覚醒の王
絶望の淵から、一人の男が這い上がろうとしていた。
彼の名は、神谷圭佑。かつてネットの片隅で、誰にも届かない叫びを上げていた、孤独な青年。
しかし、運命は彼を見捨てなかった。
天神玲奈、そして莉愛。
二人の女神がもたらした嵐は、彼を安住の地から引きずり出し、新たな世界へと誘う。
それは、誹謗中傷と炎上が渦巻く、エンターテイメントという名の戦場。
だが、彼はまだ知らない。
自らの内に眠る、巨大な才能の存在を。
そして、その才能が、やがて世界を揺るがす伝説の始まりとなることを。
これは、一人の青年が「王」として覚醒する、その序章の物語。
二つのキスが、彼の運命の扉を、今、こじ開ける。
【嵐の前の食卓】
玲奈の唇の柔らかい感触が、未だ俺の唇に微かに残響していた。目の前のモニターには、一瞬止まったかと思えば、その直後には雪崩のように流れ出した嫉妬と狂喜のコメントが、天文学的な速度で画面を埋め尽くしている。その全てが、俺の思考を凍りつかせるには十分すぎる情報量だった。
「……どういうつもりだ?」
やっとのことで喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。それは、玲奈に向けた言葉であると同時に、社会全体への、そして自分自身への問いかけでもあった。
「俺みたいな男と絡んで、炎上したいのか!? あんたまで、俺みたいに不幸になりたいのか!?」
心の奥底に澱のように溜まっていた、俺が社会から受けた心の傷が、膿のように溢れ出す。人間なんて所詮、手のひらを返すものだ。信じられるものか。
玲奈は潤んだ琥珀色の瞳で真っ直ぐに俺を見つめ返すと、微かに怒ったように、しかしどこか甘えるように言った。その声には、SNSの炎上など、取るに足らないものだと言い切る、財閥令嬢としての揺るぎない自信が滲んでいた。
「……勝手なこと言わないでよ。神谷さんがアイドルプロデュースするって言うから、嫉妬しただけよ…。責任、取ってよね?」
「……帰らせてもらう。世話になったな」
その言葉の真意を測りかねた俺は、自らの不器用な優しさを、拒絶という名の鈍い刃に変え、彼女と、この甘すぎる、しかし得体の知れない城から逃げ出そうとした。本能的に、これ以上踏み込んではならない、という警告が脳裏に響いていた。
決意して玄関の重い扉を開ける。その先に、まさか彼女が立っているとは、思いもしなかった。
「お姉ちゃん! 配信見てたよ!? ズルいっ!」
鬼の形相で仁王立ちしていたのは、学校帰りの莉愛だった。ぴしりと着こなされたブレザーの制服は、一日の終わりにも関わらず乱れ一つなく、その完璧な着こなしが、彼女の几帳面な一面を物語っていた。莉愛はぷんすかと頬を膨らませ、俺と姉を交互に睨みつける。その金色のツインテールが、怒りに合わせて小刻みに揺れていた。
「モデルの撮影、早く終わらせてタクシーで飛んできたんだから!」
彼女の言葉が、俺たちのいる世界とは全く異なる、きらびやかな日常を垣間見せる。同時に、彼女がどれほどこの状況を気にかけ、俺を心配して駆けつけてくれたのかが伝わってきた。
「お姉ちゃんがキスでKくんを落とす気なら、私は手料理で胃袋を掴むから! お姉ちゃん、昔から料理だけは壊滅的にヘタなんだからねっ!」
そのあまりに子供っぽい宣戦布告に、玲奈は「そ、そんなことは…」と、珍しく狼狽えている。その表情は、普段の完璧な女王の仮面を剥がし、ただの妹にからかわれた姉の、人間味溢れるものだった。姉妹の他愛ない口論が、張り詰めていた空気の中に、僅かながら温かい亀裂を入れていく。
修羅場の真ん中で呆然と立ち尽くす俺の、その緊張感をぶち壊すように、
ぐぅぅぅぅぅ…。
俺の腹の音が、情けなく響き渡った。それは、昼から何も食べていなかった俺の、あまりにも正直な自己主張だった。
その音に、張り詰めていた空気がふ、と緩む。莉愛がぷっと噴き出し、涙を拭いながら笑った。その笑顔は、まるで太陽のように眩しく、俺の心に直接差し込んできた。
