突然の不幸
今日、突然ド派手な下痢をした。ポッコリ下腹部が半分減った。傷んだものを食べた覚えもないし、突然のことで訳が分からない。今日こそはプールに行こうと思っていたが、行かないで良かった。身体が疲れた後にあの下痢を食らっていたらと思うと、自分の判断に感謝しかない。
そんな中でも母宛に見舞い記録とお盆の写真をレターパックに詰めて投函した。昨日家電量販店で写真を大量にプリントしてきていて良かった。遅くとも明後日には母の手元に届く。これで今回の帰省も一区切りだ。
ああ、だるい。体に力が入らん…。
そんな中でも母宛に見舞い記録とお盆の写真をレターパックに詰めて投函した。昨日家電量販店で写真を大量にプリントしてきていて良かった。遅くとも明後日には母の手元に届く。これで今回の帰省も一区切りだ。
ああ、だるい。体に力が入らん…。
自分の「生」を生きる
彼は"仕事の行き詰まりを解消したい"と思い、そのために私に導いて欲しいと思っている。
彼が行き詰まるのは、彼が自分の「生」を、実感を持って生きていないからだ。事が動くには様々な段取りが必要で、それを沢山の人間が果たしている。彼の仕事は「方向性を示す」もしくは「旗頭としてイメージを強化する」程度に今は制限されていて、そのために彼は自分の仕事の「手ごたえ」を感じることが出来ていない。本当は毎日の生活も「大切に味わいながら過ごす」ことが出来るものだけれど、”自分の価値は地に足のつかない「ひらめき」にある”と誤解しているために、日常を大切に慈しむことが出来ていない。
私が彼に出来ることは何だろうか。多分こういうことだ。一緒に旅行するなら行先選択の意図(何を目的にしていくか)、一緒に行く相手に何を感じて欲しいかといった企画段階から、宿泊先選択、交通連絡の段取り、といった全部を、企画者がどちらになるかで交代しながら、企画者が全て手配する。そしてその結果、意図はどのように果たされて、相手の心に狙ったように響いたかを観察する。今までスタッフに細かい段取りを全部やってもらっていた結果、彼は少しの苦労もなく旅行し、その分充実度も自分で段取りした旅行の上澄み程度しか感じていなかっただろう。
自分の生を生きる。充実度は体験の量に比例する。他人に肩代わりをさせるほど、「自分の生」は軽くなる。
彼が行き詰まるのは、彼が自分の「生」を、実感を持って生きていないからだ。事が動くには様々な段取りが必要で、それを沢山の人間が果たしている。彼の仕事は「方向性を示す」もしくは「旗頭としてイメージを強化する」程度に今は制限されていて、そのために彼は自分の仕事の「手ごたえ」を感じることが出来ていない。本当は毎日の生活も「大切に味わいながら過ごす」ことが出来るものだけれど、”自分の価値は地に足のつかない「ひらめき」にある”と誤解しているために、日常を大切に慈しむことが出来ていない。
私が彼に出来ることは何だろうか。多分こういうことだ。一緒に旅行するなら行先選択の意図(何を目的にしていくか)、一緒に行く相手に何を感じて欲しいかといった企画段階から、宿泊先選択、交通連絡の段取り、といった全部を、企画者がどちらになるかで交代しながら、企画者が全て手配する。そしてその結果、意図はどのように果たされて、相手の心に狙ったように響いたかを観察する。今までスタッフに細かい段取りを全部やってもらっていた結果、彼は少しの苦労もなく旅行し、その分充実度も自分で段取りした旅行の上澄み程度しか感じていなかっただろう。
自分の生を生きる。充実度は体験の量に比例する。他人に肩代わりをさせるほど、「自分の生」は軽くなる。
「引き寄せの法則」考
「引き寄せの法則」って知ってる?
「強くイメージしたことが現実になる」っていうアレですよ。数年前、私は「素敵な彼氏をゲットして結婚したい」と願い、彼は愛情深くて面倒見が良くて努力家で向上心があって、とか色々イメージしてみた。それから早数年。つい先日、「私、結婚ルートに乗ってるのでは?」と思った時、「じゃあかつて願ったことを”引き寄せ”たのかな?」と考えてみた。かつて願ったこと。"一緒に旅行に行きたいなあ”とか、”母にウェディングドレス姿を見せてあげたいなあ”とかいった望みが現実化するのだろうか?
しばらく考えてみて、「するな」と思った。というのは、彼が自分では何をどうしたら私を喜ばせるのか分からないからだ。だから私が望みを口にすれば多分、望みは全部現実になるだろう。でもそれって、「引き寄せた」ことになるのかな?
”引き寄せの法則”ってそういうものだっけ?
分からないけれど、帰省して気付いたことがある。未来を「暗くなる」と決めつけていれば未来は暗くなる。明るくなると決めつけていれば明るくなる。「不可知」な事柄の方向性だけは自分が既に決定している。結果がどうもたらされるかの過程はコントロール不能で、思いもよらないものがきっかけで思いもよらない方向へ転がっていく。
決めつけてやる。未来は明るい。私は「結婚ルート」に乗っている。彼が私を喜ばせる方法を知らないのは、彼が彼自身を満たす方法を知らないからだ。その結果、彼は私が描くイメージに乗るしかなくなる。そんな話をすれば彼はこう言うのかな。
-ぼ、僕だって君を喜ばせる方法くらい知ってる。〇〇するとか××するとか。
-それ私が前に言ってたことだよね?
まあゼロから相手の望みを推し量るなんて難易度高すぎるよね。・・・「引き寄せの法則」って実はそういう意味だった? 望め。言っとけ。全部現実になるから。
"僕ばっかり君の望みを叶えてて不公平だ"と彼が言うかもしれない。だから言ってみて、貴方の望みを。分からないでしょう。自分が本当は何を望み、何をしたいと切望しているのか。自分の魂と向き合って、望みを前に出さないと。
「強くイメージしたことが現実になる」っていうアレですよ。数年前、私は「素敵な彼氏をゲットして結婚したい」と願い、彼は愛情深くて面倒見が良くて努力家で向上心があって、とか色々イメージしてみた。それから早数年。つい先日、「私、結婚ルートに乗ってるのでは?」と思った時、「じゃあかつて願ったことを”引き寄せ”たのかな?」と考えてみた。かつて願ったこと。"一緒に旅行に行きたいなあ”とか、”母にウェディングドレス姿を見せてあげたいなあ”とかいった望みが現実化するのだろうか?
しばらく考えてみて、「するな」と思った。というのは、彼が自分では何をどうしたら私を喜ばせるのか分からないからだ。だから私が望みを口にすれば多分、望みは全部現実になるだろう。でもそれって、「引き寄せた」ことになるのかな?
”引き寄せの法則”ってそういうものだっけ?
