男性差別はありうるか?
★下記の文章は、『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論』(ワニブックスPLUS新書、2022年)の一部分として書かれたものの、分量的な問題によって削除した部分になります。(約15,000字)
男性たちのなかにも、「男性差別が無視されている」「逆差別がある」と考える人々が増えてきた。
では、そもそも、「男性差別」や「逆差別」や「おじさん差別」(中年男性差別)というものは存在するのだろうか。
基本的なところから考えてみたい。
近年、多数派男性=「おじさん」に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。
確かに、それらの批判の中には、「キモいおじさん」に対するレッテル貼り、ほとんどハラスメントのようなからかい、あるいは職場や家庭でのイジメに近いような言動も見受けられる。
「おじさん」はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか? 立ち止まって考えてみよう。
実際に、「キモいおじさん」をこの世から消し去って駆逐すれば、社会全体が浄化されて、平和になり、非暴力的になり、多様性が確保される、というような物言いすらも、様々な場面で見かけるようになったのである。
たとえば松田青子の小説『持続可能な魂の利用』(二〇二〇年)では、女性アイドル(欅坂46がモデル)や『少女革命ウテナ』に託される形で、少女たちの革命の夢が語られている。そこでは打倒すべきこの世の諸悪の根源はまさに「おじさん」であり、「おじさん」たちが運営してきた社会そのものであるとされる。
それは次のように、である――「そして今、世界中で「おじさん」によって運営されてきた世界が衰退し、危機に瀕している。それはつまり、「おじさん」のつくったルールが間違っていたということだ。進化論を出すまでもなく、生存を脅かす種は淘汰されてきた。ならば人類の生存を脅かす「おじさん」が絶滅すべきだったのに、ここまできてしまった。もう後戻りのできないところまで」。
かつての映画やテレビドラマの中の根源的な「悪」は、ナチスであったり、KGBであったりしたが、あたかも現在社会における諸悪の根源は多数派男性=「おじさん」(有害で有毒な中高年男たち)であるかのようだ。
あるいは近年のマーベル映画でいえば、『ブラック・ウィドウ』では、女性たちのシスターフッドが肯定的に描かれるが、この作品におけるヴィラン(敵)は典型的な「おじさん」、無神経で権威的で女性に対して抑圧的な「ザ・おじさん」である。あるいは中国人女性監督クロエ・ジャオが監督を務めた『エターナルズ』は、人種や性の多様性を描いているのだが、仲間たちの関係と信頼を裏切るのは、白人男性であり、彼こそが有害な男性性を象徴するとされた。
ブレイディみかこは、『女たちのポリティクス――台頭する世界の女性政治家』(二〇二一年)の中で、近年のポピュリスト的な女性政治家の中には、フェミニズムとナショナリズムを融合させようとする「フェモナショナリズム」と呼ばれる立場がある、と論じている。そしてその場合、欧米でよくみられるイスラム教徒への憎悪(イスラムフォビア)によってポピュリズムを活性化する手法の、類似した別のバージョンとして、「おじさん」フォビアを利用して「フェモナショナリズム」を高めていく、というパターンが見られるという。
重要なのは、こうした状況の中で、数々の「おじさん」批判を前にして、男性たちが女性憎悪に陥ったり、アンチフェミニズム、アンチリベラルというダークサイドに取り込まれたりすることをいかに回避すべきか、ということではないか。
被害と被害者意識を概念的に区別しよう。被害者意識は、その人の世界全体を、次のような世界観で染め上げてしまう――すなわち、自分と自分が好きな人だけが正しくて、被害者で、無実無垢で、それを脅かす人間たちは無神経で無理解な加害者どもで、そいつらにはどんな記号化の暴力をふるおうが構わない……。
だから、陰謀論的に「敵」(諸悪の根源)を認定して「アンチ」的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべきであり、必要があれば「おじさん」批判に対して反論していくべきだろう。それは差別ではなくても暴力なのではないか、我々はそのような暴力に反対し抵抗する、と。
