大滝瓶太📕『理系の読み方』2025年10月発売

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大滝瓶太📕『理系の読み方』2025年10月発売
@BOhtaki
作家(✌˙˘˙✌)ぴすぴす。1986年生まれ。神戸市在住。ギターと将棋と自然科学が好きです。著書『その謎を解いてはいけない』(実業之日本社)。ご依頼など各種お問い合わせはこちらへご連絡ください📩binta.ohtaki@gmail.com
本の紹介はAmazonアソシエイトのリンクですnote.com/bintaohtaki/n/…Joined February 2019

大滝瓶太📕『理系の読み方』2025年10月発売’s posts

外語大の後輩で一時期あだ名が「シエロ」という奴がいて、なかなか爽やかな外見の男で、ギターの先生が「シエロはスペイン語で〝空〟だし外大らしいセンスあるあだ名じゃん」って感心していたら、そいつの苗字が「江口(シエロ)」でそれに由来していたと知り落胆したというエピソードがいまも好き
会社員のとき、研修でリクルート社員と話をすることになり「小説を読むのが好きで、じぶんでも書いている」って話をしたら「じゃあ大滝くんが小説家になるためにすべきことはなんだろう?」とノーモーションからコーチング入れてこられたの、定期的に思い出しちゃうよな。
小説の書きかた、突き詰めて考えると「小説を書ける状態をいかに作り維持できるか?」になるので、作家がぐだぐだ話す内容よりアスリートの調整方法のほうが参考になるという説を3年前くらいから友だちに提唱していて、いちばん参考にすべき作家はイチローという結論を得た
ひろゆきやDaiGoの動画でいちばん学びになるの、インターネットや本の流し読みで仕入れた断片的な知識は人間を知的にするどころか害悪でしかないってことだ。わかりやすくパッケージされた個別情報を仕入れることと、体系的に学問を習得することは全然違う。本当に違う。洒落にならないくらい違う。
「改行が許せななくて、改行したら小説じゃないと思っていた時期が数年あった」というネタ、純文学系出身の同業者にはあるあるネタとしてウケる一方でエンタメ系出身の同業者は「ちょっと何言ってるのかわからない」みたいなリアクションで、このとき初めて「ジャンルは存在する」と確信した。
文筆業で一番大切なのはたぶん「すぐに寝る」能力だとおもっていて、閃かないのに何時間もウダウダやっていても体力を削るだけなのでさっさと寝たほうがいい。閃くまで眠れ。たとえ何週間も何ヶ月も眠り続けることになっても、信じて眠り続けなければならない。
小説家って、「頭が良いひと」が向いている仕事なんじゃなくて、「ひとつのことを長時間考え続けるひと」が向いている仕事なんだよな。家出るときにエアコン切ったかどうかずっと気にしちゃうひととかが適正がある。
イチローと稲葉の対談で、イチローは「最短距離で上手くなってもダメ。深みはでない」といい、神戸智弁の対戦相手からの質問に対して「合理的になるには無駄なことをたくさんしないとダメ」って言っており、そういえばこないだ同業者と似たような話をしたな……と思い出した。この「深み」なんよな。
小説をガンガン書いていきたい!というひとに「海外文学のオススメをください」と言われることがこれまでかなりあって、だいたいはそのひとの話を聞いたり書いたものを参考にいくつか挙げているのだけど、全員読んだ方がいいと思うのがヴァージニア・ウルフ『灯台へ』とフォークナー『響きと怒り』。
「本に書き込みをする本好きがいて驚いた」という話を聞いたけれど、おれの大学時代の後輩で「ぼくは手にした本の〝最後の読者〟になるんです」といってメッチャ書き込むやつがいた。そいつはたぶんおれより本が好きかもしれん。
たしか森博嗣が「新しいものや個性的なものはやたらありがたがられるが、ガチで新しくて個性的なものが出てきたら誰も読めないので、新しくて個性的な成分は全体の10%くらいにしておくとよい」的なことを言っていた。つまりみんな自分のわかる範囲でしかものを評価しないよってことだと思っている。
百田尚樹推しの上司も、クソデカ文字自己啓発本推しの上司も、半分イジりみたいにそう絡んできたから実は結構許せるんだけど、しかしぼくが小説を書いていると知るや否や「じゃあ大滝くんが作家になるためにすべきことはなんだろう?」と勝手にコーチングを始めやがったリクルートの社員だけは許さない
また本を読むことを「インプット」という人間にあった。「本の再読は時間の無駄」ということをいわれた。「脳みそに情報を流し込むこと」と「読書」という行為はまったく異なるものだというのが、このひとたちにはわからないんだな…という絶望がすごい。かれらが知的で創造的だとは、おれはおもわない
「自分が考えていることを細部まで正確に書く」ことでしか文章は上手くならない。それを粘り強く続ける過程で「個性」や「文体」が生まれてくる。めっちゃ時間がかかるし根気もいるけど、ネットの安易な「文章論」で明日から「おもしろい文章が書ける」なんて絶対ないので、みんな騙されないで欲しい。
小説をうまく書き進められないとき、チェーホフやレイモンド・カーヴァーの短編を読むという習慣を7、8年ほどやっていて、そのたびに「小説はもっとかんたんに書けるはずだし、もっとかんたんに書いてもいい」という気持ちになる。「かんたんに」とは、狭まった視野を広く緩く構えなおすことでもある。
情熱大陸の密着が入っているテイで目の前の原稿は何をすれば前に進むのか声に出して謎の解説しながら書くという執筆法を編み出したのだけど、これはめちゃくちゃ良い。自分がなにを考えて何に困っているのかハッキリわかるし、小説を書いている瞬間だけしか考えられないことを的確に拾える。
