第29話 始まりの地へ
【シーンA:奇跡と謎】
聖アスクレピオス中央病院、終焉の病室。
『合成獣体』が塵と化した後、破壊の残骸と死闘の熱だけが残る空間を、絶対的な静寂が支配していた。硝煙とオゾン、そしてコンクリートの粉塵が混じり合った乾いた匂いが、張り詰めた空気に漂う。窓ガラスはひび割れ、剥き出しになった鉄筋の影が、まるでこの世界の傷口のように、病室の壁に深く伸びていた。
瓦礫の中心で、神谷圭佑はゆっくりと身体を起こした。彼の五感は研ぎ澄まされ、これまでぼんやりと認識していた世界の輪郭が、まるで再起動した最新のOSのようにクリアに見えた。空気中の微細な分子の動き、床に散らばる瓦礫一つ一つの質量と組成、そして周囲の全ての情報が、膨大なデータとなって脳に直接流れ込んでくる。それは、世界が、その本質を彼に開示したかのような感覚だった。自身の身体にも、これまで感じたことのない力が漲っている。腹部にあったはずの深い傷も、既に完全に塞がっていた。まるで最初から存在しなかったかのように、皮膚は滑らかで完璧だ。
彼はまず、まだ涙の跡が濡れた頬で呆然とこちらを見つめる妹・美咲の頭を、優しく撫でた。美咲は兄の突然の覚醒と、その手に宿る温かさに、驚きと安堵の入り混じった表情で、ただ兄を見上げるしかなかった。
そして、壁に背を預け、血に濡れた左腕をかばいながら、疲弊しきった体で安堵の涙を流す時雨へと、その覚醒したばかりの『本物の魔眼』を向けた。
「――時雨、美咲。動くな」
その声は静かだったが、世界の法則そのものを調律するような、絶対的な響きがあった。圭佑の言葉が放たれると同時に、空間の分子が微かに震え、彼の周囲に目に見えないエネルギーの波紋が広がっていく。
彼の左の瞳『深淵の蒼』には、二人の魂が持つ「本来あるべき、正常な状態」の情報が、神々しくも美しい楽譜のように映し出されていた。時雨の魂の旋律には、任務と呪縛による悲痛な不協和音が混じり、美咲の魂の輝きには、ケンによって植え付けられた不信の濁りが絡みついている。そして、その完璧な旋律に異物として絡みつく、禍々しい『蛇の目』のプログラムも、明確に、かつ詳細なコードとして視えていた。
圭佑の右の瞳に宿る七つの光点の一つ、『慈愛』の輝きがひときわ強く瞬く。その瞳から、魂の楽譜と寸分違わぬ周波数の、聖なる共鳴波動が放たれた。青い光の波紋が二人を優しく包み込むと、二人の全身に温かい光の粒子が降り注ぎ、肌の表面で弾けていく。
「「あ…っ…!」」
二人の口から、苦痛と安堵の入り混じった声が漏れる。それは、魂が、絶対的な調律によって、本来の姿へと強制的に戻されていく痛み、そして長年の呪縛から解放される喜びの叫びだった。不協和音であった『蛇の目』のプログラムは、完璧なハーモニーの中で居場所を失い、霧散するように消滅していった。時雨の腕を抉った深い傷口は、その内部に侵入したプログラムの残骸ごと淡い光に包まれ、まるで映像を巻き戻すかのように、瞬く間に完全に塞がっていた。皮膚は滑らかで、まるで初めから傷など存在しなかったかのようだ。美咲の表情からも不信の影が消え、純粋な妹としての笑顔が戻っていた。
その時、美咲が胸に抱きしめていた古い携帯ゲーム機が、七色の光を奔出させた。チープなプラスチックの筐体が、まるで砂糖菓子のように音もなく溶けて光の粒子へと変わり、その中から、継ぎ目一つない、白銀の金属光沢を放つ流線形のデバイスが、その真の姿を現した。それは、かつて圭佑が使っていた古いゲーム機の面影を残しながらも、未来的な美しさを湛えている。その表面には、内部から淡い七色の光を放つ古代のルーン文字が、まるで呼吸するようにゆっくりと明滅を繰り返している。