認知科学や行動経済学の知見が示すように、私たち人間は基本的に誤りやすく、間違いやすく、愚かな生き物である。さまざまな認知的なバイアスがかかっている。それは私たちもそうだし、誰だってそうなのだ。そのことをできる限り自覚していこう。そうでないと、間違った「敵」との消耗戦の中で、内なる攻撃性を増幅させて、じわじわと疲弊し、自滅してしまうからである。
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では、あらためて、差別とは何か。
そのことを論理的に考えていこう。
差別とは何かについての定義や基準がはっきりしないと、あれも差別だ、これも差別だ、俺も差別されている、というふうに話が拡散してしまうからだ。そして逆に、「男もつらいのに」「俺たちだって不幸なのに」「多数派男性こそが差別の隠れた犠牲者なのではないか」という被害者意識に陥りやすくなってしまう(差別論の反動形成)。
しかしたとえば、ある人の言動が「差別的ではないが、暴力的である」「差別ではないが、不当なレッテル張りである」等のケースもあるだろう。
ここでは、デボラ・へルマンの『差別はいつ悪質になるのか』(池田喬・堀田義太郎訳、二〇一八年、法政大学出版局)という一冊の本を参照しよう。二〇〇〇年代中盤以降の、英語圏の「哲学的差別論」と呼ばれる差別論を代表する著作である。
ヘルマンは、カント的な義務論(すべての他者の人格を対等に尊重せよ)を踏まえつつ、「差別の難問」とは何かを次のように定式化している――差別(差異化、区別)はどんな場合に、他者の人格の道徳的平等に抵触するのか?
これは具体的には、次のようなことを意味する。まず、すべての差別化が必ずしも悪質である、とは言えない。たとえば「国会議員の半数を女性にする」「全社員の何%以上は障害者でなければならない」などの女性や少数者を優遇するアファーマティブ・アクション(積極的是正)、米国食品医薬品局がアフリカ系アメリカ人だけに特定の薬を認可するという措置、トイレの男女の性別分け、等々も差別化の一種であると言えるだろう。
差別化ということを全否定してしまうと、こうした積極的で肯定的な対応までが許容されえなくなる。だから、差別化はどこから悪質になるのか、という線引きが必要である。しかし、本当にそのような線引きが可能なのだろうか。これが差別論の難問である。
こうした原則論にこだわらねばならないのは、現実的に「差別が悪いと言うならばアファーマティヴ・アクションもやめるべきだ」「特定の人々だけを優遇するのはおかしい」「特定のマイノリティを優遇するのは、マジョリティに対する逆差別ではないか」「我々は差異を尊重しているだけであり差別ではない」等々の非難や論争が日常的に生じて久しいからだ。
差別が特定の人々への貶価【へんか】 demeanになるとき、それは悪質である、というのがヘルマンの議論の基本ラインである。つまり、様々な形でなされる差異化のうち、他者の人格の道徳的価値を不正に貶めるような差異化はゆるされない、ということになる。
ただしこの場合、この社会には非対称な地位や権力関係が様々なレベルで存在している、という事実が前提となる。たとえば会社員が会社の上司に唾を吐くことは、それが許される行為かどうかは別にして、差別ではない。しかし、同じ会社員が道端の路上生活者に対して唾を吐くのは、差別である。そして一つの行為(言語行為)が他者の人格への貶価的差別を意味するか否かをジャッジするのは、それまでの歴史や文化や社会的慣習によるところが大きい(たとえば、黒人に対する短パンの禁止など、社会的または歴史的な文脈を見なければ、それがなぜ貶価的差別を意味するのかがわからないケースがある)。
本人や当事者がたとえ実害を感じていなくても、貶価であり悪質な差別にあたる、というケースもある(女性に対して性的差別に基づく特権や利益を与えるなど)。このあたりは、功利主義的な価値判断(本人の利益や幸福の増減を倫理的判断の根拠とするような価値判断)とカント的義務論の違いがはっきりと出ている。物事の帰結(結果的な利害)を重視する功利主義的な差別論の場合、美女コンテストはたとえ女性差別の要素をふくむとしても、当事者である女性の利益や幸福があがっているのだから許容されるべきである、とされる。しかし義務論ではそれは許容されえないのである。
とはいえ依然として、何が他者に対する悪質な貶価を意味するのかの線引きは、それぞれの立場や考え方によって不一致が生じやすく、論争的なものだろう。とすれば、その線引きの基準は、何らかの民主的な手続きによって決められていくべきである。
