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共犯者の流儀、聖女の涙

金色の鳥籠の中で、王は悪夢にうなされる。

それは、過去の亡霊か、それとも未来への警告か。

最も信頼する者に裏切られ、見捨てられる恐怖。

その心の隙間に、新たな「毒」と「薬」が、同時に忍び寄る。


一人は、全てを見透かす瞳で「利用しろ」と囁く、冷徹な情報屋。

もう一人は、利益のために魂すら売る、胡散臭い元裏切り者。


これは、孤独な王が、初めて「仲間」ではなく「共犯者」を手に入れる物語。

そして、その歪な関係性が、一人の「聖女」の涙によって、試されることになる物語だ。

闇に手を染める覚悟は、できているか?

【金色の鳥籠と悪夢の残響】


 暗闇。まず聞こえてきたのは、脳の奥底を直接掻き乱すような、スマホが机上で震える、不快な通知音の連続だった。それは、外界からの侵食を告げる、不吉な予兆。次いで、無数の人間が一斉にキーボードを叩く、乾いた打鍵音が空間を埋め尽くし、俺は身動き一つ取れないまま、その憎悪の渦の中心にいた。


 目の前には、虚空に浮かぶ無数のコメントの羅列。一つ一つが粘着質な悪意を纏い、俺の存在を否定する。


『どうせ天神の金だろ。パトロン見つけてよかったなw』

『信者も教祖もキモすぎ。早く捕まれよ犯罪者』

『社会のゴミが。二度と表に出るな』


 文字が、じわりと滲むように実体化し、冷たい指となって俺の肌を撫でていく。息が詰まる。その指が触れた場所から、皮膚が凍りつき、感覚が麻痺していくようだった。耳元では、昔から俺を嘲笑ってきた今宮の底意地の悪い声が響き、想いを寄せていたはずの佐々木の冷たい視線が、魂を抉るように突き刺さる。そして、俺のすぐ側で、絶対的な光であるはずの玲奈と莉愛が、氷のように冷たい瞳で俺を見下している。


『…失望したわ、圭佑。あなたも、しょせんはその程度の男だったのね』

『Kくんのせいで、私たちの人生、メチャクチャだよ…!』


 愛する者に裏切られる悪夢は、何よりも深く、俺の心を蝕んだ。その全てを操る、顔のない黒い影が、ゆっくりと、しかし確かな悪意を携えて、こちらに手を伸ばしてくる。まるで、俺の魂そのものを捕食しようとするかのように。


「――ッ!!」


 俺は息を吸い込むこともできず、全身を覆う冷や汗と共に、ベッドから跳ね起きた。心臓が肋骨の内側を滅多打ちにしている。ドクン、ドクン、と耳鳴りのように響く心臓の音だけが、唯一の現実を告げていた。悪夢の残響が、超高級ホテルのスイートルームの、無音の静寂に溶けていく。湾岸エリアに聳え立つ、天神グループ所有のタワーマンション。その最上階フロアを、玲奈が「今日からここが、私たちの『城』よ」と言って、丸ごと事務所兼、メンバー全員の『寮』として改装している。その準備が整うまで、ここは仮の住まいだ。仮の、という響きが、この悪夢のような現実にわずかな希望を与える。


 その時、軽やかな、しかし規則正しいノックが扉を叩いた。「おはようございます、神谷様。朝食をお持ちいたしました」完璧に訓練されたホテルマンの声だ。

 ワゴンに並ぶのは、完璧な半熟のエッグベネディクト、色鮮やかなアサイーボウル、そして絞りたてのオレンジジュース。その全てが、まるで雑誌の切り抜きのように美しく、朝焼けの光を浴びて煌めいている。ホテルマンは、完璧な笑顔で深々と一礼し、音もなく部屋を退室していった。

 ここは、居心地のいい金色の鳥籠だ。

 しかし、その豪華な食事を前にしても、俺の胃は鉛のように重く、喉は乾き切っていた。クローゼットには、俺のものではない、ハイブランドの服がずらりと並んでいた。黒を基調とした、ミニマルなデザインのジャケットを手に取り、鏡の前に立つ。蛍光灯の冷たい光が、やつれた俺の顔を無慈悲に照らし出す。