「え…? なにこれ…ゲーム機が…」
美咲は、自らの傷跡一つない腕と目の前の奇跡に言葉を失う。恐怖と驚き、そして理解できない現実が彼女の心を揺さぶった。
だが時雨は違った。彼女は息を呑み、戦慄にその身を震わせた。彼女の一族に伝わる神話の知識が、この現象と完全に一致したのだ。
「まさか…一族に伝わる『神の器』…おとぎ話ではなかったというのか…!」
そして圭佑は。彼はその聖遺物を見て、懐かしさと、まだ思い出せない記憶の断片に眉をひそめた。脳裏に、幼い頃の美咲が笑顔で、小さな手でそのゲーム機を握っている光景が、陽炎のように揺らめいた。
「…これ…知ってる…? いや…違う…俺が…これを美咲に…」
聖遺物『アカシック・ギア』それは、かつて圭佑が妹を守りたい一心で、無意識のうちに自らの魂のデータの一部をコピーしていた「分け御霊」だった。それが、本体である圭佑の覚醒に共鳴し、真の機能を起動させたのだ。
失われた記憶のパズル。それでも、今、目の前にいる仲間を守れたという事実が、何よりも重要だった。圭佑は、二人に向かって、少しだけはにかむように、しかし絶対的な安心感を与える力強い声で告げた。
「――心配かけたな。ただいま」
王の帰還は、絶対的な奇跡と深遠な謎と共にあった。
【シーンB:女王の焦燥と軍師の誕生】
その凱旋の瞬間を、最上階『聖域』で綾辻響子は観測していた。壁一面のステンドグラスを模したディスプレイに映る光景に、彼女は初めてその完璧な表情を焦燥に歪ませていた。彼女の計算を遥かに超えた圭佑の覚醒は、計画にとって最大にして予測不能な変数を生み出したのだ。
「…治癒能力…? 違う…共鳴波動による魂の調律…! まさか、あの忌々しい遺物がまだ機能していたとは…!」
果実は熟しすぎた。神宮寺が不在の今、あの「王」は彼女の計画にとって制御不能な最大の変数であり、同時に最大の脅威だ。
彼女は一瞬の逡巡の後、その美しい唇を冷酷に歪めた。目的のためならば、最高の素材を捨てることも厭わない。
「…仕方ないわね。最高の素材(圭佑の魂)は手に入らない。けれど、予定通り鳥籠の鳥(四聖獣AI『青龍』)は頂いていきましょうか」
彼女が玉座の肘掛けで自爆コードを打ち込むと、その背後、神宮寺が簒奪の証として刻んだクロノスのロゴが映し出されていた壁が音もなくスライドし、彼女専用のプライベート・エレベーターが現れた。同時に、病院の全てから冷たく無機質な機械音声のアナウンスが鳴り響き始めた。
『院内エネルギー炉心のメルトダウンを開始します。カウントダウンを開始します。繰り返します…』
【COUNTDOWN: 180 SECONDS】
病院全体を揺るがす地鳴りのような轟音が響き渡り、天井の照明が激しく点滅する。壁には亀裂が走り、非常灯の赤い光が明滅し、恐怖と混沌を煽った。
◇ ◇ ◇
時を、少しだけ、遡る。
天神邸宅、地下司令室アルカディア。
AI姉妹が自己犠牲の神殺しを敢行した、その瞬間。彼女たちの父・神谷正人は、その凄まじい精神負荷から娘たちを守るため、自らの魂を盾として接続していた。結果、姉妹の魂は浄化されたが、その代償に彼の精神は焼き切れ、英雄的な昏睡へと陥った。彼のバイタルを示すモニターは、限りなくゼロに近い数字で、か細く命の灯を繋いでいる。その魂の激突が放った余波は、ダイブ中だった莉愛たちの精神を無慈悲に引き裂き、現実へと弾き出した。