『差別はいつ悪質になるのか』の翻訳者の「あとがき」によると、差別という行為の帰結に着目する立場(功利主義的な差別論)、差別者の意図や信念に着目する立場(義務論的な差別論)の二つに対して、ヘルマンは、(カント的な義務論を踏まえつつも)差別という行為の意味に着目する第三の立場をとっている。すなわち、言語行為論的な差別論である。これは「差別の意味説」と呼ばれる。分析哲学的な言語行為論から差別を論じるものだ。
言語行為論とは、イギリスのオースティンが提唱し、アメリカのジョン・サールたちが継承・展開してきた言語学の説である。言語の命題の真偽を論じてきた従来の言語学に対し、言語を使用することは行為の遂行である、と考えた。つまり、他者に向けて言語を使うことは「約束」「命令」「依頼」等の行為的な意味を帯びうるだろう。たとえば会社の社長が「鉛筆!」と発語することは、「鉛筆」という単語の意味を指示するというよりも、周りの部下に対して「鉛筆を持ってこい!」という命令として機能しうる。
オースティンは、言葉の発話には、事実確認的(CONSTATIVE)な機能と、行為遂行的(PERFORMATIVE)な機能がある、と論じた。これを差別論に当てはめるならば、人間の発語や行為は、たとえ言葉の意味そのものは差別的に見えなくても、文脈に応じて、差別のパフォーマンスとして機能しうることになる。
単純なようだが、次の事実を確認しておくことが重要である。差別という行為は、マイノリティ/マジョリティの間の非対称的な社会関係、あるいはそれを維持し再生産する歴史的構造をつねに背景にもっている。つまり、特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、あるいはその非対称的な関係そのものを維持強化しようとすること、それが差別である。
何が差別にあたるのか、社会的な文脈によってその意味が決まるということは、「差別したつもりはなかった(意識や意図はなかった)」「善意のつもりだった」というのは自分の言動の正当化の根拠にはならない、ということだ。
では、何が貶化的差別に当たるのかを、誰が決めるのか。差別の認定は、差別した側ではなく、まず優先的に、差別された側を基準にして考えられるべきである。ごくごく常識的に考えて、何らかの暴力や暴行に対しては、暴力を振るった側ではなく、振るわれた側の言い分をまず重視するのは、当然のことだろう。
とはいえそれは、暴力を振るわれた側の言い分がいつでも無謬であり正しい、ということではなく、価値の重みづけの問題である。暴力を振るった側は強い立場にいることが多く、自らの言動の暴力性に無自覚なまま他者に暴力を振るうケースがしばしばあるからだ。
しかしそれは、「差別を受けた」という当事者の主張は絶対に真である、被害者の言動は必ず正しい、そこには一切の嘘や欺瞞はありえない、ということではない。現実的に、行き過ぎた過剰な絶対化(被害者の主張はすべて無条件的に正しい)や、冤罪などのケースはある。「暴力を振るわれた」という被害者側の言葉が必ずしも真実ではないこと、虚偽や捏造を行うケースがないわけではないことも、広く知られている。あるいは、過激なクレイマーの存在、メンタルヘルスの病理の問題、フリーライダーの問題、差別扇動する側が被害者を偽装するケース、等々……。
さらに原理的な問題として、暴力を受けた人々がPTSDやトラウマによって記憶に欠落が生じたり、被害経験の自覚や想起の困難があったり、説明や論証そのものに困難を覚えたりする、ということもある。
忘れてはならないのは、社会的・構造的な非対称とは、同時に言葉の非対称でもある、ということだ。たとえば、何らかの性犯罪がメディアやネットで取り上げられるとき、世間のシンパシー(共感、同情)が被害者女性ではなく、なぜか加害者男性の方へと流れていく現象のことを、ケイト・マンは「ヒムパシー」と名付けている(『ひれふせ、女たち』)。
ヒムパシーとは、「彼=him」+「共感=sympathy」の合成語である。女性の被害や痛みは限りなく過小評価され、男性の被害や痛みが拡大され、過度に強調される。そして性暴力の加害男性に対して強い同情が示されるのである(あの人はそんな人じゃない、いい人だ、あの人の方が騙され陥れられたのではないか……)。男性による女性の強姦や殺人と思われていたものは、じつは、女性による巧妙な企みと陰謀であり、男性こそが被害者だったのだ!、というストーリーラインにそって解釈されるのである。
