齋藤恵汰

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齋藤恵汰
@_satoketa
美術家(アーティスト/キュレーター)、アーツカウンシル金沢ディレクター、渋クリエイション株式会社(シブハウス)代表取締役。主なプロジェクトに渋家、アーギュメンツなど。主な展示に私戦と風景(丸木美術館/埼玉)、周辺・開発・状況(下瀬美術館/広島)など。
日本Born December 18, 1987Joined March 2011

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下瀬美術館「周辺・開発・状況-現代美術の事情と地勢-」展は本日にて閉幕いたしました。9名のアーティストの皆様、出演いただいた登壇者の皆様、共に企画したキュレーターチーム、開催にあたり協力いただいた美術関係者および下瀬美術館の皆様、そして40237人の来場者の皆様、ありがとうございました!
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キャットストリートの緊縛案件、ファッション業界(の一部)が盛り上がる一方、建設業界から悲鳴があがり、とばっちりでアート業界が炎上する構図だが、端的に「まともにアート活動するなら安全管理者を雇え」案件と思われ、現場監督もキュレーターもコーデネーターも居ない案件はアートとは言えない。
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美術館で1歳半になる子が少し騒ぎ中年の男性に「迷惑です」と言われた。一度はすみませんと謝ったものの別の階で二度目の遭遇。見つけるなり「二人で来て交代で鑑賞するなど工夫できませんか?」と言われた。すかさず美術館の指示ですか?と応答し館の職員に仲裁を依頼。無事に男性に注意いただいた。
ツイッター久しぶりに巡回したら「好きなことで生きていく」派と「とにかく何もしたくない」派で、それぞれ教祖がボコボコ生まれ、モチベーション 0 vs 100 みたいな地獄の様相を呈しており、しかし人類は僕も含めモチベーション50くらいの人間が大半で、それをどうマネジメントするかがキモな気が…。
いま現代アートで起きていることは「全てが上演」のインスタレーション/パフォーマンス派と「全てが素材」のペインティング/コンセプチュアル派という2軸の合意なき無法状態なので、これらを統一的に扱う視座を作らないとジャンル本体がなくなり、ただ空間と運動と絵画と概念だけがある状態になる。
10年アーティスト活動を続けてきて思うことだけど、東京にアートシーンなどというものは存在しない。単発的に、散発的に、ある面白い人物がいて、その人の周りに生態系らしきものが構成されているだけで、それらは連帯していない。業界という名の烏合の衆と美術館、博物館という名の行政があるだけだ。
「アラーキーの #metoo で沈黙してるヤツは何かに配慮している」との発言が散見されるため、あえて言いますが「自己に配慮し沈黙する人」も居ます。我々は全員が熱狂に参加しなければならない訳ではない。あらゆら運動で、その全面化は正しくファシズムであり、間接的にも沈黙の自由を奪うべきではない
ちなみに昨日、授業の中で『一番、理論が欠けているのはメディアアートで、その象徴が文化庁メディア芸術祭やアルスエレクトロニカをはじめとする「技術の見本市」だよね』というレポートを書いてきた生徒がいて、今の若い人たちにも「理論の不在」は肌感覚として伝わるのだなと思い、大いに感心した。
ごく簡単に要約すると、アーティストというのは「やりたいことをやる」と「公共的なことをやる」がなぜが一致してしまう位置に自分を置くことだと思うので、そのような位置を粘り強く追求していれば音楽だろうと絵画だろうと現代美術だろうとジャンルは関係ない、という気持ちで改めて今年もやっていく
いま現代美術で一番むずかしいのは舐達磨みたいにやって現代美術と認めさせることで、逆にそうでない現代美術は誰でも作れるナイーブなジャンルでしかない。このナイーブさは詩が万人に開かれているのと同じで最果タヒの言う「ネットには無数に詩人が居たが、作品として発表したのは自分だけ」と同じ。
現代のアーティストには生活者と芸術家のダブルスタンダードが普通に内面化されていて、作品が世界を変えることよりも作品によって生活が成り立つことと自分の制作が世界に及ぼせる影響のサイズを天秤にかけ「死なない程度に」取り組むのが大半で、その意味では高齢者の延命措置の問題と本質的には同じ
「作家やアーティストをやる」というのは「ちゃんとアナキストをやる」ということだという前提がなくなれば、美術だろうが文学だろうが趣味のサークルで目立っている人を権威化する装置にしかならないし、そういう美術とか文学だったら商業主義に任せてジャンルとしては存在しない方がマシだとさえ思う
