日本を出ることが決まったとき、500冊以上あった本のほとんど全てを手放した。
そのパンダの箱の中でもさらに選りすぐられた面々だけが、私と一緒に太平洋を渡った。六歳のときに初めて読んで、何万回も読み直して、私の心の隅っこに小さく「ものかきになりたい」という思いを灯したさくらももこのエッセイ集。大切な友人から餞別に頂いた群論の入門書。笑いのツボをピンポイントで刺激してくれる『ポプテピピック』。マーケティングを勉強しようかと思っていたので、コトラーのマーケティング書。選りすぐりの精鋭たち、のはずが、忘れてきてしまったものがある。
木嶋佳苗・著『礼讃』。
本当に数え切れないほど読んだ。読んで読んで、読みまくった。おそらく私の人生のうちで、読み返したランキングトップ3に入る。小説のような自伝のようなものなので、起承転結、何が起こるかすべて把握している。なのに、何度も読んでいる。このハードカバーは、香川の実家のどこかに埋もれている。『礼讃』を忘れたことに気づいた瞬間、電子書籍で購入した。あの本が、電子の形ではあるものの手元にある。いつでも読み返せる。それは何かの中毒患者には分かるであろう心境にも似た、安堵であった。
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ここからは、私の『礼讃』への、そしてその著者である木嶋佳苗氏への狂おしいほどの愛と考察が始まる。私の読書感想文の集大成といっても過言ではない。とんでもなく長くなりそうなので、暇を持て余している方だけ読み進めてもらって差し支えない。
著者である木嶋佳苗氏は、死刑を待つ身の女だ。彼女はいわゆる首都圏連続不審死事件の犯人であるとされている。婚活サイトを通して知り合った複数の男性に、身の上を偽った上で結婚をちらつかせて多額の金銭を受け取り、彼らに睡眠薬を盛り練炭自殺に見せかけて殺害したとされている。本人は一貫して否認しているものの、死刑が確定している。
これだけは最初に、そして強く述べておきたいのだが、私は木嶋佳苗氏の犯罪行為に対していかなる容認もしない。彼女を崇拝しているわけでもない。彼女が本当に罪を犯したのかどうか、真実がどこにあるのかも含め、私はそこを審判する立場にはないからである。仮に彼女が本当にその犯罪行為を行なっていたとしたら、私は強く非難する。いかなる犯罪行為も、許容されるべきではない。
私はただの、一読者にすぎない。もしもこのブログを、被害者のご遺族の方や関係者の方が万が一にでもご覧になったらと思うと、日の目を見せるべきではないのかとも思って躊躇していた。
そして、本当ならば、著者が誰であるかによらず、その作品に対する思いだけを書くのが読書感想文のあるべき姿だろうと思う。しかし、その信念を貫けるほど、彼女の存在は小さくはないのである。
これは、彼女のことを書いた本ではなく、彼女が書いた本である。
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はじめに、木嶋佳苗と聞いて、あぁあの人か、と思い出せる方はどれくらいいるだろうか。
太っていて、カールした長い黒髪を前にたらして斜めに構えた写真を脳裏に描ける方は、あるいは、護送される車内で彼女が見せた、切りそろえた前髪の間から覗く真っ白な白目と半開きになった口元を覚えている方は、20205年の今どれくらいいるだろうか。これらの写真は、「こんなにも醜い女が、なぜ」というただそれらの言葉を裏付けるには十分であったように記憶している。
そもそも、彼女が「醜い」かどうかは個人の感覚にゆだねられる。私は、彼女の写真を見る限りにおいては、決してとびきりの美人であるとは思わない。たっぷりとした顎からもわかるように太っているし、肌も色白ではあるが、くすんで見える。髪の毛は長すぎてやや清潔感にかける。
けれども、凛とした眉、それとはアンマッチな茫洋とした垂れ目、あか抜けない丸っこい鼻、小さく形のいい肉厚の唇からは、やはりぞくりとするような色気を感じる。どこか焦点が合っていないように見える瞳からは、何か射貫くような強さが伝わってくる。もしも私が男だったならば、すれ違っただけでぱっと目を引かれることはないだろうが、バーで隣に座っていたら声をかけてしまうかもしれない。何とも言えない引力を感じる。ただ、それでも彼女が現代日本の、世間一般でいう「美人」ではないことは悲しいかな、明らかである。