分からないけれど、帰省して気付いたことがある。未来を「暗くなる」と決めつけていれば未来は暗くなる。明るくなると決めつけていれば明るくなる。「不可知」な事柄の方向性だけは自分が既に決定している。結果がどうもたらされるかの過程はコントロール不能で、思いもよらないものがきっかけで思いもよらない方向へ転がっていく。
決めつけてやる。未来は明るい。私は「結婚ルート」に乗っている。彼が私を喜ばせる方法を知らないのは、彼が彼自身を満たす方法を知らないからだ。その結果、彼は私が描くイメージに乗るしかなくなる。そんな話をすれば彼はこう言うのかな。
-ぼ、僕だって君を喜ばせる方法くらい知ってる。〇〇するとか××するとか。
-それ私が前に言ってたことだよね?
まあゼロから相手の望みを推し量るなんて難易度高すぎるよね。・・・「引き寄せの法則」って実はそういう意味だった? 望め。言っとけ。全部現実になるから。
"僕ばっかり君の望みを叶えてて不公平だ"と彼が言うかもしれない。だから言ってみて、貴方の望みを。分からないでしょう。自分が本当は何を望み、何をしたいと切望しているのか。自分の魂と向き合って、望みを前に出さないと。
伯母たちの見舞い2508-2
帰京する日の朝、「眠れない」と言う母と話した。私の方も午前2時に目が覚めて、新幹線に乗って帰るだけの日なので、別に焦って寝直す必要もなかった。
「お母さんは"もっと年を取ったらホームに入らないと"とか、”未来は自分が望むようにはならない”って決めつけてるよね。でも未来はいつだってどうなるか分からないんだよ」と私は言った。
「T美叔母さんが認知症でホームに入って2年位、お母さんは見舞いに行かなかったよね。S子叔母さんもそうだったし、S子叔母さんは未だに見舞いに行ってない。あの時あのまま、お母さんもずっと”見舞いに行かない”って選択肢もあった。もしそうしてたら今頃、どうなっていたと思う?」
「私はこんなに頻繁に帰省してないし、従兄がお母さんに声をかけて見舞いに引っ張り出したりすることもないし、今よりずっと孤独で、暇な毎日を過ごしてたと思うんだよね。そうだとすればお母さんだって早々にボケて、行きたくなくてもホームに行っていたかもしれない」
あの時「見舞いに行こう」ってお母さんが決意したから、私が動いて、それに義姉も協力して動いてくれて、従兄も動いてくれて、今は兄や姪っ子たちだって運転したり気にかけていたりしてくれる。大勢の人が見舞いのために動いてくれて、走ってくれて、集まってくるようになったよね。未来がこんな風になるなんて、「見舞いに行くのが怖い」って言っていたあの時は想像もしてなかったんじゃない?
そう言うと母は、「あんたと話すと何かほんとに気が大きくなるなあ」と呟いた。「確かに、お前が動いてくれるようになってから、それに引っ張られるみたいに皆が動いてくれるようになった」
「だから未来は常に”わからない”んだよ。お母さんは”暗いものになる”と決めつけているけど、H男(甥)も結婚して新しい人間関係が生まれて、そこからまた思いもよらない関係性が生まれて、その関係性が思いもよらないものをもたらしてくれるかもしれない。H男だけじゃなく私だって、結婚をまだあきらめてないしね。お母さんは”見舞いで精一杯”なんて言ってるけど、ひょんなことから”海外旅行に行こう”なんて誘われるようになるかもしれない。どんどん、どんどん明るい方へ、可能性が転がっている感じがしない?」
そんな風に話し込んだ結果、私は折角治りかけていた喉を枯らすことになったのだった。自宅に帰ってきた後で、"従兄が私にアプローチをかけてくるのも同じなんだよなあ"と思った。母と同じく従兄も、”自分の未来はホームに入って誰にも気にかけてもらえず死んでいくんだ”と、勝手に自分の未来を暗いものに決めつけている。それが怖くて、手近な独身女にすがりそうになっている。けれど未来はまだまだ分からない。そのことを私が身を持って証明して見せたら、従兄は何て言うだろうか。「お前、その年でよくやったな、天晴だ」と言ってくれるだろうか。そして伝えたい。年齢が全てじゃないと。
人が人と交流する時、その輪は他の輪とまた触れ合って、思いもよらない形の輪を作り出す。未来がどんな形の輪になるかは、常に「不可知」だ。
「お母さんは"もっと年を取ったらホームに入らないと"とか、”未来は自分が望むようにはならない”って決めつけてるよね。でも未来はいつだってどうなるか分からないんだよ」と私は言った。
「T美叔母さんが認知症でホームに入って2年位、お母さんは見舞いに行かなかったよね。S子叔母さんもそうだったし、S子叔母さんは未だに見舞いに行ってない。あの時あのまま、お母さんもずっと”見舞いに行かない”って選択肢もあった。もしそうしてたら今頃、どうなっていたと思う?」
「私はこんなに頻繁に帰省してないし、従兄がお母さんに声をかけて見舞いに引っ張り出したりすることもないし、今よりずっと孤独で、暇な毎日を過ごしてたと思うんだよね。そうだとすればお母さんだって早々にボケて、行きたくなくてもホームに行っていたかもしれない」
あの時「見舞いに行こう」ってお母さんが決意したから、私が動いて、それに義姉も協力して動いてくれて、従兄も動いてくれて、今は兄や姪っ子たちだって運転したり気にかけていたりしてくれる。大勢の人が見舞いのために動いてくれて、走ってくれて、集まってくるようになったよね。未来がこんな風になるなんて、「見舞いに行くのが怖い」って言っていたあの時は想像もしてなかったんじゃない?
