むすめの朝顔

酷暑もやわらかさが見えてきたみなさん、今日も元気に夏の暑さにやられていますか。

大人になった私が今まで生きてきた暦は、盆暮れ正月ゴールデンウィーク、時々シルバーウィーク。たまに三連休。職場と保育園のずれは幸いなことに小さく、些細なすり合わせで事足りていた。さてそんな我が家に、4月の頭、小学生が爆誕。壁のカレンダーに大きな異変が訪れました。そう、夏休みです。1カ月もある大きな休み。子供を学童に入れなきゃだどうだ、毎日弁当だなんだ、宿題がああだこうだ、まあ多々やることは増えました。それはいい。まだ良い。働いていればいずれこういうことが起きる。子供の成長に合わせて、主に2年間隔で私のライフスタイルは変わる。この7年でそれはわかっていたし、なんとなく大変なことは予想していた。しかし学校からのお知らせを見て、私は忘れていた小学校の思い出にぶん殴られて頭を抱えた。

朝顔の持ち帰りであります。

小学1年生恒例、夏休みの朝顔を持ち帰って家で面倒見ようのターン。

忘れ切っていた記憶が蘇る。猛暑の道路の中、でっかいランドセルとぱんぱんの手提げ袋を持って、えっちらおっちら半泣きで朝顔の鉢を持ち帰ったあの夏。あった~~~~~そういうの~~~~~! 重たかった~~~~! ベランダに出して朝コップ一杯の水を上げていた。結局盆に入る前に母親が世話をはじめてやらなくなった。あれどうなったんだっけ。観察日記を書いたんだっけ。観察日記も母親に手伝ってもらったんだっけ。もう記憶にない。種はできたんだっけ。できなかった気がする。儚くくしゃくしゃに落ちた朝顔の花と一緒に私の記憶はおぼろだ。

とにかく、古から続く「朝顔を持ち帰る子供の親」を、今度は私がやるのである。心の中で実母に報告した。がんばるぜ、母さん。どこまでやれるかわからないけれど。見守っていてくれよな。実家から。

令和の子供は荷物が多い。それゆえ、色々と配慮がなされている。私の時代と違うのか、それとも地域特有なのか、朝顔は「親御さんが持って帰ってください」とのことだった。自分が泣きべそをかきながら鉢植えを引きずって帰った記憶を思えば、まあその方が良いだろうとも思う。同時に、今の子って楽ちんだなあ、と羨ましい気持ちもある。過去と現代とのギャップにいちいち切なさを感じるのも老化の一部かもしれない。しみじみしながら学校へ向かった。先生から受け渡された朝顔は、記憶よりもだいぶ大きかった。

「すみませんお母さん、夏休み明けに花を咲かせたまま持ってきてください」

先生はしっかりと私の眼を見てそう言った。私も先生の眼を見返して頷いた。はい、と答えて受け取った。青々と茂った朝顔を持って校門を出て、はて、と考えた。

えっ、これ今私が頼まれたよな?

おかしい。朝顔の世話って子供がするものではなかったか。名目上は子供の宿題のはずである。しかし、親が持って帰るし、先生は私にしっかりとお願いしてきたし、私も先生にしっかりと返事をしたし……。

私だ。

子供の名前がでかでかと表記された朝顔を見下ろして、夏休み直前、私は猛暑で汗だくになりながら、校門の前で覚悟を決めざるを得なかった。

 

私へ出された宿題だこれ。

 

自分の過去を顧みても、自分の子供の性格を考えても、歴史を紐解いても、古今東西朝顔の世話は親がやるのである。わかっていたはずだった。しかし知っていることと腑に落ちることは別である。鈍い私はようやく真夏の校門前で現実を認識した。この世はそういう風にできているのだ。なるべく子供にやらせたい。そういう気持ちもある反面、絶対に私が世話をするんだろうなという確信もある。学校側も、もう子供に期待することは流れ星を掴むくらい確率が低い望みだと知っているのだろう。だからこそ親に言伝るのだ。夏休み明けに持ってきてください。花を咲かせたまま。ミッションインポッシブルじゃん。私はトム・クルーズか。