でもね知ってるっす。日本で金持ちに美術を売ってる人と、日本で金持ちにワインを売ってる人が、かぶってること。だからワイン絵画を売っていくメディアになるってことだね…美術手帖…。
「現代アートって絵とか彫刻もあるし意味不明な物もあるし一体なんなのかよくわかんないんだよね」という人には「あれは同人(面白いと思ってる人たちが集まってやってる)なんで」と答えてしまった方がシンプルになると思っているし「わからない」みたいな反応も「まあ趣味ちがうのでは」と返せて気楽
アーティストが社会に対してもっと思うべきことは間違いなく「なめんなよ」であって、それは「ちょっとカネを渡せば社会が豊かになるような活動を勝手にやってくれる」というイメージに対する戦いであり、あるいは国民国家が美術館という制度を使ってコントロールしようとしてくることに対する反抗だ。
昨日のトークの中で一番、良かった合流点の一つが「現代美術が民意や資本からの影響にこれほどまでに脆弱だとは思わなかった」という所で「理念が骨抜きにされシステムだけが残る」という、あらゆる場所で言われてきた警句が、2020年からのたった5年たらずで完璧にシーンを席巻したように見えること。
背景は国立西洋美術館の松方コレクションを寄贈した松方幸次郎が川崎重工の初代社長で、その頃から付き合いのある西美に川崎重工への政治的メッセージを求めるプロテストなのだが、それを展示作家が行うか活動家が行うかには大きな隔たりがあり、例えば飯山が作家を「降りて」これをやるなら理解できる
そもそも「作家が批評的な作品によって批評家を挑発し、その挑発をうけて批評家が作家を批判する」のが現代アートという運動だが、日本では「批評家が扱いやすい作家を褒め、それをみんなが崇める」逆回転が起きがち。すると「批評家の扱いやすさ」が作品の評価に直結するので単なる忖度ゲームになる。
結局さ日本はシンジくん的な「俺と一緒に世界よ終われ」的な人が増えすぎたよ。アーティストもクリエイターも批評家もみんな「自分と一緒にジャンルが消滅/完成することを求めてる」んだから、彼らを救おうとすること自体が間違ってたんだ。僕はようやく気付けた気がするよ。僕は自分のアートをやる。
日本には社会がない。学校と会社と刑務所と病院しかない。みんな学校に通い、会社で働き、あとは刑務所か病院か。過処分時間は家でSNSやガチャ、文化的な人でさえ読書か料理。社会を作ろうとする複雑な行為は「無駄なことはやめろ」と失笑され、複雑な内面を抱えた単純な社会人を選択させられている。
エンタメが息抜きでしかなくなったら人間として終わりなのだが、今や息抜きでさえなく、どれだけ時間を盗めるか競争する始末で、何も見るべき作品がなくなりつつある。結果としてアートがエンタメのように機能し消費されており、日本のコンテンツ産業はいよいよファンビジネスでしかなくなりつつある。
みんなSNSのやりすぎで感覚が狂ってるかもしれないけど、表現っていうのは本来、結構コストが高いもので、しかも意味がわからないくらい幸運でなければ人目に触れるものではなかったんだ。だから今、自分のやってることが全く目立たなくても、いつか誰かが見つけた時のために夢中でやれば良いんだ。
美術館の成り立ちに大きく寄与している団体とのパートナーシップを解消せよと運動することが、美術館と関わりながらできると考えている人たちが、それなりの母数で存在することに驚愕した。そりゃ自民党かちつづけますわ。
10年くらい前までコンテンポラリーアートには「わけわかんないことができる」期待があったが、今やフォロワー数万くらいの非アーティスト系クリエイターによる多様な表現が出現し、インフルエンサーやYouTuberのコアでマイナーな文化活動と棲み分けた結果、美術業界の保守回帰が激しいという話をした。
私は芸術作品を観る時、なぜ作家がその思考に至ったかに興味がある。そして多様で凡庸な思考に意味があると考えるが、ある特定の作家は己の凡庸さを手放し、特殊性があるとして思考の墜落を起こす。現代のアーティストに重要なのは凡庸さの告白で、凡庸さの非凡な告白を作品として機械的に評価すべき。
韓国の国立近現代美術館、チップチューンの有名作家を呼び、客にシムシティをプレイさせ、めちゃ巨大なLEDパネルで若手作家が展示してたりして国として全然かてる気がしない…(日本には国立の現代美術館はなく、著作権がクリアされてないと官僚的に検閲され、お金もない)ちなみに撮影も当然、自由。
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The media could not be played.