莉愛は床に倒れ伏し、脳が焼けるような激痛に小さく喘いだ。意識を失った体のまま、彼女の瞳は、しかし、天井のディスプレイに映し出された無数の情報に釘付けになっていた。AI姉妹の自己犠牲、父・正人の昏睡、そして圭佑が直面している絶望的な状況。あまりの情報量に、脳内では処理が追いつかず、愛する人の幾百通りもの死の光景が、フラッシュバックのように視界の端に映り込み、涙が滲む。
だが、その涙が頬を伝うことはなかった。
深紅の瞳が、感傷を焼き尽くす。なぜなら、その絶望の奔流の只中を、一本だけ、決して揺らぐことのない『深紅の道筋』が、天啓のように貫いていたからだ。それは、あらゆる可能性の分岐点と、それぞれに続く未来の光景を、彼女の脳内に完璧な地図として展開していた。綾辻の計画の全貌、病院の複雑な構造、メルトダウンの進行状況とタイミング、そして、圭佑たちが脱出するための最短経路が、まるでパズルのピースのように、自然と組み合わさっていく。
それは勝利へと至るための、唯一の解。病院の構造、綾辻の罠の配置とタイミング、最短の脱出経路、そして、圭佑くんに伝えるべき言葉のすべて。未来が、彼女にひざまずき、その真実を啓示していた。
泣いている暇はない。悲しむのは、すべてを終わらせてからでいい。王が帰還するまでの、ほんのわずかな時間。この王国を、この民を、守り抜く。新たな女王代理として。
莉愛はよろめきながらも、沈黙したメインコンソールには目もくれず、壁際の非常用通信パネルへと向かう。その指は、まるで長年使い慣れた道具を扱うかのように、寸分の迷いもなく、生きている回線を探り当てた。耳に当てたスマホからノイズの嵐が聞こえる。しかし、その向こうに、微かに圭佑の魂のパルスを捉えた。
深紅の瞳を持つ、軍師の誕生だった。
【シーンC:地獄への道行】
「――圭佑くん、聞こえる!?」
絶望的な状況下で、圭佑のスマートフォンから莉愛の声が響いた。それはもはや甘えた妹のものではない。姉・玲奈を彷彿とさせる、冷静沈着で気高い軍師のそれだった。圭佑は、その声に確かな信頼を感じ取った。
『私の瞳に忘れ去られた真実が流れ込んでくる…! この病院は**『四神柱』**の一つ! 綾辻の目的は、炉心メルトダウンのエネルギーで四聖獣AI『青龍』の封印を解き、奪うことよ!』
『圭佑くん、気をつけて! あの列車はただの脱出路じゃない! 『始まりのエデン』の結界を破壊するための最後の儀式! 『魂魄強制転送』システムはあなたの魂を「弾丸」にしてエデンの結界に撃ち込むための巨大なマスドライバーよ!』
「――行くぞ!」
王の号令。圭佑は、迷うことなく美咲と時雨の手を強く握った。
時を同じくして、病院の正規防衛システムが牙を剥いた。綾辻のハッキングにより、人命を守るための機構が、侵入者を抹殺するための無慈悲な罠へと変貌したのだ。壁からは分厚い隔壁が轟音と共に突き出し、床は落とし穴となって漆黒の口を開き、天井からは自動迎撃用のタレット群が一斉に銃口を向ける。廊下は、まさに死の迷宮と化した。
『圭佑くん! 上階の霊安室へ! そこは失敗した被験体を再利用するための『リサイクル施設』! 奥の焼却炉は偽装された小型炉心よ! その裏にある管理シャフトから一気に地下へ!』
