一歩踏み出すには二歩必要。
京都に呼ばれて京都に向かっている途中、京都に呼んでくれた人から「やっぱり怖くなったのでやめます」と連絡が届き、俺の交通費はどうすればいいのだと思ったら連絡が途絶え、京都駅に着いた段階で所持金が千円になった。罠だったのか。それとも、本当に怖くなってしまったのか。会った人から「もっと怖い人だと思っていました」と五億回は言われた。別に怖くはないけれど、怖いだろうなとは思う。知らない人に会う時は怖い。
一歩踏み出すには二歩必要なのだと思う。身体的な一歩と、精神的な一歩が合わさった時、はじめて「一歩を踏み出した」と言えるのだと思う。好きな人に告白をする時、会いたいと連絡をするのは身体的な一歩。だが、それだけではゴールをしたことにはならない。会うのはスタート。ゴールは「好きだ」と伝えること。精神的な恐怖を乗り越えて、好きな人に勇気を出して好きだと言った時、はじめて「一歩を踏み出した」と言えるのだと思う。やりたいことをやる時は怖い。時には、死んでしまいそうになるほどの恐怖を感じる。私たちは、一体何を恐れているのだろうか。おそらく、アイデンティティを失うことだと思う。大事にしていたものを失う時、私たちは別人になる。
私を怖いと言う人は、自分が怖いのだと思う。自分が別人になってしまうことが怖いのだと思う。見透かされそうで怖いと頻繁に言われる。見透かされたくない思いがあることを、多くの人が自覚している。何かを隠しながら生きるのは辛い。重荷を背負いながら生きるのは辛い。だが、私はこんなにも重いものを持つことができるのだと、自分の強さを示すこともできる。重荷を背負っている人は、重荷が、その人の所有物になっている。だから、たとえそれらが自分を苦しめるものであっても、失うことを恐れる。重荷を失うことは、自分の強さを示すものを失うことであり、自分を失うこと、アイデンティティを失うことになる。
最大の執着とは、アイデンティティだと思う。アイデンティティを解き放つことが自由だと思う。怒りや悲しみを溜め込むと、怒りや悲しみが自分になる。本来はただの入れ物が、別の物になる。怒りや悲しみを溜め込むと、人間が怖くなる。自分は愛されない人間だとか、自分には何もないとか、私なんかの話に時間を使わせてしまって申し訳ないとか、自分が我慢をすればいいのだとか、自分が自分を軽く扱うようになり、自分が自分を許せなくなり、他人に許可を求めるようになる。自分を許していないのは、他の誰でもない、自分自身。自分を許せるのは、自分しかいない。他者に許可を求めても、本質的な許しにはならない。
一歩踏み出すには二歩必要なのだと思う。他者と関わることには大変なエネルギーが必要だから、自分の中に閉じこもっている方が楽だ。だが、一度自分の中に閉じこもってしまうと、過去の辛かった出来事や自分自身のコンプレックスが渦を巻き、体と心をじんわりと蝕んで行く。それは、何処にも出て行かないから危険。特別なことをやろうとしなくていい。ほんの一歩だけでいいから、外に出る。希望は外にある。身体的な一歩を踏み出すと、精神的な一歩が見えてくる。曖昧な言葉で自分をごまかしたり濁したりするのではなく、精神的な一歩を踏み出して行く。自分を許して、自分に自由を与える。自分自身を溶かして行く。
おおまかな予定
8月28日(木)京都府京都市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


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