大川原化工機事件で逮捕された父・相嶋静夫が受けた仕打ち 相嶋静夫 長男
ここに掲載したのは、大川原化工機事件で逮捕され、胃がんで亡くなった相嶋静夫さんの長男が、裁判所に提出したものだ。相嶋さんは一貫して容疑を否認し、何度も保釈を請求したが、東京地裁が認めなかった。 この陳述書が提出された裁判は、KADOKAWA前会長の角川歴彦(つぐひこ)氏が、いわゆる五輪汚職事件をめぐって取り調べで否認を続けたために長期にわたって保釈が認められなかった「人質司法」告発訴訟だ。7月14日の第3回口頭弁論後の記者会見には相嶋さんの長男本人が出席して趣旨を説明した。 角川歴彦氏が訴えた「人質司法」の問題は、大川原化工機事件とも通底していることも文書の中で語られている。多くの人に読んでもらう意義があると思い、本誌に掲載させていただいた。(編集部)
1 事実経過
令和2年3月11日に警視庁公安部外事第一課警部宮園勇人が外国為替及び外国貿易法(以下「外為法」とする)違反とする逮捕状を請求、東京簡易裁判所岡野清二裁判官が逮捕状を発付し、私の父である相嶋静夫が通常逮捕されました。父は平成26年に31年間勤めた大川原化工機株式会社を退職し、静岡県富士宮市に移住、同市にある大川原化工機粉体技術研究所において顧問として週2回程度後進の育成を行っていました。 逮捕当日、父が出勤の準備をしていた朝8時頃、警視庁公安部の捜査員5名が自宅に来て、家宅捜索が開始されました。捜査員らは同居している母には挨拶もせず、家中を物色しました。このとき、母は強い恐怖感を抱いたようです。3時間ほど経過し、父は任意同行を求められ、これに応ずる形で捜査員と共に家を出ました。母は、その後父が逮捕されたことを知る由もなく、夜中まで父の帰宅を待っていました。母は翌日の昼のニュースで父の逮捕を知りました。 大川原化工機株式会社は、調味料などの液体の材料を霧状に噴霧したものを熱風で乾燥させることで粉末を作製する装置「噴霧乾燥器」を製造販売している中小企業です。父は東京工業大学(現東京科学大学)を卒業したあと、建設会社勤務を経て大川原化工機株式会社に入社しました。科学に関する知識を社会の平和と豊かな生活に繋げることを生きがいとしてきました。 父は健康に気を遣っており、近隣のかかりつけの内科医院を毎月受診、2カ月に1回は定期的に血液検査を受けていました。逮捕される前日にもかかりつけ医を受診しており、診察の結果、特段の異常所見はありませんでした。 逮捕容疑は生物兵器に転用可能な噴霧乾燥器を経済産業大臣の許可を得ずに中国に輸出した、というものでした。しかし、父の普段の仕事や大川原化工機株式会社の事業内容から、大きく乖離した容疑であり、私は強い違和感を抱きました。「これは何かの間違いだろう、直ぐに釈放されるはず」と信じていましたが、一向に帰って来ませんでした。 逮捕から約1年半前の平成30年10月3日に警視庁公安部は大川原化工機株式会社本社および関係先の捜索差押をしていました。その後、父を始め、大川原化工機株式会社社員に対する任意聴取を延べ291回実施、このうち父は18回の任意聴取に応じ、その都度静岡県富士宮市から警視庁原宿警察署に出頭していました。 任意捜査の段階では、一貫して警察の捜査への協力を行ってきましたが、逮捕、勾留となったことで、父は大きく落胆するとともに、警察を信用できなくなっていました。そして、弁護士との接見を経て黙秘を貫くこととしたのです。逮捕翌日の3月12日に東京地方検察庁塚部貴子検事による勾留請求を受けて、13日に東京地方裁判所世森ユキコ裁判官は罪証隠滅の相当理由があること等を理由として勾留決定しました。この決定に対して、弁護人は準抗告を申し立てましたが、東京地裁刑事第11部の吉崎佳弥裁判長、井下田英樹裁判官、池田翔平裁判官は、「共犯者や関係者に働きかけるなどして罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があると認められ、逃亡すると疑うに足りる相当な理由および勾留の必要性も認められる」として、これを却下しました。東京地方検察庁塚部貴子検事は「被疑会社はホームページに事実認否に関するコメントを発表するなどしており、会社ぐるみで口裏合わせを行っている可能性が極めて高い」として接見等禁止の解除は不相当と意見を述べました。そして同年3月31日に東京地方検察庁塚部貴子検事は父とともに逮捕された社長および役員の2名、合わせて3名について公訴提起をおこなったのです。