長嶋茂雄さん 3日に死去 悼む動き各地で広がる

プロ野球で輝かしい実績を残し「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれた長嶋茂雄さんが3日、89歳で亡くなりました。
国民的人気を博した長嶋さんの死を悼む動きが各地で広がっています。

イチローさん「天才とはこういう選手のこと」

1994年11月 イチロー選手と長嶋さん

亡くなった長嶋さんについて現在、大リーグのマリナーズでインストラクターを務めるイチローさんがコメントしました。

この中でイチローさんは「何度かしかお目にかかったことはありませんでしたが、いつもキラキラ輝いていてそれは愛した野球に心血を注いでいるからだろうと想像していました。理屈ではなくフィーリングでプレーする方で『天才とはこういう選手のことを言うのだな』と感じました。野球の存在を世に知らしめてくださった功績は計り知れません」としています。

脳梗塞治療した医師「リハビリ取り組む姿 患者の励みに」

長嶋さんは、68歳だった2004年3月、日本代表の監督としてアテネオリンピックを控える中、自宅で意識がなくなり、脳梗塞と診断されました。

国際医療福祉大学教授の内山真一郎医師は当時、長嶋さんが入院した東京女子医科大学病院で主治医として治療にあたりました。

内山医師は入院した当初の長嶋さんの様子について「意識がなく、手足もまひして重症でしたが、点滴をして投薬を続けるうち、徐々に意識が回復し、言語や認知の機能には影響がないとわかってきました。意識が回復したあとはアテネに行くことをモチベーションに、積極的にリハビリに取り組んでいました」と振り返りました。

それでも8月のオリンピック本番には参加できないと判断し、本人に伝えたということで「しばらく考えて、涙を浮かべて、『わかりました』と決断していただきましたが、そんな姿を見るのは初めてでした。モチベーションがなくなるかと思いましたが、並外れた体力と持ち前の明るさで、ハードなリハビリをこなし続けていました」と話していました。

よくとしの7月に、長嶋さんが東京ドームでの試合を観戦した際には、内山医師も同席し、喜びと安どを感じたといいます。

内山医師は「『長嶋さんも頑張っているので自分も頑張る』と話す患者もいました。懸命にリハビリに取り組む姿が全国の患者の励みになったと思います。今後も語り継がれていくと思うので貢献は大きいと思います」と話していました。

巨人 喪章をつけて試合に

巨人の試合会場の千葉市のZOZOマリンスタジアムでは、半旗が掲げられるなか選手たちが黙とうし喪章をつけて試合に臨みました。

3日の試合が雨で中止となったため、長嶋さんが亡くなってから巨人の最初の1軍の試合となるロッテ対巨人の会場、ZOZOマリンスタジアムにはバックスクリーンの上に半旗が掲げられました。

試合前にはスクリーンに生前の写真が映し出されるなか、両チームの首脳陣や選手、それにファンが20秒あまりにわたって黙とうを捧げました。

そして巨人の選手たちはユニフォームの袖に喪章をつけて試合に臨みました。

球場を訪れたファンからは長嶋さんの死を悼む声が聞かれ、40代の男性は「小学生の頃から好きだったので本当にさみしい。きょうの試合は強い巨人を見せて長嶋さんに勝利を届けてほしい」と話していました。

また50代の男性は「長嶋さんは、かけがえのない存在で、いつも元気をもらっていた。きょうは長嶋さんのためになんとしても勝ってほしい」と応援していました。

都内にある自宅では、4日午前中、長嶋さんが監督時代に指導した中畑清さんや高橋由伸さんなど教え子たちが弔問に訪れました。

中畑清さん「これからも目標にと伝えました」

中畑清さんは、長嶋さんが1期目の監督を務めていた時に選手としてプレーし、2004年のアテネオリンピックでは病気のため指揮をとることができなかった監督の長嶋さんに代わって日本代表のヘッドコーチを務めました。

