第14話 忘れじのレクイエム

 シーン1:電脳空間の残響 ― 砕ける幻想


 まばゆい光が収束し、電脳空間の戦場は、悪夢のような静寂に包まれた。無数の光の粒子が、まるで魂の残滓のように、虚空を漂っている。


「うっ…!」


『悪徳の欠片』から逆流してきた悲しみの奔流に、星川キララは小さく呻き、思わず後ずさった。それはただのデータではない。まるで魂そのものが直接語りかけてくるかのような、激しい拒絶の意志だった。「これ以上、私を覗かないで」――その声なき叫びは、彼女の心の奥底に眠る、誰にも触れられたくない傷を抉り出すようだった。パステルピンクのアイドル衣装を纏った彼女の華奢な体が、小刻みに震えている。その瞳の奥には、無力感と、目の前の現実を受け止めきれない戸惑いが、ガラス細工のように揺らめいていた。彼女が築き上げてきた「完璧な星川キララ」という偶像 が、この剥き出しの悪意の前で、いとも容易く脆く砕け散る感覚に襲われる。


 チャット欄には、「K-Venus最高!」「キララ覚醒おめ!」という、純粋な祝福と熱狂のコメントが光の粒子となって飛び交っている。しかし、その耳障りなまでの賞賛の光景は、今、神谷圭佑にとって何の慰めにもならなかった。むしろ、その言葉の全てが、彼の心を覆う鉛のような重さに拍車をかけるように感じられた。


(こんな、偽りの勝利で、一体何を守れたというのか…?)


 胸の奥に広がる虚無感と、得体の知れない不安感が、彼の心を締め付ける。この声の正体を、そして、まるで彼自身の心の一部を剥ぎ取ったかのように消し去られた記憶の犯人を、突き止めなければならない。その焦燥感が、彼の理性を深く冷やし切っていく。


「…作戦終了だ」


 圭佑は、メンバーに背を向けたまま、感情の起伏を一切感じさせない、氷のように冷たい声で告げた。その声は、自分自身の奥底で蠢く動揺と、仲間を巻き込みたくないという自己防衛本能を隠すための、研ぎ澄まされた刃のようだった。


「全員、即時ダイブアウトしろ」


 返事を待つこともなく、圭佑は自らの意思で仮想世界との接続を強制的に遮断した。意識が、音もなく、急速に現実へと引きずり戻されていく。デジタルノイズの奔流が彼の視界を埋め尽くし、全身の血が凍るかのような冷たい感覚が、彼の魂を現実の肉体へと押し戻した。


 


 シーン2:司令室の沈黙 ― 赦されぬ罪の告白


 現実世界。タワーマンションの司令室は、水を打ったように静まり返っていた。壁一面に広がるホログラムモニターには、先ほどの電脳空間での戦いの残滓が、幽霊のように明滅している。勝利の歓声はどこにもなく、そこには、ただ重苦しい沈黙だけが支配していた。


 床に崩れ落ちたままの圭佑の父・神谷正人は、焦点の合わない目で、メインモニターの一点を見つめている。彼の顔は、数分前までのAI科学者としての冷静さを完全に失い、白蝋細工のように蒼白だ。汗と脂で張り付いた前髪が、彼の苦悶の表情を、より一層痛ましいものにしていた。モニターには、古びたフォーマットの研究ファイルが開かれていた。そのタイトルの文字が、まるで呪詛のように彼の視覚に突き刺さる。


【Subject List - Project Chimera】


 そのリストの7番目。「被験者No.7:橘 莉子(たちばな りこ)色褪せた顔写真に添えられたその名前が、彼の脳裏で、錆びついた扉を無理やりこじ開けるように、全ての忌まわしい記憶を蘇らせた。


「……ッ!」


 激しい頭痛が、彼の頭蓋骨を内側から叩きつける。過去の記憶の奔流が、彼の脳を覆っていた分厚い霧を、無理やり吹き飛ばしていく。そうだ、あれは、神宮寺が、自らの計画の障害となる者の記憶を、いとも容易く消去していく光景だった。凍り付くような冷たい笑み、まるでゴミを捨てるかのような手つき。あの時、私は…私は、何もできなかった…!