「作家が自由に表現する」ことと「不自由を打破するために表現する」ことは全然ちがうんだよ。そこを混同するのは文字通りアートが社会運動を骨抜きにする行為でよくないよ。悪しきフォーマリズムだし美術館という制度の中でやるということの政治的意味について考えれば「退廃した活動家」そのものよ。
これはさすがにダメなんじゃないかな…少なくとも西美の外でも一度くらい公開の議論の場を設定しないと「関わって変えます」という態度表明としては情報公開が圧倒的に足りないように見えるよ、まず唐突すぎるし、扱ってるテーマが社会的すぎる。「有志参加」という表現も参加作家への忖度に見えるよ。
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Tokyo Art Beat
@TokyoArtBeat_JP
国立西洋美術館の中で、展覧会出品作家有志によるデモ。 明日開幕の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」の内覧会中。 美術館のオフィシャルパートナー、川崎重工株式会社によるイスラエルの武器輸入を問題視
The media could not be played.
日本人て仕事いっぱいするけどミスが多い人と仕事しないけどミスしない人だと明確に後者を高く評価するけど、これが恐ろしいのは前者よりも後者を評価するカルチャーが続くと、結果的に「何もしないやつが一番、優秀」みたいな状況になってパンデミックが起きてもワクチン接種が進まなくなったりする。
芸術家を「何か特別な人」とすることからマーケットの歪みが始まる。全ての人や出来事は芸術家や芸術としての価値をはかることが可能なのであって、特権化してポジションを守ろうとするのは、ただでさえ脆弱な日本における芸術の存在を、更に弱めることにしかならない。必要なのは「正しい物差し」だ。
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shingo uzawa/鵜沢信吾
@tksttisuhrt
落合陽一をアーティストとして認めない発言によって自分のポジションを守ろうとする人たち。
まあ日本人は詩にも芸術にもリスペクトはあまりない。「儲かればそれが詩や芸術である」という文化だから「キャラとしても実際も『才能ない詩人』として熱心に仕事して大衆を騙せる人」は、それだけで日本においてはカリスマ的に扱われる資質。別に広告業界に限らず、日本の文化はそういう才能だらけ。
学校の登校が制限されたり、大きなイベントが制限されることは、25歳以下の若年層に多大なる影響を及ぼす。なぜなら人間は25歳の頃が最もソーシャルキャピタル(つながり資産)の形成が豊かと言う統計があり、つまり既に資産形成している25歳以上の人間とのつながり資産の格差がより顕著になるからだ。
cakesの記事の人たち美大卒と聞いて、やっぱ美大とか潰した方が良いんじゃないかなと思った。それか美術大学を修了した人には現代アートを禁止して欲しい。彼らは近代美術を勉強してきたのであって、例えるなら「看護師資格もってるなら手術できるでしょ」と言っていることに近い。それは無理だ。。。
どんなに馬鹿だと思っても、思われても、友達は馬鹿みたいに大切にしよう。どうせ人は友達の思い出としてくらいしか生きられないのだから。
現代アートのバグで「中途半端に勉強すると却って素人じみてしまう」というのがあり、一方「完全に素人にしか見えない高度な作品」があって、これが公共放送のトンマナ「導入の敷居は低く、内容の質は高く」と限りなく近く見え、これが「良く練られた現代アートはNHK教育に限りなく近い」問題になる。
たとえば「3000万だせば東京都現代美術館で個展ができます」と透明性の高い状態で募った時、そこに残るのはきっとポップカルチャーの入札バトルで、今の「現代アート業界」は跡形も残らないだろう。だから作家の質は落とすべきではないし、あるいは質の悪い作家の展示を組むぐらいなら休館の方がマシ。