そう言うと母は、「あんたと話すと何かほんとに気が大きくなるなあ」と呟いた。「確かに、お前が動いてくれるようになってから、それに引っ張られるみたいに皆が動いてくれるようになった」
「だから未来は常に”わからない”んだよ。お母さんは”暗いものになる”と決めつけているけど、H男(甥)も結婚して新しい人間関係が生まれて、そこからまた思いもよらない関係性が生まれて、その関係性が思いもよらないものをもたらしてくれるかもしれない。H男だけじゃなく私だって、結婚をまだあきらめてないしね。お母さんは”見舞いで精一杯”なんて言ってるけど、ひょんなことから”海外旅行に行こう”なんて誘われるようになるかもしれない。どんどん、どんどん明るい方へ、可能性が転がっている感じがしない?」
そんな風に話し込んだ結果、私は折角治りかけていた喉を枯らすことになったのだった。自宅に帰ってきた後で、"従兄が私にアプローチをかけてくるのも同じなんだよなあ"と思った。母と同じく従兄も、”自分の未来はホームに入って誰にも気にかけてもらえず死んでいくんだ”と、勝手に自分の未来を暗いものに決めつけている。それが怖くて、手近な独身女にすがりそうになっている。けれど未来はまだまだ分からない。そのことを私が身を持って証明して見せたら、従兄は何て言うだろうか。「お前、その年でよくやったな、天晴だ」と言ってくれるだろうか。そして伝えたい。年齢が全てじゃないと。
人が人と交流する時、その輪は他の輪とまた触れ合って、思いもよらない形の輪を作り出す。未来がどんな形の輪になるかは、常に「不可知」だ。
伯母たちの見舞い2508-1
お盆で帰省したのを機に、90歳の伯母と認知症を患う80歳の叔母の見舞いに行ってきた。先に行ったのは伯母の方で、従兄の提案で伯母を連れて今年頭に亡くなった伯父が眠る彼らの墓にも手を合わせてきた。ホームで面会した時には反応が鈍く、写真を見せても反応が薄かった伯母だったが、後から聞いた話では面会直前まで寝ていたそうで、車越しの墓参り(車から降ろすことはできないので)の途中あたりからしゃっきりしてきた様子だった。
従兄はホームの人の手を借りて、伯母を車に乗せお墓参りに連れ出したが、その乗り降ろしには苦労したらしい。「下手に力を入れると骨が折れそう」と思いながら(実際伯母はちょっとしたことで背骨を骨折、車椅子を余儀なくされている)の作業で、「来年からは出来ないかも」と言っていた。そこで「車椅子ごと車に乗せられる車があるみたいなんで調べてみる」と言った。そんな機能を持っている車があるそうで、もしそれが可能なら車椅子に乗っている人なら車に乗せて連れ出しが出来ることになる。伯母だけでなく母や他の姉妹のためにも、その介護車の導入を前向きに検討して欲しい、と強く背中を押しておいた。そんな車を導入するには幾らくらいかかるのか。介護保険や何らかのサポートを使ってリーズナブルに導入することはできないか。そうした一連の情報は兄夫婦にも役に立つだろう。
翌日は、認知症でホームに入所しているT美叔母の見舞いに行った。見舞いの日程をホームに連絡した時に、「叔母の現状の説明をお願いしたい」と電話で伝えていたが、大丈夫だろうか。予め義姉にお願いしていた花は、差し色にオレンジ色が入った見ているだけで元気が出そうな花束だった。
ホームに着いて部屋に入ると、叔母は前回のように笑顔を見せてはくれなかったが、少し気難しい顔で母の、「○○だよ、分かるか」という問いかけにも「分かるに決まってるじゃん」とでも言いたな表情で「分かるよ」と言った。前回(6月末)と違って涎対策の口元のタオルが無い。前回はちょくちょく涎が垂れていたが、今はそうしたことが無くなっている。どこか痛むのか足を小刻みに動かしている。母が「どっか痛いのか、」と声を掛けるがそれについては何も答えなかった。痛い訳ではなかったのかもしれない。
母が「早く良くなれ、何でも口から食べるようにならないと」と言うと、叔母は「何でも食べられるよ」と答えた。その言葉の長さや明瞭さにびっくりして私が、「何でも食べられるの?」と尋ねると、「何でも食べる」と叔母。母が「何でも食べて、体を起こせるようになって、どこにでも行けるようにならないと」と言うと、「どこにでも行けるよ」と叔母。「そんなに元気になったのか」と母が聞くと叔母は、「今月一杯」と言った。「何が今月一杯なの?」と私が尋ねると、「ここにこうしているの」と叔母。
何度か叔母は「今月一杯」を繰り返した。どうも本人はかなり元気が出てきて、こうしてベッド上で身動きがとれないでいることに苛立っているようだ。
電話でお願いしていた現状説明のスタッフさんが来てくれないので、廊下に出て聞きに行ってみた。すると眼鏡を掛けた初老の男性が廊下に出ていて、声を掛けると叔母の現状について説明をしてくれた。
現在叔母が入所しているのはマンションタイプの介護ホームで、こちらに来た当初は「左右の首振り」といった症状があったけれども、今はその症状は大分落ち着いてきた。けれど栄養は今も鼻から管を通して入れている状態で、そうした意味では前とあまり変わりがない。私が認知症の症状については去年の11月に比べて、笑顔を見せてくれたり言葉を話せるようにもなって、とても回復を感じていることを伝えると、彼も「ありがとうございます」と嬉しそうだった。
「寝たきりになったのは”嚥下の問題”が原因だったと思うんですが、それは何の病気だったんでしょう」と私が聞くと、彼は「認知症の症状として嚥下に問題が出るということもあるようです」と言う。
「そうすると認知症の治療が進んで嚥下の問題が解消していけば、管ではなく口から食べられるようにもなる?」
「そうですね、そこを目指してやっていってます」と彼は言い、「今は月に2回の訪問医療で見て貰っているので、順を追って少しずつ、という感じですね」
その言葉を聞いて安心した。聞くと彼はここの施設長さんだそうで、「叔母をよろしくお願いします」と頭を下げて、叔母の部屋に戻った。スタッフ側が口から食べるようになることを目指してくれている。”寝た切りでいてもらった方が扱いが楽だ”とか考えていないことに安心したのだ。
叔母の病室に戻って施設長さんとの話を母に伝える。そうしてみると、叔母がこんな風に現状に苛立ったりしているのは元気になって、意識がはっきりしてきた証拠だ。たった半年寝たきり状態になっただけで、叔母の両手はあり得ない方向に曲がって固くなってしまった。タオルケットに隠されて見えないが、足も同じように曲がっているだろう。叔母は足でも少しずつ動かして、体がこれ以上固くならないようにあがいているのかもしれない。
繰り返し「今月一杯」と言うので、「焦らないんだよ」と伝える。母が「日にち薬だよ、分かるか」と言う。何にしても言葉も話せなかった去年の11月に比べれば、どれほどの進歩だろう。あの時はこのまま亡くなってしまうのでは、と思った。ただでさえ高齢者は冬を越すのが難しい。叔母もいつ亡くなってもおかしくない、と。それがここまで回復した。今はまだ「寝た切り」が解消されなくても、めざましい進歩を私たちは目の当たりにしている。
