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老い烏

様々な事どもを、しつこく探求したい

「懺悔の場」

2017-09-23 16:34:47 | ハムレット

      「懺悔の場」

 復讐劇なら見せ場は、第3幕第3場、王クローディアスの「懺悔の場」になる。劇中劇で兄王の暗殺を目の前で再現され、ショックを受けた王は、祭壇にぬかずき懺悔する。その場に通り合わせたハムレットは、祈りで無防備なクローディアスを見つけ、背部から殺そうと剣を振り上げる(ローレンス・オリヴィエ監督・主演の映画ハムレット)。しかし彼は王殺害をやめる。このシーンは最も緊張したものの一つで、観客も読者も固唾を飲んで見守る。われわれは誰でもハムレットの復讐成就を願っている。 ところが彼は復讐を取りやめる。叔父王が祈りをしてからと。父王は煉獄で苦しんでいる、祈りをしている叔父を殺害すれば、彼は「天国」へ行くだろう。それでは復讐にはならない、として。

     奴が魂を清め、あの世への旅の支度が万端調っている今、 

     この時殺したところで?・・・ならぬ、断じて。

 ハムレットは劇中劇で、亡霊の言どおりの殺害法で父王が暗殺され、それを見た叔父王が狼狽するのを見てきたばかりだ。煉獄から来た父の亡霊の言を信じざるを得ない。煉獄で父王は苦しんでいるのは事実、と受け取っている。祈りするクローディアス王を見て、「悪党が父を殺した」述べる。しかし祈っている彼を「今を殺しては『天国』へ行ってしまう」と振りかざした剣を鞘に収めて立ち去ってしまう。千載一遇の好機は、彼の手からスルリと抜け落ちる。観客は歯噛みをして悔しがる。見せ場の一つだ。しかしハムレットの理由付けは妥当だろうか?殺人を犯しても、祈れば天国に行けるのか?「汝殺す無かれ」との戒律を犯した罪は、祈りで解消できるのだろうか?できはしない。叔父王の死後は地獄しかない。王クローディアスは「懺悔の場」の独白で、「いくら懺悔をしてもその祈りは天には届かない、地獄に落ちるのは確実」と言っている。他方ハムレットは祈っている叔父王の後ろで、今殺しても「叔父は天国に行く」と復讐を止める。ハムレットを殺すしかない、という王クローディアスの決意も知らずに。 論理的な王は甥ハムレットを殺す決心をする。王クローディアスが「マクベスの兄弟」であるのをやめ、「リチャード三世」の兄弟となるのはこれ以後だ。20世紀初頭の演劇の達人G・バーカーは「この劇的な対比を見よ!祈りを信じる者と懺悔を信じない者、ハムレットとクローディアスの現実を受け止める差の大きさが、王の命を救った」と記している。正確に言えば、祈りは全てを解決するものではない、のを王は理解していても、ハムレットは理解していない。「懺悔の場」は、劇ハムレットでは絶対に必要だが、他のどこの場所でも、この劇的効果はなくなってしまう。早くてもいけない。遅くても効果は薄れる。二人だけで会うのはこの場しかない。ここでしか王クローディアスと王子ハムレットは二人だけで会ってはならない。

  ハムレットの志す大義回復――父王の仇討ちと王権の奪還――の機会は永遠に失われる。

      

            「その時までは俺のもの」

  Q2のハムレットでは、彼は英国に行かず海賊に囚われ、再びデンマークに帰国する。ハムレットの佯狂を見破ったクローディアスの宮廷に戻るのは、毒蛇の巣に飛び込むに等しい。いかに王がハムレット暗殺を直ちに行えないとしても。劇中劇とそれに続くポローニアスの刺殺によって、ハムレットの意図、佯狂は叔父王に既に知られている。ハムレットは、暗殺される為に英国へ送られたのだから、帰国は復讐がより困難になるだけでなく、自らが殺される可能性も増大している。英国王宛のクローディアスの国書を盗み読んだハムレットは、王の殺意を十分に承知している。であれば帰国後の彼にとって、佯狂は身の保全策にはならない。叔父の虎口を逃れる方便として、佯狂が用いられたのであれば、それはもう隠れ蓑としては使えない。従って、デンマークに帰ってきた彼は、狂気を投げ捨てている。ハムレット自身がレアティーズとの試合前に、自分は「今」は狂ってはいないと宣言している(第5幕第2場)。 肝心の復讐に関しては次の言葉があるだけで、具体的な復讐計画ついて一切言及はない。

  ハムレット    父なる先王を殺し、母を汚し、横から手を出して王位を奪い、俺の望みを絶ったのみか、この命まで姦計をもって

            落としいれようとした男――そう言う奴を、この腕で片付けるのに、毛を吹くまでも良心がうずくものか

  ホレイショ    この事の結末は、いずれイギリスから、国王に知らせが届くでしょう

  ハムレット    間もなく届くだろう。その時までは俺のもの。人間の一生は“ひとつ”と数える暇もないのだ。           

                                         野島訳

  王の殺意を知っていながら、「その時までは俺のもの」の科白は現実感を欠く。一刻一瞬すら早い復讐を行わねば毒牙が彼の命を奪う。すでに王とレアティーズは、ハムレット暗殺のシナリオを作っているではないか。「その時」までに復讐を、というハムレットは、真に復讐を狙っているのだろうか?復讐を誓う人間から出るとは思えない科白だ。彼は自分を父と妹の仇と公言するレアティ―ズと、王の殺意を知りながら、王の命令で剣術試合を行う。ここにも王とレアティーズを警戒するハムレットはいない。叔父王の殺害を意図しているはずの彼は、復讐の機会として剣術試合を考えてはいない。復讐の意図は、試合前はおろか試合中・試合後にもない。なんとナイーヴなことか!  

 王を刺殺し復讐を果たすのは、母ガートルードが“毒酒”――王がハムレットに与えようとした—に殺されたと告げて死に、なおかつレアティーズが王の企みを明かしてからの偶然の出来事だ。

       「悪魔の悪戯」の物語?  

 王クローディアスの刺殺で達成された「亡霊の願う」復讐は、「ハムレット王の願う」復讐であったか?先にのべたように、愛する妻と息子の死、さらに憎いとはいえ実の弟も死ぬ。この結末に亡きハムレット王は満足しただろうか?この悲惨な結末に王が何を感じたかは、王は煉獄から「天国」へ行ってしまった(?)のかは(科白がなくて)明らかではない。ただし息子に己の復讐(私讐)を命令する「娑婆っ気」の多い亡霊は、決して天国に行けないだろう。従って我々は推定する。復讐の結果に最も失望したのは王ハムレットの亡霊ではなかったか、と。もしかしたら、彼は息子ハムレットに復讐を命じなければ良かったと、「煉獄」で後悔しているかもしれない。無意味で危険な復讐を「最愛の息子」に求めた亡霊は、本当の亡霊であったのか?ハムレットが疑ったように、悪魔であったか、という疑問が生じても不思議ではない。

  探偵小説の鉄則、「犯罪で最も利益を得る者を疑え」を、劇ハムレットに適用してみる。ハムレット家の断絶、ノルウェー王子フォ―ティンブラスがデンマーク王になる結末で、最も利益を得たのは、先王ハムレットに殺されて領地を奪われ、王位は弟に、息子は3000クラウンの年金生活者に落しこめられたノルウェーの先王フォーテンブラスだ。しかし煉獄がない以上、彼も意思を持った亡霊になれない。とするとハムレットが疑ったように、ハムレット王の亡霊は悪魔であった可能性がある。その当時、悪魔はカソリックもプロテスタントも、共に信じていた邪悪で具体的な「存在」だからだ。

   ハムレットの復讐物語は、実際には「悪魔の悪戯」の物語かもしれない。


日本の結核Ⅲ 「日本国家結核対策合同評価」

2015-11-16 21:32:51 | 日本の結核

        A 日本国家結核対策合同評価

 2001年1月に行われた日本の結核対策に関する批判的総括「日本国家結核対策合同評価」(以下「合同評価」と記す」の報告はこれまで殆どされてこなかった。僅かに、平成13年11月の結核学会予防委員会の「21世紀の結核対策」に「国際的な視野からの批判的総括が外国の専門家を招聘して行菜われた」とある。外国人4人、日本側から結核研究所の森所長と石川副所長が加わり、これにオブザ-バ-として厚労省の結核感染症課長も加わって行われた(結核研究所「資料と展望」;2001:65-72)。これはWHO(世界保健機構)が行った世界の結核対策向上策の戦略的プロセスの一つので、外国の専門家と該当国の公衆衛生行政の責任者や、結核病の専門家が合同で参加し、結核対策の具体的な向上を目指すものであった。日本の結核対策に「外からの目」が入り、始めて日本の結核対策が客観的に考察された、と考える。

     A  近代的な結核対策と矛盾した結核予防法。

   「合同評価」は記している。「国家結核対策の現在の国家努力と活動の核心は、1951年という時代に成立した結核予防法に立脚している事を認識した。それはしたがって 結核対策活動が、殆どの主要抗結核薬と、国際的に受け入れられている、全ての近代的な結核対策戦略の発見以前に導入された法律と慣習に制約されているという”根拠に基づく科学、医学そしてヘルスケア”の時代に於ける重大な矛盾である」と。即ち、結核予防法の下に実施されている日本の結核対策は、国際的には受け入れられない非「近代的結核対策」であって、「根拠に基づく化学・医学そしてヘルスケア」と矛盾おり、結核予防審議会は「根拠に基づき世界的に受け入れられている結核対策の方針と戦略に対する妥当な考慮の下に、この法律を抜本的に改正(!)するための勧告を行うべきである」として、結核予防法改変の必要性を明確に指摘し、具体的な提案がされている。以下、多少細かに診断と治療を中心に「評価」の指摘を見ていく。

     A    診断

 患者発見の項目では「現在の政策は有症状者のスクリ-ニングX線撮影による様々な人口集団の無作為・無差別スクリ-ニングによっている。そのような無差別の方法の有効性は疑わしい・・・筆者)・・・評価チ-ムは、新たな結核患者発見に多くの努力が払われているにもかかわらず、患者発見の質を確実にする仕組みが設けられていないことを認めた」と、厳しく「無作為・無差別スクリ-ニング(結核検診)」を批判している。従来(現在でも)、 日本では結核診断はX線読影が中心であり、病変が学会「規準」の何に属するかに診断の中心的価値をおいていた。「評価」によれば、これは殆ど意味がなく徒な努力だ、となる。 