折しも、「醜い女」たちによる犯罪が、具体的に言うならば殺人が、世を賑わせてた。上田美由紀、筧千佐子。これらの名前が記憶の片隅にある方もいるだろう。もしかすると、その三人が混ざっている方もいらっしゃるかもしれない。彼女たちは「醜い」にもかかわらず、数多の男に徹底的に愛され、その男たちを騙し、そして殺めたといわれている。
色香で男を惑わせるのは、たいてい美人の所業である、とされている。ハニートラップだって、美人だから成立するのだ。それは裏を返すと、男たちは、どんなに惑わされたとしても、言い寄られたとしても、「醜い」女であれば、恋慕するどころか、まさか金や命を取られることはない、というのが世間一般の見解なのだろう。せいぜい都合のいいヤリ捨て要員が精一杯だ、と思っている男も少なくはないはずだ。そんな男たちが「醜い女」に対して優位に立てるのは、その女は己よりも下の存在であるからだと思い込んでいるからにほかならない。だからこそ、彼女たちはセンセーショナルに取り上げられた。「こんなにブスなのに」「こんなに太っているのに」、「何人もの男を惚れさせたなんて」「そのうえ貢がせた挙句、殺すことが可能だなんて」と、面白おかしく扱われたのである。
過去に存在していた、「醜い女犯罪者」でも、男が絡まない者たちは、そこまでの扱いはされなかったように記憶している。ぱっと思いつくのはカレーに毒物をいれたとされる女、我が子と隣人の子を殺めた女。インターネットのうねりの中では散々ブスだのなんだの言われてはいたものの、木嶋佳苗氏のような扱われ方はしていなかったように思う。
その原因の一つは、木嶋佳苗氏のいわゆる「名器発言」。それは、あまりにも有名だ。火に油どころかガソリンをぶちまけるような発言だったのである。つまり、「こんなに醜いのに、なぜ男は騙されたのか」という世間の問いに対し、「本来持っている機能が普通の女性より高い」イコール「自分の女性器は素晴らしいものである」との解を、それも法廷の場で言ってのけた彼女の発言は、「こんなにも醜いのにセックスができるのか」という蔑みと「こんなに醜いのにそんなにセックスがいいのか」という好奇の目にさらされたのである。
男性の心理は全くわからないのだが、彼女には、そもそもセックスまで辿り着けるだけの魅力はあるのだ。いきなり出会って五秒でセックスするーつまりは、彼女のいう「本来持っている機能」を披露する機会にありつけるーことはないだろうから、そこに至るまでには会話もあるだろうし、多少なりとも男性に「セックスしてもいいかな」と思わせなければならないだろう。若ければ性欲が暴走して「誰でもいいから」と思うこともあるかもしれないが、そういうわけでもなさそうである。
逆に、彼女の被害者とされる男性たちは性欲に振り回されるようなことはないであろう年齢である。彼女にまとまった金額を貢げるくらいにはお金もあった。とはいえ、ある程度高齢であるからこそ、社会的に成功しているからこそ、美しいだけの女性には飽き、木嶋氏のような何ともいえない魅力を持つ女性に惹かれ、床に至るまでのハードルも低くなってしまうのだろうか。あるいは、「ちょうどいいブス」のような扱いだったのだろうか。そして、一度ベッドに入ってしまえば、彼女の虜になってしまうのだろうか。そのあたりは女である私にはどうも理解しがたいのだが、ただ男を騙すだけには醜すぎ、床に至れるほどには魅力のある女、そして一度夜を共にしたらもう逃げられない、そういうことなのだろうか。
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『礼讃』は、彼女の自伝的小説であり、著書の中では、彼女は「木山花菜」である。
北海道に生まれ落ちてから今日に至るまで、鮮明に描かれている彼女の生きている証。自分とは正反対の少女との出会いから始まるこの小説は、そこから年上の東京の男子との出会い、初めての彼氏、初体験、そして初めて犯罪に手を染めた日へと移ろっていく。上京してからの毎日。様々な男との出会いと、セックス。愛人稼業とギャンブルで生きていた日々のこと。母との軋轢と、家族とのいびつな絆。彼女の人生が、時系列に沿って細かく描かれているのだ。