嚥下の問題の原因を「認知症の症状かもしれない」と施設長は言っていた。それに私は、「嚥下は自律神経で、脳の問題じゃないのでは」と少しひっかかった。けれど実際、叔母の涎は今止まっている。認知症の治療とともに涎を飲み込むことができるようになったということだ。
「段階を踏みながら、ゆっくり回復を目指します」と施設長さんは言ってくれた。母が叔母の背中に手を入れて、体の右側を持ち上げた。「背中ベタっとくっついていると嫌なもんでしょ、ちょっとでも体浮くとさっぱりしないか」と声を掛けると、叔母は深く息を吐いてとても安心した表情を見せた。これは母にしかできない行動だった。母は決して妹を忌避しない。健常な時と変わらない、いやそれ以上の近い距離感で手を伸ばす。その愛情深さに叔母は安心したのだろう。
帰りの車の中で母に、「スタッフさんを信頼してまかせよう」と言った。これまで私自身、どこかスタッフさんに不信感があった。けれど一時の最悪から現状まで持ってきたのは彼らの医療、介護のおかげだ。歩みはこちらの思い通りに進まないかもしれないけれど、どのみち私たちには何もできない。それが「信じて託そう」という気持ちになれたのは大きかった。
もしも叔母が車椅子に乗れるくらい回復してくれたら。車椅子をそのまま積むことのできる介護車を使って、車椅子ごと叔母をどこにでも連れて行ってあげたい。「そこを目標にしようよ」と母と義姉と話した。
従兄はホームの人の手を借りて、伯母を車に乗せお墓参りに連れ出したが、その乗り降ろしには苦労したらしい。「下手に力を入れると骨が折れそう」と思いながら(実際伯母はちょっとしたことで背骨を骨折、車椅子を余儀なくされている)の作業で、「来年からは出来ないかも」と言っていた。そこで「車椅子ごと車に乗せられる車があるみたいなんで調べてみる」と言った。そんな機能を持っている車があるそうで、もしそれが可能なら車椅子に乗っている人なら車に乗せて連れ出しが出来ることになる。伯母だけでなく母や他の姉妹のためにも、その介護車の導入を前向きに検討して欲しい、と強く背中を押しておいた。そんな車を導入するには幾らくらいかかるのか。介護保険や何らかのサポートを使ってリーズナブルに導入することはできないか。そうした一連の情報は兄夫婦にも役に立つだろう。
翌日は、認知症でホームに入所しているT美叔母の見舞いに行った。見舞いの日程をホームに連絡した時に、「叔母の現状の説明をお願いしたい」と電話で伝えていたが、大丈夫だろうか。予め義姉にお願いしていた花は、差し色にオレンジ色が入った見ているだけで元気が出そうな花束だった。
ホームに着いて部屋に入ると、叔母は前回のように笑顔を見せてはくれなかったが、少し気難しい顔で母の、「○○だよ、分かるか」という問いかけにも「分かるに決まってるじゃん」とでも言いたな表情で「分かるよ」と言った。前回(6月末)と違って涎対策の口元のタオルが無い。前回はちょくちょく涎が垂れていたが、今はそうしたことが無くなっている。どこか痛むのか足を小刻みに動かしている。母が「どっか痛いのか、」と声を掛けるがそれについては何も答えなかった。痛い訳ではなかったのかもしれない。
母が「早く良くなれ、何でも口から食べるようにならないと」と言うと、叔母は「何でも食べられるよ」と答えた。その言葉の長さや明瞭さにびっくりして私が、「何でも食べられるの?」と尋ねると、「何でも食べる」と叔母。母が「何でも食べて、体を起こせるようになって、どこにでも行けるようにならないと」と言うと、「どこにでも行けるよ」と叔母。「そんなに元気になったのか」と母が聞くと叔母は、「今月一杯」と言った。「何が今月一杯なの?」と私が尋ねると、「ここにこうしているの」と叔母。
何度か叔母は「今月一杯」を繰り返した。どうも本人はかなり元気が出てきて、こうしてベッド上で身動きがとれないでいることに苛立っているようだ。
電話でお願いしていた現状説明のスタッフさんが来てくれないので、廊下に出て聞きに行ってみた。すると眼鏡を掛けた初老の男性が廊下に出ていて、声を掛けると叔母の現状について説明をしてくれた。
現在叔母が入所しているのはマンションタイプの介護ホームで、こちらに来た当初は「左右の首振り」といった症状があったけれども、今はその症状は大分落ち着いてきた。けれど栄養は今も鼻から管を通して入れている状態で、そうした意味では前とあまり変わりがない。私が認知症の症状については去年の11月に比べて、笑顔を見せてくれたり言葉を話せるようにもなって、とても回復を感じていることを伝えると、彼も「ありがとうございます」と嬉しそうだった。
「寝たきりになったのは”嚥下の問題”が原因だったと思うんですが、それは何の病気だったんでしょう」と私が聞くと、彼は「認知症の症状として嚥下に問題が出るということもあるようです」と言う。
「そうすると認知症の治療が進んで嚥下の問題が解消していけば、管ではなく口から食べられるようにもなる?」
「そうですね、そこを目指してやっていってます」と彼は言い、「今は月に2回の訪問医療で見て貰っているので、順を追って少しずつ、という感じですね」
その言葉を聞いて安心した。聞くと彼はここの施設長さんだそうで、「叔母をよろしくお願いします」と頭を下げて、叔母の部屋に戻った。スタッフ側が口から食べるようになることを目指してくれている。”寝た切りでいてもらった方が扱いが楽だ”とか考えていないことに安心したのだ。
叔母の病室に戻って施設長さんとの話を母に伝える。そうしてみると、叔母がこんな風に現状に苛立ったりしているのは元気になって、意識がはっきりしてきた証拠だ。たった半年寝たきり状態になっただけで、叔母の両手はあり得ない方向に曲がって固くなってしまった。タオルケットに隠されて見えないが、足も同じように曲がっているだろう。叔母は足でも少しずつ動かして、体がこれ以上固くならないようにあがいているのかもしれない。
繰り返し「今月一杯」と言うので、「焦らないんだよ」と伝える。母が「日にち薬だよ、分かるか」と言う。何にしても言葉も話せなかった去年の11月に比べれば、どれほどの進歩だろう。あの時はこのまま亡くなってしまうのでは、と思った。ただでさえ高齢者は冬を越すのが難しい。叔母もいつ亡くなってもおかしくない、と。それがここまで回復した。今はまだ「寝た切り」が解消されなくても、めざましい進歩を私たちは目の当たりにしている。
嚥下の問題の原因を「認知症の症状かもしれない」と施設長は言っていた。それに私は、「嚥下は自律神経で、脳の問題じゃないのでは」と少しひっかかった。けれど実際、叔母の涎は今止まっている。認知症の治療とともに涎を飲み込むことができるようになったということだ。