「…そっか。お腹空いてるんだ。任せて!」
莉愛はキッチンに駆け込むと、冷凍庫から取り出した有名店のロゴ入り高級冷凍ハンバーグを焼き始めた。ジュージューと肉が焼ける香ばしい音と、バターの甘い香りがリビングに広がり、俺の胃を刺激する。彼女は、完璧な半熟の目玉焼きをその上に乗せ、特製だというデミグラスソースをたっぷりとかけた。「はい、お待たせ! 私の愛情たっぷり、手作りハンバーグだよ!」と、満面の笑顔で差し出す。
湯気を立てる温かいハンバーグを前にした瞬間、俺の目から、訳もわからず涙が溢れ出した。止まらない。それは、製氷工場での孤独な日々、社会からの悪意あるコメントに晒されていた過去、そして親との確執の中で、ずっと欠けていた「何か」が、今、目の前で満たされようとしている感覚だった。
(…ああ、そうか。俺は、ずっと、人の温もりを知らなかったんだな…)
画面の向こうの、顔も分からない奴らの悪意ばかりを相手にして、自分の心がここまで冷え切っていたことに、今、初めて気づいた。誰かと食卓を囲む温かさ。自分のために作られた料理の匂い。そんな、当たり前の日常を、俺は心のどこかでずっと求めていたのだ。それは、過去の自分が見て見ぬふりをしていた、あまりにも普遍的な、人間としての飢えだった。
「え、どうしたの? Kくん?」莉愛が慌てて俺の顔を覗き込む。その心配そうな表情が、俺の涙腺をさらに刺激した。
「……莉愛の優しさが、身に沁みたのかしら」隣で見ていた玲奈の瞳も、かすかに潤んでいた。彼女の完璧な感情制御の仮面にも、妹の純粋な優しさが、僅かな亀裂を入れていた。
「……ありがとう」
俺は、嗚咽交じりに、それだけを言うのが精一杯だった。言葉にならなかったのは、感謝だけでは足りない、あまりにも深い感動が胸を去来していたからだ。
「もー、口開けて、Kくん」
莉愛はハンバーグを小さく切り分けると、俺の口元に持っていく。その優しい手つきに、俺は子供のように素直に口を開けて食べた。肉汁とデミグラスソースの優しい味が口いっぱいに広がり、冷え切っていた胃の腑に、温かい光が灯るようだった。
「……美味い」
「でしょ! だから、男でしょ? もう泣かないの!」
莉愛は、そう言って俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。その手つきは、幼い頃、母に撫でられた記憶を呼び覚ますような、温かいものだった。
食事の後、未成年である莉愛は家に帰る時間になった。執事の柏木が運転する黒塗りのセダンが迎えに来るまで、俺たちは三人で大理石の玄関ホールで待機する。静かに車が到着し、莉愛が乗り込む直前、彼女は俺の前に立つと、ぐっと背伸びをして、俺の唇にチュッと軽いキスをした。
「……これで、おあいこだね、お姉ちゃん」
悪戯っぽく笑い、莉愛は車に乗り込んでいった。その表情は、満足げで、どこか誇らしげだった。玲奈は、その光景を、一瞬、呆然と見つめていたが、すぐに「莉愛ったら…」と、苦笑いを浮かべた。
数時間後、玲奈が風呂に入るシャワーの音が遠くに聞こえる。俺はリビングのソファに深く沈み込み、スマホを弄っていた。エゴサするとSNSは、俺と天神姉妹の三角関係の話題で、凄まじい熱量で盛り上がっていた。批判の声も多かったが、莉愛のキス動画は瞬く間に拡散され、一夜にして「国民的彼氏」という称号まで付けられていた。その狂騒に、俺はどこか他人事のように眺めていた。
「先に出たわよ」
玲奈が、上質なシルクのパジャマ姿でリビングに現れた。濡れた髪をタオルで拭いている。その仕草が、やけに艶っぽく見え、俺の心をざわつかせた。
「なんか、ありがとうな」
俺はぎこちなく礼を言うと、逃げるようにバスルームに向かう。熱いシャワーを浴びながら、湯船に浸かり、今日の記憶を巡る。莉愛の温かいハンバーグ、二人のキス、そして、SNSの狂騒。