この7年くらい(体感)で「共感型読書」が主流になってきたとぼくも思っていたけれど、それの功罪はいろいろあるとして、気になったのは「作品構造を読めるひと」が極端に減った(少なくともTLで構造的な部分への言及は激減した)というのはある。
文芸系のひとたちは「誰にも拾われない小さな声」を大切にしている反面、文学について物理や数学の価値観で意見を述べると「理系の話はわかんないんで」と黙殺するひとがとにかく多く、都合の良い連中が多いな……思ったことは数知れずである。
「書き手同士で馴れ合いしてるやつはダメ。プロになれない」みたいな話、プロが生存バイアスで殴ってきてるだけというか、ふつうに友だちと仲良くする人生のほうが楽しいに決まっているのでぼくはどんどん馴れ合うべきだとおもう派(制作物のクオリティはじぶんで判断すればいいだけの話)
某ベテラン作家に「あなたが何を伝えたくて小説を書いているのかわからない」と言われ「ぼくは別に何かを伝えるために小説を書いていないし何かを伝えるべきだとも思っていないが、あなたがそういえばそうなってしまうとなぜわからないのか」という怒りをその場で言えなかったのをいまも後悔している
「言った使用罪」の取り締まりを恐れて、何か発言した登場人物がやたら顔を顰めたり背伸びをしたり息を吸ったり吐いたりして、結果なんか落ち着きのない登場人物たちの会話劇ができあがるというあるある……
Quote
宮内悠介
@chocolatechnica
英語の小説とかだと普通に"said"(言った)は多用されるよね。日本における「言った使用罪」ってどこから来たんだろ。
「院卒小説家になろう」の序盤を見れていなかったのでいま見てる。「学会にスーツを着てくる分野には就職がある」はよくあるギャグ(けっこうマジ)で、日本流体力学会の年会に行くと基本みんなスーツなんだけど、どうも服装の様子がおかしいセッションが一部あって、そこにはほぼ数学のひとたちがいる
文学賞の選考委員は「賞を出したい」気持ちで選考にのぞみ、それでも「出せなかった」というのは、自身がひとりの表現者として矜持があったからだと想像に難くないので、該当作なしの選考委員のせいだというのはさすがにやめてほしい
だいたいの作家は誰かに似ているとぼくは思っているんだけど、「誰にも似ていない尊さ」を語るひとは多くいる一方で「誰かに似ている重要性」について語る人を見たことがなくて、これはいったいなぜ…という疑問がずっとある
むかしは浪人や留年で一年遅れが出ることにただならぬ焦りや絶望を感じていたけど、二十代後半以降はふつうに丸一年寝てたとしか思えないほどなんもしてない年とかふつうにたくさんあるので、「学校」という皆が横並びになる環境の支配力のデカさを痛感する
【ゆるぼ】新人賞の選考委員の言葉が好きすぎて実家にある文芸誌をあさってリストを作っています。とりあえず、2011年以降の文學界新人賞と新潮新人賞の選考委員コメントを集めましたが、皆さんの推しを教えてください!!!! 「選考委員の言葉」文学賞をやるぞ!!!!!
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文庫版『百年の孤独』が大売れしているのはこの小説が傑作であること以上に、「なんでもいいから名作を読んでみたい」という願望、「名作くらいなにか読んでおかないといけない」という漠然とした危機感、手元に置いておくことにより得られる自己肯定感など、いろんな形をした欲望が大きい。
創作界隈では「誰にも似ていない」ことが作家としての強みみたいな文脈で語られているのをめっちゃ見るけど、「誰にも似ていない」というのは「誰も評価の仕方がわからない」ということでもあり、ある意味「誰かに似ている作家」よりもずっと厳しい状況に立たされているケースの方が多い気もする。
新今宮についてのnote炎上、若手ライターが謝罪文を出しているけれど、依頼側の反応がなく、これは広告会社が「書き手というのはいくらでも代わりがいる」とでも思っているかのようにも見え、強い不信感をどうしても抱いてしまう
息子が 「お絵描きする!」 といってお絵描き帳をペンで塗りつぶした。 「何書いたの?」 ときいたら、 「ぜんぶ!」 といった。 まさか「この塗りつぶされた四角形にすべてが記されている」という円城塔風の詭弁を3歳児にかまされるとはおもってなかった。
小説の基礎力が「本を読む」ことで支えられているとして、ここを強化するのは「読める本を増やしていく」ってことになる。ただ好きな本だけを読むんじゃなくて、ちょっと背伸びする読書を毎日コツコツ積み重ねていくのが、当たり前だけど大事なんよな。
大学時代の読書家の後輩が、「村上春樹はそんなに好きじゃないけど『国境の南、太陽の西』だけはなんか読んじゃう。いい話とかおもしろいとかではないけどなんか読んじゃう」みたいなことをむかし言っていた。ぼくも学生時代から繰り返し読んでいるけど、たしかにうなずけるところがある。
Twitterには「自分のことを気さくでひょうきん者で権威なんかまったくない」と思っているおじさん/おばさんが多いのだが、35歳とか超えてくるとふつうに「ご自身がどういうスタイルだろうが怖いものは怖い」というのが備わり、年齢を自覚するというのは歳とともに段々重要になる
空気を読まずひとつだけ言いうと、ぼくはここ数年、小説やWEBメディアのエッセイやコラムなどでも「生づらさ」を語ることがひとつの処世術になっていることを疑問視しているのだけれど、「生づらいことがテクストの切実さとして昇華される」のは、大事な問題を見ないようにしているだけにおもえる