「段階を踏みながら、ゆっくり回復を目指します」と施設長さんは言ってくれた。母が叔母の背中に手を入れて、体の右側を持ち上げた。「背中ベタっとくっついていると嫌なもんでしょ、ちょっとでも体浮くとさっぱりしないか」と声を掛けると、叔母は深く息を吐いてとても安心した表情を見せた。これは母にしかできない行動だった。母は決して妹を忌避しない。健常な時と変わらない、いやそれ以上の近い距離感で手を伸ばす。その愛情深さに叔母は安心したのだろう。
帰りの車の中で母に、「スタッフさんを信頼してまかせよう」と言った。これまで私自身、どこかスタッフさんに不信感があった。けれど一時の最悪から現状まで持ってきたのは彼らの医療、介護のおかげだ。歩みはこちらの思い通りに進まないかもしれないけれど、どのみち私たちには何もできない。それが「信じて託そう」という気持ちになれたのは大きかった。
もしも叔母が車椅子に乗れるくらい回復してくれたら。車椅子をそのまま積むことのできる介護車を使って、車椅子ごと叔母をどこにでも連れて行ってあげたい。「そこを目標にしようよ」と母と義姉と話した。
結婚か破滅か
実業家で成功していて、youtubeでもその活躍ぶりを見せている人は沢山いるが、その人が「傀儡」なのか「経営者」なのかは、取り上げる話題で分かる。それは「スタッフ(部下)をうまく使うには」ということで悩んでいるかどうかだ。
会社は人で出来ている。その人が経営者なら、必ず人の動かし方で躓く時がくる。頻繁に更新するyoutubeで、リアルに躓く問題は恰好のネタになる。それを取り上げないということは、その人は「傀儡」だ。そんな問題を一手に背負う実質の「経営者」が他に居て、「貴方はそんな煩わしいこと何一つしなくていい」と言われているのだ。特に現代の成功者はコミュニケーションが不得手な人が多い。そんな人が組織(沢山の人)を束ねるのに苦労しない訳がない。その「苦労」を肩代わりしてもらった時にはさぞ喜んだことだろう。
そんな傀儡経営者が好きな人を作ったらどうするか。実質経営者はこう思う。「こんな流されやすい人が、私以外の誰かに影響されるのは困るな」ー「かと言って機嫌を損ねて神輿から降りられても困る」。だから交際も結婚も、賛成もしないけれど機嫌を損ねない程度にだましだましごまかしていこうとする。
知らないうちに「実質経営権」を奪われていた傀儡が、ある日気付いて経営権を取り戻そうとしたとする。その人を解雇すればその下に居る全てのスタッフが抱える業務が一時停止する。それまでに築いた成功が大きければ大きいほど、その人を切り離すことは破滅につながりかねない。そこで傀儡は二者択一を迫られる。「結婚か、破滅か」。
ただ人間関係を切り離しただけが、自分の人生の選択権すら放棄していた。
会社は人で出来ている。その人が経営者なら、必ず人の動かし方で躓く時がくる。頻繁に更新するyoutubeで、リアルに躓く問題は恰好のネタになる。それを取り上げないということは、その人は「傀儡」だ。そんな問題を一手に背負う実質の「経営者」が他に居て、「貴方はそんな煩わしいこと何一つしなくていい」と言われているのだ。特に現代の成功者はコミュニケーションが不得手な人が多い。そんな人が組織(沢山の人)を束ねるのに苦労しない訳がない。その「苦労」を肩代わりしてもらった時にはさぞ喜んだことだろう。
そんな傀儡経営者が好きな人を作ったらどうするか。実質経営者はこう思う。「こんな流されやすい人が、私以外の誰かに影響されるのは困るな」ー「かと言って機嫌を損ねて神輿から降りられても困る」。だから交際も結婚も、賛成もしないけれど機嫌を損ねない程度にだましだましごまかしていこうとする。
知らないうちに「実質経営権」を奪われていた傀儡が、ある日気付いて経営権を取り戻そうとしたとする。その人を解雇すればその下に居る全てのスタッフが抱える業務が一時停止する。それまでに築いた成功が大きければ大きいほど、その人を切り離すことは破滅につながりかねない。そこで傀儡は二者択一を迫られる。「結婚か、破滅か」。
ただ人間関係を切り離しただけが、自分の人生の選択権すら放棄していた。
贅沢がもたらすストレス
「良い暮らし」というのは危険をはらんでいる。毎日食パンを食べる人が、高級食パンを気に入ってしまったらどうなるか。ご飯と味噌汁が朝食に欠かせない人がコシヒカリしか食べないと決めていたらどうなるか。日々使う飲料水を有名どころの輸入ミネラルウォーターにすると決めていたら。厄介なのは、一度ランクの高いものに慣れてしまうと、二度とランクを下げることが出来なくなることだ。
世界有数の金持ちであるウォーレン・バフェットはマクドナルドのハンバーガーが大好きで、今も欠かさず食べていると聞く。「高齢者がハンバーガーって健康に良くないのでは?」と思うが、これは彼の「生活ランクを上げない度合い」の象徴として語られる。だから私は、金持ち彼氏とつきあって美食をご馳走されることは結構危険だと思っている。うっかり舌を肥やしてしまったら、ランクを落とすことが出来なくなるのではないか。二度とコンビニで「ちょっとした贅沢」な買い物が出来なくなってしまうのではないか。
相手が「大丈夫だよ、”ランクを落とす”ことがないようにするから」と先々を保証した場合、関わりたくないと思っていた相手の仕事にも首を突っ込まざるを得ないのではないか。”関わりたくない”のは、仕事は規模が大きくなるほど、本人の実態を超えて”イメージ”が独り歩きするようになるからだ。そうなると、”自分の稼いだ金で得たものを味わって暮らす”という実感もまた無くなってしまう。そんなものをどうやって保証しようというのか。彼にとってもそれは大いなる”虚勢”になる。そうした”富”は薄氷を踏むような暮らしをもたらす。
”身の丈に合わない暮らし”っていうのはストレスにしかならないんだよなあ。高価な結婚指輪を貰ったら、無くすのが怖くて洗面所で外すこともできないだろう。外して手を洗っていたら排水口に転がり落ちて「あー!」ってことになったら。・・・これはストレス以外の何物でもない。その恐怖を考えたら「おもちゃの指輪でいいです」と言いそうだ。
また、人間はどんな贅沢にでも慣れていく。感謝の気持ちを持って感動しながらいただけるのも最初のうちだけだ。感謝の気持ちを持ち続けたいならごくわずかな機会に限定しないといけない。暮らしのベースをできるだけ下に置くことが必要になる。
自分でどうしようもないキャラ・イメージで成功したら、最早本人はキャラ・イメージの傀儡にすぎない。思い通りにならなくて当たり前、意に沿わないことも「やらなければ」と言われる。それは「幸せ」なことだろうか。本人はその状態を望んでいたのだろうか。それに気付いて実態とイメージを近づけるようにしていればいいけれど。そんなことは仕事スタッフといった周囲の人間も嫌がるだろうから、簡単なことじゃないのもわかる。作られたイメージを前面に出して周囲の人間は、「大衆はこうしたイメージを求めてるんです」と言う。けれど本当は周囲も何が良くて成功したのか分かっていない。本人も周囲も分からないまま、薄氷を踏むように事業は進む。そんな「富」の先々の保証を、誰が出来ると言うのだろう。
