「保有している株を、すべて売却したいのですが」
畳の上に正座した父は、電話の相手に向かって頭を下げている。大学2年生の夏のことだった。
私は父の顔を見ることができず、半そでからのぞく父の骨ばった細い腕を見つめていた。
京の老舗扇子屋の女将として、家業に新風を吹き込む大西里枝さん。本音を明かす「X(旧ツイッター)」が人気です。朝日新聞京都版のコラム「四季つれづれ」で、日々のくらしで感じたことや出来事を綴っています。
あの日、先祖代々守ってきた京町屋の大規模修繕工事のために、父は多くの資産を売却した。家族で大切に乗っていた外車は、中古の業務用バンに替わった。
「お前は心配せんでええからな」という両親の言葉から逃げるような気持ちで府外に就職を決めた。
私は、京都で4代続く扇子製造所のひとり娘として生まれ、今は家業を継いでいる。思えば、工事費用を必死に工面する父の姿を見たあの日、私の向かうべき方向に舳先(へさき)が定められたように思う。
その後、さまざまな場所で働いてきたが、ふと頭をよぎるのはあの日の父の腕だった。父の腕の先には、固く握られた拳があったのではないだろうか。
先祖からおあずかりしているこの家をなくしたくない、という信念と覚悟があったのではないか。
あの夏の日の父の姿が忘れられず、私は家業に戻ることを決めた。父が守ってくれたのは町屋だけではない。
この家には、昔ながらの風習や京都らしい生活文化が残されている。季節の訪れを皆で喜びあうハレの日、つつましく日常を暮らしていくケの日々。私にとってはそのすべてが新鮮で面白い。
おおにし・りえ 1990年、京扇子「大西常商店」(京都市下京区)のひとり娘として生まれる。民間企業を経て、家業を継ぎ、2023年から代表取締役。女将の日常と本音を発信するX(旧ツイッター)やインスタグラムが好評。京土産「いけずステッカー」のモデルとしても話題に。