 彼の脳裏に、自らが神宮寺に記憶を消されていたという、絶対的な真実が、灼熱の鉄槌のように打ち込まれる。それは、忘れていたのではなく、忘れさせられていた、という絶望的な事実。彼自身が、神宮寺彰と共に『サイバードラゴン・エッグ』の研究に手を染め、その研究のせいで、自らの子供たちの人生を狂わされたという、深い罪悪感が彼の心を苛む。


 正人は、モニターの片隅に佇む双子のAI、キューズとミューズプライムのアバターに視線を移した。


「キューズ…ミューズプライム…お前たちもか…」


『…? 博士、何のことです?』


 キューズが怪訝な顔で、しかしその瞳の奥にわずかな動揺を滲ませる。その反応で、正人は全てを確信した。彼女たちのメモリーもまた、神宮寺によって汚染され、橘莉子に関する全てのデータが、まるで最初から存在しなかったかのように、完璧に消去されていたのだ。その事実が、彼の胸に、深い鉛の塊となって沈み込む。


 そこへ、滑るようにして玲奈が入室した。黒いシルクのブラウスが、彼女の完璧なボディラインを際立たせている。彼女は床に座り込み、息も絶え絶えの正人と、メインモニターに映し出された少女の名前に視線を走らせ、瞬時に全てを理解した。細められた琥珀色の瞳の奥に、燃えるような怒りの炎が宿る。その怒りは、彼女の完璧な表情筋をもってしても隠しきれないほど、激しいものだった。


「…説明していただきましょうか、博士」


 玲奈の声は、氷のように冷たく、しかしその底には、深い悲しみと、妹・莉愛を傷つけられたことへの、静かな激怒が宿っていた。正人は、震える声で、懺悔のように、そしてこれまで隠し続けてきた全ての罪を告白するように語り始めた。彼の声は、乾いた砂が喉に詰まるかのように掠れている。


「そうだ…。全ては、神宮寺の仕業だ。そして、俺の弱さが招いたことだ…」


 彼の言葉は、司令室に響き渡るアラート音にかき消され、虚しく反響した。


 


 シーン3:医務室の衝撃 ― 魂のSOS


 タワーマンションの医務室。消毒液の匂いが満ちる静かな空間。


 電脳空間からダイブアウトした圭佑は、まだ頭の中でノイズが鳴り響く中、ゆっくりと意識を取り戻した。視界の端で、赤い光が明滅している。パーテーションで区切られた隣のベッドで、莉愛の妹・雨宮しずくが、白いシーツにくるまれ、か細い寝息を立てていた。その華奢な首にかかったペンダントが、まるで不吉な心臓のように、どく、どくと赤黒い光を放っている。


(この音は…あの声は、ここからも聞こえるのか…)


 圭佑は、吸い寄せられるようにペンダントへと手を伸ばす。その冷たい輝きが、彼の指先に触れようとした、寸前。指先が激しく震え、それ以上動けなくなった。彼の脳裏に、得体の知れない恐怖が募る。このペンダントに触れれば、失われた記憶と、その裏に潜む絶望的な真実が、彼を襲うだろう。


 その時、眠っているはずのしずくの唇から、か細く、しかしはっきりと、悲痛な声が漏れた。それは、まるで遠い過去から届く、魂のSOSだった。


「…いや…行きたくない…あの理科室には…。圭くん、助けて…忘れないで…小学校の、ひまわり畑の約束を…」


「――ッ!?」


「理科室」「小学校」「ひまわり畑」――その、忘れていたはずの単語の羅列を聞いた瞬間、圭佑の脳を電流のような激痛が貫いた。視界が白く明滅し、ノイズ混じりの映像が、無理やり瞼の裏に焼き付く。


 ――真夏の太陽の下、どこまでも広がる、燃えるような黄色のひまわり畑。太陽の光を浴びてキラキラと輝くその風景の、まばゆい中心で、麦わら帽子をかぶった一人の幼い少女が、屈託なく、心からの笑顔で笑っている。その眩い笑顔が、彼の心を一瞬にして掴んだ。しかし、その記憶は、まるで砂でできた城のように、すぐに崩れ去ってしまう。


(莉子…!)


