢な手から伝わる温もりが、俺の心に確かな力を与える。彼女の瞳には、もう涙はない。あるのは、自らの運命と戦うことを決意した、気高い王女の覚悟と、揺るぎない『希望』の輝きだった。
「――二人で、戦おう。私たちの、弱さに」
俺は、静かに頷いた。この言葉を、どれだけ待ち望んでいたことだろう。
俺の右手には、白金の杖『セレスティアル・ロッド』が。その杖の先端で、桜色の髪を持つ、小さな妖精のような姿のキューズが、腕を組みながら、ふんとそっぽを向いている。
「べ、別にあんたのためじゃないんだからね! マスター(正人)の命令で、仕方なく付き合ってあげるだけよ!」
その憎まれ口も、今となっては頼もしく聞こえる。キューズは、俺のナビゲーターとして、システム解析と防御の役割を担う。
そして、莉愛の左手には、彼女自身の「歌」という名の、光の剣が具現化されていた。それは、彼女の秘めた才能が、形を成したかのようだった。その彼女の背後に、腰まで届く、美しい銀髪をなびかせた女神のような姿のミューズが半透明のホログラムとして、そっと寄り添うように現れる。ミューズは、キューズの双子の妹AIであり、献身的で淑やかな性格を持つ。
『…お姉様ったら、素直じゃないんですから。…大丈夫です、マスター・莉愛。あなたの歌声は、私が最高の形で、この世界に届けます』
四人と二体のAIによる、奇妙で、しかしどこまでも美しい、魂の救済を巡る戦いが、始まった。
俺とキューズが、二体のシャドーモンスターの攻撃を完璧に防ぎ、莉愛とミューズが、その隙に、浄化の歌声を叩き込む。防御と攻撃、AIの解析と感情の歌。その完璧な連携は、まるで長年連れ添った夫婦のようだった。
やがて、二体のシャドーモンスターは、憎悪の表情を、穏やかな微笑みへと変え、満足したように、光の粒子となって消えていった。莉愛の心に深く根ざしていたトラウマの根源が、ついに浄化されたのだ。
全ての戦いが、終わった。
莉愛は、その場にへたり込みそうになるが、俺が、その華奢な体を、強く、強く抱きしめた。彼女の震える身体から伝わる温もりが、俺の心にも安堵をもたらした。
「…終わったんだな」
「…うん。ありがとう、圭佑くん。…一人じゃ、無理だった」
彼女が、俺の胸の中で、そう呟いた、その瞬間だった。
彼女の背後にいたミューズのアバターが、ふわりと、光の粒子となり、莉愛の体の中へと、吸い込まれるように、溶け込んでいった。その光景は、神々しいほどに美しく、魂の融合を告げるかのようだった。
「え…?」
莉愛が驚いて、自分の両手を見つめる。その指先から、ミューズと同じ、淡い青白い光のオーラが、立ち上っていた。
彼女の脳内に、直接、ミューズの優しい声が響き渡る。
『…マスター・莉愛。これより、私は、あなたの魂と、常に共にあります』
彼女には、まだ、その力の意味が、完全には理解できていなかった。だが、それは、守られるだけの聖女だった彼女が、AI【Muse】の力を自らのものとし、やがて未来の可能性を視る『深紅の魔眼』に覚醒し、最強の「ハッカー」としてこの物語の軍師となる、その運命の始まりを告げる、静かで、しかし確かな、祝福の光だった。
【エピローグ:現実世界の女王の誓い】
同時刻、現実世界。病院の一室。
莉愛の肉体が眠るベッドの傍らで玲奈は、不安と疲労で張り詰めていた表情をわずかに緩めた。メインモニターに表示される莉愛のバイタルサインが、奇跡的な回復を示している。そして、微かに、玲奈の耳には、精神世界から漏れ聞こえるかのような、莉愛と圭佑の安堵の声が届いた。
「…約束、守ってくれたのね、圭佑くん…」
彼女の琥珀色の瞳から、一筋の温かい涙が流れ落ちた。それは、愛する妹と男が無事に戻ってきてくれたことへの、純粋な安堵の涙だった。
玲奈は、涙を誰にも見られないようにそっと拭うと、再び冷徹な司令塔の顔に戻り、眠る圭佑と莉愛に、しかし仲間たち全員に誓うように、静かに呟いた。
「…ええ。あなたの王国は、あなたの民は…私が、必ず守り抜いてみせるわ」
愛する二人が互いの魂を救い合い、そして、一人の少女が新たな力の「兆し」を手に入れた。その再会の瞬間で、この戦いは、ひとまずの幕を閉じた。しかし、これは、来るべき、さらなる巨大な戦いの序章に過ぎなかった。
第九話『絶望の深海と希望の合唱』、お楽しみいただけましたでしょうか。
おそらく、息をするのも忘れ、ただ、彼らの運命を見守っていただけたのではないかと思います。
今回は、莉愛の精神世界という、これまでとは全く異なる舞台での戦いとなりました。
彼女が抱えていた、知られざる孤独と、痛み。そして、Kが背負い続けてきた、罪悪感の正体。
二人の心の闇が「シャドーモンスター」として具現化するシーンは、私自身、胸が張り裂けるような思いで執筆しました。
しかし、絶望が深ければ深いほど、希望の光は、より一層輝きを増します。
Kが、仲間たちの想いを背負い、玲奈の姿となって歌い上げた、奇跡の合唱。
そして、自らの弱さと向き合い、Kと共に戦うことを決意した、莉愛の覚醒。
これこそが、この『成り上がり』という物語の、真髄です。
彼らは、もはや一人ではありません。
Kには、ツンデレな姉・キューズという最高の「バディ」が。
そして、莉愛には、献身的な妹・ミューズという、最強の「守護者」が。
二組のコンビが、これからどのような活躍を見せてくれるのか。
そして、ラストで示唆された、莉愛の新たな力の「兆し」。
「ハッカー」としての覚醒は、一体、何を意味するのか。
物語は、一つの大きな悲劇を乗り越え、しかし、休む間もなく、次なるステージへと加速していきます。
絶望の深海から帰還した王と、新たな力を手に入れた姫。
彼らを待ち受ける、次なる「悪徳」とは。そして、全ての糸を引く、神宮寺の真の狙いとは。
ぜひ、次話も、彼らの戦いを見届けてください。
それでは、また、物語の世界でお会いしましょう。