とりあえず玄関前に置いた朝顔は、ぴんぴん蔦を伸ばしていた。我が子は一応、学校では世話をしていたらしい。付属の水やり用ボトルに水を汲み、ダメ元でも明日の朝から子供にやらせてみよう、と決める。いつまで持つかはわからないが、大人というのは体裁が必要なのである。一応子供にやらせた、という実績が母親的には欲しかった。元気よく終業式から帰った娘は、玄関の朝顔に「えー! 私の朝顔、なんでここにあるの!?」とにこにこした。7月の終わりでも、気温は高い。汗だくの娘を見て、まあ、持って帰ってくるのは母親で良かったかなあと思いながら、我が家のはじめての夏休みはスタートした。

 

朝顔ヒルガオ科サツマイモ属。一年性植物で、日本では江戸時代から愛されているそうだ。初心者向けで、基本的に日当たりと風通しの良い場所に置いて水をやればすくすく育つらしい。一年生でも育てられるとして種が配られるのだから、まあ育てやすい部類なのだろう。我が家の朝顔も屋根のある玄関に置いた。私の記憶でも、夏の朝顔は元気である。暑い夏休みの隙間、涼しくなる早朝に、暑さに負けずに綺麗な花をつける。

しかし近年、日本は酷暑なのだ。

夏休みから三日、仕事から帰宅した私は玄関の朝顔にぎょっとした。葉がしわくちゃに萎れている。蔓もなんだかくったりしている。明らかに元気がない。朝はあんなに葉がぱりっと開いていたというのに、いったいなぜ。慌てて鉢を覗くと土がカラッカラに乾いていた。目に染みた汗を擦る。この日の気温は38度。猛暑日である。夏が得意な朝顔も、この気温には枯れてしまうらしい。カバンを放り投げてバケツを掴み、大量の水を慌てて朝顔の根元に注ぎこんだ。暑さでぐるぐる回る私の頭に先生の言葉が過る。「花を咲かせて」「夏休み明けに」「持ってきてください」。

死ぬな!朝顔

心配だったので土だけでなく周りにも水を撒いた。2往復して打ち水をした。私のTシャツは汗で変色した。萎れた葉っぱにおろおろしながら子供を迎えに行き、帰ってきた夕方はまだ蒸し暑い。でも、ほんのり葉に力が戻ってきたように見えてほっとする。朝だけの水やり、それも子供の僅かな水ではダメなのだろうか。

朝顔、萎れていたねえ。朝水やったのにね」

私が心配しながら言うと、娘はぐりんと顔を反らした。おい。まさか。横目に見ていると、でへへ、と気まずそうに笑う。

「朝やるの忘れちゃったぁ」

本当に三日坊主を実行する奴があるか。

勘弁してくれ、一週間も経ってないんだぞ。力が抜けながらなんとか娘へ「あなたの朝顔なんだからちゃんと世話しなさいよ」と小言の体裁を取り、私はバケツを握った。この日から、私の朝顔絶対守る日常は幕を開けたのである。早すぎる。せめて夏休み10日目からとかがよかった。けれど寝起きから口酸っぱく言って水やりを忘れるのだからもう駄目である。先生、私がやります。きっと娘は明日になったら朝顔のことを忘れています。大丈夫です。やりきります。

きっと江戸時代からこれが母親の役目です。

翌朝、案の定叩いてもゆすっても起きない娘をあきらめて、私は水を持って朝顔の元へ向かった。大量の水を夕方にやったからか、朝顔の葉はしゃっきりと元気を取り戻していた。綺麗な花も何個かつけている。本当に水をあげればちゃんと元気になるのだ。へえ、素直じゃん。なんだかよくわからない可愛さを感じながら、バケツの水をたっぷりやった。