「…似合ってねえな」


 独り言が漏れた。それは、着慣れない服への違和感だけではない。社会の底辺で生きてきた過去が、この豪華な鳥籠の中で、より一層、俺の心を締め付けていた。

「俺なんかが、モデルでいいもんかねえ…」

 吐き出された弱音は、空虚な部屋の空気に吸い込まれ、誰にも届かない。


【日常への逃避と光の影】


 ロビーに降りると、折り目正しいホテルマンが、その完璧な笑顔を保ったまま、深々と頭を下げた。


「神谷様、お出かけでございますか。お車の手配を」


 その丁寧な言葉が、かえって俺の心を重くする。この完璧なサービスは、俺が支払った対価ではない。天神姉妹の権力によって与えられたものだ。この鳥籠から、ほんの少しでも逃げ出したかった。


「いや、いい。電車で行く」


 半ば突き放すように言って、逃げるように回転扉を抜ける。自動ドアの向こうには、喧騒に満ちた日常が広がっていた。駅の改札でICカードをタッチすると、無情な電子音と共にゲートが閉まった。残高不足。舌打ちしながらチャージ機に向かう。わずか数千円のチャージ。高級ホテルでの豪勢な朝食と、このささやかな日常。そのあまりにも大きなギャップが、今の俺のちぐはぐな立ち位置を、容赦なく突きつけてくる。


 撮影スタジオの眩いライトが、俺を現実から切り離していく。否応なく、この非日常へと引きずり込んでいく。スタジオの空気は、熱気と緊張感に満ちていた。


「神谷さん、もう少し肩の力抜いて。リラックスして…そう、あ、今のいい!最高です!」


 カメラマンが興奮気味にシャッターを切り続ける。彼の声が、スタジオに鳴り響く。俺は言われた通りに、少しだけ気だるそうに、腰に手を当ててみただけなのに、何がいいのかさっぱりわからない。だが、モニターを見ていた女性スタッフたちが、小さく「…オーラ、ヤバ…」「この人、本当に新人?」と囁くのが聞こえた。彼らの視線は、確かに俺に向けられていた。それは、これまで誰にも見向きもされなかった俺にとって、奇妙な感覚だった。


 撮影が終わり、スタジオを後にする。帰り際の廊下で、すらりとした長身のモデルの女性とすれ違う。彼女は俺の目の前でわざと立ち止まり、その整った顔をわずかに歪めて、吐き捨てるように、冷たい声で言い放った。


「邪魔」


 その一言は、俺の過去のトラウマを呼び起こす。社会から疎外され、誰からも存在を認められなかった、あの引きこもりの日々。彼女の視線は、まるで俺という存在そのものが、この世界の邪魔者だと言っているようだった。


 スタジオを出たところで、スマホが震えた。画面には、相沢詩織からのメッセージが表示されていた。


『相沢詩織:お疲れ様です。神谷さん。』

『相沢詩織:昨日の件で、至急お話したいことがあります。お昼はいかがですか?』

『相沢詩織:お店は予約しておきます』


 ビジネスライクな文面に、有無を言わせない意志の強さが滲んでいた。彼女の言葉には、いつも冷静な論理と、確固たる決意が込められている。俺は、その返信に迷うことなく、承諾のメッセージを送った。


 指定されたのは、全室個室の和食店だった。洗練された私服姿の彼女は、俺を静かな個室に促した。和室の落ち着いた空間に、かすかに香る白檀の匂い。


 詩織の口から語られたのは、佐々木が時折口にしていたという、「私たちをバックアップしてくれる、もっと上の人がいる」という不気味な言葉の真意だった。その背後にいる企業の名を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走る。


「…クロノス・インダストリー。天神グループの、長年の宿敵よ」


 詩織は、静かに続ける。その声は、どこまでも冷静で、感情の揺らぎを感じさせない。


「今の社長は城之内という男だけれど、実質的に会社を動かしているのは、その懐刀…神宮寺という男。野心家で、手段を選ばない危険な人物よ。いずれ、クロノス・インダストリーのトップに立つのは、間違いなく彼でしょうね」


「…神宮寺…」


 俺は、その名を反芻した。その名が、俺の脳裏に、漠然とした不吉な予感を呼び起こす。まるで、失われた記憶の奥底で、その名が何か大きな意味を持つかのように。


「これは、単なる復讐じゃない。『戦争』よ。あなたには、信頼できる『剣』と、正確な『情報』が必要になる。私を、あなたの情報源として使って。でも、私一人じゃ足りない」


 詩織はそこで言葉を切り、俺の目をまっすぐに見つめた。その琥珀色の瞳は、俺の魂の奥底まで見透かすかのように、どこまでも澄んでいた。


「あなたを裏切った男…今宮という男がいるわね?」


「冗談じゃない!」俺は思わず声を荒げた。目の前で、佐々木と共に俺を道化にした今宮の顔がフラッシュバックする。あの時感じた屈辱と殺意が、再び俺の心を支配しようとする。