 日本でも、治療開始時の病型と治療成績について、「重症になるに従って有効率は低くなる傾向が見られたが、有意の差は見られなかった」との報告はある(注2、和田雅子ら“結核治療・管理コホ-ト分析”、「資料と展望」 N0.21;15-24)。ただし、これらの指摘が、その後の結核管理にどの様に用いられたかは不明だ。何故なら胸部X線診断に対する、日本の医師の執着・信仰は、一種の宗教的領域に達しているからだ。            

 この認識から次の勧告が出される。「無差別的スクリ-ニングの代わりに重点的人口集団(ホ-ムレスの人々、結核高蔓延国から来た人々、高齢者、感染性患者の接触者、矯正施設の収容者など)に対する選択的スク-ニングが導入されるべきである」。特定グル-プへの検診の重要性は、これ以前にも意識されてはいた。ただハイリスク者検診の必要性指摘はされても、従来の予防法に基づく検診の有効性を見直した上ではなかった。強調されたのは、結核検診の単純な量的拡大で、「質を確実にする」ものではなかった。「合同評価」の意義は、無作為・無差別スクリ-ニングとして胸部X線否定した点にある。ただし、現在でも上記の指摘が生かされているかは疑問だ。相変わらず胸部X線が結核検診や肺癌検診を名目として、数千万の国民に「無作為・無差別」に照射されているからだ(後述)。

  ツ反とBCGについては、「乳児におけるBC接種前のツ反検査は、菌陽性肺結核との接触が明白な場合以外は中止されるべきである」。と「BCGの再接種は中止されるべきであり」としている。従来のツ反とBCG政策の全否定であり、これに基づいて審議会の報告が出され、現在では、乳幼児へのツ反なしのBCG接種、小中学生へのツ反とBCG接種の中止が行われた(2004年)。

     B 治療

 巨額な費用や人権侵害の可能性がある政策でも、治療法として他に変え難い効果を持っているなら、患者と社会に有意義であろう。従来の日本の「治療」は有意義であったのか?治療に関しては、日本で行われている化学療法の妥当性と、治療の場として入院優先主義が問題として取り上げられている。

     1)  化学療法――二剤治療と四剤治療――

 2001年当時の治療について次のように記す。「東京国際医療センタ-(日本の最大病院の一つ・・・・筆者)」で治療されている患者290例中、57%のみ(・・・筆者)が望ましい4剤方式によって治療されており、同時に全例が6か月以上にわたり治療されていた。固定用量合剤(FDC)は、この国では使用できない。ピラジナミド(PZA)は散剤で提供され、禁忌(・・・筆者)である分割投与がなされている」。ちなみに。この状態は現在《2015年》でも同じだ。何故、散剤が継続使用されているのかは不明である。

 外国ではどうであったのか?American Thoracic Society(ATS)は、1986年に結核治療の初期2か月には、INH,RFP,SM(EB),PZAの4剤併用を標準治療法として勧告している。1988年版のハ-スト編の医学教科書Medicine(2nd edition) でも、4剤使用による2か月治療と、その後の2剤治療が治療期間の短縮をもたらし、しかも長期治療と同様な成績を示している、と記している(注 Hurst, Medicine.1988;Butterworth)。1990年にWHOは、PZAを含む6か月治療を医療面・経済的面から、先進国と開発途上国を問わず有効であるとし、標準的治療法として用いるよう推奨した(WHO, Guideline for tuberculosis treatment in adult and children in national tuberculosis.1991;WHO/TUG/91.161)。この時、世界の結核治療の常識では、4剤治療法は重症結核患者に必須であり、かつまた初回治療患者への標準治療法でもある、とするものだった。

 日本では1996年4月の厚生省告示で、4剤治療は一般的な治療法になってはいる(上記のごとく一流病院ですら57%にしかすぎないが)が、日本で4剤併用療法が認められたのは、欧米に比して8年~10年の遅れがあった。4剤投与は重症患者への治療とされ、初回治療は2剤投与法が推奨され、初回治療を積極的に推進しようという姿勢になかった、と言えよう。結核患者が先進国中で異例と言えるほどに多い現実の中で、徹底した初回治療により結核を克服しようという姿勢が、医療を提供する医師・結核学会や、社会資本を整備するべき厚生省・国には欠けていた、と判断される。初回治療患者の大多数は薬剤感受性が不明のため、4剤併用法に比し、2剤治療では早期除菌の可能性は低く治療は長期に渡る。長期治療は治療中断の可能性を高くさせ、為に耐性菌を生み出し治療の失敗に結びつく。2剤治療は患者に時間的に人生の空費を強要するばかりでなく、耐性菌を生み出す可能性の高い危険な治療法だ。初回治療の第一方針を2剤投与法とし、4剤投与は重症患者への治療としたのは、最適な治療を提供するという医療の根本原理を否定した医療だった、と言ってよいだろう。

         B) 入院治療方式

 これまで結核の治療は結核療養所(病院)への入所・入院が前提として行われていた。結核予防法第29条の措置入院によるものであった。従って次のように書かれている。「全ての感染性結核患者は1951年の法律により強制的に入院させられ、喀痰培養陰性の確認によってのみ退院させられる。99年の結核患者1人当たりの平均入院期間は109日で、これは不必要で高価、かつ危険な慣習である」と。日本の結核対策の根幹の一つである入院治療が、世界標準からすれば「危険な慣習」であると判断されたのだ。さらに次のようにも記されている。「結核治療において、今日存在する近代的薬剤は極めて有効なものであって、病巣内の菌量を速やかに(2週間以内)減少させ、地域への感染伝播をほぼ確実に起こさなくする。外来治療は、たとえ患者が塗沫陽性であっても安全で、患者、家族そして地域にとって有利である。DOTSと治療を完了するための患者・家族への支援は、パイロットプロジェクトとして、最近わずかな施設に導入されたのみである」。

 入院治療(「結核患者の隔離」)の必要性を、今なお信じて疑わぬ医療およびマスコミ関係の人々は、次の指摘を頭にいれる必要がある。「入院は患者の状態が看護を必要とする時のみ、必要とされる(重篤状態、集中治療が必要な場合、多剤耐性、あるいはホ-ムレスなどのような社会的要因による)」。このような結核治療の原則は、別章に記すように、欧米では早くから結核治療の「原則」であった。

  補) 入院主義が完全に無くなった訳ではない。入院義は時に起きる結核集団発生「事件」で、相変わらず繰り返し報道される。またDOTS(directly observed treatment 、short-course。短期間直接服薬確認療法)は、「日本的DOTS」として入院を前提として考えられてもいる。この為か「日本的DOTS」ではShort-course(短期間)が省略され“直接服薬確認療法”として用いられる。

      結 論。

 結論は「適切で効果的な方策が取られることにより、この状況を制圧することも可能である。これらの方策としては、特定リスク集団を対象とするスクリ-ニング標準化された治療と患者管理ケアと治療完了を確実にする患者管理強化されたサ-ヴェイランス体制、そして政策を明確にするための行動重視の研究を含む。上記の努力は、結核対策のための方針と戦略の転換と、51年に制定された結核予防法の改定を必要とするだろう」であった。

    「日本国家結核対策合同評価」のその後

  「合同評価」後の経過を記す。

  02年3月に「結核対策の包括的見直しに関する提言」が厚生科学審議会感染症分科会結核部会でなされ、小学1年時の定期検診は廃止が決定された。しかし中学1年時のツ反については廃止と継続の2案が併記され、乳幼児のツ反も「廃止し全員BCG接種」と、「継続」の2案が決定されないままだった。5月に感染症部会と結核部会内にワ-キング・グル-プが設置され、ここで最終的に上記が廃止決定となる。03年の4月に小中学生へのツ反接種中止され、翌年の2004年4月には乳児へのツ反なしBCG接種が行われるようになり、この状態は現在2015年でも同様だ。

  「合同評価」に従い2004年に結核予防法が改定された。改訂予防法の大筋は下記の如くである。

 ・ 予防・早期発見対策の変更

  1 ツ反の廃止・直接BCG接種の実施(第6条の削除、第13条の変更)

  2 定期および定期外健康診断の対象者・方法の見直し(第4条および5条)・直接服薬確認療法(Directly Observed Treatment)の推進。 

  1 保健所の保健師などが行う過程訪問指導など(第25条)     

  2 主治医による確実な服用その他の指示(第26条)。

 ・ 国民の義務(第3条一項) 新たに追加された。

 ・ 国および地方自治体の責務、特に地方自治体が地域の状況に応じての対策を講じる   ことが強調される(第3条の四項)。

 ツ反は一般診断で用いられる以外には、乳幼児へも小中学生への接種はなくなる。それに基づくBCG接種もない。残ったのはツ反抜きの乳幼児へのBCG接種のみだ。

 入院中心の治療は緩和されて(第26、30条の「隔離」の除去。ただし医学的に無意味とされる場所・物品の「消毒」はそのまま残っている)、DOTSの導入(入院DOTSから外来DOTSへ)となっているが、入所命令を定めた29条はそのままで、入院治療の原則を否定した訳ではない。入院を事実上原則とする日本の方式は、世界に例の少ない贅沢で人権上問題の多い治療方式だとの認識を持ってはいない。参考に記すれば、日本で入院治療が優先されたのは、ニュ-ヨ-ク市の経験を参考としたものだと言う。1990年初頭にHIV/AIDSに伴う結核の急激な増加に対して、入院措置を含む法的行動をとったニュ-ヨ-ク市では、8000人の患者に対して139人の拘束治療をおこなった(注 Gasner MR et al.、The use of legal action in New York City to ensure treatment of tuberculosis.N Eng J Med 1999;340:359-66)。同市の90年後半の結核減少は、入院治療を優先させた為に生じたものではないが、「結核中進国」日本では、強制入院によるDOT治療が必要だと判断された。これには結核病院の社会的存在意義の確認を求める病院サイドの働き掛けがあった。

           結核予防法の「死」 

 2007年に改訂結核予防法は「感染症新法」に吸収され、結核予防法そのものが廃止された。施行後55年間も日本の結核対策の根幹をなした法律が、関係者以外の注目を浴びることなく静かに「死」んだのだ。

    生き残った無差別スクリーニングとしての胸部X線検診。

 大きく変化した結核対策の中で、人目につかず大規模に生き残ったものがある。結核の無差別スクリーニングとしての胸部X線検診だ。結核予防法は廃法となったが、労働安全衛生法の第66条の検診に、「結核」との言葉は無いままに、胸部X線検診が盛り込まれたままとなった。また老人健康対策の一貫としての肺癌集団検診(対策型)としても、そのままとなっている。

   