「何やってんだろな、俺は」
湯船の縁に頭を預け、俺は呟いた。自分の人生が、まるで台本のないドラマのように、目まぐるしく展開していくことに、未だ実感が伴わない。
風呂から上がると、玲奈が俺を豪華な主寝室へと案内した。キングサイズの、巨大なベッドが鎮座している。その光景は、以前、タワマンのスイートルームで経験した時の記憶と重なる。
「……なあ、玲奈さん」
「何かしら?」
玲奈はベッドサイドに立ち、俺の顔を覗き込む。その表情には、期待と、微かな不安が入り混じっていた。
「悪いんだけどさ、こんなデカいベッド、落ち着いて寝れないんだ。別の部屋、ないか?」
俺の庶民的な一言に、玲奈は一瞬、何かを言いたそうに口を開きかけたが、すぐに寂しさを隠すような微笑みに変えて言った。その瞳の奥に、僅かな影が落ちたのを、俺は「神眼」で捉えていた。
「……そう。わかったわ。こちらの客室を使って」
案内された部屋のドアの前で、彼女は少し俯きながら立ち尽くしている。その華奢な背中が、どこか寂しげに見えた。
「どうしたんだ?」
「……何でもないわ。おやすみなさい、神谷さん」
そう言い残し、彼女は自分の部屋へと向かう。シルクのパジャマに包まれた、その華奢な背中を、俺は何も言えずに見つめていた。その夜、俺は客室のベッドで、自分が玲奈の期待を裏切ってしまったのではないかという罪悪感と、広すぎる豪邸の静寂に包まれ、なかなか寝付けなかった。窓の外の夜景が、まるで無限に広がる監獄の壁のように見えた。
【覚醒の兆し】
翌朝、玄関ホールで二人の女神を見送った俺は、一人でゲリラ配信を開始した。玲奈は、俺が一人で配信していることを知ってか知らずか、何も言わずに家を出ていった。
「よう、お前ら。昨日の続きだ。今日は、この城のルームツアーでもするか」
『K、今日の服オシャレじゃん』
コメント欄が、いつも以上に盛り上がっている。俺は、玲奈が選んでくれた黒のセットアップを着ていた。その服が、不思議と俺の気分を高揚させているのを感じていた。
「だろ? 昨日、天神姉妹にコーディネートしてもらったんだ」
『うらやまw』『天神姉妹、センス良すぎ』と、コメントが沸き立つ。俺は、その反応に気を良くし、シルバーのカードキーを手にルームツアーを敢行した。トレーニングジム、プール、そしてシアタールームの豪華さに、コメント欄と共に俺もテンションが上がる。配信の勢いに乗せられ、俺はシルバーカードキーをシアタールームのテーブルに置き忘れてしまったことに、その時は気づいていなかった。
チャイムが鳴り、配信をエラーで切った後、機材を運んできた業者をスタジオルームに案内しようとするが、ドアが開かない。ポケットを探ってもシルバーカードキーはない。ダメ元で莉愛のピンクゴールドのカードキーをかざすが、やはり開かない。莉愛のカードキーは俺のプライベートエリアにしか入れない「特別許可証」なのだ。
「カードキーのシステム、全然わかんねえ!」
俺はそう嘆きながらシアタールームまで全力でダッシュし、シルバーカードキーを掴んで戻ってきた。業者の不審そうな視線を感じながらも、ようやくスタジオルームのドアを開ける。その時、俺は玲奈が「王の帰還を待ってろ」と告げた言葉を、ぼんやりと思い出していた。もしかしたら、この城自体が、俺を成長させるための試練の場なのかもしれない。
昼過ぎ、玲奈に教えてもらった住所を頼りに、俺はタクシーで桐島弁護士の事務所へ向かった。窓の外を流れる都会の景色を眺めながら、俺は佐々木美月のこと、田中雄大のこと、そしてあの二人の背後にいるであろう「クロノス・インダストリー」という存在を、改めて頭の中で整理していた。
到着すると、ガラス張りのエントランスで、桐島本人が待っていた。重厚なデスクの革張りの椅子からすっと立ち上がった彼の姿を見て、俺は思った。