昼間は仕事でどうしても水をあげられない。窓の外の太陽にうんざりしつつ仕事をしながら考えるのは朝顔のことばかりである。大丈夫かな。水、あれで足りたかな。帰ったらまた萎れているだろうか。心配であげすぎたら根腐れとかしちゃうかなあ。仕事を終わらせていそいそと帰れば、朝よりは元気がないけれど、昨日よりは息を吹き返した朝顔がいた。よかった。ほっと胸をなでおろし、からからに乾いた土へ水をやる。空のバケツを片付けようとして気づいた。昨日よりも蔦が伸びている。お、元気だぞ。よしよしと満足しながら、夕飯を作りに玄関に入った。

 

仕事と育児、子供の心配に、朝顔の心配が追加された。夜な夜なたっぷり水をやり、昼間の暑さに「死ぬな、朝顔」と思う。朝玄関をあけて葉が元気かどうかを確認し、夕暮れの涼しさにわさわさ揺れる蔦の伸び具合を見る。元々花を育てるのは苦手だった。切り花はすぐに枯らしてしまうし、実家の庭の手入れも下手くそだ。だけど鉢植えの朝顔は、なんだかすごく可愛かった。

朝、すでに高い気温の中、寝ぼけながら水をやっていると、ぴんと張った葉に水がはじいて涼やかだった。玄関タイルをうろうろしていた蟻が、鉢植えの水をもとめて朝顔の根元に入るのが見える。夕方になると蜂だか虻だかが飛んできて、花の中に溜まる水にとまって慌てて去っていく姿も見た。そのうち、朝顔の影に小さなカマキリが住み着いているのをみつけた。数日経ったら少しだけ大きくなっていた。私が育てている朝顔に、生物が寄り添っている。へえ。蔦の絡まる家の壁を見上げながら、なんだか気分が良くなった。水をうっかり忘れたら、わかりやすく萎れる。水をたっぷりやって気に掛けると、わかりやすく元気になる。これは可愛い。背後で「晩御飯はそうめんじゃないと絶対食べない」とぎゃんぎゃん喚く娘二人の声を聞きながら朝顔に意識を飛ばした。朝顔は出したごはんに文句言わない。これは可愛い。朝のドタバタの中で「なんで洗濯物取り込んでないの」と苦言を呈する旦那に適当な返事をしながら朝顔の様子を見た。朝顔はなんか間違っても萎れているだけで苦言とか言わない。これは可愛い。

自分が手をかけたらかけた分だけ返してくれる、こういうのは最近なかった。母親業なんてそんなものだとわかっていても、結構さみしかったらしい。目に見えて成果がわかるという実感を得られて、私はますます朝顔を気にした。元気かな。元気であれ。カマキリやら蟻やら蜘蛛やらが訪れて去っていくのを満足して見送った。うちの朝顔住みやすかろう。先生との約束とか子供の宿題とかもそのうちすっぽ抜けて、水やりを忘れる子供に小言も言わなくなった。私が気に掛けるから良いんだい。夏休み中盤、こうしてすっかり朝顔は私の管轄になった。

 

さて、夏と言えば盆である。盆と言えば帰省である。

実家へ帰る予定は前々から立てていた。予想外だったのは朝顔の世話である。この酷暑の中、二日水を上げなければすぐさま枯れる朝顔をどうするか。気を揉む私に旦那は言った。

「いや、学校もちゃんと朝顔の世話することなんて半分くらいしか期待してないでしょ。枯らしてる子とか絶対いるよ。一生懸命世話したけど枯れたらもうしかたないんじゃない?」

 

いやだーーーーー!!!!!

 

持って帰ってきたときから二倍の蔦を伸ばして元気に育つ朝顔に私は泣いた。絶対に枯らしたくない。学校に持っていくというミッションもあるが、単純にもう可愛いし心配だった。理屈としてはわかる。世話できないものは枯れてしまう。枯れたからとて、先生も別に怒らない。理屈としてはわかるが、いやだった。とにかくなんとか回避したかった。Googleのサジェストは連日更新された。「朝顔 生かす」「朝顔 室内 猛暑 育て方」 「朝顔 生き残り方」「自動 朝顔 水やり」