日本の結核Ⅱ 結核検診

2015-11-08 11:51:44 | 日本の結核

      胸部X線を用いた結核健康検診

 現在行われている結核検診は、多くの場合、検診車に車載されたX線装置を用い、胸部前後一方向間接撮影で行っている。こうした結核検診は有効なのだろうか?平成24年の「実施義務者別結核健康診断受診者および患者発見率の年次推移」(「資料」。表13)では次のように報告されている。、     

                               受診者数           診断数           発見率(千人当たり)   

        a)定期受診者        12,71万51千人         587 人        0.046  ‰

        b)非定期受診者         12万4 千人       499  人

                  総数        12,83万91千人          1,086  人

 定期検診は、健康で罹患の危険性の低い集団を対象とし、他方「非定期」は「患者家族、その他」であるから、実質「患者接触者検査」を意味する。従って非定期健診受診者の罹患率(診断率)は、定期受診者よりはるかに高く、上記の如くおよそ100倍の発見率となる。定期と非定期とは「実施義務者健診」と名目は同じだが、受診者の基本的性格は全く異なり、発見率もまた同一のレベルで比較出来ないほどの差異がある。「検診義務者」という概念で両集団を一括りにしてはならない。「検診義務者」なる概念が不適当で、検診の本来の意味を曖昧にしている。 

 米国の結核対策の中心となって活動してきた疾病予防センター(CDC)は、既に1995年に結核検診について、結核検診(米国ではツ反検診を意味する)は結核対策の第三番目の優先順位にあるとしている。即ち、対策の優先度の第一は発病者の把握と完全な治療であり、第二は接触者の徹底的な調査と治療。第三番目、つまり最後に検診が挙げられる。検診は第一、第二の優先順位の上に来てはならない、と注記されている。特に「低リスクグループの検診はcost-effectivenessに欠けており、中止すべきである」としている。「cost-effectivenessを欠く」とは、単に「経済的有効性」に欠ける、という意味ではない。これを欠いた対策は、より以上必要とされる対策の実施を不可能にしてしまう危険性を持つ。多額の費用はこれに関与する利益集団を産み、この為に真に必要な結核対策実施の費用が奪われ、結果として放置されてしまう。これが結核検診と日本が「結核中進国」である根本の理由ではないか?この点に考慮無くして「中心国」を「先進国」入りするためには「予算措置」が必要だ、との主張は決して認められるものではない。この点を後に書く「合同評価」は鋭く突いている。

    A)  低い診断率と途方もなく高額な検診費用

 「定期」健診実施義務者1271万51千人中、診断された結核患者は587人と報告されている(「資料」、表13)。発見率は0.046‰(千人当たり)だ。分かり易く書けば診断率5人/10万以下となり、日本人の罹患率16.1人/10万を大きく下回っている。結核罹患率が高い65歳以上層(市町村検診受診者)であっても、受診者531万600人からの患者は236人に過ぎず、率にすると0,044(‰)で、診断率は10万人当たり4,4人とさらに低くなる。法を以て「実施義務者」に行われている結核検診は、このように極めて低い診断率しか有していない。他疾患の検診の成績と比較してみると、同じ胸部X線を用いる肺癌検診の平成16年の成績では、

       検診受診者(人)       肺癌診断者(人)      診断率(‰)

         7,769,635           3,711          0,48

 結核検診は0.046(‰)の診断率だから、肺癌検診の10分の1以下の診断率だ。ただし肺癌検診の診断率が結核検診よりも高いから、肺癌検診は有効であったとはならない。世界では胸部X線を用いた肺癌検診は、無意味であると否定されている。その無効とされる肺癌検診の、10分の1以下の診断率しかないのが現行の結核検診だ。如何に結核検診が無意味・無効・無駄であるかが理解できよう。こうした数値でなく、結核検診に要した費用を考えれば、より結核検診なるものの無効性・無意味性・無駄さが明らかになる。

      A) 検診に要する費用

 胸部X線検診にかかる費用は一人約1600円だ(平成22年の診療報酬では1590円)。従って定期検診実施「義務者」1271万51千人にかかる総費用は、202億円強と計算される。この費用で発見される患者は587人なので、結核患者一人発見に掛かる検診費用(税金)は3,444万円になる。

 この費用はどの位の意味を有しているのだろう。結核研究所の加藤誠也氏によれば、2013年の新規登録数患者が3.1人/10万人の米国では、1990年代に一時患者の増加を見たため、結核「予算を大幅に増加し,結核の制圧に成果を上げた。Center for Disease Control(以下,CDC)の結核対策予算(2006年で約170億円)の約70%が協定の下に州政府に配分されている」としている(「低蔓延時代の結核対策の保健・医療組織と人材育成の課題」)。つまり、米国は日本が胸部X線検診に投じている以下の費用で、現在は結核低蔓延国となっている。これに対して、それ以上の公費を結核検診だけに投与している日本は、未だに「結核中進国」であると自らを主張する。日本の結核対策の失敗を最も明瞭に示しているのが胸部X線検診だ。

 厚労省「国民医療費の概況」からの結核医療費と、結核検診に費やされている費用を比較する。最も結核医療費を要した年は、昭和50年で総額2355億円であった(現在の貨幣価値に換算しての値?)。平成23年には約10分の一に減少し、290億円が結核医療(治療?)費とされる。新登録患者数は平成25年では2万0495人だから、一人当たり医療(治療)治療費は約150万円と計算されるだろう。他方、結核患者一人発見に掛かる検診費用は3,444万円になる。治療費よりも20倍以上も要する結核検診とは一体何なのだろうか?

 他の疾患と比較しても同じ答えが出る。肺癌治療に要した医療費との比較を示す。肺癌が早期発見され、胸腔鏡下手術を受けた場合の医療費は976,268円でしかない。肺癌全体では、平成20年の肺癌患者数131,000人の診療医療費は総額で2,320億円と計算されている。一人当たり177万9千円となり結核治療費を上回っている。(片山友子「肺がん検診受診率向上が死亡率および医療費に及ぼす影響の検討」ci.nii.ac.jp/naid/130003377291)。早期肺癌患者一人の治療費用の30倍以上、早期・進行いずれも含む肺癌患者一人に掛かる費用の15倍にもなる金額が、患者一人を発見する結核検診には投じられている(!)。結果として得られる結核発見者数はたったの587人に過ぎない。このような結核検診に多額の公(税)金投与は正当化できないし、許されるべきではない。国民が医療費を必要とする疾病は他に山とある。

 さらに次の数字を示す。高校(専門学校も含む)や大学・大学院などの学校の教職員と入学時や転入時に学生は胸部X線検診を受けよ、と文部省は定めている(「学校における今後の結核対策について」、平成14年)。学校長の名の下で行われる「定期健診実施義務者」は年間218.6万人と報告されている。これら若・中年層から発見される患者は何人になるだろう。僅か33人だ!!率で示せば0.015‰で、最も発見率の少ない法で定めた定期健診実施「義務者」だとなる。従って、結核と診断される職員・学生一人当たりに要する金額は、驚くなかれ1億円にも達する。これを「無駄」・「無効」・「無意味」以外に何と表現できるだろうか?

   B)  診断遅延を齎す可能性のある検診

 日本の結核の最大の特徴は、何度も指摘したように、内因性再燃による高齢者結核が圧倒的多数だという事にある。高齢者結核では症状が非典型的で、自覚症状から患者が結核発症を意識しない事が多い。検診を予定している高齢受診者は、非定型的な症状の為に、即時の受診を躊躇い検診を徒に待つことになり易い。即ち「受診の遅延(pateint’delay。症状発現から受診までの期間が2か月以上も受診が遅れてしまう事)」を来たす可能性が高くなる。

 報告は、「働き盛りで感染性のある結核患者の約3人に1人は受診の遅れ」をきたしている、と指摘する。「働き盛り」の勤労者は「労働衛生安全法」で、結核検診として胸部X線撮影が定められている(「結核対策」との文言は明記されていないが)。時間に追われる「働き盛り」は、症状があっても検診前であれば、「検診があるから」と医療機関受診を遅らせ、検診直後なら、検診「異常無し」報告の為に、これまた受診を躊躇ってしまうだろう。結果は「受診の遅れ」になる。検診の診断率が高ければ許せようが、この年齢層の発症率は極めて低く(20~29歳9.1(/10万人)、30~39歳7.9(/10万人)、40~49歳8.3(/10万人)、50~59 歳10.8(/10万人) )、為に「受診の遅延(pateint’Delay)」を引き起こす。低蔓延状態にある若年および「働き盛り」集団は、結核への自覚が乏しく、また診察する医師も結核を疑って積極的に検査することも少ない。検診で検診「異常なし」の結果報告書を持って受診した場合には、医師は他の疾病を疑って検査するだろう。為に医師の診断ミスは生じ易くなり、診断の遅れ(Doctor’s Delay)に繋がってしまう。極端な例を挙げれば、検診翌日に感染あるいは発病する事態は常にありうる。この時に胸部X線では何の所見も示さない。従って感染あるいは発病した後に、検診「異常なし」の報告を受ける可能性すらある。つまり、当たり前の事だが、検診に都合よく感染や発病が起きる事は極めて少ない。

 期日を定めた検診の無意味性については、文部省の行う「学校結核検診」では次の指摘もある。「定期の健康診断(学校医による診察や問診)は、毎年度6月30日までに実施することとなっているが、その限られた時期に当該児童・生徒が結核を発症しているとは限らない」。しごく常識的な判断だ。これは学童・児童・学生にのみに妥当なのではない。およそ結核検診全てに伴う必然だし疑問だろう。しかし「指摘」されながら文部省は、同じ無駄を教員や家族・本人らに現在も強制し続けている。自らの責任を回避する為の、役人的「前例遵守主義」からだろう。よって「小・中学生全員(約1000万人)に問診をとって、6年間で発見された患者数が19名(!!)」であっても「結核検診」は「永遠」に続けられるだろう。

   C) 結核検診に対する結核研究所の対応

 問題のあまりに多い結核検診について、結核研究所の公的文書は何も語らない。元所長であった島尾忠雄氏は2010年に「結核の集団検診」(「結核」第85 巻 第11 号 2010 年)で、定期健診の削減の時期として「患者発見率0.02%を切る位を指標にして,もう少し早めても良かった」と記す。「もう少し早めても良かった」のは「中止」でなく「削減」と氏は書く。「削減」の内容は不明のままで「中止」されず現在でも続けられている。

 氏が「指標」とする0.02%を切ったのは何時頃になるだろう。表13には25年前の平成2年に患者発見率0.15‰(0.015%)の数値がある。この受診者中には「非定期(患者接触者)受診者」も含まれているので、これを除いた「定期」受診者の「指標」達成時期を求めると、表から昭和60年の「定期検診受診者」の患者発見率0.018%が計算される。30年前のこの時には既に、島尾氏の記す0.02%を下回っていた。つまり30年前に、定期検診は「中止」あるいは「削減」を提起されていなければならない。