世界有数の金持ちであるウォーレン・バフェットはマクドナルドのハンバーガーが大好きで、今も欠かさず食べていると聞く。「高齢者がハンバーガーって健康に良くないのでは?」と思うが、これは彼の「生活ランクを上げない度合い」の象徴として語られる。だから私は、金持ち彼氏とつきあって美食をご馳走されることは結構危険だと思っている。うっかり舌を肥やしてしまったら、ランクを落とすことが出来なくなるのではないか。二度とコンビニで「ちょっとした贅沢」な買い物が出来なくなってしまうのではないか。
相手が「大丈夫だよ、”ランクを落とす”ことがないようにするから」と先々を保証した場合、関わりたくないと思っていた相手の仕事にも首を突っ込まざるを得ないのではないか。”関わりたくない”のは、仕事は規模が大きくなるほど、本人の実態を超えて”イメージ”が独り歩きするようになるからだ。そうなると、”自分の稼いだ金で得たものを味わって暮らす”という実感もまた無くなってしまう。そんなものをどうやって保証しようというのか。彼にとってもそれは大いなる”虚勢”になる。そうした”富”は薄氷を踏むような暮らしをもたらす。
”身の丈に合わない暮らし”っていうのはストレスにしかならないんだよなあ。高価な結婚指輪を貰ったら、無くすのが怖くて洗面所で外すこともできないだろう。外して手を洗っていたら排水口に転がり落ちて「あー!」ってことになったら。・・・これはストレス以外の何物でもない。その恐怖を考えたら「おもちゃの指輪でいいです」と言いそうだ。
また、人間はどんな贅沢にでも慣れていく。感謝の気持ちを持って感動しながらいただけるのも最初のうちだけだ。感謝の気持ちを持ち続けたいならごくわずかな機会に限定しないといけない。暮らしのベースをできるだけ下に置くことが必要になる。
自分でどうしようもないキャラ・イメージで成功したら、最早本人はキャラ・イメージの傀儡にすぎない。思い通りにならなくて当たり前、意に沿わないことも「やらなければ」と言われる。それは「幸せ」なことだろうか。本人はその状態を望んでいたのだろうか。それに気付いて実態とイメージを近づけるようにしていればいいけれど。そんなことは仕事スタッフといった周囲の人間も嫌がるだろうから、簡単なことじゃないのもわかる。作られたイメージを前面に出して周囲の人間は、「大衆はこうしたイメージを求めてるんです」と言う。けれど本当は周囲も何が良くて成功したのか分かっていない。本人も周囲も分からないまま、薄氷を踏むように事業は進む。そんな「富」の先々の保証を、誰が出来ると言うのだろう。
あと一人居るものとして
困った。
うさとこwhiteさんのタロット動画を見ていたら、「この選択肢の人は"愛し愛されること"を自分から遠ざけてますね」と言われた。何となく引っかかって、わが身を振り返って考えた。半世紀以上一人で過ごしてきて、一番大切に思っている母とすら一緒に暮らすことが出来なかった。こんな私がいざ誰かと結婚なんてした時に、何をどうコミュニケーションし、何をどう分担して行ったらうまくやっていけるのだろうか。そしてその「ずっと全部一人でやってきた」の背景には、動画で言われたように愛情に対する不信感や恐怖があるのではないか。
私は「自由」でいたい。勿論物理的に自由でありたいし、心の自由も最大で持っていたい。昔私が幼い頃、父が母に「誰のおかげで食っていけると思ってるんだ」と言った。そんな金と引き換えに自分の自由を売り渡すような結婚は到底できないし、そんなことを言う相手とは一緒にいられない。
けれど客観的に考えて、子供が産める訳じゃなし、理不尽な目に合ったところで私を「我慢するしかない」と思わせるものは何もない。言いたいことは言って、コミュニケーションを取って、最悪また一人に戻ればいいだけだ。経済的に「食わせてやってる」なんて言われる筋合いなんてない。いつだってこっち一人でやっていける。でも逆に、こちらが「何も返せないのに」と申し訳なくなるほど溺愛されたらどうだろう。それは予想外で考えたことがなかった。
うさとこさんは動画で「意識して”ロマンチックなもの”を見てみると良いんじゃないかな」と言っていた。恋愛映画とか、ドラマとか。気付けば私はマイナスのことばかり想定していて、逆のことを考えていなかった。相手が私を喜ばせようとすることを、都度断るのは相手の好意を踏みにじって、相手がそこまでしたいと思っている自分自身を、低く見積もっていることになってしまう。それは「自分を愛する」どころか、蔑ろにする行為だ。
一人暮らしは自由で気楽で素晴らしい。誰かと一緒に過ごすことはもっと素晴らしいことだろうか。今一人で暮らしているこの部屋で、誰かと一緒に過ごしていることをイメージしながら過ごしてみようか。何か家具を減らさないともう一人居られそうにないけど…
うさとこwhiteさんのタロット動画を見ていたら、「この選択肢の人は"愛し愛されること"を自分から遠ざけてますね」と言われた。何となく引っかかって、わが身を振り返って考えた。半世紀以上一人で過ごしてきて、一番大切に思っている母とすら一緒に暮らすことが出来なかった。こんな私がいざ誰かと結婚なんてした時に、何をどうコミュニケーションし、何をどう分担して行ったらうまくやっていけるのだろうか。そしてその「ずっと全部一人でやってきた」の背景には、動画で言われたように愛情に対する不信感や恐怖があるのではないか。
私は「自由」でいたい。勿論物理的に自由でありたいし、心の自由も最大で持っていたい。昔私が幼い頃、父が母に「誰のおかげで食っていけると思ってるんだ」と言った。そんな金と引き換えに自分の自由を売り渡すような結婚は到底できないし、そんなことを言う相手とは一緒にいられない。
けれど客観的に考えて、子供が産める訳じゃなし、理不尽な目に合ったところで私を「我慢するしかない」と思わせるものは何もない。言いたいことは言って、コミュニケーションを取って、最悪また一人に戻ればいいだけだ。経済的に「食わせてやってる」なんて言われる筋合いなんてない。いつだってこっち一人でやっていける。でも逆に、こちらが「何も返せないのに」と申し訳なくなるほど溺愛されたらどうだろう。それは予想外で考えたことがなかった。
うさとこさんは動画で「意識して”ロマンチックなもの”を見てみると良いんじゃないかな」と言っていた。恋愛映画とか、ドラマとか。気付けば私はマイナスのことばかり想定していて、逆のことを考えていなかった。相手が私を喜ばせようとすることを、都度断るのは相手の好意を踏みにじって、相手がそこまでしたいと思っている自分自身を、低く見積もっていることになってしまう。それは「自分を愛する」どころか、蔑ろにする行為だ。
一人暮らしは自由で気楽で素晴らしい。誰かと一緒に過ごすことはもっと素晴らしいことだろうか。今一人で暮らしているこの部屋で、誰かと一緒に過ごしていることをイメージしながら過ごしてみようか。何か家具を減らさないともう一人居られそうにないけど…