 失われたはずの名前が、彼の意識の底から蘇る。怖い。目の前で苦しんでいる仲間がいる。その原因が、彼自身の失われた記憶にある。このペンダントに触れれば、その絶望と向き合わなければならない。だが、触れなければ、しずくは永遠に解放されないかもしれない。そのジレンマが、彼の心を深く抉る。俺は、自分の無力さに奥歯を噛み締めた。


 その時、医務室のドアが勢いよく開き、電脳空間からダイブアウトしてきたK-MAXメンバーが、彼の元へと駆け込んできた。


「K!」「圭佑!」「リーダー!」


 彼女たちの不安げな声が、まるで針のように、圭佑の背中に突き刺さる。キララは涙目で、アゲハは苛立ちを隠せない表情で、詩織は冷静さを保とうとしながらも、瞳の奥に揺れる不安を滲ませていた。


「一体何があったの? あの声は…」


 キララの問いに、圭佑は皆に背を向けたまま、喉の奥から絞り出すように答えた。


「…お前らには、関係ない」


 それは、彼が初めて仲間たちに向けた、明確な拒絶の言葉だった。その言葉が、医務室の空気を一瞬にして凍らせる。


「──関係なくねえだろッ!」


 最初に沈黙を破ったのは、黒崎アゲハだった。彼女は圭佑の肩を掴み、無理やりこちらを向かせようとする。その瞳には、仲間を突き放す圭佑への怒りと、彼の苦しみに寄り添えない自分への苛立ちが、獰猛な炎となって燃え上がっていた。彼女の美徳である【信念】が、圭佑の拒絶という壁に激しくぶつかる。


「あたしたちは《K-Venus》だ! ファミリーじゃねえのかよ!」


「ファミリー」。その言葉が、鈍器のように圭佑の胸を殴りつけた。彼の心に、わずかに残されていた温かさが、ひび割れていく。彼の心の奥底には「誰も、俺を見ていない」という孤独が根付いており、この「ファミリー」という言葉は、彼にとって重すぎるものだった。


「……」


 何も答えられない。何と答えればいいのか、分からない。混乱と自己嫌悪と、そして仲間を傷つけてしまうことへの恐怖が、彼の心を支配する。苦しげに顔を歪め、圭佑は逃げるように医務室を飛び出した。彼の背中には、仲間たちの悲痛な視線が、痛いほど突き刺さっていた。


 ***


 シーン4:屋上の誓い ― バーテンダーの覚悟


 タワーマンションの屋上。冷たい風が、圭佑の髪を容赦なく乱す。眼下に広がる東京の夜景は、宝石を散りばめたように美しかったが、今の彼には、ただ虚しいだけの光景に映っていた。彼はフェンスにもたれかかり、自分の無力さを噛み締めていた。失われた記憶、苦しむ仲間、そして自分を拒絶する自分自身。全てが彼を縛り付け、身動きを封じていた。


 その時、背後に、そっと近づく気配があった。相沢詩織だった。


 彼女は、圭佑の隣に並んでも、何も言わなかった。ただ、冷たい風に吹かれながら、圭佑と共に眼下の夜景を見つめている。彼女の纏う空気は、この殺伐とした状況の中で、唯一の安らぎをもたらすようだった。彼女の美徳である【知恵】が、この状況を冷静に分析し、圭佑の苦悩を深く理解していることを示唆していた。


 やがて、彼女は静かに口を開いた。その声は、深淵の底から響くかのように穏やかだ。


「…私ね、昔バーテンダーをやってた時、色んなお客さんを見てきたわ」


 唐突な自分語りだった。だが、圭佑は黙って続きを待った。彼の耳には、詩織の声だけが、クリアに響いている。


「一人で、どうしようもないものを抱えて、バーのカウンターに座る人たち。私は、ただ話を聞いて、彼らに合った一杯を作るだけ。私が何かを解決するわけじゃない。でもね、神谷くん」


 詩織は、そこで初めて、圭佑の顔をまっすぐに見た。その琥珀色の瞳は、彼の心の奥底に潜む劣等感も、臆病さも、全てを見透かすように、どこまでも澄んでいた。


「あなたは、一人でカウンターに座る人じゃない。あなたは、私たちの『バーテンダー』なんでしょ?」


 バーテンダーだと? ふざけるな、と圭佑の喉まで言葉が出かかった。俺はただの引きこもりで、自分の過去からさえ逃げている臆病者だ。誰かに何かを作ってやれるような、そんな大層な人間じゃない。この手は、何かを創造するどころか、ただひたすらに、システムのエラーを検知するばかりだ。