しかし、後述するように本事案は犯罪ではなく、東京地方検察庁塚部貴子検事による違法な起訴だったのです。 父は起訴後も警視庁大崎警察署の留置場に勾留されつづけました。そのような中で私の祖父が亡くなり、葬儀のため5月31日に父は勾留執行の一時停止を受けて富士宮市に戻ってきました。その時に痩せていた父に衝撃を覚えましたが、事件に関する事などについての会話は禁止されていましたから、警察署における生活について、私から尋ねることはありませんでした。後に大川原社長や島田さんの話を伺うと、警察署の雑居房で床に置かれた冷たい食事をとり、多大なストレスにさらされながら約4カ月過ごしていたということが分かりました。 7月7日に東京拘置所に移送され、同日東京拘置所入所時の検診が行われました。7月10日に血液検査の結果が判明し、加療中であった糖尿病および高脂血症の所見には異常がなかったものの、血色素数(ヘモグロビン濃度)は10.9g/dLと明らかな異常※1を示していました。一般の医療機関では、このような検査値の異常が見られた場合には、その原因を追及するため、貧血を指摘されたことはあるか、気になる症状はあるか、など問診を行います。またその時点で特段の問題がみられない場合でも、今後発生しうる具体的な症状を伝え、それが発現した際にはすぐに受診するよう、療養指導を行うことが医師法第23条で「医師は、診療をしたときは、本人又はその保護者に対し、療養の方法その他保健の向上に必要な事項の指導をしなければならない」と定められていますが、東京拘置所の医師は何もしていませんでした。 8月28日に父本人から胃痛の訴えが出ます。診察した医師はFK配合散(胃薬)を処方します。しかし症状は治まらず、9月4日にも胃痛を訴えました。しかし、東京拘置所の医師は7月10日に判明した貧血所見にも触れず、FK配合散の処方を続けました。9月10日に父は自身の黒色便を認識しましたが、これを誰に申告したかは分かりません。9月25日に「3日前から体にふらつきがある」との父の訴えがあり、医師が診察したところ、心筋虚血(心臓の筋肉に酸素が届いていないこと)を示す心電図変化がみられました。これは診療録に記載があるため、医師はこれを認識していたはずです。しかし、同日に血液検査をせず、3日後の9月28日に貧血所見を確認するために再度血液検査をおこないました。その結果、血色素数(ヘモグロビン濃度)は5.1g/dLと著明に低下しており、医師は黒色便を伴っていることを把握しました。同日400mLの輸血が実施されました。9月30日時点で消化管出血疑いとの診断となり、「全身状態良好とは言えない」と診療録に記載がありました。 10月1日に上部消化管内視鏡検査(胃カメラ)が実施され、幽門部に大きな潰瘍を認め、胃がん疑いと診断された組織が病理検査されることとなりました。そして10月7日に病理検査の結果、胃がんであることが判明しました。本人には以下の様に説明されたことが診療録に記載されています。 本日本人に病状説明 ●貧血は普通の人の1/3→2/3に回復 ●幽門部にあった大きな潰瘍は、生検の結果悪性所見あり。胃の悪性腫瘍(おそらく「癌」) ●このまま放置しても改善せず、転移、浸潤、幽門狭窄が進むおそれがあり、治療が必要な状態 ●転移検索、大腸精査後評価して手術療法の検討となる ●現在外医(外部の医師)に相談中 ●食事は外医診療までラコール(流動食)継続 上記本人了承 弁護士は9月29日に東京地方裁判所に対して父の保釈請求を、10月1日には東京拘置所長に対して、「至急設備の整った外部医療機関に搬送し、専門医による診察、検査及び治療を受けさせる」よう申し入れを行っています。これらに対し、10月2日、東京地方裁判所刑事第14部の本村理絵裁判官は、刑事訴訟法89条4号「罪証隠滅のおそれ」に該当し、かつ裁量で保釈することも適当でないと認められるとして、保釈請求を却下しました。この請求却下により父の治療が遅れることとなりました。東京拘置所長に対する申し入れはその後10月6日、8日にも行いましたがなしのつぶてでした。母は父を励ますために、毎日静岡から東京拘置所に通い、接見を行っていました。東京拘置所の近隣にある売店の店主から、声をかけられた時に、父が東京拘置所内で胃がんと診断されたこと、日に日に衰弱していく様子を話したら、「しょっちゅう黒い車が現れて被収容者をどこかに運んでいくんだ。立てなくなるくらい弁護士を酷使して拘置所や検察に言わないと殺されてしまうよ」と言われたそうです。母は泣きながら弁護士に連絡して早期釈放を求めました。 