2年半ほど前、型破りの私小説作家、西村賢太さんが亡くなり、大きく報道された。それ以来、自らの暗部をさらけ出す西村さんの、本音丸出しの世界にはまっている。
この文庫は西村さんが私淑した田中英光の作品から厳選した珠玉の6編が収められている。西村さんが巻末に書いた解題が興味深い。
太宰治に師事し、その墓前で自ら命を絶った田中の作品を西村さんが知ったのは19歳の時。それまで純文学は肌が合わなかったというが、田中を読んで「〝私小説〟に開眼させられた」と書いている。ここで太宰-田中-西村とつながる無頼派作家の系譜に思いが及ぶ。
田中の代表作「オリンポスの果実」の舞台は1932年のロサンゼルス五輪。ボート競技のクルーの一員として参加した田中自身の体験に基づく作品である。ボート選手の主人公が走り高跳びの女子選手への一途な片思いを後に回想するスタイルで物語は進む。
当時、アメリカは遠い。選手団は横浜港から船で向かった。その間は船が練習場所だ。やり投げの選手は紐をつけたやりを海に向かって投げて練習している。五輪本番より船内の描写が印象的で汗と若さのにおいがぷんぷんした。
「ラブレタア」「スポオツ」「聖林(ハリウッド)」などの表現に時代を感じるが読みにくさはない。すんなりと作中世界に没頭できた。国際情勢に不穏な空気が漂う中、つかのまの晴れやかな青春の発散が心地よい。「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか」。一方で文末の呼びかけは切なかった。
遺書とも思われる小説「さようなら」は太宰の絶筆「グッド・バイ」と重なるだろう。西村さんがほれ込んだ作品にハズレはない。
広島県福山市 早川邦夫(71)
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