 厚労省の「結核に関する特定感染症予防指針の一部改正について」平成23年5月16日 )では、定期の健康診断の対象者を定める際には「対象者百万人程度での患者発見率0・02から0・04パーセント以上」を目安にしろ、と記している。この数値の妥当性について厚労省は何も記していない。上記島尾忠雄氏の考えをそのまま写したのかもしれない。 再度「資料、表13」の「定期受診者」を参考にする。

          検診実施者     受診者数(千人) 発見数(人)  発見率(‰)

             事業者        4,056             154           0.04

                学校長        2,187       33      0.02

             施設            660       77       0.12 

     市町村長(65歳以上)      5,310       236       0.04

           総対象者      12,715       587            0.05

 最も効率的に発見された施設受診者ですら,%表示に直せば0.012%となり、上記「指針(改正)」よりも低値を示している。検診受診者は全て既に検診「対象外」となる。つまり12,715,000人全員が、本来受ける必要のない検診を受けさせられた。  

 患者発見率0、02%は一万人に2人の発見を意味する。つまり一人の発見には5000人の受診が必要となる。金額的には一人1600円かかるから、5000人として一人発見に要する費用は800万円となる。この金額ですら過剰と判断される。何故なら現在の結核罹患率も死亡率も極めて低いが、この低さを齎したのは結核検診ではない。検診の中止はほとんど結核の蔓延に影響を与えることはないからだ。おそらく 「結核に関する特定感染症予防指針の一部改正について」なる長々とした文章を書いた厚労省の担当者(および結核専門家)は、自らの頭と指で、この数値を計算しなかったのだろ。

 これに対して外国出生者の登録者は120/10万人だ。%で示せば1.2%の発生リスクにあり、上記厚労省の基準を十分にクリアーしている。胸部X線を用いた検診が有効であるなら、第一に彼らの健康を守る為に、積極的に地域・コミュニティーに入って検診を行うべきだ。若年者の発症(登録)が多い集団であるので、ましてや有意義な検診となるだろう。

     D)  胸部X線を用いた結核検診についての諸外国の考え

 胸部X線を用いた結核検診について、WHO(世界保健機構)は半世紀も前の1964(昭和39)年に、「WHO 結核専門委員会第8 回報告」を採択し発表している。この報告は「患者発見ではX 線検診を中止し,有症状者の喀痰塗抹検査を中心とする」と記載されていた(青木正和「わが国の結核対策の現状と課題。『わが国の結核対策の歩み』」)。さらに40年近く後の2001年には、外国と結核研究所の専門家による「日本国家結核対策合同評価」が出された(以下「合同評価」と略す。細かくは別章「日本国家結核対策合同評価」参照の事)。これには次のように書かれている。

 「X線撮影による・・・無作為・無差別スクリ-ニングの有効性は疑わしく、・・・・多くの努力(「費用」と書くべきだ・・・・筆者)にもかかわらず、患者発見の質を確実にする仕組みが設けられていない」。

 何も付け加える必要はないだろう。この外国結核専門家の検診への「合同評価」も、その後は現在に至る15年の間無視され続けた。結核研究所のWEBを調べた限りでは、「合同評価」についての記録も抹消され、あたかも日本の結核対策を「評価」しているが如くに歪曲される文章が、石川現研究所長や森亨前研究所長名で書かれている。氏は2015年の「蔓延化を見据えた今後の結核対策に関する研究報告書概要」で、「有症状受診による患者発見が結核患者早期発見の方法の主軸」の中で、「一般人口集団への定期健康診断:一般健診については部分的廃止や方法の見直しを含めた効率化」を挙げている。ただし具体的な記述は一切ない。つまり単なる「作文」に過ぎない。


日本の結核  1  高齢者結核

2015-11-07 16:41:22 | 日本の結核

                   日本の結核―-2015年――

 結核研究所の石川信克所長は『わが国の結核対策の現状と課題』(「世界,日本の結核の疫学と課題」http://www.jata.or.jp/)とする文章中で「日本の結核罹患率は西欧先進諸国より3–5 倍高く,30–40年後を進んでおり,世界的にみてまだ結核中蔓延国である」と述べている。氏が長を務める結核研究所の統計「結核登録者情報調査年報」(以後「年報」と略記する)によれば、平成25年中の結核による死亡者は2084人(概数)、死亡率1.7人/10万人、死因順位として疾病中の26位となり、新登録結核患者数は2万0495人、罹患率16.1人と報告している。新登録患者数は米国(3.1)の5.2倍、ドイツ(4.9)の3.3倍、オーストラリア(5.7)の2.8倍となる。ここから日本は罹患率では欧米に比して5倍も高く、従って「結核中進国」状態にあり、国民の結核に対する認識の欠如は、再び結核を「再興感染症」として、蔓延させてしまう、との石川氏の主張が行われる。

 以下「年報」(結核研究所「結核の統計」資料編、http://www.jata.or.jp/rit/ekigaku/toukei/adddata/)を参考にして、氏らの主張を検討すし、日本の結核問題を考える。

       A 新登録結核患者の年齢構成と死亡率

 新登録結核患者中の60歳以上は71.2%、70歳以上が57.4%を占める。年齢階層で罹患率と死亡率を示せば以下の如くになる(「結核の統計」資料表11)。

               年齢階級別結核罹患率と死亡率(/10万人)

                       罹患率(/10万人)     死亡率(/10万人)        死亡総数(人)

        全年齢              16.1              1.7               2,08 4  

       0~4歳                 0.5               -

       5~9歳                0.3             -  

      10~14                 0.4             -

      15~19歳               2.7、            -

      20~29歳               9.1  、           -

      30~39歳               7.9  、          0.1

      40~49歳               8.3                   0.2

      50~59 歳               10.8、                 0.3

      60~69歳              15.4                   1.0

                    #1  年齢階層別死亡数の報告はされていない。

                    #2  他の年次では0.0表示もあるので-表示は「死亡0」を意味すると考えられる。

 罹患率16.1人を上回るのは70歳以上で、75歳代以上では50.7人/10万人と急激に罹患率は増加する。65歳以上を高齢者とすれば、新登録患者20,495人中の13,227人を65歳以上が占め、比率では64%となる。80歳以上は3,082人、85歳以上患者数は4,316人となり、80歳以上の高齢者は合わせて比率36.1%、全登録者の三分の一以上に達する。死亡者数でも同じだ。全国の死亡者数は2,08 4人(「結核の統計」資料表2」)で、死亡率1.7人/10万人となる。年齢層別死亡率は0~50歳まで1.0人/10万人以下で、80歳を超えると16.人と急激に増加する。死亡者数は70歳代で364人、80歳代1,077人で、70歳以上死亡者は全死亡者の90%となる。

 対して小児新登録結核患者は全国で66人/年、小児新登録喀痰塗抹陽性は0人で、幸いな事に小児の結核問題は事実上、日本では解決していると考えて良い。60歳以下の若・中年層の死亡数は28.8%、全死亡の約3分の一の600人程度と計算される。この階層の国民は5,226万人(総務省「人口動態調査H25年」)なので、これからの結核死亡率は1.1人/10万人となる。若・中年者では結核死亡率は極めて低い。かって日本の結核は若年者中心であったのと大きく異なっている。

 現在結核は死因順位では26位となる。具体的にこの順位がどのようなものかを、厚労省発表の人口動態統計月報年計にある他疾患死と比較する。平成25年の日本人の総死亡数は126 万8432 人で、死亡率は10.1(/千人) と報告されている。結核と単位を同じくした10万人当たりでは1010人/10万人となる。死因別に死因順位と死亡者数・死亡率を示す。   

              表Ⅱ 疾病別死者数   

                 疾病            死亡者数(人)      死亡率10.1(/千人)

      第1位      死因悪性新生物     36 万4721           290.1

      第2位      心疾患           19 万6547          156.41   

      第3位      肺炎             12 万2880          97.81

     第26位      結核                 2084                  1.1

 結核死者は同年で2,084人(死亡率1.7人/10万人)と報告されているから、如何に結核での死亡者が少ないかが理解出来る。ちなみに全死亡率が最も低い値を示す年齢階層は、10歳から14歳の年齢層で8.1人/10万人になる(総務省「人口動態調査H25年」)。これら長い未来を持つ若年齢層の全死亡率よりも、結核死亡率(1.7人/10万人)は遥かに低くなっており、最も低い死亡率を示す年齢階層の約7分の一以下(!)の死亡率の疾病が、現在の日本の結核だ、となる。

 上記の年齢階級別結核罹患率や死亡率(死亡率1.7人/10万人)から、日本の結核を特徴付けるのは第一に「高齢者結核」だとなる。石川氏らが結核「中進国」とする根拠は、全人口に対する新登録結核患者数2万0495人、罹患率16.1(/10万人)を欧米の罹患率と比較したものだった。しかし氏は、日本の結核は高齢者の疾患で、欧米とは全く異なった性格を有する事には触れない。罹患率の高低のみが問題なのではない。日本の結核は高齢者結核だ、と認識する事が重要だ。日本の結核が高齢者の疾病であるなら、その原因が明らかにされ、その対策が考えられねばならないからだ。

     B   大多数の高齢者結核は内因性再燃で生じる。

 結核は結核菌の感染から始まる。一般的には感染者10人の内に結核を発病するのは1~2人だとされる。非発病者は完全に体内から結核菌を排除するか、乾酪性病変内に菌を封じ込めた状態で発病を抑制している。非発病者もしくは治療などで治癒した病歴者が高齢化し、新たな菌に感染するのを外来性再感染、発症すれば外来性再感染結核と言う。対して、若年時に感染し体内で休眠状態にあった菌が、何らかの理由により再活性化して発症するのを内因性再燃という。高齢者結核が「内因性再燃」か「来性再感染」かの区別は、次のように行われる。

 高齢者は若年者よりも活動範囲が限られる。従って発病し新登録された高齢患者の周囲に、排菌する発症患者がいなければ、容易に「内因性再燃」と判断されるし、患者家族や知人などに排菌する発病者がいれば「外来性再感染」の可能性が出てくる。喀痰などの検体から遺伝子学的に同株であるか否か、の判定がなされ、異なっていれば「内因性再燃」となる。同株なら家族や知人からの「外来性再感染」か、内因性再燃結核を生じた高齢者からの家族や知人への感染も疑われ、判断は困難になるが、こうしたケースは多くはない。