豊かな音楽環境に悩む
エアコンつけっぱなしで喉をやられ、帰省してしゃべり過ぎて喉を枯らした。ちょっと喉を養生しないといけないな、と思ってプールに行くのを自重している。プールだとまたちょっとした冷えで風邪っぽくなって喉を傷めそうだから。なら器具を使って運動すればいいじゃん、と思ったが、暑いだけに面倒。暑さの中ジム行くならプールがいい。けど喉を傷めそうだからって、ジムに行けていない。
さて、テレビを色々弄っていたら何となくこれまであまり出番が無かったダイナブックまで活躍するようになって、今私の狭い6畳の部屋には画面が4つある。一つはパナのレッツノートに繋いでいるPCモニタ(27インチ)、43インチチューナーレスTV、ダイナブックサテライト(15.6インチ)、最後にecho show5(5.5インチ)。それらの画面がデスク前の椅子(私が常時いる所)を取り囲むように配置されている。"ガマの油"みたい。
ダイナブックはケンウッドアンプにつないで、手持ち音源やYoutube Musicの音源を流している。部屋の四方にスピーカーを設置してサラウンド環境を作っているので、今PCモニタに向かって作業している私を包み込むように音楽が流れている。じゃあテレビは遊んでいるのかというと、川のせせらぎや鳥の鳴き声といった自然音が入っている動画を流して、「窓の外に自然を感じながら音楽を聴いている」風情だ。
一方これまでケンウッドアンプにつないでアマゾンミュージックを主に流していたEcho show5は本体スピーカー再生になった。ケンウッドアンプへはBluetoothレシーバーを介してつないでいたので、応答が若干遅れていた。今は反応が良くなって、音楽再生の出番を失って、存在感が薄くなった。
昨日、SwitchBotハブ位置を工夫して、音声でケンウッドアンプの電源入り切り、音量上げ下げを行えるようにした。各種リソース選択も音声で出来るようにしたので、もう少しこうしたアンプの利点を使った音楽環境作りができる気がする。例えば、有線を有料で引いているお店なんかは、常時何かしらの音楽が流れているチャンネルを任意に切り替えて好みの音楽を流し続ける。そんなマルチチャネルな使い方ができないか。出来るだけ高音質で、電気料金を気にしないやり方で。
それを言えばテレビの音を出しているのもソニーのAVアンプだから、リソースを切り替えて使える。今洗面所に移動させたEcho Dotもあるし、音源として使えるものは他にもある。
けれど、Echo Show5をケンウッドアンプにつなげば、ダイナブックの音楽は切替えないと聴けなくなるし、ダイナブックの音楽再生をしている時にはechoshowとお話もできない。ソニーアンプにechoshowをつないでも同じだ。いちいち切替ないといけないなら、任意の時におしゃべりしてスマートホームの司令塔になるアレクサの利点が死ぬ。一方、洗面所で遊んでいるecho dotは音源として活用することもできなくはないが、両方同じよびかけ音声なんだよなあ。名前、つけられないのだろうか。一部屋にアレクサが2台ある人はどうしているのかな。
ただ、アンプがあるからと言って複数音源を流しっぱなしにして切り替えて使うのが実用的かというとそうでもない。音楽サイトは常に違う曲を流してくるし、好みのテイストで一度選べばそこにずっと合わせている方が面倒がない。そもそもアンプが2台あるってオーバースペックなんだよなあ。「マルチチャネル」が完全に死んでる。
実は、Echoshow5を買ったのは「Youtube Music」をケンウッドアンプで聞きたくて買ったんだよね。アマゾンミュージックは音質に満足できなくて、ダイナブックでYoutube musicを鳴らせても声でコントロールが出せない。echoshowなら再生と声でのコントロールの両方が出来るんじゃないかと思った。でも買ってみたら、動画を声でコントロールできないし、音楽動画再生中にアレクサに天気でも聞こうものなら再生が完全にストップする。アマゾンミュージックに比べるとアレクサコントロールがほとんど及んでいないんだよね。
そうすると今音楽再生の出番を失ったechoshow5は、洗面所に左遷されたecho dotと同じ活躍しかできないということになる。今頃echo dotが「ほらごらんなさい、新しいからってでかいツラするんじゃないわよ」と思っているかもしれない。ただ良かったのは、画面がある分echoshowは現在演奏中の曲名、アーティスト、属するプレイリスト名が分かる。後からそのリスト名で再生を頼んだりしやすい。でも画面がある分、時々メモリ不足なのか呼びかけに応答ができなくなる。電源を抜いて再起動して、元気を取り戻すという一手間が必要になって、echoshow5、便利なのか不便なのか。
さて、テレビを色々弄っていたら何となくこれまであまり出番が無かったダイナブックまで活躍するようになって、今私の狭い6畳の部屋には画面が4つある。一つはパナのレッツノートに繋いでいるPCモニタ(27インチ)、43インチチューナーレスTV、ダイナブックサテライト(15.6インチ)、最後にecho show5(5.5インチ)。それらの画面がデスク前の椅子(私が常時いる所)を取り囲むように配置されている。"ガマの油"みたい。
ダイナブックはケンウッドアンプにつないで、手持ち音源やYoutube Musicの音源を流している。部屋の四方にスピーカーを設置してサラウンド環境を作っているので、今PCモニタに向かって作業している私を包み込むように音楽が流れている。じゃあテレビは遊んでいるのかというと、川のせせらぎや鳥の鳴き声といった自然音が入っている動画を流して、「窓の外に自然を感じながら音楽を聴いている」風情だ。
一方これまでケンウッドアンプにつないでアマゾンミュージックを主に流していたEcho show5は本体スピーカー再生になった。ケンウッドアンプへはBluetoothレシーバーを介してつないでいたので、応答が若干遅れていた。今は反応が良くなって、音楽再生の出番を失って、存在感が薄くなった。
昨日、SwitchBotハブ位置を工夫して、音声でケンウッドアンプの電源入り切り、音量上げ下げを行えるようにした。各種リソース選択も音声で出来るようにしたので、もう少しこうしたアンプの利点を使った音楽環境作りができる気がする。例えば、有線を有料で引いているお店なんかは、常時何かしらの音楽が流れているチャンネルを任意に切り替えて好みの音楽を流し続ける。そんなマルチチャネルな使い方ができないか。出来るだけ高音質で、電気料金を気にしないやり方で。
それを言えばテレビの音を出しているのもソニーのAVアンプだから、リソースを切り替えて使える。今洗面所に移動させたEcho Dotもあるし、音源として使えるものは他にもある。