アートは「ただかっこいいもの作るゲーム」になる時期と「一番かんがえたヤツが勝ちのゲーム」になる時期があり、結果的に作ってる時期と考えてる時期が適度にある人は出世していくのだが、出世と歴史はあまり関係ないので、ただ作ってる、ただ考えてるのが結果として残ったりするのが面白いと思ってる
日本人がマジでコンテンツにカネを払わず、でも広告料の乗ったコスパの悪いコンテンツが大好きなのは「観客を子供あつかいしている」ということで「オタクコンテンツの勝利とグッズ販売でのペイ」という構造は、単に育てられる観客がそこしか居なかった。アニメが玩具販促起源だったという、それだけ。
そして、その事態に業を煮やして短絡的な行動をとってしまう若者をメディアが祭り上げ、一部の知識人が擁護し、社会が消費するサイクルを30年間、繰り返してきた。これが日本の本当の意味で失われた30年だと言えるだろう。 t.co/LIWczSlFgN
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日本の美術業界の現状としては、批評が存在しないどころではなく批評的な作品さえ存在しないし、さらには「無意識の作品の中に批評できる人間が批評性を発見する」ところまで行っていて「そのヤバすぎる無意識がヤバい」という言葉を聞いて「なるほどヤバいのか」と買うコレクターがたくさん居る感じ。
知的卓越と道徳的卓越が同居していないことにより成田悠輔が炎上し、美的卓越と道徳的卓越が同居していないことによりりゅうちぇるが炎上している空間の中で知的にも美的にも道徳的にも卓越していない様々なインフルエンサーが倫理を語る。このような状況を日本では世俗といい新宗教が準備されがちだ。
圧倒的な市場破壊。高額で取引される絵画の制作に人格が必要ないということになれば現状の絵画=人格中心のマーケットは崩れる。全てのアーティストの夢であり、また逆にこのインパクトが大きく受け止められれば、アートという枠組みは大きく変わるだろう。デュシャン以来のルールの変更、期待したい。
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ITmedia NEWS
@itmedia_news
AIが描いた絵画、4900万円で落札 予想額の40倍以上 itmedia.co.jp/news/articles/
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二条城のキーファー展へ。ほとんどの作品で使われている鉛は30年ほどでボロボロになるらしい。
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日本人は幸福感が薄く飯でドーパミン不足を補おうとする話、根本的に突き詰めていくと「そもそも日本人に生まれて幸福になる方法」という恐ろしい問いが控えていて、これに対する適切な答えが「自分のやりたいことでメシ食えれば幸せ」とかだとマジで日本人に幸福になる方法って存在しないんだなと思う
これから「現代美術批判の時代」が始まることは間違いない。制度批判が体制翼賛と峻別不能になり、現代美術という枠組みが美術家・美術史家によるお手盛りの進歩主義と批判され、新興の技術至上主義が批判を退ける経済的な達成を得る時、今の現代美術はかつての現代美術という「古い」ジャンルになる。
芸術は社会を変えるが革命はしない。宗教を父とし科学を母として近代芸術は生まれた。ゆえに本来、芸術に求められる社会変革とは「構造改革」であり革命ではない。もし社会を変えるの意味が革命を指しているなら、それは戦争や暴力によってしか難しい。芸術は社会に何らか予算を要求し官僚として働く。
脳は「苦労して手に入れたものが無価値だとわかると心が壊れるので、無理やり価値あると思い込む」ので、何も苦労せず全てを手に入れたというスタンスを維持することだけが認知を正常に保つ。
アジアアートビエンナーレでも感じたが日本の若手の制作予算は他のアジア諸国より二桁すくない。これは構造的問題。例えば日本で支払われる金の大半は作品の購入代金。とりあえず投資し「なんか作って」という注文は財団や行政さえほぼ無い。これはサンクコストを作家(個人)が全て負担する産業構造。