1996年、業績低迷で倒産の危機が迫るアップルの売却先を探して、当時の社長のギル・アメリオは世界中を旅していた。そしてアメリオはソニーを訪問。会長だった大賀典雄、社長の出井伸之、ITカンパニー社長の安藤国威らとの会談に臨んだ……。ノンフィクション『決断 パナソニックとソニー、勝負の分かれ目』(藤本秀文著)より抜粋・再構成し、会談の舞台裏を紹介する。(文中敬称略)

切り出せなかった買収

 「てっきり大賀や出井はアップルを買収するのかと思った」。安藤国威は振り返る。

 スティーブ・ジョブズが追放されてから、主を失ったアップルはパソコンやOSなど過剰な在庫を抱え、倒産の危機を迎えていた。米サン・マイクロシステムズやキヤノンのほか、IBM、英蘭フィリップスなどへの身売りなども報じられていたがいずれも袖にされた。

 「世界が変わる。インターネットはビジネス界に落ちた隕石だ」

 ネット時代の本格到来やアナログからデジタルへの技術変革の必要性を予見していた出井伸之はアップルを欲しがっていた。1995年に社長になると、ソニーコミュニケーションネットワークを設立、プロバイダー事業にも進出する。

 さらに交流があったインテル会長兼CEOのアンディ・グローブとお互いの頭文字をとって「GI」プロジェクトを立ち上げ、パソコンなどデジタル機器の開発に本腰を入れ始めていた。その実行部隊としてITカンパニーを設立し、安藤をそのトップに据えた。

 IT、ネット時代の本格的な到来を確信していた出井。社長になった直後から、ITカンパニーやプロバイダー事業などを矢継ぎ早に立ち上げた出井の後ろ姿を見て、安藤は「買収するものだと思ってあらかたの買収額の算定もしていた」という。

 しかし、いつまでたっても大賀・出井は買収を切り出さない。結局、3人の談笑に終わり、アメリオはソニーから「身売り」の成果を得られず、帰国していった。

大賀の懸念

 なぜ、出井はアップル買収を切り出せなかったのか。安藤はその理由の一つとして「大賀がIT事業に懐疑的だった」ことをあげる。

 IT事業の核となるパソコンの分野では、ソニーは国内でも最後発だ。すでにNECや富士通などが参入、「立錐(りっすい)の余地もなかった」(安藤)。

 ライバルだった松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)も、創業者の松下幸之助が1961年に訪米した際に立ち寄ったチェース・マンハッタンの副頭取に「日本では7社でコンピューターを作るというが、多すぎないか」と指摘されて以来、コンピューター事業への参入を凍結していた。

 1977年、工業高校出身で26人いた取締役の末席から2番目だった山下俊彦が社長になった際に、コンピューターの事業再開を指示するが、富士通と共同出資会社を作り、ハード以外にもソフトウエア開発などの教えを請う形で何とか立ち上げた状態だった。

 そんな状況下で大賀がIT事業に進出するのを逡巡したのは当然だった。東京芸術大学でバリトン歌手だった異例の経歴を持つ大賀は、技術者ではなかったにもかかわらず、当時まだ売れていたLP盤のレコードから、新たな記憶媒体としてCD(コンパクトディスク)/MD(ミニディスク)を見いだし、それへの転換を進め、CDやMDを世界標準(デファクト)にまで引き上げた。

 さらにフラットテレビ「WEGA(ベガ)」の売れ行きは好調で、「いちかばちかで勝負した」1994年発売のゲーム機プレイステーションも爆発的なヒットになった。

 特にプレイステーションは、米コロンビア映画ののれん代償却で3000億円の赤字決算となった直後での発売ということもあって、「全役員がゲーム市場参入に反対した」。そんななかで下した決断はソニー社内での大賀評をいやが上にも高めた。

 成功への確信もないまま薄氷を踏む思いでゲーム事業の参入に挑んだ記憶がまだ残っているなかで、あえて不慣れな分野に進出するリスクを再びとる気力は、大賀には尽きていた。