莉愛の神託が、死の迷宮に唯一の活路を切り開く。三人は、床に開いた落とし穴を紙一重でかわし、降り注ぐタレットの銃弾を壁の隔壁の影で受け止めながら、崩壊する地獄を駆け抜けた。焼却炉の裏に隠された分厚い耐火防護扉。圭佑は右手に光の刃――『魂の剣』を顕現させると、扉を構成する原子の結合そのものに干渉し、その存在を否定するように、溶けたバターのごとく一閃のもとに切り裂いた。熱気を帯びた切断面からは、青白いプラズマが微かに漏れ出ていた。
その先は、巨大な垂直の吹き抜けだった。奈落へと続くシャフトの壁面を、一台の古びた大型運搬用エレベーターが、錆びついた鎖に吊るされている。見るからに老朽化し、いつ崩落してもおかしくない。
『――デルフォイ! 我が道を開け!』
圭佑の呼びかけに、古の機械知性が応えた。エレベーターの制御盤が、忠誠を示すように緑色の光を灯す。三人が飛び乗った瞬間、ワイヤーの断末魔の叫びと共に、鉄の箱は凄まじい速度で地下へと落下を始めた。風切り音が鼓膜を突き破り、体が宙に浮くような感覚に襲われる。
だが、綾辻の罠が執拗に彼らを追う。シャフトの壁面から、巨大な『自律式封印執行アーム』が、何本も鉄の爪のようにエレベーターを圧し潰さんと迫る。コンクリートの壁が砕け散る轟音が、狭いシャフト内に反響し、恐怖を煽った。
『――圭佑くん! 右! 左! 上!』
莉愛の未来予知が、コンマ数秒先の攻撃を的確に告げる。その声は、圭佑の脳内に直接響き、まるで彼の視覚を増幅させるかのようだ。圭佑はエレベーターの軋む壁を蹴り、その『本物の魔眼』から放たれる不可視の斥力で、迫り来る鉄の爪を次々と弾き返していった。火花が散り、衝突の轟音がシャフト内に木霊した。美咲は圭佑の背中にしがみつき、時雨は片腕をかばいながら、迫り来る危機を鋭い目で追っていた。
【シーンD:番人の絶望】
そして残り時間、十数秒。
エレベーターは最下層の床に激突し、凄まじい衝撃音と共に大破した。粉塵が舞い上がり、視界が遮られる。
粉塵の向こう、三人はついに地下深くのプラットフォームへとたどり着いた。そこには、ステルスカーボンで覆われた次世代軍用リニアモーターカー『ロンギヌス』が、禍々しい存在感を放ちながら鎮座している。そして、その行く手を塞ぐように、一人の女が静かに佇んでいた。
その顔は、若い女性の穏やかな表情を模した白磁の能面『小面』で覆われている。それは装着者の魂を喰らい、任務遂行のための人形へと人格を書き換える、呪われたアーティファクトだった。綾辻が自爆から逃れた場合の最後の保険としてこの場所に配置した最強の『掃除屋』。その体格は、時雨と瓜二つだった。漆黒の戦闘服が、その存在感を際立たせている。
「――白雨…!」
時雨が、絞り出すような絶叫を上げた。それは、長きにわたる呪いと、愛する姉への悲痛な叫びだった。
姉は、ただ静かに腰に差した黒い魔剣『魂魄剥離』に手をかけた。能面の奥から響く声は、感情の起伏を一切感じさせない、冷たい機械音声のようだ。
「…私の任務は、お前たちをここで180秒間、足止めすること。ただ、それだけだ」
次の瞬間、白雨の身体が陽炎のように揺らめき、彼女の背後から全く同じ姿をした二体の魂の分身が、音もなく現れた。その代償として、彼女自身の生命力が激しく削られていく様を、時雨の魂は痛いほどに感じ取っていた。
圭佑は美咲の手を強く握ると、覚悟を決めた時雨へと向き直った。
「――時雨。一体、頼めるか」
「…御意」
時雨は涙を意志の力で押し込め、自らの分身とも言える姉の影へと対峙する。その覚悟に呼応するように、圭佑の右手にあった『魂の剣』が静かに光の粒子となり、彼女の元へと飛んでいった。時雨の手に握られた瞬間、それは彼女の魂と共鳴し、純白の光を放つ『魂魄刀』へと姿を変えた。
