見えない隙間で痛む音は見える隙間が癒してくれる
vol.123【ワタシノ子育てノセカイ】
実子誘拐で親子の暮らしを失った私は、ふたりの息子を育てて8年目になる。
◇
2025年夏休み。実子誘拐から8回目の夏がきた。
次男ジロウにとっては、母親のいない夏休みがすっかり普通になったみたいだ。一方の長男タロウは、母のいる夏休みと母のいない夏休みの体験が、ちょうど半々となった。
タロジロが母親と過ごすには、もれなく心を痛める営みがついてくる。隠れてこっそり会うか、交渉して玉砕するか、監視下で会いに来るか、になっちゃうから。
親とただ過ごすだけの自然な行為に対して、8年も痛みと向き合いつづけるなんて、嫌気がさしてもおかしくない。母親がいないことにした方が、子らの人生はきっとずいぶんと楽ともいえそうだし。
実際、子どもと会うことをあきらめる親はいて、命を自ら断ってしまう親もいるぐらいなんだから。
◇
私の心の奥底が透けて見えるのか、夏休みのタロウも時間を見つけては私のもとへとやってきている。
2024年に高校生になってからというもの、土日にしばしば顔を見せるようになったタロウ。ここ一年くらいのやってくるときの文言は「遊びに行っていい?」と変化した。
どうやら私は、一緒に遊ぶ人らしい。
たぶんタロウと私は、生き物としての波長が合う。だから一緒に過ごしていて楽だろうし、楽しいとも感じるんだろう。
たとえば6月8日に遊びにきたときは、自室に本棚がやってきた話をしてくれた。
ここ3年くらい、タロウが欲しいモノは漫画となっていて、折々に一緒に買い足したり、誕生日などの記念日には40-50冊くらいをまとめてプレゼントしたりしているんだ。だけど本棚がなかったらしく、床に並べる場所も狭まってきたから、積み上げていたそうだ。
やってきた本棚にすっかり漫画は収納したけど、あと百冊くらいは入るとエクボで教えてくれるタロウ。そしておもむろに「漫画、次は何を集める?」と私に訊ねてきたんだ。
「お母ちゃんも一緒に読めるやつがいいからなぁ」って。「暗殺教室はお母ちゃん泣くで」って。
いや、暗殺教室を読まんでも、お母ちゃんは、泣いちゃうわ。
私と気の合うタロウから、私とそっくりなジロウはどんな夏休みを過ごしているんだろう、と思い馳せている。
◇
子と引き離された親は、わが子の姓について懸念を示すケースがままある。日本は夫婦同姓の国だけど、父母が婚姻中であっても、子どもの姓を主に妻の旧姓に変えた通称を使えてしまうからだ。
もちろん法による定めはなくて、127年ものイエの慣習がグルグル回った帰結だろう。子どもは家のモノであり、親のモノであり、とにかく所有物なんだ。
姓をひょいひょい変えられるのは、子どもの「親の交換」すら紙切れ一枚でできてしまう法も影響するだろう。普通養子縁組は、日本の単独親権制度を実子誘拐システムたらしめる規律のひとつといえるから。
現代社会においては人権侵害はなはだしいんだけど、日本で生まれ育つと、親子は家で、子は所有物、と思い込めちゃうから世知辛い。
話しは戻るんだかつながるんだか。子どもの姓に懸念を示す同じ熱量で、結婚をするときに夫婦の姓について話し合った、子と引き離された親はほぼいないと私は推察している。
夫婦の姓を夫の姓に合わせることついて無頓着だったほど、子どもの姓を勝手に変えられたと騒ぐ傾向があるように思う。翻ってその配偶者も、わが子の姓を子や配偶者に相談なく変えてしまっているんだろう。同じ穴のムジナだ。
併せて「親権」を失う現実にただならぬ恐怖を感じるケースも類型だ。中身のない器にしがみつきたくなる性質を、いつのまにか醸成するシステムが単独親権制度だから。
◇
イエ社会の学校にてちゃんと教育を受けると、自分を消して生きる術を身につける。カラッポになりゆく自分が潜在的に怖くて、意識なく自己投影するカラッポな器に、価値があると思い込まなければ生きていけなくなっちゃうんだ。
たとえば「みんな」を「自分」だと思い込める。「どうしてそう思うの?」と訊ねられて「みんなそうだから」とごく自然に回答できるようになっていく。
器に価値をみいだすことは、分断や差別のはじまりだ。
あなたや私という実存の価値が奪われて、人間の収まる実体なき属性が価値になると、尊厳を貶める環境がただただ常識となっていく。
前時代的な感覚に戸惑いながら、日本の常識だからと折り合いをつけて、日々を丁寧に健やかに過ごしつつも、やっぱり私はまだまだ震撼してしまうらしい。健やかちゃうがな。
狂気的な日常の違和感を、「みんな」に化けて、感じとらないように努める情景がやるせなくて切ないんだ。苦しい苦しいってもだえる音が、どうしても私の全身に鳴り響いてしかたない。
尊厳を貶める素養をコツコツと培ってきた私の人生が、違和感を抱くたびに脳裏にチラツク。社会と交わるたびに息たえだえとなっているのに、いつも笑顔をつくる無垢で幼かった頃の私が、世界の片隅でむせび泣いているんだ。
助けて!助けて!助けて!って。
◇
本棚のカラッポの部分に何を詰めるかで、あれやこれやとタロウと私の想いを共有しきると、「想いが未来を創るんじゃない!?」という話題に移り、すでに棚を埋めている漫画の話となった。
私が「タロウが教えてくれたみたいに、キングダムの"檄"ってすごいやん。なんかみんな起死回生して、次々に局面を切り開いていくやんか」と興奮気味になる。
するとタロウはワールドトリガーを持ち出した。「太刀川さんは"気持ちの強さは関係ない"って言ってて、タロウもそう思うで。気持ちで勝負が決まったら、負けた方の気持ちはどうなるんやってなるやん。」
私は首がもげそうなくらい頷きながら「勝者も敗者も歴史っていう未来を創る一部やもんな。ただ、もう無理!!って空気になっても、心に響く声をあげたら多勢がひとつになって、困難な局面をみんなで乗り越えられる、檄の効果はどう思う?」と打ち返す。
タロウはちょっと考えて「集団のときと個人のときでは、きっと違いがあるんちゃうかな」と私に問いかけた。
集団と個人という「みんな」と「私」の違いの感覚こそが、親と子は親子という概念を育む、共同親権制度という次世界のあり方なんだ。
7年半以上つづく痛みに、泣き叫ぼうが、声を失おうが、逃げずに母親の手を放さなかったタロウ。そして16歳の今も、離れているけど握ったまま。大丈夫。ちゃんと響いているから。
本棚にあるこれから埋まっていく空間も、もしかしたらもうすでに、満たされているのかもしれないな。
母とお喋りしながらカートを押して
たこ焼きの粉選びに目を光らすタロウさま
【毎週金曜夜8時~】
まどかのXアカウントのスペースにて
親子や子育てのお喋りをしています
コメント
2目には見えない心の隙間を、“見える隙間”で癒すという表現が印象的でした。読むだけで静かに癒される詩的な余白が好きです。
夜風さん、情景をご一緒するような、あたたかいメッセージをありがとうございます。こちらこそ静かに癒されるおもいをいただきました。