専門医による早期の治療を開始するため、私たちは8時間の勾留執行停止の申し立てを行うこととしました。その結果令和2年10月16日㈮午前8時から午後16時までの勾留執行停止が決定され、同日に東京都文京区のA医院を受診しました。 当日は母と弁護士が東京拘置所に迎えに行き、私は受付開始と同時に診療申込ができるよう、早朝にA医院に行きました。診療申込を終わらせたころに、父と病院で合流しました。5月に会ったときと比べて顔面蒼白でさらに痩せてしまい、全く元気のない父の姿を見て衝撃を覚えました。そして父の死を想起させ、恐怖感に包まれました。当然このような状態ですから、A医院で検査、治療が開始されると思っていたところ、待合室で待機していた私と弁護士が診察室に呼ばれました。そこには消化器内科の医師や外来看護師の他に、医療安全機能管理室の医師、元警察官である2名の職員が同席していました。そこで、「被疑者・被告人である方は、事前連絡なく来院されても診療はできない、改めて事前連絡の上来院してほしい」旨告げられ、検査、治療は行われませんでした。A医院の診療録には以下のような記載がありました。 #東京拘置所勾留中 貿易管理法違反 長男 弁護士 同伴 当院からは医療安全○○先生、渉外○○様、○○様同席 (S)糖尿病高脂血症で静岡県富士宮市森岡内科通院中 拘置所で黒色便 東京拘置所医務部病院の紹介状を持ち、家族と弁護士で来院 当院渉外には事前連絡無し。 (O)診療情報提供書からの情報では、胃カメラ、幽門に2型進行癌、病理グループ5。通常であればHb5台なので、生命維持のため輸血が必要、並行して造影CTなので(ママ)精査を進める。 弁護士より 執行停止にして入院する手があるが、どのくらいの期間か? 医師 入院にかかる期間は不明。入院が必要かどうかもそのときの判断になる、検査をしていないので正確な判断はできない。 弁護士 医師からの診断書がほしい。検査予約を事前にできるか。 医師 その日の患者さんの状態を見て検査の適応、可否を決めるのでできない。A医院にかかる状況が得られれば、渉外を通して連絡してほしい。 (A)渉外、医療安全と相談 事前に渉外に連絡をしてほしい。 (P)精査が必要。 診断書を発行する。 同日交付された診断書には以下の記載がありました。 診断名 進行胃癌 東京拘置所医務部病院からの診療情報提供書から上記診断が考えられる。 病期診断のため、精密検査が必要な状態であると判断する。 さらに、東京拘置所医務部病院五十嵐雅哉医師あて以下の診療情報提供書が交付されました。 【診断名】進行胃癌 【紹介目的】本日来院されました。夕方4時までの時間で、精査は不可能であり、まずは、貴院で輸血などの対応をお願いいたします。 現状では当院での対応は不能です。 今後、貴科にてもご加療、経過観察いただきたくお願い申し上げます。 再診日が6カ月を超える場合は診療情報提供書のご準備をお願い申し上げます。今後ともよろしくお願い申し上げます。 A医院での検査、治療を受けることができなかったことから、昼前には病院を後にしました。父は自力で歩くこともできない状態であったため、横になれる場所を探しました。御茶ノ水駅近くのカラオケ店に入り、父をソファーに寝かせて休ませました。午後4時までには東京地方検察庁に出頭しなければならず、そしてそこで手錠をかけられる、そのような非人道的なことが行われることに対して悲しみ、恐怖を覚えました。いっそのこと、路上で倒れてしまい、救急車で病院に運んでもらった方が、治療が始まるのではないか、とも思いましたが、父は「面倒なことになる」と聞き入れませんでした。そして時間となり、父は東京地方検察庁に向かいました。父が東京拘置所で死亡するのではないか、もう二度と会えないのではないかと悲しみに暮れるとともに、裁判所、検察庁、拘置所の人権意識の低さを認識することとなりました。 令和2年10月19日(月)に再度東京地方裁判所に対して保釈請求を行い、かつ東京拘置所長に対し、至急の検査、治療の実施を申し入れました。しかし、10月21日、東京地方裁判所刑事第14部牧野賢裁判官は保釈請求を却下しました。理由は前回と同様でした。弁護士とともに父の診療を受け入れてくれる病院を探しましたが、いずれも受入れには後向きの回答でした。また、東京拘置所内においても検査、治療が一向に始まりませんでした。 私は自身の仕事への影響を懸念し、職場に父が逮捕、勾留されていることを報告していませんでした。しかし、父の生命に危機が迫っている状況となっていることから、職場の上司に相談することとしました。