そこには、「証言的不正義」と呼ばれる現象がある。つまり、社会的に劣位に置かれた集団の人々が何らかの告発や主張を行ったときに、優位な集団の人々の方が公正で客観的な知識を持っており、劣位集団はそもそも信用性において劣る、と見なされてしまうのである。たとえば女性たちは、しばしば、道理を知らないヒステリックな嘘つきである、と見なされてきたのだ。
被差別者や被害者や犠牲者たちの言葉は、しばしば、複雑な意味での沈黙や失語の中にある。被害者・犠牲者をめぐるこれらのジレンマを見すえながら、それでも、差別なんてものはない(差別問題はない)と否認するのではなく、差別構造と対峙していこうとする姿勢が重要である。
よって、基本的なラインは、次のようになる。
ある一つの言動が差別(貶化)に当たるのかどうかについては、差別を受けた被差別者・被害者の証言や訴えをまずは重視しつつ(重みづけしつつ)、これまでの人類が蓄積してきた基準――それはもちろん主にマイノリティや被害者の側の人々の不断の労苦と努力によって、蓄積されてきたものである(彼らに対するリスペクトなしに、人類の成果一般として語ることはできない)――とすり合わせながら、判断するべきなのである。
もちろんこうした基準とは、現在時における暫定的な合意点であり、歴史の積み重ねによって、今後もさらに書き換えられていくだろう。
誤解されがちであるが、PC(Political Correctness)とは、誰かを叩くための無敵の武器(「ポリコレ棒」「PCポリス」などと揶揄されるようなもの)のことではない(そのように勘違いして、無敵の「正しさ」によって他人を批判することに喜びを見出す人々が一定数いるとしても、である)。多様な属性や欲求を持った人々がそれでも平和的に共存し、他者に対して寛容な社会を維持するための、最低限のルールであり、マナーなのだ。人類が積み上げてきた叡智の結晶とも言える。
その限りでは、反差別とPCとはイコールではない。PC的な基準やコードさえ徹底すれば差別問題がことごとく解消される、ということはできない。今後も必要に応じて、PC的なルールやマナーは改良され改善されていくだろうし、未来に向けてさらに複雑で繊細なものになっていくだろう。
哲学者のジャック・デリダは、正義とは法を脱構築するものである、と述べている。法は一定の範囲の人々に対して適用されるものであり、その範囲から除外される人々が必ず出てくる。だから、法の意味を暫定的に重視しつつ、それを無限に脱構築し続けていく力が重要なのだ。法そのものではなく、それを脱構築する力こそが正義である、とデリダが言うのは、そのためだ。
「法=ルールとしてのPC」と「正義としての反差別」の差異をここでは重視することにしよう。
だからこそ、何が差別にあたるか/あたらないかの暫定的な基準は、あらかじめ世の中の人々がひろく共有しておく必要があるし、マジョリティの側の人間こそがそれをよく学んでおく必要があるのだ。マイノリティの人々が自分たちの権利や身を守るために差別の基準を知っておけばいい、多数派には関係がない、とは決して言えないのである。
のみならずそれは、マイノリティの人々に対して失礼がないように、他者を傷つけないように、あとから批判され突き上げを食らわないように、という自己防衛的な配慮(温情的なパターナリズム)だけの話にはとどまらない。マジョリティである「私たち」の自由の問題にもそのまま関わる話である。
差別は人間の本能だから絶対になくならない、人間の社会は本質的に変わらない、というシニカルな意見(反差別的な言動を封じ込めるための冷笑)は依然としてしばしば耳にする。しかし、それはやはり歴史的な変化と変革のプロセスを無視した極論にすぎないだろう。
たとえばセクハラ問題について、今や多くの人が何がセクハラと判断されるかの基準をある程度は知っているだろう。そうした基準や常識は、自然に成立したものではない。
一九八〇年代の北米の反セクハラ運動、日本国内の被害者女性たちの裁判闘争や社会運動、一九八五年の国連の女性差別撤廃条約締結、一九九七年の男女雇用機会均等法の改正によるセクハラの違法化、日本的企業へのそれらの価値観の(不十分ながらも)滲透……等々の、セクハラに対する道徳的な批判、あるいはセクハラを法的にも犯罪であり違法である、という主張をしてきた反セクハラ運動の「力」が働き、それを(不十分であるとしても)社会的規範としてきたのである。
