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御巣鷹 520人に生ける花 日航機墜落事故40年

「おい悦子、この枝をさせ」

生け花の家元だった夫に、私はさんざん振り回され、こき使われました。

彼には悪いですが、「いい夫だった」とは言えないと思います。

ある時は、モミジを採るためだけに、大阪から長野まで行かされ、またある時は、高さ6メートルの作品づくりのため、はしごに登らされ、下からメガホンでどなられ放題。

「鬼の髪を表現したい」と、数千枚もの葉を連日連夜、剣山で引き裂き続けたこともあります。

でも、彼が創り出す生け花は、いつも斬新でありながら心地よく、やさしい。

私は一番のファンでした。夫はこのまま生け花界のトップをひた走っていくと、信じて疑いませんでした。

ところが、その歩みは、あの日、突然断たれてしまいました。

結婚生活はわずかに12年半でしたが、この時間があったからこそ、その後、私も自分の人生を歩め、華道家になれたと感じています。

事故から40年がたちました。

覚悟がいりますが、夫のこと、事故のこと、私のその後について、そっくり振り返ろうと思います。

(大阪放送局 記者 高橋広行)

日航ジャンボ機墜落事故

1985年8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便が、群馬県上野村の山中に墜落した(墜落現場は後に「御巣鷹の尾根」と命名)。