ゴーストライターの存在を疑ってしまいたくなるほど、彼女の文章は才能がある。意識してかどうかは分からないが、技巧も凝らされている。強いていうならば、少し上っ面を撫でるばかりでどうやっても核心に迫れない印象はあるが、彼女が男性を騙すときもこうやっていたのかと思うと、おぞましいほどの迫力を感じる。
その中でもやはり、彼女の性に対する感受性は目を見張るものがある。もはや官能小説を読んでいる気分にすらさせられる。ただ性欲を刺激するだけのエロティックな表現の羅列にとどまらないのは、そこに織り交ぜられる彼女の知性と表現力のおかげだろうか。
子供のころから高尚な趣味を持つ父の薫陶を受けていた、と本文中にも描かれているとおりに、小学生時代を想起した箇所にすら難しい言葉が並ぶ。本当に、小学生時代の彼女が大人顔負けの知識があったのか、執筆にあたって補完しているのか、つまりは下世話な言い方をするならば、「盛って」いるのか、はわからないが、学年に一人くらいは異様なまでに大人びた子供がいるものなので、彼女もそういった存在だったのかもしれない。
例えば、八歳で初潮を迎えたときのことを、あんなにも克明に描くことができるのは、彼女の記憶力がずば抜けているからなのか、拘置所での退屈な日々がそうさせたのかはわからない。もちろん、多少は脚色していたり、記憶を取り違えたり、思い出を美化したりしてはいるだろう。けれども、私は自分が初潮を迎えた日のことなどどんなに頑張っても思い出せないのだから、その一大イベントに対する重みが違うのだろうと思う。私にとっては、ただ煩わしくて痛いだけの地獄の扉を開けた日でしかないし、あの頃は思春期独特の、自分の体が大人になることへの恥ずかしさや恐怖のようなものしか覚えていなかった。
一方、彼女にとっては自分の体が大人になることへの歓びにつつまれた一日だったのだろう。女子だけ集められて視聴覚室で配られた、生理用品メーカーが作った小さな冊子にあったような「生理が来るということは、大人の体になるという喜ばしいこと」という教科書通りの言葉のように、わずか八歳の彼女は自分の体の成熟を楽しんでいたらしい。三十二歳、未だに毎月「どうして女だけこんな思いをしなくちゃいけないんだ」「イブが犯した罪の罰なのだとしたら、あんまりじゃないか」と痛み止め片手にブツブツ文句を言っているのが恥ずかしくなってくる。
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もしかすると、直接彼女の罪状に関わることだから敢えてそうしているのかもしれないが、本書には彼女が死刑となる理由の出来事については全くといっていいほど描かれていない。大人になってからのことはかなり駆け足で終わりを迎える。やや残念な気もするのだが、木嶋佳苗が木嶋佳苗たる所以である子供時代、そして高校を卒業して上京してからの男性遍歴、そして愛人稼業を生業とするまでのことは本当にグロテスクなほどに密に書かれている。
彼女の人生に交差していった多くの男たち。彼らのことを愛し、彼からから愛されていた。それを1ミリも疑わず、そして今もなお、その純粋すぎる愛に浸っていられるのは幸福なことであろうか。『恋の精に魔法をかけられた。自分のことを真剣に好きだ、愛していると言ってくれる人が傍にいてくれることは理屈抜きに幸せだった。』と、はっきりと言い切れる人は、あるいはその思い出がある人は、この世にどれくらいいるんだろうと思う。
特に、彼女の初めての彼氏であり、破瓜の相手であり、犯罪に手を染めさせた相手である「徹」との出会いと彼と過ごした日々のことは、そしてその結末は、それだけで一本映画が撮れそうなほどに濃密で、非常に熱のこもった筆致で迫ってくる。そして、とにかくエロティックである。肌を合わせている間のこと、それももう何十年も前のことを、よくそこまで覚えて、文字にできるものだと感心する。
『徹さんと過ごした時間は、私の胸にじんわりとした追憶になって打ち寄せてくる。(中略)それはとても大きな意味を持ち、私はそれを説明するために生きているような気持ちにさせられる。女として生きていく根拠が、徹さんとの交際に全て詰まっていると感じざるを得ないのだ。』とは、恋や愛のたどり着くべき場所とも言えるだろう。