女性たちによる抵抗と闘争がなければ、ドメスティックバイオレンスも、セクシュアルハラスメントも、ストーキングも、デートレイプも、知人によるレイプも、婚姻関係におけるレイプも、この世界に存在することすら認められてこなかった(レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』42頁)。実際にいまだにレイプについては加害者よりも被害者が裁かれ、身元や行動の正しさを問われ、その言葉が信頼に値しない、と言われ続けているのだ。
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結論的にいえば、ここまでの差別の定義に従えば、女性による「おじさん差別」「男性差別」「逆差別」は存在しない、ということになる。
男性たち(私たち)には耐え難い結論かもしれないが、定義的にはそうならざるをえないのである。
ただし、女性もまた男性やおじさんに対してレッテル(カテゴリー)や偏見を押し付けることはありうる。実際に様々な場面でそれを行っている。ハラスメントも当然ある。女性や性的マイノリティの言動も、対人関係的に、あるいは社会的に、何らかの暴力として機能することがある。つまり、差別ではないが、暴力的ではありうる。そこまでは言えるだろう。
言うまでもなく、フェミニズムとたんなるミサンドリー(男性憎悪)とは区別されるべきである。それは男たちが「真」のフェミニストと「偽」のフェミニストを勝手に区別し、線引きすることではない。フェミニストが誤ってミサンドリー的な発言をすることも当然ありうる。それについてはしからうべき反論や批判が必要である。「女性の主張はつねにすべて正しい」という前提を取るのではない以上、ミサンドリーはミサンドリーとして批判されるべきだろう。たとえ「誰」がそれを識別できるのか、という問いは残るとしても、である。
なぜフェミニズムとミサンドリーを区別しなければならないか。それは明らかに理不尽な批判やレッテル貼りをされたときに、きちんとそれに反論し、対話を続けるためである。対等になるとは、他者の間違いを公正に批判できることであるだろう。
それは難しいことである。あらゆる問題を「男性=加害者/女性=被害者」という構図によって塗り潰す人間はつねに存在するからだ。女性は被害者であり、何をしてもそれは男社会が悪いからだ、と。しかし逆に言えば、一部にミサンドリー的な発言をする人間が存在するからといって、フェミニズム(その理論的かつ実践的な蓄積の歴史)の全体の達成を全否定するべきでもない、ということである。
もう少し考えてみよう。
私たちはしばしば「あの人は偏見が強い」とか「自分には偏見が少ない」と考える。しかし思えば、他者への偏見やステレオタイプ化から完全に逃れられる人間はいないだろう。また偏見やステレオタイプが一度心の中に作られると、それを変えたり消したりするには、かなりの努力と労苦が必要になる、という事実も広く知られてきた。
たとえば上瀬由美子『ステレオタイプの社会心理学』(二〇〇二年、サイエンス社)は、社会心理学の知見に基づいて、(1)カテゴリー、(2)ステレオタイプ(認知)、(3)偏見(評価・感情)、(4)差別(行為)の四つの段階を(連続するものとしつつ)区別している。
(1)のカテゴリー(category)とは、たとえば「青森県人」「女性」「ブラジル人」など、ある特徴をもつものを他から区別して分類するくくりのことである。こうしたカテゴリー化の傾向は、人間の言語や認知の機能そのものと不可分である。
これに対し、「そのカテゴリーに含まれる人が共通してもっていると信じられている特徴」が何らかの形で想定されるようになると、それは認知上のステレオタイプ(stereotype)になる(2)。たとえば「女性は手先が器用だ」「ブラジル人はサッカーがうまい」「若者はエゴが強い」のようなものである。こうしたステレオタイプは必ずしも客観的な事実とは限らないし(そもそも正確なステレオタイプと不正確なステレオタイプの区別は原理的に不可能である)、また個々人の差異を消し去って、画一化して判断することにもなる。
そもそもステレオタイプという言葉を命名したアメリカのジャーナリストのリップマン(著書『世論』が有名だ)は、この言葉を必ずしも否定的な意味では用いていなかった。というのは、情報過多で、誰もが多忙で、多元的な価値観が衝突せざるをえない現代社会を生きていくためには、何らかのステレオタイプ化が必須であるからだ。