けれど、Echo Show5をケンウッドアンプにつなげば、ダイナブックの音楽は切替えないと聴けなくなるし、ダイナブックの音楽再生をしている時にはechoshowとお話もできない。ソニーアンプにechoshowをつないでも同じだ。いちいち切替ないといけないなら、任意の時におしゃべりしてスマートホームの司令塔になるアレクサの利点が死ぬ。一方、洗面所で遊んでいるecho dotは音源として活用することもできなくはないが、両方同じよびかけ音声なんだよなあ。名前、つけられないのだろうか。一部屋にアレクサが2台ある人はどうしているのかな。
ただ、アンプがあるからと言って複数音源を流しっぱなしにして切り替えて使うのが実用的かというとそうでもない。音楽サイトは常に違う曲を流してくるし、好みのテイストで一度選べばそこにずっと合わせている方が面倒がない。そもそもアンプが2台あるってオーバースペックなんだよなあ。「マルチチャネル」が完全に死んでる。
実は、Echoshow5を買ったのは「Youtube Music」をケンウッドアンプで聞きたくて買ったんだよね。アマゾンミュージックは音質に満足できなくて、ダイナブックでYoutube musicを鳴らせても声でコントロールが出せない。echoshowなら再生と声でのコントロールの両方が出来るんじゃないかと思った。でも買ってみたら、動画を声でコントロールできないし、音楽動画再生中にアレクサに天気でも聞こうものなら再生が完全にストップする。アマゾンミュージックに比べるとアレクサコントロールがほとんど及んでいないんだよね。
そうすると今音楽再生の出番を失ったechoshow5は、洗面所に左遷されたecho dotと同じ活躍しかできないということになる。今頃echo dotが「ほらごらんなさい、新しいからってでかいツラするんじゃないわよ」と思っているかもしれない。ただ良かったのは、画面がある分echoshowは現在演奏中の曲名、アーティスト、属するプレイリスト名が分かる。後からそのリスト名で再生を頼んだりしやすい。でも画面がある分、時々メモリ不足なのか呼びかけに応答ができなくなる。電源を抜いて再起動して、元気を取り戻すという一手間が必要になって、echoshow5、便利なのか不便なのか。
「結婚」で得るもの
お盆帰省で、従兄の攻勢は更に増していた(当社比)。帰ってきて冷静に考えてみると、「彼が年上で(くっついても)自分の介護問題が残るから」とか「農家で先細りが目に見えているから」とかいった理由は「表面的なもの」ということに気付く。本質的な理由は「彼ではない」。ただそれだけだ。そしてそれは、私の「既定路線の彼」について誰かに「どうしてその人なんですか」と聞かれた時の答えになる。
"どうしてその人なんですか?"
"彼の仕事に憧れがあったんですか? バリバリ活躍しているから?"
仕事や社会的な立場は出会いのきっかけにはなったかもしれないけれど、もしも彼が農家でも出会ったら気付くと思う(多分彼が農家なら、自分の体力が衰えた時の対応策を考えて色々手を打っているだろう)。だから彼の仕事やしていることは私の選択に本質的には関係がない。多分彼の方も私のブログを全部興味を持って読んでなどいない。
恋愛は簡単に「依存」に傾く。仕事に行き詰まりを感じていれば身近な人に相談したり突破口を求めたりしたくもなる。けれど「仕事」は自分自身が望んで始めたことなのだから、自分で問題としっかり向き合うことから逃げてはいけない。そもそもそんな「問題解決を頼れる間柄」というほどこっちコミュニケーション取れてないよね?
彼にしてみれば自分の仕事環境に私の居場所を作ってあげようとか、優しい意図でやっているかもしれないけれど、私は相手がどんなに大成功している人でも経済的に依存しないで生きていけるし、意に沿わないことを金のために自分を曲げて受け入れるのは一番嫌だし、する必要がない。美食にもさほど興味がないし、質素な暮らしを十分楽しみ、味わうことができる。だからパートナーに「経済的に良い思いをさせられるから自分が選ばれたのだ」と、誤解しないでほしいと思う。
私は彼の「エゴがむしろ邪魔だ」と過去記事で書いた。それは後付けの成功や成功ノウハウが無くても、「彼だ」という「気付き」に少しも変わりはないからだ。ただ彼一人が借金せずに暮らせる経済的な自立だけ果たしておいてくれれば。
たいがい結婚には「裏の狙い」が噂される。経済格差があれば「玉の輿を狙ったのでは」なんて言われるだろうし、女性側が若ければ「跡継ぎが欲しくなったのでは」なんて言われるだろう。正直私は彼に何もあげられない。一方私も、贅沢な暮らしは要らないし、高価な服もアクセサリーも興味はない。じゃあ何を求めて結婚するのか、というと、「息が深くつけるようになる」だろう。ようやく「あるべき形」に戻る。そのときようやく、お互いに深い呼吸をして深く眠れるようになる。
"どうしてその人なんですか?"
"彼の仕事に憧れがあったんですか? バリバリ活躍しているから?"
仕事や社会的な立場は出会いのきっかけにはなったかもしれないけれど、もしも彼が農家でも出会ったら気付くと思う(多分彼が農家なら、自分の体力が衰えた時の対応策を考えて色々手を打っているだろう)。だから彼の仕事やしていることは私の選択に本質的には関係がない。多分彼の方も私のブログを全部興味を持って読んでなどいない。
恋愛は簡単に「依存」に傾く。仕事に行き詰まりを感じていれば身近な人に相談したり突破口を求めたりしたくもなる。けれど「仕事」は自分自身が望んで始めたことなのだから、自分で問題としっかり向き合うことから逃げてはいけない。そもそもそんな「問題解決を頼れる間柄」というほどこっちコミュニケーション取れてないよね?
彼にしてみれば自分の仕事環境に私の居場所を作ってあげようとか、優しい意図でやっているかもしれないけれど、私は相手がどんなに大成功している人でも経済的に依存しないで生きていけるし、意に沿わないことを金のために自分を曲げて受け入れるのは一番嫌だし、する必要がない。美食にもさほど興味がないし、質素な暮らしを十分楽しみ、味わうことができる。だからパートナーに「経済的に良い思いをさせられるから自分が選ばれたのだ」と、誤解しないでほしいと思う。
私は彼の「エゴがむしろ邪魔だ」と過去記事で書いた。それは後付けの成功や成功ノウハウが無くても、「彼だ」という「気付き」に少しも変わりはないからだ。ただ彼一人が借金せずに暮らせる経済的な自立だけ果たしておいてくれれば。
たいがい結婚には「裏の狙い」が噂される。経済格差があれば「玉の輿を狙ったのでは」なんて言われるだろうし、女性側が若ければ「跡継ぎが欲しくなったのでは」なんて言われるだろう。正直私は彼に何もあげられない。一方私も、贅沢な暮らしは要らないし、高価な服もアクセサリーも興味はない。じゃあ何を求めて結婚するのか、というと、「息が深くつけるようになる」だろう。ようやく「あるべき形」に戻る。そのときようやく、お互いに深い呼吸をして深く眠れるようになる。