そんな恋多き彼女は収監されてから三度結婚している。彼女は本書の中で、『結婚は、一人の男性の専属娼婦になることだ』と定義している。ギョッとするような台詞であるが、真理でもある。結婚するということは、夫以外とは体の関係を持たないということである。それを娼婦という言葉にまとめてしまうのはあまりにも乱暴ではあるが、言いたいことは分かる。だから、彼女は『その一人の男性を決めるためにいろんな男性と試しに付き合ってじっくり選ぶのは当然だ』と続ける。倫理的かどうかはともかく、理屈としては正しいような気もする。彼女の紡ぐ言葉の中で、一番インパクトがあるのはこの一文だと言って差し支えない。
今の彼女は、娼婦としてはいられない環境に身を置いて、それでも夫という存在を持ち続けている。それは彼女の理念には反しはしないのだろうかと疑問に思わなくもない。肌を重ねるどころか、面会だけでも厚いアクリル板を隔ててであろう。それでも彼女が結婚という道をなぜ選んだのか、きっと彼女にしかわからない娼婦の定義があるのだろう、ということにしておきたい。
自分を無条件に溺愛していた祖父母と一緒に見た馬の種付けショーのこと、同性との幼すぎる肉体的なつながり、その先にずっと続いていたリビドーにまみれた日々のことも。多くの男に愛され、そう、ただ愛されていた日々のことも。生唾を飲みながら読み進めていくたびに、それは冷たい拘置所の中でその日々に理由づけをした創作の技法なのか、彼女は本当に、心の底から、その日々を楽しんでいたのか、分からなくなる。一読者としては前者であってほしいが、女としては後者であってほしい。
「醜い女」とは、彼女自身の言葉ではない。世間が、他人が彼女を評した言葉である。本書の中でも、彼女が自身のことを蔑むような箇所はほぼ見受けられない。唯一、彼女が自身のことを「太っている」と卑下したのはずっと幼い頃、周りにいる同い年の女児と比べてどうして自分はこんなに太っているのかと祖母に尋ねるシーンである。その後読み進めていくに連れ、その何倍、何十倍、何百倍も、男性たちから与えられた賛美の言葉が続く。
木嶋佳苗は自己評価が異常に高く、まるで自分を美人だとでも思っているのか、ちゃんちゃらおかしな話だ、と彼女を卑下する声もある。インターネットに散在する本書の書評の中で、おそらく男性であろうが、「鏡を見てから書け」と酷評している方がいらっしゃった。小説と著者の関係性において、そこは全く関係ないはずだ。ブスが恋愛小説を書こうが、童貞が官能小説を書こうが関係ない。そんなことを言ったらファンタジー小説は成立しなくなる。「木山花菜」が「木嶋佳苗」であると、文字の羅列とあのロングヘアの写真を糊付けしているのは他でもないあなたなのだ。それはきっと、彼女の策略にはまっているのだ。結婚詐欺に注意したほうが良い、とおせっかいを焼きたくなった。
ともかく。本書からは、彼女の自己評価は非常に高く見える。否、実際に高いのであろう。でなければあの「名器発言」には至らない。こんなふうに自信を持って男性を接することができたらなら、と憧れなくもないので、「木嶋ガールズ」とも呼ばれる女性たちの気持ちもわかる。けれど、それは本当なのだろうかと疑問にも思う。
本書は、彼女の父の友人とその娘が、彼女たちの家を訪ねるシーンから始まる。細くて愛らしく、アメリカ帰りの洗練された雰囲気を持つその娘に、彼女は早すぎる嫉妬と挫折を感じたのではないか、と勘繰ってしまう。彼女がいう通り、本当に早熟で頭のいい子供であれば、「この娘には敵わない」と思うことも、絶対に解消できないコンプレックスにぶち当たることも、何ら不思議ではない。その裏返しで、異様なまでの自信がみなぎっているよう振る舞っているものの、屈辱感に塗れた幼い佳苗ちゃんが、彼女の中にいまだに潜んでいるような気がしてならない。
だから、私はそんな経験を山ほどしてきた女として、彼女は本当に、巷で言われている通りに自信たっぷりの女であろうか、本当はもっと繊細で傷だらけなのではないかと疑問を抱かざるを得ない。
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彼女は言う。
『私は愛した男性を嫌いになったことがない。十八歳以降の恋愛の終わりは、今交際している彼よりももっと好きな人ができたことが理由の全てだった。』
『ステディーな彼がいない期間は一日もない。一人で夜を過ごした日は数えるほどしかない。
そんな人生を送ってきた。』