前も思ったけど、スーツが似合う男だな…その完璧な着こなしは、まるで彼の揺るぎない正義を体現しているかのようだった。
「お嬢様たちが来るまで、まだ少し時間がある。よければ、昼飯でもどうです? 近くに、美味い手打ちうどんの店があるんですが」
事務所からうどん店まで、俺たちは会話もないまま歩いた。その沈黙は、心地よいというよりは、互いの心の距離を測るような、微かな緊張感を含んでいた。
店内で、湯気の立つうどんをすすりながら桐島が尋ねてきた。
「ところで神谷さん。玲奈様とは、うまくいってるんですか?」
「え? ああ、まあ…昨日は、別々の部屋で寝てました」
俺は恥ずかしさで頭の後ろを掻いた。俺の庶民的な感覚では、一緒に寝ないのが当たり前だった。
桐島は、箸を止め、呆れたように言った。「…恋人、なんですよね? 一緒に寝ないんですか?」その言葉の裏には、天神家における「恋人契約」の重みが隠されているように感じられた。
「で、ですよね…。風呂も、一人で入ってます」
俺がそう白状すると、桐島は深々とため息をつき、「…そこはまあ、時間をかけていいでしょう」と、諦めたように言った。
「…よくスーツ、汚さずに食えますね」俺が感心して言うと、桐島は顔も上げずに答えた。「仕事の合間に食べるのが日常ですから。汚さずに食べるのが、プロというものです」その、あまりにも当然で揺るぎない正論に、俺は何も言えなくなった。彼のプロ意識は、俺の甘い考えを、冷徹に指摘しているようだった。
店を出て事務所に戻ると、ちょうど玲奈と莉愛が到着したところだった。広々としたオフィスで、桐島がノートパソコンの画面を俺たちに見せる。
「神谷さんへの誹謗中傷に関する発信者情報開示請求は、すでに着手しています。田中雄大のIPアドレス、佐々木美月との通信記録も、すべて確保いたしました」
桐島が淡々と説明する中、玲奈は腕を組み、鋭い視線で画面の情報を分析している。その瞳は、まさに獲物を狙う鷹のようだった。莉愛は退屈そうに脚をブラブラさせていたが、自分の炎上の話題になると、悔しそうに唇を噛んだ。SNSでの誹謗中傷は、彼女の心の奥底に、まだ癒えない傷を残していた。俺は、自分の運命が決まる話に、固唾を飲んで画面に食い入っていた。
「桐島、どれくらいかかりそう?」
玲奈が、冷徹な声で尋ねる。彼女は、時間を無駄にすることを最も嫌う。
「二ヶ月でなんとかします」
桐島は、冷静に答えた。
「もっと早くできないの?」
莉愛が、我慢できずに口を挟む。圭佑を救いたいという純粋な気持ちが、彼女を突き動かしていた。
「お嬢様、これが限界です」
桐島は、申し訳なさそうに頭を下げた。
帰り際、俺は尋ねた。「爆破予告の犯人って、わかりますか?」
桐島は、黒縁メガネの奥の瞳を光らせた。「心配はご無用です。…抜かりはありません」その言葉には、絶対的な自信と、天神財閥の底知れない力が隠されているように感じられた。
事務所からの帰り道、俺はタクシーを呼ぼうとする莉愛の手を制した。
「もう、逃げる必要はないだろ? 三人で、手を繋いで歩こうぜ」
俺が手を差し出すと、玲奈と莉愛は幸せそうに微笑んでそれを握った。玲奈の指は冷たく、莉愛の指は温かい。その対比が、俺の心を温かく包み込んだ。街の雑踏の中、「Kさんですか?」と声をかけてきた女子高生ファンと、俺は気さくに握手を交わし、一緒に写真を撮った。「アンチに負けないでください!」という声援に、俺は少し照れながら手を振る。その光景を、玲奈と莉愛は、少し離れた場所から、どこか誇らしげに、しかし、ほんの少しだけ複雑な表情で見つめていた。それは、俺が有名になっていくことへの喜びと、俺が遠ざかっていくことへの寂しさが入り混じった、複雑な感情だった。
向かったのは、都心の一等地に佇む高級ブランドのブティックだった。ショーウィンドウには、最新のコレクションが飾られ、煌びやかな光を放っていた。
莉愛にされるがままに着替えて試着室から出ると、俺は大きな姿見に映る自分を見て、思わず呟いた。