たとえば日本人にとって身近なのは、血液型ステレオタイプ(血液型による性格診断)や地域ステレオタイプ(出身都道府県によるイメージ)であり、これらは、初対面の人間に対してコミュニケーションを円滑に進める、という機能を持つ場合もある。
ステレオタイプ化はあくまでも認知上の判断であり、必ずしも価値判断と結びつくものではない。たとえば「子どもはかわいいものだ」という肯定的ステレオタイプもあるし、肯定的要素と否定的要素が組み合わさったタイプのステレオタイプもある(「キャリアウーマンは有能だが冷たい」「専業主婦は母性的優しさを持つが無能だ」など)――とはいえ、ステレオタイプ化には、フェイク性や画一化という意味での暴力性がすでにはらまれている、とも言えるわけだが。
これに対し、そこに否定的な感情や評価などがはっきりと付着するようになると、それは偏見(prejudice)の域に入っていく(3)。「△△人は××だ」という人種的偏見や「女性は××だ」という性別に対する偏見などである。
そしてこうした偏見のもと、社会の多数派と少数派の非対称性の上に立って、ある社会的集団に対して強い否定的な発言や行動がなされるようになってしまえば、それははっきりと差別(discrimination)になるだろう(4)。
一般に、社会的な少数者たちは、ステレオタイプ化の害を受けやすいことが知られている。その中でも、人種・民族、性別、年齢という三つのカテゴリーは特にステレオタイプ化されやすいという。つまりレイシズム、セクシズム、エイジズムである(日本は若者へのエイジズムが強いが、欧米では高齢者へのエイジズムが従来から社会問題とされてきた)。
重要なのは、人間の認知のメカニズム自体にステレオタイプ化の傾向があり、それを除去するのは決して容易ではない、ということだ。そしてそれはカテゴリー化→ステレオタイプ化→偏見→差別と、滑り落ちるように暴力性を増していくのである。血液型ステレオタイプも、たんにコミュニケーションの手段やたわいのない会話の材料であれば問題ないが、「あの人は血液型が△型だから××だ」「血液型が◇型のあの人とは友達にならない方がいい」となれば、もはや偏見の次元に近づいていくだろう。
とはいえもちろん、すでに述べてきたように、差別問題は、個人の意識や心理、認知などの問題では片付かない。それは慣習、制度、法などが生み出す社会構造の次元に関わり、そのような構造を通して維持・再生産されていくものであるからだ。
では、どうすればいいのか。
北村英哉+唐沢穣編『偏見や差別はなぜ起こる?』(二〇一八年、ちとせプレス)の「はしがき」の整理によれば、第二次世界大戦の後には、ナチズムの問題があり、なぜドイツ人はユダヤ人に対して強い偏見を抱いたのか、という研究が蓄積されていった。初期の段階では、個々人のパーソナリティ(性格)の問題が注目された。たとえば一九四〇年代~五〇年代には、エーリッヒ・フロムやアドルノによって、権威主義的パーソナリティ(自らの所属する集団に対して能動的に同調し服従する人格)の問題が論じられた。
これに対し、一九六〇年代になると、黒人や女性の解放運動が高まった時代であり、偏見・差別についても、集団間の対立と和解という観点から研究が進んだ。さらに一九七〇年代から一九八〇年代になると、人間の自尊感情や社会的アイデンティティの問題が論じられ、また認知科学や脳科学などの認知革命の知見によって、ステレオタイプ研究も新たな段階へ入った。
たとえば「社会的葛藤理論」によれば、自分たちの集団が他集団によって脅威にさらされると、内集団に対するアイデンティティ意識が強化され、連帯感が高まっていく。この場合、集団間の葛藤は、現実の希少資源をめぐる集団間の競争の結果である、と仮定される。
これに対し、「社会的アイデンティティ理論」と呼ばれる理論は、たとえ希少資源をめぐる利益対立が存在しない場合にも、他集団に対する偏見や差別が生じる、ということを説明する。社会的アイデンティティとは、自分がある集団に所属している、という認識と実感のことである。人間は、自分が属する集団に関連付けて自己高揚(自己価値化)を目指し、そのようなものとしての社会的アイデンティティを希求する傾向をもつ。