 日本の大多数の高齢者結核は「新規」に結核感染(外来性再感染)して発病するのではない。若年時に結核に感染したが、上記の機序で「休眠状態」にあり発病しなかったものが、高齢化に伴って衰える体力の低下、糖尿病や腎疾患など他疾患の存在、癌やリウマチなどの自己免疫疾患への免疫低下を来す治療(ステロイド治療)などにより、免疫力低下が低下した為に発症する。即ち内因性再燃(結核)が大多数だ。従って、結核研究所主宰の「高齢者結核の問題点」なるシンポジウムにおいて豊田誠氏は「高齢者結核の問題は,本邦の歴史上の負債である。70歳代以上の高齢者の多くは,若年期に結核菌の曝露を受け,潜在性結核感染状態のまま,あるいは不十分な治療のまま現在に至っている。そして,今,高齢化や合併症による免疫力の低下によって内因性再燃を生じていると考えられる。・・・・・多くの高齢者が潜在性結核感染状態であるが,実際に発病予防対策の効果の検証は困難である」と記している。www.jata.or.jp/rit/ekigaku/index.php/download_file/-/view/1793

 高齢者に罹患率が高い原因は、過去の日本社会が結核高蔓延状態にあり、為に若年時に多くの人が結核感染していた為による。感染者の高齢化に伴う免疫力低下が、乾酪性結節などの中で休眠状態にあった結核感染巣の再活性化を惹起させ、為に結核の発症に至る。いわば高老化という「必然」が引き起こしている現象だ。

     かって日本は世界でも類を見ない高蔓延国だった。

 豊田誠氏の言う「歴史上の負債」を見てみよう。「資料」表5には、1975年(昭和50年)の欧米の新登録患者(罹患率)が示されている。(/10万人)

     表Ⅲ   1975年の欧米と日本の新登録患者罹患率。(/10万人)

        日本   アメリカ   カナダ    英国  

       96.6     16    16       23

 東京オリンピック(1964年)から10年以上も過ぎた1977年でも、日本の登録患者は欧米の4倍から5倍もあった。対して欧米は既に結核「中」蔓延状態にあり、為に若年時の感染者も少なくなっていた。若年時感染者が少ないから、現在の高齢者の結核発症が少なくなる理屈だ。平成12年(1999年)の「結核緊急調査報告」は、(旧)結核予防法施行時の昭和26年には、日本の結核患者59万人、死亡者9万3千人で、罹患率は10万人当たり698.4人に達していた、と記す。1996年に世界で最も高い罹患率が報告されているのは、アフリカのジブチ共和国の521.4人で、二位がザンビアの488.2人であった(青木正和:本邦における結核症の現状と課題.結核.1999年;683-691)。当時の人口を1億3千万人とすれば、全人口の0.5%以上が結核罹患者となる。かっての日本の結核罹患率の高さは驚くべきものであった。栄養・労働環境および住居環境の極めて悪かった戦前・中・後にかけての日本は、世界でも有数の結核高蔓延国だった。だから結核は日本の「国民病」、あるいは「亡国病」として恐れられていた。現在の70歳以上の高齢者(筆者もその一人)が、幼少・青年時に結核に感染したとしても不思議はなく、高齢化による免疫力低下で休眠状態の結核が発症しても、これまた不思議ではない。

 同じ頃の1953年の米国罹患率は52.6(/10万)人となる(CDC報告)。当時の日本の10分のⅠ以下の罹患率で、既に米国は現在結核研究所の言う所の結核「中進国」状態にあった。これに伴って若年米国人の感染率も低くなる。必然として彼らが高齢化した今、内因性再燃による結核発症は生じない。欧米で高齢者が結核を発症すれば、新たに「外来性」感染したと考えられ、「内因性再燃」の可能性は極めて低い。欧米の高齢者患者が少ないのは、彼らが若年時に感染が少なかった為で、「高齢者結核」の統計などCDCの報告の何処にもない。当然のことだ。 

 高齢者結核が現在の日本で多いのは、かっての日本は結核高蔓延状態にあり、若年時に多くの人が感染した為だ。若年時に幸いにも非活動(休眠)状態で経過した結核が、高齢になった現在、内因性再燃として発症している為で、高齢者が新たに外因性感染して発症している訳ではない。若年時に感染した結核に、高齢者が「今」発症するのは、かって結核高蔓延国であった日本が、世界でも類のない高齢化社会に突入した為の、当然の「報酬」と云える。

   C    老人の再燃結核防止は可能か?

 次に問題となるのは、高齢者の内因性再燃結核の防止は可能か?だ。可能であれば、高い感染率であっても発症防止が可能となり、従って日本の欧米に比して高い罹患(発症)率も低下させることが出来る。発症防止が出来なければ、かって高蔓延国であった日本が、必然的に迎えざるを得ない事態が「結核中進国」なのだ、となる。日本結核病学会は「潜在性結核感染症(LTBI)治療指針」を本年3月に出した。

 「発病リスクが高い潜在性結核感染症(LTBI)への治療有効性は確立しており」とし、「感染しているリスクが高いのは,高齢者」とするが,LTBI治療対象者には高齢者一般は含まれない。治療の中心は発病リスクが高い集団で、次の状態にある人々だ。「最近の感染(感染から1 ~ 2 年以内),HIV 感染,じん肺,過去の結核に矛盾しない胸部X 線所見,低体重,糖尿病,慢性腎不全による血液透析,胃切除,十二指腸回腸吻合術,心不全,頭頸部癌,副腎皮質ステロイド剤などの免疫抑制効果のある薬剤やTNF-α阻害剤等の生物製剤使用」があげられている。これら患者に対しては抗結核剤の投与は当然考えられねばならない。しかし上記は重篤な疾患が多く、副作用の可能性から投与に躊躇される病態もある。為に上記疾患の治療担当者がLTBI治療に積極的に取り組むことは考え難い。せいぜい結核発病への「警戒心」を持つぐらいだろうが、早期診断の可能性を高めるから有意義な指摘だ。従って「予防」としてLTBI治療を上記疾病患者に行おうとするなら、副作用などの「保障」などで「公的機関(厚労省)」の積極的関与が必要であろう。

 なかでも問題となるのは糖尿病患者への予防投与だ。H25年の糖尿病合併結核患者数は全体の14.5%、2964人と報告され、この数はこの5年間でもほぼ一定し3000人内外だ。少ない数ではない。ただし糖尿病患者は2007年で890万人とされているので(「日本糖尿病学会理事長挨拶」より)、発生率は約33人/10万人と計算される。この数値は大阪市の全住民発生率39.4人よりも低値になる。大阪市民全てに予防薬投与は無意味なように、糖尿病患者を一括りにして「治療」はできない。糖尿病の発病リスクは高血糖の程度と持続期間と相関し,HbA1cが7以上では高くなるとされるので,予防投与以前に糖尿病コントロールが重要となる。「潜在性結核感染症治療指針」には、糖尿病患者には「必要に応じてLTBI 治療を検討する価値はある」との文言があるが、「必要」とは何を指すのかは不明のままだ。

 高齢者の内因性再燃結核を防止策として、潜在性結核感染症(LTBI)治療は不十分な対策といえる。加齢を押し止める事は出来ない以上、高齢者へのINHなどの予防投与は、副作用や耐性菌出現の可能性が高くなり、高齢者の内因性再燃へは決め手とならない。発症予防が不十分であれば、あり得る対策は発症高齢者の早期診断と完全な治療しかない。腎臓病、自己免疫疾患や悪性新生物などの罹患高齢者への医療機関の早期対応が最も重要となる。厚労省は平成23年に「結核に関する特定感染症予防指針(以下「指針」とする)の一部改正について 」なる文書を出している。ここでは「結核患者の多くは高齢者」の為、咳、喀痰、微熱等の有症状時には、患者の早期受療の勧奨と、医療機関側が結核感染を念頭に置く必要を指摘している。

 医療機関での早期診断は何よりも強調されるが、高齢者と接触する機会の多いのは介護施設においても同じだ。これらの施設では「集団感染事故」の発生が常に付きまとう。「資料」表20からは、これら施設の「集団感染」事例は多くは無いがリスクは存在する。こうした施設では医師不在も多く、診断の遅れは感染拡大の温床となりかねない。医療機関のみならず介護施設での防止手段が具体的に考えられ、周知徹底されねばならない。

 2015年の「低蔓延化を見据えた今後の結核対策に関する研究報告書」(結核研究所長石川氏ら提言)では、高齢者結核での早期発見に有効な施策のため様々な試みでの検証が必要」と記されているが、高齢者の内因性再燃結核への対応として、具体的には何も書かれていない。つまり、先に記した「患者の早期受療の勧奨と、医療機関側が結核感染を念頭に置く必要」以外の、「有効な施策」や「試み」は何一つ提起されていない。「結核中進国」日本の最も求められる結核対策は、高齢者の内因性再燃結核への対応でなければならないが、その具体的な対策が、「発症者の早期発見」で、医療機関の「結核医療」への理解を求めるだけで、発症予防の対策はないと考えられる。

 内因性再燃防止は不可能であれば、これ以上の罹患率の急速な減少は望みえない。望み得ないなら、高齢化に伴う「結核中進国」は当然の帰結だろう。

   高齢者結核の特徴

 高齢結核の特徴の一つが、患者は新たな外因性再感染ではなく、過去の感染の再活性化、即ち内因性再燃で生じることが明らかになった。以下、高齢者結核の特徴について記す。

    1. 症状

 高齢者結核の初期症状は非特異的であり,進行すると呼吸器症状や全身症状が出てくる。呼吸困難や血痰・喀血は少なく,咳・微熱・倦怠感・体重減少等が多い。患者・近親者がこうした症状を軽視すれば、受診の遅れ(patient’s delay)に陥り易い。高年齢者ほど全身状態不良で医療機関を受診することが多い。他疾患受診中や入院中では、胸部X線などを取る機会が多く、早期診断が可能となるが、併存疾患の為に医師の診断の遅れ(doctor’s delay)も起こしやすい。

    2. 画像診断

 胸部X 線が結核診断の切っ掛けとなるケースは多いが,高齢者では空洞形成率は低く,結核好発部位でない中・下肺野病変がみられる等の肺炎像を呈することも多い。高齢者では嚥下性肺炎の合併も少なくない。肺結核既往者では,再燃時もX線では治癒所見と診断され易く,健康時のX 線像との比較が不可欠となる。高齢者結核では胸部X線はあくまで補助診断に過ぎない。