これが真実であってほしいと思うのは、同じ女としてーあるいは、同じ「醜い女」とされる者としてーの切なる願いでもある。
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女はいつでも、値踏みされる。
21世紀ももう四分の一が過ぎようかという今でも、女は値段をーそれは、金という意味ではなくーつけられる存在なのだ。美人である、スタイルがいい、愛嬌がある。本当に悔しいのだけれど、一目見ただけで評価されるのだ。
私はこの自分の肉体に強烈なコンプレックスを抱いて生きてきた。目が二重だったら、鼻がスッとしていたら。あと身長が10センチ低ければ、あと体重が10キロ軽ければ。数えきれないほどのタラレバを呪詛にして吐きながら、どうにか生きていかなければ、戦わなければ、選ばれなければ、と焦り、傷つき、悩み、もがいて、生きてきたのだ。
「人間は見た目じゃない」というのは簡単だ。でも、見た目がある閾値に達しないと、その先には辿り着けないのだ。性格や知性や他のいろんなことは見た目テストをパスした上での話である。どう頑張ったってそれをパス出来そうにない見た目に生まれ落ちた自分は、歯を食いしばってでも、一人で生きていけるようにならなければならない。それが私の出した結論だった。
『礼讃』を読むまでは。そして、その著者をもっと知りたいと思って、色々と調べるまでは。それは決して、「あんなブスでも出来たんだから私も出来るはずだ」という、彼女を蔑むことで得られる自信ではない。私もまた、彼女に惹きつけられているのだろう。もしかしたら、どこかで彼女の人生と交わることがあったならば、私は今ここにいないような気さえしてくる。
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最後に、数え切れないほどこの本を読んでいても未だに全く分からないことがある。それは他でもない、題名である。『礼讃』とは、デジタル大辞泉によると
らい‐さん【礼賛/礼×讃】
読み方:らいさん
[名](スル)
1 すばらしいものとして、ほめたたえること。また、ありがたく思うこと。「先人の偉業を—する」「健康を—する」
2 仏語。仏・法・僧の三宝(さんぼう)を礼拝(らいはい)し、その功徳(くどく)をたたえること。また、その行事。
とのことである。なぜ彼女は自分の処女作にこの二文字を選んだのだろうか。誰が誰を礼讃しているのだろうか。彼女にとって、この小説で描いた「すばらしいもの」「ありがたく思うこと」の主語と述語は何なのだろうか。一文字も書けないほど、私はこれについては考えがまとまらないことを、ここに記しておく。またいつか、書くかもしれないし書かないかもしれない。墓の中でもこのことを考えているような気もする。
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彼女の魅力、真の魅力は何だろうか。
彼女のいう通り女性本来の機能なのか、長い時間をかけて培われた知性や持ち前の頭の良さなのか。裁判を傍聴した者のコメントとして噂される、鈴を転がすような声なのか。料理の腕前や、拘置所ブログで読める通りの字のうまさなのか。本書に裏付けされている言葉の選び方なのか。それとも、何かもはや人知を超えた本能に紐づいているフェロモンなのか。
それがわかったとき、私はただの醜い女ではなくなるような気がする。彼女が、少なくとも複数の男性にとっても、そして世間にとっても、「ただの醜い女」で終わらなかったのは、自分のことを誰よりもわかっているからなのではないかと思う。己を知り、戦い方と戦うべき場所を知る。それはどの世界においても、必要な二つのステップだ。本書の中で、その辺りを手ほどきしてもらえると本当はありがたかったのだが、序盤に述べた通り、彼女は絶対に核心には触れない。何度読んでも、焦らされて寸止めされているようなモヤモヤが胸に残る。あなたにわかるものかしらね、と微笑む彼女が脳裏をよぎっては、背筋が冷たくなる。
そういった意味で、いろんな意味で、私は木嶋佳苗になれるのだろうか。
何度も何度も読み返しても答えの出ないその問いの答えをもまた、きっと私は、また何度も何度も読み返して、探し続けるのだろうと思う。女として生まれたことと、生きてゆくことに赦しを乞うような祈りと共に、探し続けるのだろうと思う。