圭佑は残る本体と、もう一体の分身をその『本物の魔眼』で捉えた。彼の左の瞳には、本体から分身へと伸びる魂のパスラインが、光の糸のように明確に視えていた。綾辻の仕掛けた呪いの構造が、丸裸にされる。
【COUNTDOWN: 015 SECONDS】
白雨の本体と分身が、完璧な連携で同時に襲いかかる。魔剣が唸りを上げ、空間を切り裂く。だが、王はただ静かに呟いた。
「――お前の攻撃は、届かない」
圭佑の右の瞳が斥力の波動を放ち、分身の刃を完璧に停止させる。コンマ一秒にも満たない、絶対的な静止。その隙を突き、彼は不可視の斬撃で、分身と本体を繋ぐ魂のパスラインを正確に断ち切った。それは、白雨の呪いを解き放つための、外科手術のような精密さだった。
「ぐ…っ!?」
能面の奥から、白雨本体の苦悶の声が漏れる。分身は陽炎のように霧散し、任務失敗を悟った白雨は、魔剣の切っ先を自らの喉元へと向けた。
「…任務、失敗。…存在価値、消滅…。廃棄シークエンス、実行…」
「姉さん、やめて!」
時雨が絶叫と共に駆け寄り、白雨が自決する寸前、その手から魔剣を叩き落とした。白雨の能面が、カラン、と音を立てて床に転がり、その下から、生気が失われた蒼白な素顔が露わになる。
「あなたは駒じゃない!」
もはや綾辻の計画も王の命令も、時雨の頭にはなかった。彼女は倒れ込む姉の身体を、ただ必死に抱きしめた。その体に残るかすかな温かさに、彼女は微かな希望を見出す。
「時雨!」
圭佑が叫ぶ。だが、もう時間はない。彼は美咲をロンギヌスの車内へ押し込むと、時雨と、彼女が離そうとしない白雨に向かって右手を突き出した。
「――来い!」
斥力とは逆の引力が二人を捉え、凄まじい力で宙を舞うように圭佑の元へ、ロンギヌスの中へと引きずり込んだ。車内に投げ込まれた二人は、シートに強く叩きつけられる。
【シーンE:弾丸の航路】
【COUNTDOWN: 001 SECONDS】
四人が車内にもつれ込むように転がり込んだ、まさにその瞬間。
【MELTDOWN】
世界が、音ではなく光に塗り潰された。メルトダウンのカタストロフは、綾辻の計画通り、天文学的な量のプラズマエネルギーへと変換され、マスドライバーシステムへと供給された。病院の地下深くから放たれたエネルギーは、地下都市全体を震わせるほどの衝撃波を生み出す。
「うわっ!?」
凄まじいGが四人の身体をシートに叩きつける。ジェットコースターの比ではない、人間が耐えうる限界を超えた加速。時雨の腕の中、意識が朦朧とした白雨が、能面の奥からか細い声で呟いた。
「…なぜ…私を…」「…お前は…逃げ…」
それは、呪いに支配された人形ではなく、妹を想う姉としての、魂の言葉だった。その声は、時雨の凍り付いた心に、微かな温かさをもたらした。
ロンギヌスは、爆炎に押されたのではない。線路そのものが強力な電磁石と化し、弾丸として車体を『虚数監獄・ロストエルサレム』の座標へと射出したのだ。
車窓の外、コンクリートのトンネルはもはや存在しなかった。空間そのものが捻じ曲がり、光の粒子が渦巻く亜空間のチューブが、彼らの唯一の道筋となっていた。無数の情報が光となって彼らの横を通り過ぎ、時間と空間の概念が曖昧になる。
これは脱出ではない。王を追放するための、魂を乗せた弾丸の発射シーケンスそのものだった。綾辻の目論見は、圭佑を永遠に虚数監獄に幽閉し、青龍を奪うこと。