「あいつとのコラボ配信、あんたも見てたろ! 俺を笑いものにしたんだぞ!あいつは俺を、地獄に突き落としたんだ!」


「ええ、見たわ。だからこそ、使えるのよ」


 詩織は、全く動じることなく言い放った。彼女の言葉には、一切の感情が宿っていない。ただ、冷徹な論理だけが存在する。


「彼は、利益のためなら魂すら売る男。そして、ITの天才。敵の懐に潜り込むには、彼のような『毒』が必要不可欠よ。信用なんてしなくていい。利用するの。そして…」


 彼女は、冷たい目で俺を見据えた。その視線は、俺の心を試すかのように、深く突き刺さる。


「使えないなら、捨てればいいじゃない」


 そのあまりにも冷酷な言葉に、俺は息をのんだ。彼女の瞳は、ファンや恋人を求めるものではなく、信頼できる「共犯者」を求めるものだった。俺の心を支配していた今宮への憎悪が、詩織の言葉によって、冷徹な「利用価値」へと変換されていく。俺は、王として、非情な決断を下さなければならないことを悟った。


【城と共犯者の流儀】


 その日の夕方。俺は一人で、湾岸エリアにそびえ立つタワーマンションの最上階、新たな城(事務所兼・寮)を訪れていた。ガラス張りの壁面が、夕日に染まり、燃えるような赤色に輝いている。そこは、まるで、これから始まる「戦争」を告げる狼煙のようだった。


「待たせたわね」


 現れたのは玲奈だった。彼女が纏うのは、権力そのものを仕立てたような、黒のパンツスーツ。その完璧な着こなしは、彼女がこの「城」の真の支配者であることを雄弁に物語っていた。


 しかし、彼女は一人ではなかった。その後ろから、派手な柄シャツに色付きメガネをかけた、チャラついた男――今宮が、ひょこりと顔を覗かせた。


 脳裏に、あの悪夢がフラッシュバックする。佐々木と結託し、俺を道化にした今宮。彼の顔を見るなり、血が頭に上り、全身の筋肉が硬直する。殺意。純粋な殺意が、俺の思考を塗り潰そうとする。今すぐにでも、この手で、この男を…。だが、その瞬間、詩織の『利用するのよ』という冷たい声が、頭の中で響いた。俺は、奥歯を強く噛み締め、燃え盛る怒りを理性の檻に押し込めた。こんなところで感情に流されては、莉愛を救うことはできない。


「圭佑。感情的になるのはやめて。彼は使えるわ。…あなたも、もう分かっているはずよ。その前に、あなたの新しい城を見て回りましょうか」


 玲奈に促され、俺たちは広大なフロアを歩き始めた。足元に敷かれた厚手のカーペットが、俺たちの足音を吸い込み、静寂を保っている。床から天井まで続くガラス窓からは、ミニチュアのような東京の夜景が一望できる。眼下に広がる光の海が、この城の持つ途方もない価値を物語っていた。