520人が犠牲となり、単独の航空機事故としては史上最悪の悲劇だった。

「いままでメディアの取材はほとんど断ってきましたが、事故のことを伝えてほしい。今回はお受けします」

夫の右弼(ゆうすけ)さん(当時41)を亡くした、大阪 堺市の華道家、片桐悦子さん(77)が今回、取材を受けてくれた。

“あいつはいい” けど頼りない

私は東京出身で、団塊の世代ど真ん中の1948年(昭和23年)生まれです。

ひょんなことから大学生のグループが、私の実家に出入りするようになり、その中の1人が、年上の右弼さんでした。

優しく、話も上手で、愛嬌のある人でした。

私の父親が「あいつはいい、あいつはいい」と気に入ったこともあり、大学卒業からまもなく結婚。

堺市で暮らすことに。

このとき、私は23歳。

夫は27歳でした。

夫の父親は「みささぎ流」という生け花の創始者でした。

といっても、生け花は名乗りをあげれば、家元になれる世界。

よく知られた流派と比べれば、かなり小さい流派です。

夫が、いずれ跡を継ぐことになっていましたが、はじめは頼りないものでした。

私も中学生のころから生け花をやっていたこともあり、同じ素材で生けてみると、私の花と、夫の花の出来は遜色ありません。

「なんだぁ、こんなものか」と心の中で思ったのを覚えています。

いまだから言えることですが、私は生け花自体、あまり好きではありませんでした。

どこか権威主義的で、堅苦しい世界が嫌でした。

自分の花を先生に大幅に直され、もはや私の作品ではないのに、私の名前で出展されたこともあり、おもしろいと思ったことは一度もありませんでした。

夫は、教室の指導もそこそこに、暇さえあれば、花や芸術の本をむさぼるように読んでいました。

「もっと働け」と思っていましたし、夫婦げんかも散々しました。

ところが、30代の半ばごろ、次男の誕生も影響したのか、夫の「蓄積」が急にはじけたんです。

年にいくつもある生け花展に、次々に作品を出していかないといけないのですが、新しい作品ができる度に、私はうなりました。

生け花のイメージが、がらりと変わりました。

妻であることを差し引いても、夫の花はきれいでした。

彼の持っている優しさ、思いやり、人格。

「片桐右弼の世界」が、これでもかと出ていて、夫の花が大好きになっていました。

右弼さんの作品

てんやわんやの創作

作品の出展にあたっては、毎回、夫は必ず私に「どう思う」と相談してきます。

二人三脚ではなく、一心同体。

必ずどこでも私がいっしょについていきました。

でも、いつも急で、むちゃが多かったです。

大阪では紅葉が始まっていない9月のこと。

「よし。一足早く、みんなに秋を見せたらおもしろいんじゃないか」

紅葉した葉を採るためだけに、長野県の山奥まで行かされました。

モミジの葉は重かったです。

採り終わったら、観光する間もなく、大阪へとんぼ返り。

葉を1枚1枚拭いて、乾かして、すべて押し葉にして、アクリル板に貼るのを手伝いました。

この夫の作品の前には、人だかりができていました。

ある時は、能をテーマにしたグループ展がありました。

『黒塚』という作品の中に、鬼女が出てきて踊るシーンがあるというのです。

「鬼が髪の毛を振り乱しているような状況を表現したい。ゴワゴワしてるの何かな」と聞いてきました。

剣のような細長い葉を持つニューサイランを提案すると、「じゃあ、やってみてよ」と平気な顔して言うんです。

何日もかけて、剣山で何千枚ものニューサイランを割きました。

なんでここまでやらされるんだろうと思いましたが、夫が注文した木々と組み合わさると、鬼が本当にそこにいるような、鳥肌が立つような不気味な世界が表現できていました。

一番ひどかったのは、事故の2か月前です。

地元の青年会議所から頼まれて、タワーのような、高さ6メートルもある大きな作品を生けた時でした。

一番上は、はしごを組み合わせたようなもので登らないと届きません。

夫が言いました。

「おい悦子、おまえ上がれ。この枝をさせ」。

もう怖くて怖くて。

それに、その時渡されたモミジの枝は太かった。

しっかり握らないと落とすし、はしごから手を離したら、私が落ちてしまいます。

恐怖の中で、夫はメガホンを片手に大きな声でまくし立てます。

「もっと右だ」「違う、上だ」と。

夫は、全体の仕上がりを見たいから、自分では登りません。

「このやろう。お前がやってみろよ」と思いながら、やりました。

こんなふうにやらされるばかりなのに、できた作品が、ずば抜けていいから、納得させられてしまうというか、支えざるを得ない。

次はどんな作品ができるのかと、いつもワクワクしていました。

彼の発想、植物を変貌させていくプロセス、生け込み。

すべての作品の初めから終わりまでを、全部私は見てきました。

このお花の驚きと感動と感性を教えてくれたのが夫でした。

私の原点です。

同志だったと思っています。

NHK出演の反響

やがて東京でも、月2回程度、教室を持つようになりました。

稽古場は、私の実家です。

ただ、夫も忙しかったので、東京の教室は夫と私が半々で受け持っていました。

そんな折、生け花を扱っていたNHK教育テレビの『婦人百科』から夫に出演依頼があったのです。

担当ディレクターが、生け花の展示会を回る中で、夫の作品が目にとまったとのこと。

業界でも評価の高い番組で、夫はものすごく喜びました。

当時41歳。

「弱小の流派の俺が、認められた」という思いだったと思います。

30分の番組で何を生けるか、何を語るか、一緒に徹夜して考えました。

もちろん私もスタジオについて行きました。

当時、生け花の番組は、花の正面をカメラの方に向けて、花の背中側に立って生けていくというスタイルでした。

確かにその方がカメラで撮りやすいので、しかたないと感じていましたが、夫が「私はそれはできない。お花の正面に立たないと生けられない」とディレクターと交渉して、夫がカメラに背を向けて生けられることになりました。

