夫婦別姓問題は考えるべきことがまだ残っているので、もう少し。夫婦別姓制度が認められていない現在では、同姓にする不便が大きい人の中には「婚姻届をあえて出さない」という人もいる。そういう場合、現在では「事実婚」ということが多い。昔の言い方では「内縁関係」である。70年代には「同棲時代」というマンガ(上村一夫)が流行って、「同棲」という言葉がよく使われた。だけど、そういう場合は「一人暮らしをしていた未婚男女が一緒に住む」というケースを指すことが多く、子どもができると「できちゃった婚」に移行する事が多い。「内縁」は「婚姻届を出さないという主張」というよりも「愛人関係」などのイメージもあり、「事実婚」という言葉が使われるようになったのだろう。
では、そのまま「事実婚」を続けるのではダメなのだろうか。一つは「社会的な認知」というか、家族や友人知人に「周知」するという意味があるだろう。けれど、それ以上に重大なのは、「税制」や「福祉」、あるいは保険金の受け取りなど、特に子どもがいる場合、正式な婚姻届をしておかないと不利なことがいっぱいあるということである。また、会社(福利厚生団体)から出る「お祝い金」なんかも、婚姻届を出したことが証明される書類(戸籍抄本など)の提出が条件になることが多いだろう。
「事実婚」にも多くのケースがある。片方の離婚が成立しないうちに「同棲」を始めてしまい、婚姻届を出そうにも出しようがないという場合も多いだろう。そういう場合は、確かに「事実婚」を優遇するのもおかしいとも言える。だけど、「主張として」婚姻届を出さない場合もある。その場合は「愛し合う二人が家計を共にする」ということでは同じである。片方では税制などで優遇され、片方は「独身」扱いされるというのは、憲法上の平等権に反するのではないかという考え方もできるだろう。
別姓婚の議論も大事だけど、僕は「事実婚カップル」への差別禁止という裁判もできるのではないかと思う。どうしてかというと、「事実婚」から進んで「同性婚」の可能性、さらに「性的な関係を超えたコミュニティ形成」へと広げていけるのではないかと思うからだ。もし、政府が「出生率の上昇」を本気で考えているのなら、別姓婚はもちろんだが、「カップルになることのハードルを下げる」という政策が求められていると思う。
それと同時に、「結婚と性」という問題は、本来は戸籍制度の問題であるはずである。「事実婚」、つまり「内縁」では、子どもの相続に差別があった。2013年に最高裁で違憲判決が出て、今は親の結婚に関係なく、子どもは親の財産を平等に相続するようになった。そうすると、同姓、別姓を問わず、そもそも「結婚」しているかどうかを国家が家単位で把握する必要も薄れたはずである。「婚姻届」を出すと、生まれた子どもは「嫡出子」と言われ、婚姻外の子どもは「非嫡出子」となる。昔はそういう子どもは「私生児」と言われて差別された。「結婚」という制度に基づく差別である。
日本の女性運動の草分けである平塚雷鳥は、5歳年下の奥村博史と暮らし始めた時に、国家の結婚制度、家制度に反対する意味で、婚姻届を提出しなかった。子どもを二人産んだけれど、それらの子は平塚姓の「私生児」として育てた。ところが、戦時中に婚姻届を出し、奥村姓となったのである。男児に召集令状が届き、軍隊で「私生児差別」にさらされることを避けるため、やむを得ず「国家の結婚制度」を認めざるを得なかったのである。戦前の日本では、軍隊に子どもを人質に取られていたのである。この事例を考えると、家制度を守るための「結婚」というものが、要するに「国家秩序を守る」という意味があったことが判る。
「家制度」がなくなった戦後日本では、同姓、別姓に関わらず、本来、差別にしか使われない「戸籍制度」そのものがいらないのではないか。世界でもほぼ大日本帝国が統治した東アジア諸国、つまり日本、韓国、台湾などしか戸籍制度はないらしい。「住民票」があればいいのである。そうであれば、人が一緒に住みたければ、一緒の住民票にすればいいだけである。同姓を名乗りたい人は、通称として名乗ればいい。逆にそうなれば、それでいいと思うのだが。要するに、国民の「姓」を国家管理する必要をそもそも問うべきではないか。同姓婚を含めて、「事実婚」カップルも制度上で同じ扱いにすれば、「同姓か別姓か」といった議論もする必要がなくなるだろう。そうなれば、ずいぶん自由な感じがすると思うけど。