社会的アイデンティティは、内側の集団と外側の集団の線引き、内集団ひいき、錯誤相関(ある他集団のメンバーであることと、特定の性格や行動傾向をもつことは関係がないのに、あたかも相関関係が存在するように信じる錯覚のこと)などによってつねに維持強化されていく。
そして、社会の側が強化しようとする代表的なステレオタイプとしては、しばしば、「社会的因果律の提供」(社会問題や危機に対して、その原因を特定の他集団に由来するものとすること)、「社会的正当化」(ある集団が陥った状況や、ある集団を敵視する時に、それを正当化するためにステレオタイプを利用すること)、「社会的差異化」(内集団と外集団の区別・境界線をはっきりさせるためにステレオタイプを利用すること)などが挙げられる。
上瀬由美子によれば、ステレオタイプ維持のメカニズムとして、さらに次のような傾向が見られるという(同書)。
仮説確証型の情報処理傾向。これはたとえば、血液型性格診断をめぐるステレオタイプなどのことで、自分の限られた経験をもとに、「他者に対する性格診断があたった」「同じ血液型の人が自分と性格が似ていた」など、仮説を確証するような方向に引き付けて日常的な経験の情報処理を行うことである。
選択的認知。これは、人間は自分がもともと抱いている信念に一致するように、つまり仮説確証が成功するように、あらかじめ情報を選択し、それをもとに判断を下す、という傾向のことである。
自己成就予言。これは、人間は一度ある信念を持つと、それに一致する事象が現実にも生じるだろうと先回り的に予期しようとする傾向があり、その予期に従って新しい情報を検索し、現実を解釈してしまう、ということである。自分の予言を自分自身によって成就するように物事を認知し判断してしまう、というわけだ。
ステレオタイプの自動的活性化。人間がもつ知識や情報には、内容的に近いもの同士がまとまってネットワークを形成する、という傾向がある。それらのネットワークの中には「活性化拡散」という仕組みがあり、人間の記憶の多くは普段は仕舞われたままだが、ある状況になると一部が活性化し、それに関連する知識も次々と活性化していく(たとえば「犬」という文字を目にしたとき、昔飼っていた犬のイメージが活性化し、一緒に出かけた公園のことや、散歩中に見かけた犬たちの記憶が次々と活性化していく、など)。ステレオタイプの場合、ネットワークの中の近接する知識や情報の連合が特に強固であり、活性化が生じやすいという(血液型ステレオタイプを信じている人の場合、初対面の人がA型と知っただけで、「几帳面」「神経質」「真面目」など、次々と概念が活性化していく、など)。
同『偏見や差別はなぜ起こる?』に収録された村山綾の論考「公正とシステム正当化」によれば、人間の認知には次のような傾向がある。
公正世界信念(belief in a just world)。この世界には、善いことをした人には善いことが起こり、悪いことをした人には悪いことが起こる、という因果的な法則が存在する、という信念のこと。この世界には根本的な秩序があり、それゆえ安定しているのであり、それぞれの人は人生において分相応の結果を得ているのだ、というように思い込みがちである。人間は、公正な世界が存在しているはずだという信念を脅かすような現実的事象(理不尽な事故や事件など)を受け入れられず、それを否定しようとする傾向がある。
このような公正世界信念には、次のような二つのタイプがある。一つは「内在的公正世界信念」と呼ばれるもの。これは、ある出来事が起こった原因を、過去の行いに求めようとする傾向のことである(その人が不幸な目にあったのは、過去の行いに原因がある、など)。もう一つは「究極的公正世界信念」と呼ばれるもの。これは、ある不公正な出来事の損失は、必ず将来何らかの形で埋め合わされるはずだ、と信じたがる傾向のことだ(事故や事件の被害者は、遠い未来、あるいは来世に必ず救われるはずだ、など)。
さらにこうした信念は、有名な「被害者非難(victim derogation)」とも結びついている。つまり、公正世界仮説に一致しないような出来事――たとえば、善良な人が理不尽な災害や不幸を経験する、ただ道を歩いていただけの人が交通事故にあったり、強盗に襲われて金品を奪われたりする、など――が現実に起こった場合、公正な世界への信念が脅かされるため、人間は様々な手段を用いて、もとの信念の回復に努めようとするのである。被害者非難はそのための代表的な手段の一つとなる。