「14人抜き」の大抜擢

 さらに当時、大賀を継ぐのは副社長だった森尾稔と見られていた。ソニーが誇るトリニトロンテレビの開発では井深大の部下として尽力し、その後、一世を風靡(ふうび)したパスポートサイズのビデオハンディカムの開発責任者として社内ではまさに押しも押されもせぬ存在になっていた。

 当時会長だった盛田昭夫も「君の次はエンジニア出身の者で」と大賀に申し渡していたという。しかし、その森尾は女性スキャンダルが週刊誌で大きく報じられ、後継者にしようとしていた大賀もついに森尾への社長指名を断念した。

 その森尾の代わりに社長に指名されたのが広報担当常務だった出井だ。専務と副社長合わせて14人抜きの抜擢(ばってき)人事として話題を呼んだが、次期社長の本命として自分が登用されたわけではないことは出井にも分かっていた。

 大賀と同じく文系出身だった出井は盛田の指示でMIPS事業本部でPCの開発に取り組んだ。「その当時はNECの98シリーズが圧倒的なデファクトだった」(安藤)が、そのNECの向こうを張ったMSXパソコン「HiTBiT」の開発に乗り出したものの「結果はミゼラブル(悲惨)な大失敗だった」(同)。

「だったら自分たちでやってやろう」

 そんな出井に大賀の懸念をひっくり返してまでアップル買収を説き伏せられる材料もなかった。AVには「ソニー」、情報機器には「アップル」のブランドをそれぞれ付け、一大ブランド戦略を繰り出そうとしていた出井にとって、目の前に飛び込んできたアップルの買収は「かなわぬ夢」に終わった。

 「だったら自分たちでやってやろう」。

 出井の落胆をよそに安藤は奮起した。金融事業への進出を悲願としていた盛田昭夫の命を受け30歳代でわずか3人の同僚とソニー生命保険を立ち上げた安藤は、業界で初めて大卒男子を採用し育成した「ライフプランナー」を武器に保険業界に新たな風を吹き込んで育て上げた実績がある。

 合弁相手の米プルデンシャル生命と合わせて4支店でたったの27人からのスタートだった。一方、当時最大手だった日本生命ほか第一生命、住友生命など生保御三家を合計するとざっと35万人。物量では到底かなうわけがない。

 商品だけを変えても追いつけない。お客様に自宅から直接訪問して契約を勝ち取る。出社は後回しでいい。オペレーションもすべて変え、大手と肩を並べるところまでソニー生命を育て上げた。

 「いつかは起業家になるつもりだった」という性分も手伝って、安藤は同社のパソコン「VAIO」開発に邁進(まいしん)していく。

アップル買収を見送ったソニー。安藤は独自でPC開発に挑むことを決意した(写真:monticellllo/stock.adobe.com)
アップル買収を見送ったソニー。安藤は独自でPC開発に挑むことを決意した(写真:monticellllo/stock.adobe.com)
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「ソニーに傷をつけたら即クビだ」

 1997年5月、ソニーの幹部が一堂に集まって年1回開かれる「ソニー・マネジメント・カンファレンス」。ソニーには「テレビやビデオ部隊には開発部門があるが、できたばかりのIT部隊には開発部門がない」(安藤)。

 そもそもITカンパニーができたのはわずか1年前の1996年4月だ。そんなお寒い状況だったが、カンファレンスで発表するITカンパニーの戦略の事前説明をしに安藤は会長の大賀のところに出向いた。

 「安藤君は(パソコンなど)IT事業が本当にソニーを傷つけないと約束できるか」

 戦略のほか、PCのデザインやモックアップを見せながら2時間かけて説明した。「絶対成功できる自信があります」と安藤は訴えた。

 「もしもソニーに傷をつけたら即クビだ」と言われながらも、大賀からなんとかお墨付きを得たのがカンファレンス前日の夕方だった。

 安藤は大賀の「恫喝」には慣れていた。こうして、「VAIO」をはじめとするソニーのIT事業が本格的に幕を開けた。

昭和の日本経済を牽引した松下電器産業とソニー。世界で圧倒的な強さを見せていた両社は、「失われた30年」で輝きを失う。どこで間違えたのか。再生に向けての課題はどこにあったのか。勝負を分けた「決断」の裏側を取材記者が追う迫力のノンフィクション。

藤本秀文著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)