およそ30分の弔問のあと、中畑さんは報道陣の取材に対し「おい、みんな元気かと今にも叫びそうな顔をされていました。ありがとうございました。これからも目標にさせてもらいますと伝えました。悔しさでいっぱいです」と言葉を詰まらせながら話していました。

高橋由伸さん「今があるのは長嶋さんのおかげ」

長嶋さんが2期目の監督を務めていた1998年に巨人に入団し、監督も務めた高橋由伸さんは「家族の方や中畑さんもいて、昔話で談笑していたんですが今にも笑い出しそうな表情でした。長嶋さんが監督だったからジャイアンツに入ったと思いますし、導いてくれたのも監督です。感謝でいっぱいです」と話していました。

そのうえで長嶋さんとの思い出について質問されると「出会いからいろいろなことがありますが、僕が監督になってからの方が2人で話す機会が増えました。厳しく怒られたこともありましたけど、支えてくれました。今があるのは長嶋さんのおかげです」と感謝の思いを表していました。

4日午後には、長嶋さんのもとでプレーし、後に首位打者を2回獲得した篠塚和典さんや、長嶋さんの監督1年目となる1975年のドラフト1位で、ピッチャーとして活躍した定岡正二さんが弔問に訪れました。

このほか、野球界以外からもプロゴルファーの青木功さんなど親交のあった人たちが訪れたほか、長嶋さんの背番号「3」のユニフォームを着たファンが自宅の前で手を合わせるなど多くの人たちが別れを惜しんでいました。

オリオールズ 菅野智之投手「プロ野球のシンボル」

去年まで12シーズンを巨人で過ごした大リーグ・オリオールズの菅野智之投手は「ことばにならなかった。小さい頃から『ジャイアンツでプレーしたい』という思いでずっと長嶋監督の野球を見ていた。入団してからもすごく気に掛けていただいて、会うたびにはげましのことばをたくさんもらったので残念です」と話しました。

そのうえで「日本のプロ野球のシンボルのような存在でもちろん成績もすばらしいが、本当に“プロ野球”という、プレーで見せるプロフェッショナルな選手であり監督さんだった」とあらためてその功績をたたえていました。

先発登板した3日のマリナーズ戦は7回をソロホームランの1点だけに抑え、巨人の元エースとしての力を存分に示しました。

菅野投手はこの日のピッチングを振り返り「ピッチングフォームや技術もがっちりはまった。ソロホームランからボールを低めに集めないといけないなと思い、うまく修正できた」と手応えを口にしました。

ドジャース 山本由伸 投手「本当に神様のような存在」

大リーグ、ドジャースの山本由伸投手が3日、チームの社会貢献活動に参加したあと、報道陣の取材に応じ、「日本のプロ野球が発展するきっかけとなった方で、野球選手としても1人の日本国民としても悲しく思う」と悼みました。

そのうえで「直接接点があるわけではないが、子どものころから野球界の伝説的な存在で、本当に神様のような存在だと思う」と話していました。

東京六大学野球優勝決定戦でも追悼

神宮球場では4日、半旗が掲げられるなか、春のリーグ戦の優勝決定戦が行われ、早稲田大が明治大に6対5で勝って3季連続49回目の優勝を果たしました。

閉会式では立教大の選手たちが喪章をつけて参加したほか、バックスクリーンには長嶋さんの写真が映し出され、六大学野球で活躍した経歴などが紹介されました。

長嶋さんは立教大のOBで東京六大学野球では当時のホームラン記録となる、通算8本のホームランを打つなどスター選手として活躍しました。

選手や関係者などが黙とうをささげて長嶋さんの死を悼みました。

立教大学の木村泰雄監督は「立教大学野球部の偉大な先輩でもあるし野球界の宝なので、非常に残念です。長嶋さんは大学時代にものすごく厳しい練習をされてその努力の結果が偉大な結果につながってきたということで、努力すること全力でプレーすること、長嶋さんがやられてきたことをわれわれも引き継いでいきたいです」と話しました。