「ここが司令室兼リビング。各メンバーの個室は、あちらの廊下の先に用意してあるわ。もちろん、あなたの部屋もね」


 玲奈の声が、この巨大な空間に響き渡る。


「いやー、しかし広いですなあ。俺も仲間に入れてくださいよ、圭佑さん」


 今宮は、悪びれる様子もなく、懐から取り出した扇子をパチンと広げた。その軽薄な態度が、俺の理性を再び揺さぶる。


「…まだお前を信じた訳じゃない」


 俺は、冷たくそれだけを返した。その言葉は、俺自身の感情に対する、最後の抵抗のようだった。


 その時、玲奈のスマホが、静かだが鋭い着信音を立てた。彼女は画面を一瞥すると、少しだけ眉をひそめる。


「ごめんなさい、圭佑。佐々木の件で、警察関係者からよ。少し後処理に行ってくるわ」


 玲奈はそう言うと、一枚のカードキーを俺に手渡した。「これ、ここのセキュリティカード。渡しておくわね」


 彼女はそう言い残し、ヒールの音を響かせて部屋を出て行った。その背中が、遠ざかるほどに小さく、儚く見えた。残されたのは、俺と、俺の人生を滅茶苦茶にした男。


 静寂の中、今宮が扇子で口元を隠しながら、楽しそうに言った。その目には、悪戯っぽい光が宿っている。


「で、早速なんすけど、手土産ありやすぜ。あんたを掲示板で誹謗中傷したアンチ、一人特定完了。この都内の大学生っす」


 彼はそう言うと、自分のスマホを取り出し、慣れた手つきで電話をかけ始めた。


「もしもし? 神谷圭佑さんのファンなんですけどぉ」


 今宮は猫なで声で相手を油断させ、一瞬で用件を済ませると、通話状態のままのスマホを俺に差し出した。その指先が、俺の憎悪を煽る。


「ほら、どうぞ。ご本人登場っす」


 俺はスマホを受け取り、耳に当てる。電話の向こうで、相手が息を呑むのが分かった。その一瞬の沈黙が、俺の怒りをさらに増幅させる。


「神谷圭佑だ。掲示板で俺を誹謗中傷したな?」


 俺の冷徹な声が、相手を追い詰める。


「…はっ、番号が割れたからって、何ができんだよ?」


 強がる相手に、俺は静かに、しかし絶対零度の声で告げた。その言葉は、俺自身の心に刻まれた復讐の誓いだった。


「別に。ただ、一つだけ言っておく。今夜、お前の人生の全てを懸けて、必ず、お前の元へ辿り着いてやるからな」


 俺は一方的に電話を切り、スマホを今宮に投げ返した。そのスマホが、今宮の手に吸い込まれるように収まる。


「行くぞ」


「りょーかい」


 今宮は、楽しそうに扇子をパタパタと仰ぎながら、俺の後に続いた。彼の笑い声が、俺の復讐心を、さらに燃え上がらせる。


【王の暴走と聖女の祈り】


 その夜。俺は今宮が運転する車の助手席に座り、都内の大学生のバイト先であるコンビニの前で張り込んでいた。車のエンジン音だけが、静かな夜の街に響き渡る。憎悪が、俺の全身を支配していた。


 バイトを終え、疲れきった顔で出てきた大学生の前に俺が降り立つと、彼は絶叫し、まるで獲物から逃げる獣のように、全力で逃げ出した。


「――逃がすかよ!」


 俺の怒号が夜の闇に響く。今宮がアクセルを踏み、車が後を追う。俺はポケットからスマホジンバルを取り出し、配信を開始した。画面に映し出されたタイトルは、俺の歪んだ復讐心をそのまま表していた。


『【神谷圭佑・緊急生放送】リアル鬼ごっこ、始めます。』


 路地裏で大学生は転倒し、俺たちの車がその行く手を塞ぐ。逃げ場を失った彼が、恐怖に顔を歪めて這いずり回る。俺は車から降り、泣きながら命乞いをする彼に、冷徹な尋問を始めた。その声は、感情を一切含まない、機械のような響きだった。


「おい。とぼけるなよ。お前が俺宛の、あのクソみてえな葉書をポストに投函したんだろ?」


 大学生は、恐怖でガチガチと歯を鳴らし、その場に失禁していた。その瞳に宿る絶望が、俺の復讐心をさらに煽る。


「ひっ…! な、なんでそれを…!」


「質問に答えろ。あの葉書を送ってきた『田中』って男と、どういう関係だ?」


 大学生は観念したように、全てを話し始めた。その声は、震えながらも、真実を語ろうとしているようだった。

「…アンチコミュニティの掲示板で知り合いました…。俺は、ただの運び屋です…!」


「運び屋だと?」


「は、はい…! 田中って奴から、普通の郵便で、嫌がらせの葉書が俺ん家の宅配ボックスに送られてくるんです…!それを、夜中に俺のマンションの近くにあるポストに、投函するだけなんです…!」


 その言葉に、俺は凍りついた。俺の自宅住所が特定される、遥か以前から、あの葉書は俺の元に届いていた。俺の知らない、もっと深い闇が、この背後に潜んでいる。


 俺は、大学生の胸ぐらを掴み上げた。その目に宿る狂気は、もはや理性では制御できない。

「――じゃあ、なんでだ! なんで、俺の家が、あいつらにバレてたんだ!」


「し、知らないです! 本当に知らないんです! お願いします、命だけは…!」


 大学生は、俺の腕の中で必死に懇願する。俺が、さらに黒幕の情報を引き出そうとした、その瞬間だった。


「――やめて、圭佑くんっ!!」


 甲高いブレーキ音と共に、タクシーから莉愛が飛び出してきた。彼女の金髪ツインテールが夜風に揺れる。その瞳には、大粒の涙が溢れ、俺の顔を見るなり、悲痛な叫びを上げた。