   3.  免疫学的結核感染診断法

 ツベルクリン皮内反応(ツ反)は,過去の日本ではBCG 接種が無意味に頻用された爲に、false positive(偽陽性)が多く信用できない。高齢者には有既往歴者や感染者が多くツ反陽性率は高いが,免疫能低下によるfalse negative (偽陰性)も多くなる。最近認められたQUANTI-FERON 第二世代(QFT-2G)(以下QFT と略)はより正確だが,高齢者は既感染者が多いのでQFT 陽性率は高くなるが,逆に発病時も免疫低下の為にQFT 陰性を示す可能性がある。ツ反と同様だ。

   4.  喀痰抗酸菌検査

 喀痰塗抹検査はMACなどの結核菌以外の抗酸菌も検出し、喀痰塗沫陽性は必ずしも結核菌排菌を意味しない。従ってPCR(polymerase chain reaction)等の核酸同定法で結核菌と確認する必要がある。PCRが陽性時、塗抹陽性・培養陽性は結核生菌と確認され、培養では薬剤感受性試験も可能となる。多剤耐性菌であるか否かは治療時に重要となる(イソニアジド(INH)とRFP への耐性菌を多剤耐性菌という)。高齢者では菌検出と耐性検査の為、痰吸引や胃液採取を行う必要もある。塗抹・PCRが共に陽性でも、培養陰性なら死菌喀出と解釈され、結核再発は否定される。高齢者では喀痰塗抹陽性あるいは培養陽性で診断される割合が高く,診断の遅れや重症化,あるいは感染性が高い結核になる可能性がある。

   5.  一般臨床検査

 赤沈は通常は亢進するが正常もある。梢血液検査では白血球数増多や好中球増多は少なく,むしろリンパ球数減少をきたしやすい。  

 

      三   日本の結核のその他の特徴

 欧米の、いわゆる結核「先進国」では、日本のような「高齢者結核」の問題は生じない。これらの国々で問題となるのは、結核対策後進国からの「移民」結核と、HIV感染に伴う若年者結核になる。

    A)  外国出生者結核

 米国では新登録患者(9,582人)の65%が「移民」で、罹患率では15.6人/10万人となる。彼らは結核高蔓延国である母国で感染し、低蔓延状態の米国で発症している(内因性再燃)。かって高蔓延状態で感染し、低蔓延状態の現在になって発症する日本の高齢者と同じことが言える。ただしこれらの「移民」は若年層が多く、若年移民は労働や修学などの社会活動も活発であり、排菌などをしている場合には、多くの人の感染源となる可能性が高くなる。だから米国では「移民」の潜在的感染者(LTBI)に神経質になり、潜在的感染者(LTBI)発見の爲に検診が行われ、積極的な潜在的感染(LTBI)治療が行われる。ただし健診とはツ反や血清学的検査をいい、日本のように胸部X線検診を意味してはいない。

日本の結核統計の患者には外国出生者も含まれる。外国出生者数(「移民」ではなく)として、新登録患者の20-29歳では494人(41.3%)、30-39歳で225人(17.1%)(参考資料 5-7)と報告されている。全年齢では1,213人となり、全新登録数の約6%を外国出生者が占めている。20-30歳層の新登録患者は、外国出生者を含んで1,196人と報告されている(「年報2013」)。この内の494人は外国出生者となるから、この年齢階層の約50%(!)近くを外国出生者が占めている。また30-40歳層では225人で、同じくこの年齢層の17%になる。若年新登録患者の極めて大きな割合を、外国出生者が占めている。統計から日本の「若年層結核問題」は、何よりも外国出生者結核だ、と理解しなければならない。従って、単純に若年層の罹患率を問題にしてはならない。

  在日外国出生者数は約92万人(総理府統計)と推計されている。これから計算される登録患者率は120/10万人となり、他のどの集団よりも高い結核罹患率を示している。しかも圧倒的に若年者に多い。労働条件や居住条件などで、相対的に不良な生活環境にある為に、これらマイノリティの発症者が多くなると考えられる。

以上より、在日外国出生者は結核高リスク集団と判断され、重点的な結核対策が必要だ、となるだろう。しかし現実には、厚労省にしても結核研究所にしても、具体的な対策はほぼ無いと言って良く、彼らの母国語での注意をポスターなどで呼び掛けたり、保健所で窓口を設けているだけだ。政策的に積極的に人員を配置して彼らに接触し、啓発して、結核発病防止や早期受診へ結びつける、など特別な結核対策は行われていない。従って、日本の結核の「制圧(elimination)」への道のりは遠くならざるを得ないだろう。

   B)   HIV感染と結核 

 15年前の「結核緊急宣言」時に危惧された「HIV感染と結核」は、現在では殆ど問題にならない。幸いな事に日本では、危惧されていた「HIV感染爆発」は起きなかった。HIV感染者の増加は続いているが、抗HIV治療の進歩によって、AIDS/HIVで死亡する人は極めて稀だ。このことは「結核とHIV」でも言える。ただしHIV感染者の早期把握とAIDS発症の予防治療が不十分で、AIDS発症後に診断される為、免疫低下からの合併症としての結核の危険性は高い。欧米と異なって、日本では医療機関側の積極的なHIV感染検査ができず、また結核患者への検査も、患者サイドの了解が必要で実態把握が十分ではない。この為に「HIV感染と結核」の正確な実態は不明だ。新登録患者20,495人中、HIV検査実施者の内50人(0.2%)が陽性者であったと報告されている。

   C)  多剤耐性結核菌。その他。

 現在世界で最も警戒されているのは、多剤耐性結核菌(Multi-Drug Resistant TB)の蔓延だ。幸いにして現在までの所、日本では殆んど問題にはならない(参考資料1 1。多剤耐性結核患者割合0.6%)。これは治療法としてDOTS(Directly Observed Therapy,short course)が功を挙げているのと、日本の結核は高齢者の内因性再燃が中心だからだろう。若年時に発病した高齢者は、抗結核剤としてPASやストマイによる治療は受けているが、現代の抗結核剤(INHおよびRifampicin)の洗礼を受けていない。つまり外来性再感染・発症の場合に問題となる「過去の治療」の影響を受けていない。けだし多剤耐性結核菌とは、現在、最も有効で頻用されるINHおよびRifanpicinへの耐性を有する結核菌のことを言う。ただし高齢者結核では、高齢そのものと併存疾病のために治療薬が限定され、治療に困難があるのも事実だ。

  D)   糖尿病、慢性腎疾患、癌その他、

 「結核緊急宣言」が出された時、糖尿病患者の結核罹患が問題となった。結核患者の糖尿病合併率は14 .5%(資料1 2)とされている。合併率から糖尿病患者をハイリスク者とするべきかは問題が残るだろう。何故なら糖尿病は高齢になって発症する人も多いからだ。癌や慢性腎疾患が問題となるのも、高齢者結核の特徴であるだろう。

   E)  集団感染

 「集団感染事故」が生じるとマスコミはヒステリー状態になる。医療機関の発生では、院長などの責任者が「神妙な顔」をして頭を下げる。この時には反論は厳禁だ。「嵐の過ぎるのを待てばよい」。厚労省や結核研究所の専門家が「御託宣」を下せば、そのうち誰もが忘れてしまう。それだけの事だが、注意は必要だ。結核研究所の「結核の統計」資料編表20によれば、平成25年の「結核集団感染事故例」は全国で29件、発生集団数(複数を含む)は48ヶ所とされている。事業所15、学校等6、医療機関7、高齢者の利用する施設0、などとなっている。過去十年間の平均は年43件であった。

 ただし「集団感染事例」とは、二家族以上に患者が発生し、20人以上の感染者が生じた場合を言う。この際には、患者一人当たり6人の感染者があると計算される。二家族で4人の患者が届けられれば、自動的に「集団感染」があったと見做される。3人が患者であれば、ツ反もしくはQFTで2人に可能性があれば同じように「集団感染事例」となる。二人の患者がいれば、高齢日本人の多くは過去に感染かBCG接種を受けているので、ツ反やQFTは陽性を示す可能性が高い。すると「新たな感染」でなくとも、感染者と判断され、集団感染事例となる可能性が高い。感染と発病は異なると冷静に考えれば、ヒステリーを起こす必要はない。但し、センセーショナリズムを体質とするマス


4 グレートヒェン悲劇(2)

2015-06-14 17:16:22 | 「ファウスト」を読む

   マルテの庭

 愛欲に駆られたファウストはメフィストと共にマルテの庭でグレートヒェンに会い、若い二人は逢瀬を楽しむ。別れしなに、ファウストは聞く。

 ファウスト     ゆっくりとお前の懐に寄りすがって

            胸と胸、心と心を触れ会わせたい。

 グレートヒェン  一人で眠られるんだったら、 

            今夜、掛け金を外すんだけど

            母さんは眠りが浅いの。

            見つけられたら、その場で死んじゃうわ。

 ファウスト     簡単なことだ。

            この小壜から3滴、母さんの飲物にお垂らし。  

            ぐっすりとお眠りなさるよ

 グレートヒェン  貴方の為なら、私、何だってしてよ。

           でも、母さんの毒にはならなの?

 ファウスト    毒を勧めやしないよ。

 グレートヒェン  私、貴方のお顔を見ていると、

           何故だか、何でもしたくなってしまうの。

           此れまでも、色々したけど、

           もう、何もないような気がするわ。          (U)

    グレートヒェンは、ファウストの欲望に答えるかのように、「自ら」部屋の掛け金を外す約束をする。この言葉は彼女の性衝動(愛)が言わせるもので、この恋への彼女の「積極性」を物語る。しかも、彼の与える睡眠薬が「毒」であると疑ってさえいる。それでも彼女は己の中なる「愛欲」に従ってしまう。彼女は彼ファウストの願望を「受身で」聞き入れたのではない。彼女自身の声に従って「積極的」に彼を部屋に、自らに向かえ入れた。                                            

 恋人たちと悪魔メフィストが望んでいた夜となる。おそらく二人の逢瀬は幾夜も続いたであろう。そうした夜には、グレートヒェンは、こっそりと母親の飲み物のなかに「3滴」の睡眠薬を落としたことだろう。そんな幸せなある日、彼女は「井戸のほとり」で友人のリ-プヒェンに会う。リープヒェンの言葉に自らを重ね、彼女は不安のうちにつぶやく

        Und segnet’ mich und that so groß,
        Und bin nun selbst der Sünde bloß!
        Doch – alles was dazu mich trieb,
        Gott! war so gut! ach war so lieb!