こだわりを貫いた夫が、誇らしくありました。

おかげさまで番組は好評でした。

放送後、全国から「お花を習いたい」と自宅の電話が鳴りました。

「東京にも稽古場がありますよ」と答えると、首都圏のお弟子さんがぐんと増えました。

そこから、東京の教室には毎回、夫が行くようになったのです。

私は「花の名手」と言われるようになった夫の華道家としての道が、いっそう開けると、信じて疑いませんでした。

記念の放送から3か月後、東京で稽古をつけた帰りでした。

夫が、日本航空123便に乗ったのは。

あの日の記憶

123便は、私が予約した便でした。

あの日、搭乗者名簿に「カタギリユウスケ」の名前があるとわかったとき、目の前の世界が色も音もない真っ白な空間に変わり、ただ私1人が浮いているようでした。

夫の身元が確認されるまでは何日もかかりましたが、事故後まもなく現場の状況がテレビで流れた時には、私は悟っていました。

悟らざるを得なかった。

当時、私は37歳。

息子は12歳と6歳。

訳のわからない涙が止まりませんでした。

自分の心を、ずっと、ぎゅっとわしづかみにされているようでした。

こうした中でも、次の作品展が迫っていました。

普通の感覚なら、それどころではないかもしれません。

ただ、芸術家は、亡くなった後には必ず「遺作」を出します。

華道家も同じです。

事故翌月の9月に、百貨店で予定されていた作品展がありました。

そこが、片桐右弼の名前で出せる、最後の舞台だったのです。

夫の無念さを思うと、ここに夫の作品を何としても出さなければという思いにかられていました。

夫から次の作品の構想は全く聞けていませんでしたし、何より私はいつも裏方・サポート役です。

自分の作品を出展したことは過去に数回しかありませんでした。

でも、やるしかなかった。

夫の作品で特に好きなものがありました。

それは、器を大きな氷と竹で仕立てたものでした。

すごくきれいだったのに、1日かぎりの出展だったので「もっと多くの人に見てもらいたかった」と、ずっと心に残っていたのです。

ただ、当時は誰にも会いたくなかった。

氷屋さんに頼んで、朝早くに氷を会場に持ってきてもらいました。

氷の器の上に、たった1人で、夫が好きだったカノコユリ、テッセン、ナデシコを生けました。

悦子さんが生けた右弼さんの遺作

やがて、夫の父親がお弟子さんたちに伝えました。

「悦子を助けてやってほしい。みんなで盛り立ててほしい」

私ももう跡を継ぐ覚悟を決めていたので、背中を押された形でした。

いま思えば不思議なタイミングなのですが、実は、事故の1週間前に、夫からこんなことを言われました。

「夫婦で1つのことをやるっていうのもいいよな。もし生まれ変わっても、いまの続きを、お前と描きたいな」

私のことなんて褒めたことがない人でしたから、こんなことばを残してくれたことも、跡を継ぐ理由になりました。

私が中心になってからも、怒濤のように生け花展がやってきます。

そこにすべて違う作品を出さないといけないことは不安でしたが、私には夫との共同作業の経験がありました。

この土台があったので、お弟子さんたちに支えてもらいながら、何とか華道家としての道を歩み出せたのではないかと思っています。

台風が迫る中

事故からまもないころの御巣鷹の尾根には、霊や魂と言えるようなものが、渦巻いていました。

私も事故の年の秋に初めて登った時は、恐怖でしばらく座り込んでしまいました。

あの事故は、夫の「これもやりたい」「あれもやりたい」を、いっぺんに全部断ってしまいました。

でも、それは、乗っていた520人全員が同じです。

自分にできることは何か。

自分は花しか生けられません。

少しでも520人の魂を癒やしてあげたい。

そして、自分も花を供えることで癒やされたい。

3回忌のとき、520人の墓標すべてに、献花しようと思いました。

台風が近づく中、丸2日かけて、お弟子さんたちの手も借りながら、水を運び、竹筒に花を供え、手を合わせました。

最後は嵐となり、中腹の山小屋に取り残されてしまいました。

台風が去って外に出ると、お花は飛ばされることなく、咲き続けていました。

朝もやの斜面に花が広がっている様子は、とてもきれいでした。

「みんな喜んでくれているかな」

私の心が、何かやさしいもので包まれたような感覚でした。

次はもっとやりたい。

お花は鎮魂だけのものではない。

供えるのではなく、520人の無念に寄り添うような、ひとりひとりに合った花を生けたい。

自然とそう思うようになりました。

御巣鷹に生ける

それから、大阪から毎月のように尾根に通いました。

移動だけで1日かかりますから、朝大阪をたって、中腹の山小屋にたどりついたときには、すっかり夜です。

寝袋に身を包み、翌朝から1日半かけて、順に生けていきます。

花の調達には、地元の人たちにもずいぶん助けていただきました。

一番最初は、結婚式を控え、ウエディングドレスまで決めていたという26歳の女性の墓標でした。

夫の墓標へ向かう途中にあるので、いつも前を通っていて、気になっていました。

尾根のふもとに咲いていた黄色いヤマブキをたくさん使って、大きなベールに見立てました。

はじめ日航の社員は、ただ黙って水を運ぶのを手伝っていました。

やがて、私の気持ちが伝わったのか、ぽつりぽつりと「この人はこういう方だった」とバックグラウンドを教えてくれるようになり、ずいぶんイメージが湧くようになりました。

ただ、土肌がむき出しになった尾根を前に、普通に生けると、どうしても花がかすんでしまうというか、負けてしまいます。

対抗する気持ちが沸々とわき、自然と生け方も大胆になっていきました。