「配信が始まった瞬間から、絶対にこうなるって思ったから…! 圭佑くんを止めるために、ずっとコメントと掲示板を監視してたんだからね!」


 彼女は、俺と大学生の間に、震える足で立ちはだかった。その華奢な背中が、俺の怒りの奔流を遮る防波堤となる。


「お願い、圭佑くん…! こんな、こんな悲しい顔、見たくなかった…!」


 莉愛の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。その涙が、俺の頭に上っていた血を、一気に冷ましていく。俺の心を支配していた憎悪が、彼女の純粋な悲しみの前で、溶け出すかのように消えていく。


 けたたましいサイレンの音が、路地裏に響き渡る。赤色灯の光が、俺たちの顔を不気味に照らし出した。


「…掲示板に、書き込まれてる…!」莉愛が、震える手でスマホの画面を見せる。そこに表示されていたのは、おぞましい文字列だった。『【緊急】クロノス・インダストリーの神宮寺に殺害予告をした神谷圭佑が、大学生を襲って生配信中』


 警官たちが、こちらに向かって走ってくる。その一瞬の隙を突いて、大学生はもつれる足で立ち上がり、闇の中へと消えていった。


「――クソがッ!」


 俺は、コンクリートの壁を力任せに殴りつけた。皮膚が裂け、激痛が走る。あと一歩のところで、まんまと逃げられた。この無力感が、俺の心を再び苛む。


 俺はゆっくりとジンバルを下ろし、配信を停止した。そして、誰もいない闇の向こう…大学生が消えた方向を睨みつけ、まるでそこにいる真の黒幕に語りかけるように、絶対零度の声で宣告した。その言葉は、俺自身の復讐の炎を、再び燃え上がらせる。


「…いいか、よく聞け。お前がどこの誰だろうと、必ず見つけ出して、法の下で裁いてやる。だが、今は莉愛の顔を立てて、この場は引いてやる。…震えて眠れ」


 俺は莉愛の肩に手を置き、その瞳を真っ直ぐに見つめた。彼女の涙で濡れた頬を、そっと親指で拭う。


「…泣かせて、ごめんな。莉愛」


「…圭佑くんの、バカ…っ」


 莉愛は、そう言って俺の胸に顔を埋めた。その温かさが、俺の凍りついた心を、ほんの少しだけ溶かしていく。


「車に、戻るぞ」


 俺は彼女の肩を抱き、今宮が待つ車へと向かった。


 車に戻ると、後部座席の莉愛は、ただ静かに泣き続けていた。重い沈黙の中、運転席の今宮がバックミラー越しに俺を見て、軽口を叩いた。


「玲奈さんには、今日の件、言ってなかったんすか?」


「…あいつにやらせる仕事じゃない」


 俺が吐き捨てるように言うと、今宮は楽しそうに口笛を吹いた。その目は、全てを見透かすかのように、俺と莉愛を交互に見つめている。


「へえ。妹さんも守って、お姉さんの手も汚させない、と。さすが『兄貴』っすね」


「…その言い方、やめろ」


 俺の苛立ちを乗せて、車は東京の夜を滑るように進んでいく。王として悪を裁く道を選んだ俺と、ただ一人の人間として俺を案じる莉愛。そして、その全てを面白がる共犯者、今宮。俺たちの歪な関係が、今、確かに始まってしまったことを、莉愛の涙が何よりも雄弁に物語っていた。この金色の鳥籠の中で、俺は再び、孤独な戦いを選んだのだ。


 

第六話『共犯者の流儀、聖女の涙』、お楽しみいただけましたでしょうか。


今回は、Kがプロデューサーとして、そして一人の人間として、大きな岐路に立たされるエピソードとなりました。

詩織が提示した「毒を以て毒を制す」という非情な選択。そして、それを受け入れ、かつての裏切り者・今宮と手を組むK。彼の「成り上がり」が、決して綺麗事だけでは済まされない、茨の道であることが、明確になったかと思います。


そして、最後の莉愛の涙。

彼女は、Kが闇に堕ちることを、その身を挺して止めようとしました。彼女の存在こそが、復讐の鬼と化しかねないKを、人間として繋ぎ止める、最後の「光」なのかもしれません。

王として悪を裁く道を選んだKと、ただ一人の人間として彼を案じる莉愛。そして、その全てを面白がる共犯者・今宮。

この歪で、危うい関係性が、これからどうなっていくのか。


そして、物語の最後に提示された、最大の謎。

「なぜ、敵は、圭佑の自宅が特定される以前から、彼の住所を知っていたのか?」

この一点の謎が、今後の物語を大きく揺るがしていきます。敵は、我々が想像するよりも、遥かに近くにいるのかもしれません…。


それでは、また次話でお会いしましょう。

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