        自分は高みの見物で、偉そうな顔をしてたんだわ

        ところが今は、自分がその罪にさらされている。

        けれども――こうなるまでの道筋は

        なんて良かったんだろう、なんて嬉しかったんだろう。

 ここに読者を不安に落とし入れ、更にグレートヒェンと読者を一体化させる強烈なメッセージがある。

 ここで、柴田翔氏は奇妙な解釈をする。ファウストが彼女に与えた「眠り薬」はメフィストが「準備」した、と書く。母親の「毒殺責任」はファウストでなく悪魔に帰せられる。そうかもしれない。そうでないかもしれない。詩劇ファウストには毒薬を「誰が調合したか」について、何も書かれてはいない。

 詩からすれば、彼の欲望がこの眠り薬を調合したと考えるべきだろう。母親を殺したのは「薬」ではなく、「逢瀬」に邪魔な母親を排除しようというファウストの愛欲だ。あるいはファウストとグレートヒェンの二人の愛欲なのだ。彼の与える薬が「毒かもしれない」と疑いながら、彼を欲するグレートヒェンの「愛」する心の高まりは、その疑いをも抑圧する。「貴方の為なら、私、何だってしてよ」と。

 グレートヒェン、お前は何と自に素直な乙女であることか!だが、彼女の心は評者や翻訳者の考える「清純な」心だろうか?確かに、彼女は愛に「純真」であった。しかし、それは決して評者や翻訳者が「希望する」純真ではない。

 拙稿「ハムレット論」で、オフィーリアは彼との間に性交渉を経験してはいても、「清純」であるとした。同じ意味でグレートヒェンは、母親に「眠り薬」を与え、部屋の「掛け金を外して」ファウストを己の中に迎え入れても、「清純」な乙女だ。

 その夜、若い二人は「目的」を達する。彼女の悲劇は以後避けようもなく進行する。

 グレートヒェンは、次の「井戸のほとり」の場面で、リースヒェンから友達バルバラの噂話を聞かされる。バルバラと同じ立場になったグレートヒェンは、「かわいそうな人」や「でも、男の人、きっとお嫁さんにするわ」とバルバラを弁護する。女友達バルバラの運命は、今や彼女にとって他人事ではない。バルバラの結婚は彼女の希望でもあった。「彼女が結婚できるのなら、きっと私も結婚できるわ(捨てられるなんてことないわ、きっと。アぁ、神様)」。だから、家への帰途の独白で「よその娘の間違い」を、かっては「勇敢」にこきおろし、人の「罪を責める」には「いくらいっても言い足りない気持ち」で、人のした事が「黒い」と思えると「いっそう黒く塗」り、高みの見物で「偉そうな」顔をしていたが、と独語し、さらに「今は自分がその罪に晒されている」と言う。      (U)

 この段階での彼女の「罪」意識は何なのだろう。リースヒェン(の台詞)は、バルバラは男と性的関係を持った事実のみを言っている。結果としてのバラバルの妊娠は、リースヒェンの希望的「推察」に過ぎない(「飲み食いするのも今では二人分なんだってさ」)。グレートヒェンはバルバラと同じ「愛」の陥穽に落ち込み、世間の噂になる恐怖を「罪」と意識している。最後の二句「まあ、なんてよかったのだろう。なんて嬉しかったのだろう」は、彼女のファウストへの愛を直截に物語っている。彼女自身の愛(性愛)の満足に、この時、彼女は疑問を抱いてはいない。

 ゲーテは「罪」という言葉をグレートヒェンに言わせているが、その内実は今日的・「日本的な意味」、「道徳的」、「刑法上」、「宗教上」の罪ではない。庶民階級の乙女達に世間が強制する表面的な「道徳」からの「罪」に過ぎない。花輪や藁を撒かれるなどの「いじめ」を含む、「世間的汚名」からの「罪」を問題にし、それに彼女は恐怖を感じている。

 ここではグレートヒェンはファウストと性関係を持ってはいるが(バラバルと同じに)、彼から「捨てられ」てはいない。しかし、彼から「結婚の約束」を取り付けてもいない。彼女の不安はファウストが「お嫁さんにする」と言ってくれぬ事だ。彼女には確信が持てない。バルバラの結婚は彼女の希望でもある。バルバラが結婚できるなら、私も結婚できるだろう。彼女はファウストとの結婚の希望と共に、それ以上に恋人の態度に不安を持っている。リースヒェンの言うように、彼に捨てられ「世間から辱めを受けるのではないか?」という不安。しかし、その不安を押しのける現在の「性愛への歓び」!

 彼女の言う「罪」を「道徳的」な罪(私通)を犯した、としては、ゲーテの考えを無視し、ファウストの読み誤りになるだろう。

 星野慎一氏は「ゲーテ」(清水書院、1981)で次のように記す。彼女は「過ちを犯したが、彼女を罪に陥れたのは彼女の官能であって、その魂までがそれを肯定した訳ではない」と。彼女の官能に責任があり、魂はそれに「独立」した存在であるという。日本の独文学者は20世紀の後半になっても、官能=悪、魂=善という二項対立の単純な善悪意識から自由にはなっていない。官能は魂の一部であり、官能を離れて人間は存在しないのだ、という単純な事実を見失っている。

 小塩節氏は書く。

 「グレートヒェンには愛だけがある。彼女は愛を通してだけ生きる事が出きる。・・・・美しいはずの恋が、社会の枠を乗り越えようとした二人の『わがまま』の為に、壊れていったからである」

 「愛だけ」の人間など存在しない。グレートヒェン(人間)は愛「だけ」では「生きてはいけない」し、「愛を通してだけ生きる」のは不可能と知るべきだった。「愛だけ」で生きようとしたから「嬰児殺し」が生じたのだ。生きる為には、嬰児殺しを避ける為には、「愛」だけでは不十分なのが人生だ。

 小塩氏のいう二人の「わがまま」、「社会の枠」とは何か。「美しいはずの恋」とは「社会の枠にとどまって」いる恋、つまり性を排除した愛を言うのか?そうであれば、このゲーテ研究者の思考は、「井戸のほとり」のリースヒェンや、ズザンナを斬首した18世紀フランクフルト市の考えそのものではないか?

 グレートヒェン悲劇に感動的するのは、彼女の「愛の危うさ」、愛する者なら誰でもが経験する「社会の枠」との葛藤、愛の「陥穽」を意識するからだろう。

 

 「井戸」から「市壁の内側に沿うた小路」に場面は展開する。この場でのグレートヒェンは次のように悲しみと苦しみ、悩みを「受苦のマリア像」に祈る。

         私の骨身にとおる苦しみを

         他の誰が感じてくれましょう。

          一人になります毎に/

         私は泣いて、泣いて、泣きとおし

         胸も張り裂けるようでございます

 

         お助けくださいまし、恥と死からお救い下さいまし。

         苦しみ多い聖母様

         私の悩みに対し、お恵み深く

         お顔をお向け下さいまし                (U)

 何故彼女は「一人になります毎に/私は泣いて、泣いて、泣きとおし」、「恥と死」を予感して、聖母マリアに救いを求めるのか?この直ぐ前の場で、彼女は自らの性愛を「なんてすばらしかったのだろう」と肯定していたというのに。

  柴田翔氏はこのグレートヘンの苦しみ、悲しみをファウストとの恋ゆえとする。愛の不安からの叫びだとする。これまた「阿保」な解釈だ。恋の不安、愛の苦しみであれば「死」を彼女は感じる必要性はない。又、この時、ファウストは彼女を「捨て」ていない。

 この段階では未だ、グレートヒェンは恋人からもらった「睡眠薬」で母親を殺してはいないし、ファウストは恋人の兄ヴァレンタインをメフィストの助力(企み)で殺してもいない。ましてや「胸の下でムクムク蠢くもの(胎児)」を感じてはいない。彼女の不安はファウストから「結婚の約束」を貰えていないこと、バルバラと同様に、愛している男から「捨てられる恐怖」しかないはずだ。彼女の「恥」と「死」の恐怖は、未だ存在していない筈だ。これが意識されるのは、次の「夜」から「寺院」の場で彼女に明らかになる。

 ゲーテは語る「場」の順序を誤っている。以下の理由による。

 次の「夜」での、彼女の兄、善良なヴァレンタインは、愛する妹がよそ者に弄ばれ、その為に彼の誇りであった妹が、「あるまじき道」を歩んでいるとして、兄として怒っているに過ぎない。母親の死を意味する文言は一つもない。兄の頭の中には母親の死は存在していない。ではグレートヒェンの母親は未だ生きていたのか?

 母親はその「朝」に、グレートヒェンから与えられた薬で眠ったまま死んだ、と考えられる。母親の死を未だヴァレンタインは知ってはいない。妹グレートヒェンは兵舎に住む兵士の兄に、母の死を知らせていない。この段階「夜」では、自らがグレートヒェンに与えた薬で、母親を殺したとの認識はファウストにもない。だから、彼は殺人者の「罪意識」でなく、恋人を裏切る「罪意識」を持ちながら、愛欲に駆られて恋人の家の窓の下に、悪魔と共にやってくる。勿論メフィストは全てを知っている。だから、悪魔には事態は楽しくてしょうがない。

 「夜」の時点で、グレートヒェンは母親の死を知っていた。この「夜」の朝には、母親は恋人から渡された薬の「たった3滴」を飲んで、「永遠の眠り」から覚めなかったからだ。彼女はどうして良いのかわからず、錯乱の内に恋人ファウストが来る「夜」をひたすら待っていただろう。

 彼女は恋人から与えられた「眠り薬」が、毒薬かもしれないと疑った事がある。母親が眠りから覚めないのが、その「薬」の為だとも知っていた。ただ彼女は母親の死をどうしてよいか分からず、恋人の訪れる「夜」を待つしかなかった。

 母親の死について何も知らぬファウストが、恋人の元へ行った「夜」、ファウストは彼女の兄ヴァレンタインを殺害する。ファウストとメフィストが逃げ去った後、瀕死のヴァレンタインの周りに集まる人々の中には、生きていれば当然いなければならない、彼とグレートヒェンの母親の姿はない。この時には既に母親は殺されていた。ヴァレンタイン殺害を犯したファウストは、その「夜」から彼女を訪れる事は出来ない。殺害犯としてお尋ね者になっているからだ。

 彼は逃避行として、メフィストと共に、「ヴァルプルギスの夜」にブロッケン山へと出かけてしまう。グレートヒェンは完全に彼から「捨てられる」。彼女には相談すべき母親も兄も、この世の人では亡くなっていた。彼女はまったくの孤独の内にある。

 グレートヒェンの母親と兄の死、これは悪魔メフィストの直接行った犯罪でなく、彼ファウストと彼女グレートヒェンが、「愛」の名の下に行った犯罪だ。だから、余計に嬰児殺しの罪による彼女の死が、悲劇的・普遍性を持つ。何故なら、こうした運命は彼女が「最初でもなければ、最後でもない」からだ。「愛」の名による、何時でも誰にでも起きうる人生の罠、陥穽だ。