では、そのまま「事実婚」を続けるのではダメなのだろうか。一つは「社会的な認知」というか、家族や友人知人に「周知」するという意味があるだろう。けれど、それ以上に重大なのは、「税制」や「福祉」、あるいは保険金の受け取りなど、特に子どもがいる場合、正式な婚姻届をしておかないと不利なことがいっぱいあるということである。また、会社(福利厚生団体)から出る「お祝い金」なんかも、婚姻届を出したことが証明される書類(戸籍抄本など)の提出が条件になることが多いだろう。
「事実婚」にも多くのケースがある。片方の離婚が成立しないうちに「同棲」を始めてしまい、婚姻届を出そうにも出しようがないという場合も多いだろう。そういう場合は、確かに「事実婚」を優遇するのもおかしいとも言える。だけど、「主張として」婚姻届を出さない場合もある。その場合は「愛し合う二人が家計を共にする」ということでは同じである。片方では税制などで優遇され、片方は「独身」扱いされるというのは、憲法上の平等権に反するのではないかという考え方もできるだろう。
別姓婚の議論も大事だけど、僕は「事実婚カップル」への差別禁止という裁判もできるのではないかと思う。どうしてかというと、「事実婚」から進んで「同性婚」の可能性、さらに「性的な関係を超えたコミュニティ形成」へと広げていけるのではないかと思うからだ。もし、政府が「出生率の上昇」を本気で考えているのなら、別姓婚はもちろんだが、「カップルになることのハードルを下げる」という政策が求められていると思う。
それと同時に、「結婚と性」という問題は、本来は戸籍制度の問題であるはずである。「事実婚」、つまり「内縁」では、子どもの相続に差別があった。2013年に最高裁で違憲判決が出て、今は親の結婚に関係なく、子どもは親の財産を平等に相続するようになった。そうすると、同姓、別姓を問わず、そもそも「結婚」しているかどうかを国家が家単位で把握する必要も薄れたはずである。「婚姻届」を出すと、生まれた子どもは「嫡出子」と言われ、婚姻外の子どもは「非嫡出子」となる。昔はそういう子どもは「私生児」と言われて差別された。「結婚」という制度に基づく差別である。
日本の女性運動の草分けである平塚雷鳥は、5歳年下の奥村博史と暮らし始めた時に、国家の結婚制度、家制度に反対する意味で、婚姻届を提出しなかった。子どもを二人産んだけれど、それらの子は平塚姓の「私生児」として育てた。ところが、戦時中に婚姻届を出し、奥村姓となったのである。男児に召集令状が届き、軍隊で「私生児差別」にさらされることを避けるため、やむを得ず「国家の結婚制度」を認めざるを得なかったのである。戦前の日本では、軍隊に子どもを人質に取られていたのである。この事例を考えると、家制度を守るための「結婚」というものが、要するに「国家秩序を守る」という意味があったことが判る。
「家制度」がなくなった戦後日本では、同姓、別姓に関わらず、本来、差別にしか使われない「戸籍制度」そのものがいらないのではないか。世界でもほぼ大日本帝国が統治した東アジア諸国、つまり日本、韓国、台湾などしか戸籍制度はないらしい。「住民票」があればいいのである。そうであれば、人が一緒に住みたければ、一緒の住民票にすればいいだけである。同姓を名乗りたい人は、通称として名乗ればいい。逆にそうなれば、それでいいと思うのだが。要するに、国民の「姓」を国家管理する必要をそもそも問うべきではないか。同姓婚を含めて、「事実婚」カップルも制度上で同じ扱いにすれば、「同姓か別姓か」といった議論もする必要がなくなるだろう。そうなれば、ずいぶん自由な感じがすると思うけど。
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