「…似合ってねえな」
ヨレヨレのTシャツと色褪せたジーンズで製氷工場に立っていた頃の自分が、まだ心の奥底に染み付いている。そんな俺が、こんな高級な服を着ていていいものか。その拭いきれない劣等感が、俺の呟きに反映されていた。
その一言をきっかけに、姉妹のコーディネートバトルが始まった。二人は、俺を最高の作品にしようと、まるでデザイナーのように熱く議論を交わしている。
「絶対こっちのストリート系が似合うって! Kくんは、もっとカジュアルでしょ!」莉愛は、流行りのファッション雑誌を俺に見せつける。
「いいえ、莉愛。神谷さんには、もっと落ち着いた、知的なスタイルの方がお似合いよ。大人の男性の魅力は、隠すことで引き立つものだわ」玲奈は、海外のファッション誌を広げる。
やがて決まった服を手に、俺は試着室へと向かう。
(服を変えたくらいで、ほんとに印象なんて変わるもんかねえ…)
そんなことを呟きながら、ヨレヨレのTシャツと色褪せたジーンズを試着室で脱ぎ捨て、新しい服に袖を通す。肌触りの良い生地。体に吸い付くようなシルエット。鏡に映る自分は、確かにいつもとは違う。
俺が試着室から出てくると、さっきまで騒がしかった玲奈と莉愛が、息を呑んで固まった。
そこに立っていたのは、もはや製氷工場で働いていた頃の、陰鬱なオーラをまとった男ではなかった。体に吸い付くようなシルエットの、上質な黒のセットアップ。インナーには、遊び心のあるプリントTシャツを合わせ、足元はシンプルな白のスニーカーで外している。自信のなさを隠すように丸まっていた背筋は堂々と伸び、何かに怯えていた瞳は、今は、全てを見透かすような鋭い光を宿していた。その変化は、玲奈や莉愛が持つ「神眼」にも匹敵する、俺自身の『神眼』による「調律」が、無意識のうちに行われた結果だった。それは、まさに、これからエンタメ業界に君臨する、若き「王」の風格そのものだった。
その変貌ぶりに、莉愛が目を輝かせた。「Kくん、モデルとかどうかな? 雑誌の表紙とか、絶対いけるって!」
「いいじゃない。うちの系列のモデル事務所に、マネージャーとして話を通しておくわ」
玲奈が、涼しい顔で、あっさりと現実のレールを敷く。その言葉に、俺は自分の人生が、彼女たちの掌の上で、加速していくのを感じた。
「…マジかよ」俺の呟きは、二人の熱狂にかき消された。その時、俺の脳裏に、製氷工場で働いていた頃の、冴えない自分の姿がフラッシュバックした。あの頃は、誰にも見向きもされなかった俺が、今、天神姉妹によって、全く新しい世界へと引き上げられようとしている。この違和感と興奮こそが、俺の「神眼」が引き起こす、世界の「ズレ」なのかもしれない。
その時、俺の口から、無意識に言葉がこぼれていた。それは、俺自身の「神眼」が、彼女たちの「本質」を見抜いた結果だった。
「…玲奈さん。あなた、普段はスカートが多いけど、その服も素敵ですが、あなたの本来の魅力を、少しだけ隠してしまっている気がします。あなたは、もっと…強くて、華やかな色が似合う。こういう…」
俺が選んだのは、深紅の生地に金の刺繍が施された、大胆なオフショルダーのロングドレスだった。玲奈は試着室へと向かった。出てきた彼女は、まるで「月」から「太陽」へと変貌したかのように、圧倒的なオーラを放っていた。その深紅のドレスは、彼女の白い肌を際立たせ、金の刺繍が、女王としての気品をさらに引き立てていた。
「…似合ってる、かしら?」恥ずかしそうに頬を染める彼女に、俺は見惚れていた。その表情は、普段の完璧な女王の仮面を剥がし、ただの少女に戻ったかのような、愛らしいものだった。
「莉愛も。制服も可愛いけど、君の元気さを活かすなら、もっとポップな色使いで、少しボーイッシュな要素を入れた方が、ギャップで可愛さが際立つと思う。例えば、キャップを逆さにかぶって、ショートパンツで健康的な脚を見せるとか」