18歳の高校3年生は、受験予定の大学を下見した帰りだったといいます。

輝く将来があった。

夢に向かって羽ばたきたかった思いを込めて、ネットを広げ、その上にいろいろな色に染めたほうき草をのせて、翼のように仕上げました。

山のふもとには多く咲いているのに、尾根にはない花もありました。

「私たちが見ている景色を520人にも見せてあげたい」

梅雨時期には、あじさいを。

秋には、コスモス、リンドウ、ケイトウで、墓標の前をいっぱいにしました。

特に思い出深いのは、4歳と2歳の幼い子どもとお母さんの3人が亡くなった墓標です。

墓標の前に3体の小さなお地蔵さんが並んでいました。

そこで生けていて、しばらくすると足の裏に何かが、ごろごろと当たります。

なんだろうと思って掘ってみると、そこにもう1体、お地蔵さんが埋まっていたんです。

驚きました。

飛行機には乗っていなかったお父さんも合わせて、そこには、もともとお地蔵さんが4体あった。

「いつまでも4人家族一緒だよ」ということだったのに、何らかのはずみで下に落ちてしまったんだと思います。

「僕はここにいるよ。みんなの中に入れてよ」という声が聞こえてくるようで、その訴えを受け止めることができて、とてもうれしかったです。

埋まっていたお地蔵さんをきれいに水で洗って、黄色のウサギギクをいっぱいに敷き詰めた後、和やかな楽しい雰囲気で包みたくて、真っ白いカスミソウをドームのように広げました。

おもちゃの人形もあって、遊園地のようになりました。

生けながら、夫が事故の前までに、すべてを教え込んでくれたと感じました。

人間も必死な姿が美しい。

お花も必死に咲いている時が一番輝きます。

それぞれの花は運んでいる間、どのくらい持つのか。

どのタイミングが一番きれいなのか。

尾根に登りながら、生けながら、気付けば、そのギリギリを見極められるようになりました。

無念の多さで奮い立つ

ただ、一度にできるのは5人か6人くらい。

生けても、生けても終わらない。

永久に続くように感じました。

正直、断念しようと思ったこともあります。

そういう時は天を仰ぐんです。

そうすると、なんと多くの命が失われたのか、なんと多くの人が殺されたのかという現実を突きつけられます。

この520人が生きていたら、この社会でどれだけ活躍したのだろうかと。

残された人たちも生き抜いていかないといけない。

そういうものが胸に迫ってくると、なんだ、こんなことくらいでと思える。

私もやり切らないといけないと気持ちを立て直しました。

たまたま同じ123便に乗り合わせた520人ですが、徐々に、みんな夫の友達のように感じられて、親しみを感じるようになりました。

女性には女友達になったつもりで、幼い子たちにはお母さんになったつもりで、心の中で話しかけていました。

あくまで520人のためであり、私のためでした。

少なくとも100回は登りました。

すべて終えた時には、7年近くたっていました。

達成感というより、ほっとしました。

諦めないでよかった、これで私の役割は果たせたかな、皆さん喜んでくださったかなと感じました。

今度は私が

私が跡を継いでから、夫がやりたかったことを、どれだけ年月をかけてでも実現したいと思うようになりました。

夫が亡くなったあと、関係者は鵜の目鷹の目で「あそこの嫁は、これからどんな花を生けるんだろう」とうわさしていました。

次々と作品を発表していくと「誰か優秀なデザイナーを雇ってるんじゃないか」と言われるほどになりました。

NHKの『婦人百科』のディレクターは、連絡はありませんでしたが、ずっと私の作品を見続けていたそうです。

そこに何か変化を感じたのでしょう。

事故から4年たってから、電話がありました。

「もう大丈夫ですね」

そのことばが身にしみました。

そして、今度は私に番組に出てほしいと言われたのです。

うれしかったです。

夫に続いて、主婦に毛が生えただけだった私も認めてもらえたと。

いままでずっと支えてくれた人たち、お弟子さんたち、家族がものすごく喜んでくれたのが何よりでした。

はじめは、夫の無念さを少しでも晴らしつつ、息子に家元を引き継いでもらうための、言わば中継ぎのつもりで、お花を始めたわけですが、だんだんと、私個人、片桐悦子個人というのは何なんだろうと疑問を感じてきます。

何年も何年も、お花を生けていく中で、やはり精いっぱい自分、私個人というものも表現しながら生けなかったら、私らしくないということに気が付きました。

そして、夫と同じように生け花にのめり込み、さまざまな舞台に立たせてもらいました。

悦子さんの作品

作品は夫の数倍に積み上がりました。

でも、数は私の方が多くても、出来はいまでも夫にはかないません。

夫の置き土産

私は、事故の前から50年にわたって、堺市内の中学校・高校に出向き、生け花の指導にあたっています。

これも生前の夫の“仕業”でした。

夫がPTA会長を務めていた縁で、ある中学の校長先生から「感性や価値観を育める情操教育に手を貸してほしい」と頼まれたといいます。

「いいですよ。協力しますよ」と二つ返事で引き受けると、「うちもお願いしたい」「うちにも来てほしい」と各校に次々に華道部ができ、すぐに20校になりました。

もちろん夫は「俺忙しいからな。お前らやってくれよな」と、みんな私やお弟子さんたちがやることに。

夫は生前こんなことも言っていました。

「子どもたちにも、作品を大勢の人に見てもらう場をつくりたい。作品を見せるのは、丸裸になって人前に立つようなもの。そういう場を与えたら、子どもたちも、ぐっと伸びるんじゃないか」