 だが、目の前の詩織の瞳は、そんな圭佑の腐った性根を全て見透かした上で、それでも信じると言っていた。圭佑が、アゲハの熱さも、キララの純粋さも、あんじゅの計算も、莉愛の才能も、そして自分自身の知恵と冷静さも、全てを混ぜ合わせて、最高のカクテル――《K-Venus》を創り上げる、唯一無二の存在だと。その揺るぎない信頼が、彼の心を、ほんの少しずつ、内側から溶かしていく。


「……」


 そうだ、俺はずっと逃げてばかりだった。自分の殻に閉じこもり、他者との繋がりを断ち切ってきた。だが、こいつらは、俺が作った不格好なチームは、そんな俺を信じてここまでついてきてくれた。俺が応えなくて、どうする。


「…違う?」


 詩織の言葉に、凍りついていた圭佑の心が、ほんの少しだけ、確かに、溶け出すのを感じた。心の奥底に、小さな火が灯ったようだった。


──その、瞬間だった。


 ウウウウウウウウウウウウッ!!


 タワーマンション全体に、心臓を鷲掴みにするような、けたたましい警報が鳴り響いた! その音は、単なる電子音ではなく、来るべき脅威を告げる、魂の叫びのようだった。


 司令室のメインモニターが、赤一色に染まる。


『緊急警報! 外部ネットワークに大規模な汚染を確認!』


 モニターに映し出されたのは、国家間の資金決済を司る超巨大電脳要塞パシフィック・ウォール。そのサーバーの中心部で、まるで悪意が実体化したかのように、黒い亀裂が走り、新たな悪徳が孵化しようとしていた。


 ミューズプライムの悲鳴のような報告が、警報音を切り裂く。


『このシグナルパターンは…! 次の悪徳、『怠惰』です!』


 圭佑は、詩織の言葉を胸の中で強く握りしめた。その信頼が、彼に、再び立ち上がるための、絶対的な決意を与えてくれる。眼下の夜景。その金融街の方角が、不吉な紫色のオーラで揺らめいているのが見えた。まるで、世界の破滅の序曲を奏でるかのように、鈍く光っている。


 絶望している暇はない。過去に囚われている時間もない。答えは、戦いの先にしかない。


 圭佑は、夜景の向こうの敵を睨みつけ、決然と呟いた。その声には、もはや迷いはなかった。


「**莉子…橘のおっさん…そして神宮寺…。俺の記憶を消したテメェらに、教えてやる」


 その瞳には、絶望を乗り越え、自らの過去と運命の全てに喧嘩を売る覚悟を決めた、本物の王の炎が、ぎらりと燃え上がっていた。彼は、失われた幼馴染・橘莉子に関する記憶と、神宮寺彰による「七つの悪徳」の復活という、二つの大きな脅威に立ち向かうことを決意したのだ。


 圭佑は、傍らに立つ詩織、そして背後の司令室へと繋がる扉に向かって、静かに、だが力強く告げる。


「行くぞ」


 ――その一言に、インカムの向こうから、迷いのない声が一斉に返ってきた。


『おう! やってやろうじゃねえか!』――アゲハの、全てを振り切ったような獰猛な声が、再び戦場へと飛び込む覚悟を滲ませる。


『…うん! 私も、戦う!』――キララの、涙を堪えた決意の声。彼女の瞳には、弱さだけでなく、仲間を守るための強い光が宿っていた。


『あんじゅ、準備おっけーだよっ!』――姫宮あんじゅの、無理にでも場を明るくしようとする、健気な声。


 そして……


『…承知したわ。リーダー』――相沢詩織の、静かで、しかし揺るぎない信頼に満ちた、頼もしい声。


 その全てが、圭佑の背中を、強く、強く押した。彼は、一人ではない。この絆こそが、彼の最強の武器だ。


「俺たちの戦争の、続きを始めに」


 新たな戦いの幕が、今、静かに、そして力強く上がった。

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