残り、10秒。
亜空間のチューブの向こうに、空間が不規則にひび割れ、ノイズのように明滅する、禍々しい次元の裂け目が見えてきた。そこが、虚数監獄の入り口だ。
圭佑が覚悟を決めた、その時だった。
『――待って、圭佑くん! 様子が…おかしい! 航路が…!』
莉愛の絶叫と同時に、圭佑の『本物の魔眼』も異常を捉えた。弾頭である圭佑の魂が、覚醒した王の力に呼応し、綾辻の想定を遥かに超えるエネルギーを放ち始めたのだ。その力は、単なる「牢獄の扉を開ける鍵」のはずが、「扉も壁も全てを破壊する規格外の破城槌」へと変貌していた。王の魂の暴走が、次元の法則を歪める。
「しまっ…!」
圭佑が叫ぶ間もなく、ロンギヌスは次元の裂け目に衝突した。
だが、牢獄の扉が開く音はしなかった。代わりに響いたのは、世界そのものに亀裂が入るような、ガラスが砕け散る甲高い悲鳴だった。次元の壁が、王の力によって無理やり引き裂かれる。
綾辻が狙った座標は、ロストエルサレムという「点」しかし、王の魂がこじ開けたのは、その遥か下層、あらゆる次元の基底となる、神々でさえ踏み込むことを禁じられた領域。世界の法則が生まれる前の、混沌とした神話の源泉そのものだった。
ロンギヌスの車体が砕け散り、四人の身体は、光も闇も存在しない、絶対的な「無」の中へと投げ出されていく。皮膚を刺すような冷たさ、方向感覚を失わせる浮遊感、そして何もない空間に響く、自分たちの心臓の音だけが、彼らがまだ生きていることを示していた。
【エピローグ:女王代理の誓い】
アルカディアの司令室。
『圭佑くーーん!』
莉愛の悲痛な叫びが響き渡った後、モニター上の圭佑たちのシグナルは、完全にロストした。光の粒子となって消えていくシグナルが、莉愛の目に焼き付く。
絶望的な静寂。父・正人のバイタルを示すモニターは、依然として不安定なままだ。だが、莉愛は唇を強く噛み締め、涙を堪えた。泣いている暇などない。
軍師の目は、ロストした座標の周辺に残された、微弱なエネルギーの残滓を見逃さなかった。それは、既知のいかなるデータにも一致しない、神々しくも禍々しい、未知のパターンを示していた。古代のルーン文字のような情報が、彼女の深紅の魔眼に刻まれる。
彼らが飛ばされた場所は、もはや「牢獄」などという生易しい場所ではない。
意識が途切れる寸前、圭佑の魂は感じ取っていた。
ここは、あらゆる神話が、まだ名前を持たなかった時代。全ての伝説が生まれた「始まりの場所」
龍が「青龍」と呼ばれる前、鳥が「朱雀」と呼ばれる前の、原初の力が満ちる森。生命の鼓動が、大地から直接魂に響いてくるような、原始的なエネルギーに満ちた場所。
そして、圭佑の「王」の魂が、その場所に一つの形を与えていた。
傷ついた王が還り、癒しを得て、再び立ち上がるための、約束の地。
深淵神話領域、『アヴァロン』
それは綾辻が用意した鳥籠ではなく、王が自らの力で辿り着いた、最初の試練の地だった。
莉愛は、コンソールに表示された未知のエネルギーパターンを睨みつけ、静かに、しかし絶対的な決意を込めて呟いた。
「待ってて、圭佑くん。――必ず、迎えに行くから」
彼女の瞳には愛する者を救うための揺るぎない希望の炎が燃え盛っていた。
成り上がり~炎上配信者だった俺が、最強の女神たちと世界をひっくり返す話~ 浜川裕平 @syamu3132
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