この願いは、事故から11年後の1996年に実を結びました。

指導にあたる中学校や教育委員会、会場の百貨店と話をつけ、子どもたちの作品を展示する『よく見よう郷土堺』を開きました。

以来、毎年、続けていて、華道部の子どもたちにとっては一大行事になっています。

各中学校の華道部には、さまざまな子どもたちがいます。

ここがなければ、自己表現の場がほとんどない子もいると感じ、生け花の可能性を逆に教えられることもあります。

最近は花に魅せられ、大人になってから、私の指導を手伝ってくれる子もあらわれました。

健気な姿が、本当にかわいい。

ひとりひとりの将来まで考えながら、生け花を通じて、人間味のある、穏やかな生徒になってほしい。

いい大人になってほしい。

母親のような、おばあちゃんのような気持ちで、関わらせていただいています。

最初、夫が引き受けて来た時は、頭を抱えましたが、すっかり私の大きな財産になっていますから、「感謝していますよ」と伝えないといけません。

息子たちへ

この40年間、息子2人には寄り添えたか、正直わかりません。

大好きなパパを突然失い、その後、ママは仕事や御巣鷹通いで不在なことも多かったです。

精いっぱいの愛情は注いできましたが、気持ちをくみ取れないこともあったと思います。

特に高校からアメリカに留学した長男とは、ほとんど口をきかなくなり、関係が難しくなることもありました。

長男と

それでも、長男(52)は私に代わって跡を継いでくれ、立派な家元になりました。

次男(46)は、夫の「もう1つの夢」であった映画監督として活躍しています。

夫のやさしさは、2人にもきちんと流れていると感じます。

2人の姿を夫が見たら、どれだけよろこんでくれるでしょうか。

息子たちも、よく頑張ったと思います。

あれから40年 夫へ

60代半ばから膝を痛め、10数年、慰霊登山はできなくなりました。

でも、このまま死ぬのは嫌だ。

死ぬまでにもう一度、登りたいと一念発起し、3年前、両膝に人工関節を入れる手術をしました。

幸い去年から、登山を再開することができています。

しばらく登らないうちに、台風の被害もあって、すっかり様子が変わってしまったところもあります。

生存者が見つかった「スゲノ沢」はつぶれてしまい、123便の翼が山をえぐった「U字溝」は、ほとんどわからなくなっていました。

ともすれば、事故自体も人々の記憶から薄れてしまうのではないか。

事故のこと、大切な人を失い、残された私たちがどう生き抜いたのか、少しでいいから想像をめぐらせてほしい。

今回、取材を受けたのは、そうした思いもあります。

ことしは8月5日に御巣鷹の尾根に登りました。

夫が元気だったころにはなかった、新しい種類の花をたくさん持っていき、もう全部にという訳にはいきませんので、いくつかの墓標に花を供えました。

そして最後に夫の墓標へ。

そこにユリやトルコキキョウを生け終わると、そこだけぱっと、太陽の光が差し込みました。

「長いこと、よくやっているな」と感じてくれたのかなと思います。

私は伝えました。

「生前は夫婦けんかで、ひどいことも言いましたけど、もう40年たったから時効ですよね。最後は私もここに散骨してもらいますから、もう少し元気でいさせてくださいね」

1つ言い忘れました。

「いい夫でしたよ」

取材後記

片桐さんと初めてお会いしたのは、ことし3月。

時間を忘れて、話に聞き入り、気付けば3時間がたっていた。

片桐さんは、嫌な顔ひとつせず、その後、何度も何度も私の取材に応じてくれ、この記事ができあがった。

片桐さんは、作品を出し続け、御巣鷹の墓標に花を生ける中で「夫がすべてを教えてくれた」と感じた。

そして、それを自分のものにし、さらに昇華させたと思う。

亡くなった人は、その人を大切に思う人の、心の中で生きている。

取材中、何度もそう思った。

(8月13日「ほっと関西」で放送)

大阪放送局 記者
高橋広行
2006年入局
日航機事故当時は1歳
羽田、成田、関西空港など航空取材が長く、2014年から日航機事故の遺族の取材を続けている

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