 「夜」の場の次の「寺院」では、「葬儀。オルガンと歌声」となっている。この合唱の歌詞はモーツアルトやヴェルディの作品で知られる「レクイエム(死者の為のミサ曲)」である。鴎外はラテン語で記している。他の訳はこの事に触れてもいない。

 この葬儀は兄ヴァレンタインと母親の葬儀だ。彼女は、母と兄の死に直接・間接に自らが関係している事を知っている。だから、背後の「呵責の霊」が彼女を責め続ける。この「呵責の霊」をメフィストと考える人がいる。誤りであろう。霊は彼女の心から出たから「呵責」になる。彼女は己の犯した罪を知っている。

 「呵責の霊」は囁く。

          お前の胸には、何たる悪業が宿ってるのだ。

          長い業苦へ、落ち込んだ母の魂に祈るのか。

          お前の家の敷居には、誰の血が流されたのだ。

 霊は続ける

          お前の胸の下には、はやムクムクと動くものが、

          将来の不安を宿した現在の姿で

          お前を悩ませているではないか               (U)

 「将来の不安」はムクムクと彼女のお腹で動きだした胎児だ。ファウストに見捨てられ、妊娠を胎児から告げられたグレートヒェンは苦しみもがく、

         心の中を往き来して、私を責め立てる、

         この思いから逃れられたら 

 彼女は母親を誤って殺し、恋人に兄を殺され(恋人ハムレットに父を殺されたオフェリアを思い出そう)、しかも愛し頼りにしていた恋人に「捨てられ」、さらに胎児の動きを自らの内に感じていた。何という恐ろしい状態に彼女は陥っていることか!

 彼女はこの時点で、最も深い悲しみと苦しみ、そして不安を味わっている。だから、「寺院」後にこそ「市壁」のシーン、聖母マリアへの祈り、悲しみの祈りとなるべきだ。

 森鴎外の訳でも、Urfaustでも、「市壁」のシーンは「井戸の場」にすぐ続いている。ゲーテ自身もこの順序で良いと考えていたのだろう。しかし、聖母マリアによる救済が第二部で予定されているとしたら、ここでのグレートヒェンの悲しみ苦しみは、己の犯した罪、(親殺しの)罪は己の(性)愛にある、と自覚した後でなければならない。

          私の骨身にとおる苦しみを

          他の誰が感じてくれましょう。

          一人になります毎に/

          私は泣いて、泣いて、泣きとおし

          胸も張り裂けるようでございます

 

          お助けくださいまし、恥と死からお救い下さいまし。

          苦しみ多い聖母様

          私の悩みに対し、お恵み深く

          お顔をお向け下さいまし

 全くの孤独の内で、彼女は恐怖の中で胎内に成長するファウストとの子供を感じ、そして出産し嬰児と共に彷徨よい、終には水の中に嬰児を投じる。

  「嬰児殺しのテーマ」を、ゲーテは他の小説でも取り上げている。1809年刊の「親和力」で、女主人公オッテーリエは、恋人の田舎貴族エドワルドと彼の妻シャルロッテの子供、自分の「目」を持ち、シャルレッテの恋人(の大尉)の面差しを持って生まれたオットーを、「誤って」ボートから湖水に落とし死なせている。

 湖畔で密かにオッテリエと会ったエドワルドは、自分と妻の間に生まれた子供を恋人から見せられる。友人の大尉(少佐)に余りに似ている子供に、彼は妻の不貞を疑う。しかし開けられた子供の眼は、彼の恋人オッテエーリエのものだった。彼は叫ぶ。「二重の不貞で生まれた子供だ!」。

 別れ際に二人は固く抱き合う。彼女は

 「自分の胸を例えようもない優しさで、しっかりと彼の胸に押し当てた。希望が流星のように彼らの頭上をかすめて飛んだ。二人は互いに、自分は相手のものだと幻想して信じ、初めて決定的な、こだわりのない口づけを交わし合い、自らに強いて別れた」。

 彼女は対岸の離れ家へ、近道として湖水をボートで渡ろうとする。  

 「彼女の心は対岸に飛び、子供を連れて水上に出る危うさへの心配は、はやる気持ちの内に消え去った。・・・胸が高鳴り、足がよろめき、気も遠くなりそうになっていることを、彼女はもはや気がつかない。」

 「左腕に子供を抱え、左手に本、右手に櫂を持ったオッテリエは、船の揺れに重心を失って小舟の中に倒れた。櫂が手を離れて流れ、体を支えようとするうちに、子供と本も、体の傍をすり抜け、すべては皆一緒になって水に落ちる。・・・」

 「漸く起き直って、子供を水から引き離すが、その目は閉じられ、息はなかった」

                              柴田訳「親和力」、講談社文芸文庫、P368以下。

 子供の死は彼女の「過失致死」であったのか?父親エドワルドも母親シャルロッテも彼女を責める事は無い。また訳者は次のように書く。

 「子供を受け取るのは、幸せな恋の高揚のうちに復元が決定された太古の湖である」

 小説は如何様に書ける。が、解釈は如何様にも書いてならない。そもそも湖は「太古」などとゲーテはどこにも書いていない。かってに修飾語を乱用しないでほしい。

 「子供の死」に罪を感じたオッテーリエは、食を絶って自死を遂げる。訳者柴田氏は「子供の死の責任を、何故、行為者である二人でなくオッテ-リエが・・・・引き受けなければならないのか?」と書く。

 この芥川賞受賞歴のある文学者にして大学教授は、何を訳しているのかに全く自覚がないようだ。ゲーテは上記のように、オッテーリエの犯した罪、一種の不貞(抱き合いキスまですれば、十分にそう言える)による幼子「殺害」をちゃんと書いているではないか。その上で彼女に自死という責任(処罰)を与えている。それが分からぬままで翻訳するとは!!

 グレートヒェンはファウストに見捨てられ、「恥と死」の不安と恐怖を感じていた。この時、グレートヒェンにはファウストは勿論、母親もいなかった(「市壁の場」・・・筆者解釈による)。母親は既にファウストの与えた睡眠薬で永遠の「眠り」に落ち、兄ヴァレンタインの殺人犯ファウストはお尋ね者となり、グレートヒェンには合えない状態になっていた。彼女は全くの「孤独」の中で出産する。

 ファウストがメフィストと共に過している間(「ヴァルプルギスの夜」など)、彼女は子供を抱えて放浪し、ついには嬰児を池に投じ、逮捕され牢に繋がれる。裁判では「嬰児殺」犯人として、公開斬首刑の判決を受ける。処刑の前日となる。

 処刑前日の「曇れる日」、野原でメフィストを呪ってファウストは言う。

          悲惨な目にあって、絶望に沈んでいるのだな。

          長い間、惨めな思いをして、世の中を彷徨ったあげく、

          今は囚われの身になっている。あの可愛い因果な娘が、

          罪人として牢獄に繋がれて、恐ろしい憂き目をみているとは。

          役立たずの裏切り霊め――しかも貴様はそれを俺に隠していたのだ。

          ・・・・

          あれの苦悩をひた隠しに隠して、頼るものも無い破滅に陥れたのだ。

  メフィストは冷然として答える。

          なにもあの女が初めてと言う訳でもありませんや

  「幾千人の運命を、平気でせせら笑う」と非難するファウストに、悪魔は答える。

          どこまでもやり遂げる力が無いのに、

          何故こちとらと、縁を結ぶ気になったんです。

          空は飛びたいが、目眩は怖い、というところかね。

          一体、私の方から押しかけたんですか、

          貴方の方から持ちかけたんですかね?               (U)

 全てはメフィストの掌の内にあったのだろう。しかし、メフィストが言うように、グレートヒェンの過酷な運命を最終的に選んだのはファウストであり、またグレートヒェン自身であったと言わねばならないだろう。

 最後「牢屋」で、グレートヘェンを牢から、公開斬首刑から救おうと駆けつけたファウストへの彼女の言葉は悲痛である。次のようなセリフだ。

  グレートヘェン 私には何の望みもないの。

            逃げたってどうにもならない。待ち構えているの。

            乞食をして、その上良心の呵責まで引きずって。惨めよ!

            知らない土地を流離い歩く。嗚呼、なんて惨めなの。

            それでも私を捕まえるのだわ。

  ファウスト    私が側についているよ。

 グレートヘェンはファウストを信用しない。代わりに溺死した嬰児を救ってくれと頼む。

 グレートヘェン  すぐに捕まえて!

            浮き上がろうと、まだ、もがいているわ。

            助けてよ!助けて!

            ・  ・・・・・・・・

            貴方が私と夜を過ごしたなんて、誰にもいわないで。

・  ・・・・・・・・

  ファウスト    ああ、俺は生まれなけりゃ、良かったんだ。    (U)

 ファウストの「生まれてこなけりゃ良かったんだ」について、山下肇は「解説」で、太宰治の「グッドバイ」の文章、「生まれてきてごめんなさい」を説明なしに引く。訳者の解説であれば、この文言は第一部「天上の序曲」を受けて、ゲーテは書いている、と記すべきだ。何故なら「序曲は」旧約のヨブ記を下敷きとしている。

 ヨブは全てを奪われ、更に激しい苦痛を伴う病苦に犯され、自らの「生」を呪う(主を呪うのでなく)。「俺を産んだ胎よ、呪われろ」と。ファウストの「愛」の苦痛(「ああ、俺は生まれなけりゃ、良かったんだ」)は、ヨブの「生命」への呪いに近い。

 ファウストの自らの生への呪い、グレートヒェンの愛を裏切った自らへの呪いを述べて、ファウスト第一部の完結へと向かう。

 従来、ファウストの救済は、グレートヒェンの「愛」によると強調されていた。救出しようとするファウストの腕から逃れ、罪を認め、神に全てを委ねようとするグレートヘェン。ここで全ての訳者・解説者は感激し、第二部へ続く「天上」からの「救われたのだ」とのセリフの意味を強調する。確かにそうだろう。しかし最後のファウストの「自らへの呪い」、「自責の念」があって、初めて「天上」からのグレートヒェンの救いも可能となるのだろう。詩劇ファウスト第二部第一幕「爽快なる土地」で、心に深い傷を負ったファウストの「癒し」が必要になる所以でもある。グレートヘンには「救い」が、ファウストには「癒し」がゲーテにより与えられる。

 「救われたのだ」はUrfaustにはない。第二部の終末を予定して1808年刊の第一部に付け加えられた。

  最後の彼女のセリフ「ハインリヒ、ハインリヒ」は痛切だ。