写真アルバム
一冊の分厚いアルバムを手に取る。革張りの表紙は、長年の時間で手に馴染むほど柔らかい。ページをめくると、インクと古い紙の懐かしい香りが立ち上る。そこに貼られているのは、ざらついた手触りの写真たち。あるものは鮮やかに、あるものは陽に焼けてセピア色に染まっている。一枚一枚が、私の世界を形作った、かけがえのない出会いと冒険の記録だ。人生という名の、私だけが描ける一枚の地図なのだ。
いつだったか、光のよく入るアトリエで、壁一面に飾られた一枚のアート作品に息をのんだことがある。 大きなキャンバスに、旅先で撮られたであろう無数の写真が隙間なく貼り付けられ、一枚の世界地図を描き出していた。笑顔の子供たち、雑踏の市場、どこまでも続く道、名も知らぬ花々。それは、作者が旅の中で心を震わせた瞬間の集積であり、彼だけの世界の証明だった。絵の具とオイルの匂いが満ちるその場所で、私は自分の人生もこうありたいと強く願った。何気ない日常からほんの少し踏み出した、そのささやかな一歩一歩が新しい景色につながり、やがて出会いとなり、私の地図を少しずつ彩っていくのだと。
冒険は、いつもパスポートが必要な壮大な旅とは限らない。時には、見慣れた街角の知らない路地裏へふと足を踏み入れることだったり、いつも降りる駅を一つ乗り過ごしてみることだったりする。
忘れられないのは、小学生の夏。友達と探検に出かけた、町の外れにある薄暗いトンネル。ひんやりとした湿った空気が肌を撫で、自分たちの足音だけが壁に反響する。怖さと期待で高鳴る心臓を抑えながら、出口の小さな光だけを目指して歩いた。そして、光が徐々に大きくなり、ついにその向こう側へ躍り出た瞬間――目に飛び込んできたのは、目に痛いほどの青い空と、命の限りを尽くすように鳴り響くセミ時雨、むせ返るような深い緑の匂いだった。熱い風が汗ばんだ額を撫でていく。あの時、トンネルという日常との境界を越えた私は、確かに世界の新しい顔に出会ったのだ。あれもまた、私の人生の地図に記された、輝かしい冒険の始まりだった。
そんな記憶に導かれるように、私はファインダー越しに、ずっと世界を覗いてきた。 冷たい金属の感触、指先に伝わるシャッターの小気味よい振動。この四角いフレームを通して世界を知れば知るほど、自分の視野がいかに狭かったかに気づかされる。世界は見えている部分よりも遥かに大きく、深く、探求すればするほど、底なしに「見えていない部分」が増えていくようだ。知ることは、満足ではなく、むしろ乾きにも似た渇望を生む。
でも、それがいいのだ。
尽きることのない未知が、私の好奇心をそっとくすぐり続けるから。刻一刻と移り変わっていく世界と人々。二度とは戻らない光と影。その儚く美しい一瞬を、永遠に閉じ込めることができる。だから私は、このフレームに世界を収めるのが好きなのだ。
金色の小麦畑を風が波のように揺らしていく光景、遠くでゆっくりと回る風車のシルエット、そして「綺麗だね」と隣で微笑む横顔。その瞬間の光、頬をなでる風の温度、土の匂い、空気の味まで、すべてをこの一枚に焼き付けたくて、息を止めてシャッターを切る。写真は、ただの記録じゃない。未来の私が、この宝物のような瞬間へいつでも帰るための「記憶の栞」なのだ。
もちろん、旅の途中では道に迷い、躓き、現像に失敗したフィルムのように世界が真っ暗に思える日もある。それでも、私たちは知っている。コンパスの針が必ず北を指すように、私たちの心にも帰るべき場所があることを。悩んだ時間の先にこそ、思いがけない出会いや息をのむような景色が待っていることを。そして、ふと立ち止まった時、心はいつも最初の場所へ帰っていく。「まだ見ていない世界を探しに行こう」と、理由もなく胸を躍らせた、あの日の自分のもとへ。
冒険を終えて日常に戻ったとき、世界は前よりも少しだけ優しく、鮮やかに見える。 見慣れたはずの帰り道に咲く小さな花の名前を初めて知りたくなる。いつも飲む珈琲の、その香りの奥深さにふと気づく。窓から差し込む朝の光が、部屋の埃さえも美しくきらめかせている。旅は、特別な場所へ行くだけでなく、日常という名の、足元に眠る宝物に気づかせてくれるためのものでもあるのかもしれない。
このアルバムをこうして静かに眺めていると、一枚一枚の栞が、過去の私からの問いかけのように思えてくる。
ファインダーを覗く瞬間、私はカメラと一つになる。 この光の、何に心が震えているのか。この風の音に、何を感じているのか。目の前の微笑みを、どれほど愛しているのか。私はどこへ向かおうとしていて、なぜ、他のどの瞬間でもない、この「今」を一枚に刻もうとしているのか。
そうだ。この終わりのない問いかけを追いかけ続けること、それ自体を私の冒険にしよう。 その誠実な問いかけこそが新たな出会いを引き寄せ、私の人生という物語を深く、豊かに紡いでいくのだ。
これから先、この地図にはどんな道が描かれていくだろう。どんな人に出会い、どんな景色に涙するのだろう。期待に胸を膨らませ、まだ白紙のページが残るアルバムを抱きしめる。そして私は、この地図にまだ描かれていない道を記すために、これからもシャッターを切り続ける。


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