また、キャプテンの西川侑志選手は「長嶋さんが袖を通した縦じまのユニフォームを着て戦っていることは改めてすばらしいことだと感じています。元気なうちに優勝を見せたかったですが、秋は絶対に優勝していい報告ができるように長嶋さんが努力されたように自分たちも努力して優勝したいです」と話しました。

巨人 2軍本拠地に「追悼記帳所」

東京 稲城市にある巨人の2軍の本拠地、ジャイアンツタウンスタジアムには、長嶋さんをしのぶファンのため、4日朝から「追悼記帳所」が設けられ、幅広い世代の人たちが訪れています。

記帳台の隣には長嶋さんが入団後、最初に使っていたグラブや現役時代のユニホームが展示され、訪れた人たちは展示物を写真におさめたり、涙を浮かべながら手をあわせたりして亡くなった長嶋さんを悼んでいました。

7歳の時からのファンだという60代の男性は「1980年に巨人の監督を退任したときに、自宅に行ってインターホンを鳴らして、妻の亜希子さんに「頑張ってください」と伝えたこともありました。長嶋さんがいたからここまで野球が発展したし、太陽のような方だったので、記帳に来ることができてよかったです」と話していました。

長嶋さんと同じ高校出身だという77歳の男性は「小さいころから郷土の英雄として応援していました。そんな偉大な方が亡くなるというのはさみしいかぎりです。自分の人生で苦しいときに長嶋さんの明るい笑顔を見ると元気がでたし、日々の生活を明るくしてくれる人でした。空で見守っていてほしい」と話していました。

また、20歳の男性は「現役時代や監督時代を実際に見たことはないですが、プロ野球をここまで盛り上げてくれたのは長嶋さんなので、記帳に来ました。亡くなったことを痛感して悲しい気持ちになりました」と話していました。

「追悼記帳所」は4日は午後5時まで、5日も午前9時から午後5時まで設けられます。

長嶋さん追い続けたファン「野球の楽しみ方 教えてくれた人」

東京・稲城市で暮らす79歳の竹田禮子さんは、子どものころ、兄3人のきょうだいの中で育ち野球が身近だった影響もあって知らず知らずのうちに長嶋茂雄さんに夢中になっていたと言います。

長嶋さんが現役や監督の時代には多いときには毎日のように後楽園球場や東京ドームに観戦に行き、夫が広島に転勤が決まったときには長嶋さんの試合を見るために4年間、単身赴任にしてもらい、東京に残ったということです。

竹田さんは、ジャイアンツタウンスタジアムに設けられた「追悼記帳所」を訪れ「天国にいる妻の亜希子さんと仲良く過ごしてください。これからの巨人を見守っていてください」という思いを込め、涙を浮かべながら記帳しました。

竹田さんの自宅を訪ねると部屋の一角に長嶋さんに関わる数々のグッズが大切に保存されていました。

直接もらったサインボールや、長嶋さんが特集された雑誌、そして、引退時に、17年間の現役生活の軌跡をまとめて発売されたレコードは「もったいなくて開けられない」と購入した当時のままで残されていました。

また、竹田さんが足を運んだ長嶋さんの写真展などのイベントのチケットや写真もアルバムに整理されていて竹田さんは長嶋さんが亡くなったことをテレビの速報で知ったとき、集めたグッズを見て涙を流したと言い、ほぼ1日部屋から出られなかったということです。

竹田さんは長嶋さんの魅力について「天真爛漫な明るさでもうすべてがすばらしい野球選手。楽しい野球をみせてくれた」と話しました。

また、長嶋さんの自宅にサインをもらいにいったこともあるということで「長嶋さんが『どこから来たの?』と聞いてくれた。1か月後にうかがった時には『この間もそんな奥さん来たね』と言い、覚えていてくれたことがすごくうれしかった。本当に気さくで長嶋さんほどの人はもういない」と話していました。

さらに「野球に対する楽しみ方を教えてくれた人だった。神様、仏様、長嶋様。ずっとずっと元気でいてほしかった。長嶋さんからたくさんの勇気も喜びも感動ももらったし、私も80歳になるけど自分の人生で1番最高な人だった」と別れを惜しみました。

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