制服姿の莉愛も、俺のアドバイス通りに着替えて試着室から出てきた。淡い水色のショートパンツに、ビビッドなイエローのTシャツ、そして逆さまに被ったキャップが、彼女の天真爛漫な魅力を最大限に引き出していた。
「わ、すごい! これ、気に入った!」
彼女は、ただの美少女から、誰も敵わない「無敵のアイドル」へと昇華されていた。その姿は、周囲の光を全て吸収し、自分自身が光を放っているかのようだった。
これまで俺がネットの世界で、何千、何万というコンテンツを見てきた経験。その膨大なデータが、俺の脳内でプロデュース能力として蓄積されていたのだ。それだけじゃない。今時の流行りにうるさい、妹の美咲。あいつがいつもリビングに置きっぱなしにしているファッション雑誌が、自然と目に入っていた。そのページで、莉愛が特集されている記事を偶然見つけて、『このモデル、すごいな』と呟いたら、『お兄ちゃん、今さら!? 超人気じゃん!』と、美咲に呆れられた記憶が、不意に蘇る。俺は、美咲とのくだらない口喧嘩に負けたくない一心で、流行りの服や、コーディネートの基本を、こっそり勉強していたんだ。
俺は、この時初めて、自分の中に眠っていた「才能」の存在に気づいた。それは、孤独なネットサーフィンと、生意気な妹との何気ない日常、その両方から生まれた、歪で、しかし確かな光だった。
「お姉ちゃん、圭佑くんすごい…!」
莉愛は興奮した様子でスマホを取り出すと、変貌を遂げた俺たち三人の姿を撮影し、こう呟いてSNSに投稿した。
『新生Kスケ、爆誕! プロデューサーは、神でした。#KスケPの神コーデ』
その投稿は、瞬く間に拡散された。コメント欄には「KスケP、マジで天才」「天神姉妹がさらに可愛くなってる!」「これはまさに神コーデ!」といった絶賛の声が溢れ、俺のプロデュース能力は、ネットの世界で一気に知れ渡ることになった。俺の「神眼」は、単に「ズレ」を見抜くだけでなく、そのズレを「調律」し、最適な形へと「プロデュース」する力へと進化し始めていたのだ。
【運命の夜】
夜。リビングでは、玲奈がノートパソコンに向かい、驚異的な速さでキーボードを叩いていた。その指先は、まるで流れるような音楽を奏でるピアニストのようだった。その隣で、俺と莉愛は固唾を飲んで画面を覗き込んでいる。
カタカタカタ…ターン!
小気味良い最後のエンターキーの音と共に、玲奈が静かに告げた。
「――できたわ」
モニターに映し出されていたのは、洗練されたデザインと、俺たちの理念が完璧に表現された、Kスケ『ガチ恋彼女オーディション』特設応募サイト、だった。サイトの背景には、俺が莉愛を救い出した精神世界のデパートのイメージが、美しくグラデーションとなって溶け込んでいた。
「すげえ…」
「お姉ちゃん、さすが!」
俺と莉愛は、思わず感嘆の声を漏らした。玲奈のプロデュース能力は、俺の想像を遥かに超えていた。
その時、莉愛のスマホが鳴った。「あ、爺がお迎えに来たみたい。私、もう帰るね」
莉愛は名残惜しそうに立ち上がると、俺に向かって悪戯っぽくウインクした。「オーディションの報告、楽しみにしてるからね!」
そう言い残し、彼女は上機嫌で玄関へと向かっていった。その軽やかな足取りは、まるで夢の世界へ帰っていく妖精のようだった。
静かになったリビング。その空間に、玲奈と俺だけが残される。
「お風呂、沸かしておくわね」玲奈はそう言うと、ブティックで買ったばかりの、深紅の大胆なドレスを着たまま、バスルームの方へと消えていった。その艶やかな後ろ姿は、普段の冷静沈着な彼女とはまるで別人に見え、俺の胸をざわつかせた。
「あ、いや、俺が…」呼び止めようとしたが、声が出なかった。その姿を、俺はただ見送ることしかできなかった。
一人残された俺は、広すぎるソファに深く腰掛け、テーブルの上に無造作に置かれていたゲーム雑誌を、夢中になって読み漁った。まるで、自分の部屋にいるかのように。莉愛の手料理、玲奈とのキス、そして今日一日の出来事。天神姉妹との交流が、俺の凍りついていた心の奥底に、ゆっくりと、しかし確実に、温かい光を灯し始めていた。