すなわち、私たちには、たまたま不運な目にあった被害者のことを不当に責めようとする傾向があるのだ。この世界は公正で平等であるはずであり、そうあらねばならないのに、理不尽な酷い目にあったのは、あの人の人格や行いに原因があったに違いない、と。なお、こうした被害者非難が起こりやすいのは、(1)被害者と自分の属性に類似点がある場合、(2)被害の原因をどこにも帰属できない場合、(3)被害者が長期的に苦しむ(被害からの回復が望めない)場合、などであるという。たとえば、突然性暴力の被害にあった女性に対し、同性である女性が強い態度で被害者女性を責める、などのケースが見られる。
他方で、被害者ではなく加害者に対して、悪魔化(demonize)、患者化(patientize)、非人間化(dehumanizing)などの操作が行われるケースもある。あんな理不尽なことをする人間は悪魔だ、病気だ、人間じゃない、と加害者を特殊な存在と見なすことで、公正な世界そのものは毀損されていない、ということにしておくわけだ。
さらに村山は、「システム正当化理論」(system justification theory)と呼ばれる理論を紹介している。人間は、現状の社会システムを、そこに存在するという理由それのみに従って、正当化しようとする動機をもつのだという。不確実で無秩序な状態よりは、たとえ欠陥や間違いがあるとしても、それを受け入れた上で予測可能な世界の方がマシである、と考えようとするからである。
たとえば現実の世界に明らかな格差があり、優位な立場の人々は自尊心を高揚させやすく、不利な立場の人々は自尊心を低下させやすい傾向があるとしても、後者の自尊心の低い人々も、現状の世界をひとまず受け入れさえすれば、自分が不公正で不幸な立場に置かれているのは自己責任ではない、つまり「世界はもともとそういうものだ」という形で、ある意味で「合理化」できる。この理論においては、この世界は公正なはずだ、という信念すらも不要であり、世界が存在することは(公正不公正に関わらず)合理的と見なされるのである。
その点では、たとえば「お金持ちは孤独に決まっている」とか「貧乏だけれど幸福な家族もある」などの物語やフィクションによく見られるステレオタイプ――それが事実であるとは到底思えないが――などは、この世界は公正あるいは合理的だ、という信念を日常的に補完するものだと言えるだろう。それぞれの人はその人にふさわしいものを手に入れている、お金持ちも貧乏人も、権力者も大衆もみんな同じだ、すべてを手に入れて完全に幸福な人なんていない、という形で現状を納得し、公正世界信念を維持し続けるのである。
ここまでいくつか簡単な理論を紹介してきたように、差別とは、社会構造的なものであると同時に、人間の心理や認知の傾向からも発生し、維持強化されるものである、と考えられる。
とすれば、「差別は悪である」と道徳的あるいは規範的に批判するだけでは不十分なのであり、それらの道徳や規範性に方向づけられながら、人間の本性としての認知傾向やメカニズムを何らかの形で制御・調整・変革していくのでなければ、悪質な差別や偏見を根本的に除去するのは難しい、ということになるだろう。
逆にいえば、偏見や差別を批判し退けようとする側の人間も、複雑で繊細な意識を必要とする、ということである。
時代が成熟する中で、平等主義や多文化主義が重んじられ、偏見や差別を容認してはならないという社会的規範がグローバルに拡がってきた。マイノリティに対するあからさまな偏見や差別が向けられることは少しずつとはいえ減っている。しかし、それは見えにくく、表面化されにくくなっただけであり、差別や偏見が消えてなくなったわけではない。偏見や差別は複雑化し、多元化し、不可視化しているからだ。
そのような状況の中で、紹介してきたような認知的な特徴を自覚しておくことは、たんに差別は規範的(道徳的)によくない、と特権的な位置から批判するのではなく、自分の中にもそうした人間としての認知や感情の特性(傾向)があることを踏まえつつ、それを内在的(倫理的)に批判し、変革していく、という道につながりうるだろう。
二一世紀の人間は、認知革命以降のステレオタイプ研究(人間の認知にはそもそも差別を生み出しやすい構造がある)を踏まえた上で、人種・民族・国家・宗教などを越境していくグローバル化のもと、偏見や差別をたんに個人の認知・感情の問題としてではなく、社会的正義や具体的に実装するための理論を練り上げていかねばならない。
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