Xで読めるホラー小説
鳥居の向こう
その日も、うだるような夏の昼下がりだった。
サラリーマンとして外回りの営業に追われ、汗がスーツに染み込んでいた。
住宅街を歩きながら、喉の渇きに耐えかねて自動販売機で冷たい飲み物を買おうとしていた。
ふと、視界の端に赤い鳥居が映った。
「ちょうどいいや。少し休もうか」木陰が広がる神社の境内は、こんな暑い日にはオアシスのように思えた。鳥居まであと30メートルほど。
足を向けた瞬間、異変が起きた。
目の前が、まるで古い映画のフィルムのように白黒に変わった。
「ダメだ。ダメだ。絶対に入るな。入ったら死ぬ。戻れ、戻れ、ダメだ、ダメだ!」頭の中で、自分の声がけたたましく響いた。
まるで誰かが、否、自分自身が必死に警告しているかのようだった。
背筋を冷たい汗が伝う。足がすくみ、動けなくなった。
鳥居の向こうは、依然として白黒の世界。そこだけ時間が止まっているように見えた。
「……やめとこう」直感に従い、踵を返した。
心臓が早鐘のように脈打っていた。
仕事に戻りながらも、頭の片隅でその神社が気になって仕方なかった。
夕方、17時を過ぎて営業が終わると、いてもたってもいられなくなった。
車に乗り込み、あの神社をもう一度探しに行った。住宅街をぐるぐると回るが、どこにもそれらしい場所はない。
赤い鳥居も、木陰の境内も、まるで最初から存在しなかったかのように。
地図アプリを開いてみた。周辺に神社の記載は一切ない。いや、それどころか、この町に神社が一つもないのは不自然だった。
こんな住宅街なら、どこかに小さな祠くらいはあるはずだ。ふと、昼間の記憶をたどる。
平日の日中だというのに、あの通りには人影がなかった。犬の遠吠えも、子供の声も、車の音さえも聞こえなかった。
あの時、鳥居までの道のりを歩いていたのは、まるで自分一人だった。
「そういえば……あの町、昔から変な噂があったな」地元では「神隠しの町」と呼ばれていることを思い出した。
失踪事件が何件も起きているという。都市伝説の類だと思っていたが、今となっては妙に現実味を帯びてくる。
助手席に座る後輩が、不安げに声をかけてきた。「先輩、どうしたんですか?なんか、顔色悪いっすよ。何かあったんですか?」後輩の目は、まるで何か異様なものを見つけたかのように揺れていた。
自分でも気づかないうちに、どんな表情をしていたのだろう。鏡を見ていないのに、顔が青ざめているのが分かった。
「いや、なんでもない。ちょっと気になった場所があってさ」そう言って誤魔化したものの、胸の奥に冷たい塊が居座っていた。
あれから何年も経つが、毎年夏になるとあの日のことを思い出す。
あの鳥居の向こうに何があったのか。白黒の世界の先に何が待っていたのか。
考えるだけで背筋が凍る。そして、時折、ふとした瞬間に感じるのだ。
あの神社がまだどこかで自分を呼んでいるような、かすかな囁きを。
もう二度と足を踏み入れてはいけない――そう警告する声が、頭の奥で響き続ける。
これは実体験です。