やがて戻ってきた玲奈は、バスローブ姿で、俺の隣に座り、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。彼女の髪からは、微かにシャンプーの香りが漂い、その色香が、俺の理性を揺さぶる。
時計の針が、運命の0時を指そうとしていた。
SNSの熱狂を背に、玲奈がサイトを公開する。その瞬間、世界中の「K-MAX」ファン、そして天神姉妹のファンが、一斉にこのサイトにアクセスしていることが、玲奈の表情から読み取れた。
その、直後だった。
ピコン、と静かな通知音が響く。サイト公開と同時に、一件の応募通知が届いたのだ。
その応募者のプロフィール画面を開いた玲奈が、息を呑んで俺にモニターを向けた。その瞳には、驚きと、警戒の色が入り混じっていた。
【氏名】佐々木 美月
【応募動機】神谷さんの切り抜きを見て好きになりました。私を覚えてますか?
そこには、スーツ姿で控えめに微笑む、佐々木美月の顔写真があった。美月、か。忘れもしない、俺を炎上と爆破予告の濡れ衣で社会的に抹殺しようとした、あの女。
俺は、もはや怯えるだけの被害者ではなかった。莉愛の手料理が与えてくれた温もり。ブティックで覚醒したプロデュース能力。SNSの熱狂が、世間が、そして何より隣にいる玲奈という女神が、俺に絶対的な自信を与えてくれていた。俺の「神眼」は、佐々木の応募動機が、あまりにも巧妙に偽装された「悪意」の塊であることを、はっきりと見抜いていた。
俺は、プロデューサーとして、自らの「過去」と対峙する時が来たことを知った。これは、単なるオーディションではない。俺自身の物語の、新たな幕開けだ。
「…オーディションに、呼んでくれ」
それは、怯えていた青年の言葉ではなかった。
自らの物語の舵を、自分の手で握ると決めた、覚醒した王の第一声だった。その声は、玲奈の瞳に、女王としての誇りと、俺への揺るぎない信頼の光を灯した。
「俺は、もう誰かの犬にはならない。俺が、俺の物語の舵を切るんだ」
俺は、隣に座る玲奈に向き直ると、静かに、だがはっきりと告げた。その瞳には、決意の炎が燃え盛っている。
「玲奈さん。俺は、あんたたちを、世界一のアイドルにしてみせる。だから、あんたも、俺を世界一のプロデューサーにしてくれ」
俺の言葉に、玲奈は一瞬目を見開いた後、満面の笑みで、まるで太陽のように、美しく微笑んだ。その笑顔は、これまでのどの表情よりも、俺の心を強く打った。
「――ええ。喜んで、プロデューサー」
彼女の瞳には、俺の隣に立ち、共に世界を創り上げていくという、女王としての揺るぎない覚悟が宿っていた。新たな城で最強すぎる共犯者と共に。俺の世界をひっくり返すための最高に甘くて最高に過激な反撃が今始まった。このオーディションは、始まりに過ぎない。俺と玲奈、そしてK-MAXが、世界に新たな秩序を創り出すための、最初の「創世記」なのだ。
第四話『王の覚醒、あるいは二つのキス』、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回は、我らが主人公・Kこと神谷圭佑が、プロデューサーとしての才能の片鱗を見せ、そして、過去の自分と決別する、非常に重要なエピソードとなりました。
玲奈と莉愛、二人のヒロインに振り回されながらも、彼女たちの存在が、皮肉にも彼を「王」の座へと押し上げていく。この奇妙で、しかし運命的な関係性が、この物語の大きな魅力の一つです。
ハンバーグのシーンで、Kが流した涙。
あれは、ただの優しさに対する感謝ではありません。
彼がずっと無意識に求めていた「人の温もり」と、それから目を背けさせていた「ネットの悪意」との間で揺れ動く、彼の心の叫びそのものです。