どの方法も現実的ではなく、結局、真夏の太陽に晒して瞬時に枯らすよりは、蒸し風呂だが家の中の方が延命措置がとれるだろうということになった。段ボールにゴミ袋を設置して、その中に水を張り、朝顔を漬ける。帰省の朝。リビングの真ん中に置かれた、壁から剥がした蔓でこんもりとおおきな朝顔の鉢を写真に撮った。娘は心配そうな私を見上げて「大丈夫だよママ」と元気づけてくれた。

「ママいっつも朝顔が心配だっていうけど、ちゃんと元気じゃん、いつも」

そ れ は マ マ が 毎 晩 水 を あ げ て る か ら だ よ。

旦那もしょげている私を見かねて「根腐れで枯れるか、生き残るか五分五分だが、これしかない。大丈夫、枯れてもなんとかなる」と優しく言った。優しさには感謝したが、根本が違う。私は枯れてほしくないのである。だが、枯れるかもしれない。それはもう、仕方がない。わかっている。わかっているが、少し切ない。

南無三。クーラーを切った。これでこの部屋は今から熱帯になる。鍵を閉める直前、暗がりに佇む朝顔の影を見て、私は実家へ向かった。生きろ朝顔。死ぬな朝顔。なんとか一蔓だけでも緑のまま、私を迎えてくれますように。

 

 

 

 

実家の母は朝顔の経緯を聞いて「ウワーーーーー」と言った。昔のあれこれを思い出したらしい。朝顔、と伝えただけで「そんなのあったあった」と遠い目をし、帰省のときの朝顔ミニトマトについて聞くと「母さんはもう放置で、枯れたらバイバイだったわ」とあっさり言った。我が母ながらドライである。ついでに私の朝顔可愛い話もうんうんと一通り聞いてから、「へえー。母さんそういうのわかんない。花って何も言わないからわかんなくて気づいたらすぐ枯れてるんだよね」と感心した。親子ってそんなもんである。しばらく気がかりだった朝顔も、母のあっさりした言い方になんだか拍子抜けしてちょっと気が楽になった。確かに、枯れたら枯れたである。植物なんだから。それでも母は帰り際、「朝顔生きてるといいねえ」と言ってくれた。親子ってそんなもんである。一週間の楽しい帰省を終えて、玄関を開けるとき、少しだけ祈った。生きていますように。生きていますように。枯れていたら、まあ、しかたない。しかたないけど、ちょっと切ない。ドアノブを捻って、亜熱帯と化した家を開け放った。娘たちが「ただいまぁ!」と我先に駆け込む。どきどきしながらリビングを覗いた。先に走った子供が家じゅうの電気をつけて回る。ぱちぱちぱち!

果たして、リビングの真ん中で、朝顔は辛うじて生きていた。

七割が黄色く枯れていたが、三割が萎れた緑色だ。「生きてるー!!!」長女が嬉しそうに飛び跳ね、つられて次女が「いきてるう!」と跳ねた。「生きてたあ!」私は荷物を置いて、心からほっとして子供達と笑った。触れた鉢は熱くて、水は生煮え一歩手前だった。荷ほどきもそこそこに、朝顔を玄関に戻して枯れた葉をなんこか落とす。久々に風に吹かれた朝顔は、葉が小さくなっていた。蔦も細くなっていた。でもちゃんと、新しい蔦が伸びていた。可愛い。

「生きててよかったあ」

バケツに冷たい水を汲んで、葉から鉢から全部冷やした。数日、こまめに水をやっていると、また見たことのある青々とした大きな葉が茂り、紫色と青の花が咲いた。壁には新しい蔦が伸び始めている。手をかければかけるだけ、元気になる育てやすい花である。長女は玄関から出る時に「おっ、朝顔咲いてる~!元気じゃん!」と言った。夏休みも終盤間近である。私は水をあげて、車に娘を乗せながら、うわべだけ小言を言った。「あなたの朝顔なんだからね、ちゃんと世話しなさい」。返事はなかった。鼻歌を歌いながら娘は本を読んでいた。私も別に追撃しなかった。

古今東西、はるか昔の江戸時代から、朝顔は私の宿題である。

生きろ朝顔。あと一週間と数日。

それまで私とお前の夏休みは続くのだ。