私は病院に勤務していましたので、職場での父の受入れについて相談したのです。すると病院長以下幹部が受入れを承諾してくれました。「理由はともあれ、命がかかっているのだから直ぐに連れてきなさい。相嶋さんのお父さんなのだから大丈夫です」と言っていただき、私は涙が溢れました。 消化器内科の医師と現在判明している情報から診療スケジュールを検討し、初診日の検査内容、そして想定される入院期間を定め、これを裁判所に提出することとしました。そして10月28日に東京地方裁判所刑事第14部本村理絵裁判官から14日間の勾留執行停止決定が出されました。 11月5日午後2時に母が東京拘置所に迎えに行き、静岡県富士宮市の自宅に帰ることとなりましたが、終始自力で歩行することはできず、移動自体とても辛い状況でした。東京地方裁判所刑事第14部の本村理絵裁判官が決定した指定条件には、(1)静岡県富士宮市の自宅、(2)横浜市内の病院 のいずれかの場所に在所することが定められていたため、横浜市内の病院近隣の宿泊施設に行くことができなかったのです。そのため、東京から静岡に移動する必要があり、必要以上に体力を消耗する結果となったのです。 11月5日夜に私は仕事を終えて、横浜から富士宮に向かいました。翌朝5時に父を車に乗せて横浜市内の病院に向かいました。病院到着後すぐに上部内視鏡検査、心電図検査等を実施し、即日入院となりました。入院後直ちに輸血が開始となり、父の顔に血の気が戻ってきました。父は入院後「拘置所で殺されるところだった。もう安心だ」と安堵(あんど)していました。このとき日本の公務員は何て酷(ひど)いことができるのか、こんなことして、誰が得をするのだろうか、その思考回路が全く理解できなくなりました。 11月8日に胸・腹・骨盤CTを施行しました。検査の結果多発肝転移が判明したため手術不適応となり、化学療法(抗がん剤)を行うこととなりました。11月10日には化学療法および経静脈栄養が開始となりました。父は次第に元気を取り戻し、自身で歩行できるまでに回復しましたが、すでに腫瘍が遠隔転移していることで根治が望めないことや余命が1年程度と宣告されたことで、大きなショックを受けていました。私自身も治療の開始が遅れたことを悔やみました。 勾留執行停止となった11月5日に、東京拘置所医務部病院の五十嵐雅哉医師作成の診療情報提供書には以下の記載がありました。 実を申しますと、この患者さんの他病院での診察が先月に予定されていましたが、患者さんの事情により2回ほどキャンセルした経緯があります。受診が遅れましたことをお詫びいたします。 診療情報提供書には、拘置所が外部医療機関への診療調整をおこなっていたことが記されていますが、そのことを父には知らされていませんでした。本当に外部病院に対する調整を行っていたのか、どのような医療機関に調整していたのかについては、後に開示された診療録には黒塗りがされており判然としません。 化学療法の効果があり、胃幽門部からの出血が止まったことから食事が開始となり5分粥まで摂ることができるようになり、12月6日に退院し、病院近隣に借りたマンションで療養を継続することとなりました。しかし年末から全身状態が悪化し1月13日には化学療法が中止となり、同日緩和ケア病棟に入院となりました。 主治医からは「桜は見られないだろう」と言われました。 入院時に、看護師に対して 「どんどん弱ってしまっている。でもなかなか直ぐには逝かないだろうね。このまま面会もろくに来てもらえないまま死んでいくのか…それは寂しすぎる。できることならもう一度家に帰って皆と過ごしたい」 と涙ながらに語ったそうでした。 次第に腹部の痛みが増強してきたため、鎮痛薬投与が開始され次第に意識が朦朧(もうろう)とするようになりました。 辛そうだから寝たら、というと父は「二度と目が覚めないようで怖い」と言いました。 高校、大学入試に合格した孫たちに対して、父はLINEで「このご時世コロナ禍の中で立派です。じいじももう少し利口だったらこうはならなったかな?」とメッセージを送りました。このメッセージを見て、私は父の苦悩を理解することができました。 令和3年2月7日午前7時6分、父は涙を流しながら、息を引き取りました。私には本事件に関わった警察官、検察官、裁判官を絶対に許さない、という父の意思を感じました。そして、私はその思いを受け継ぐことを覚悟しました。 勾留執行停止を受けて入院した後も、どこかで警察や検察が見ているかもしれない、病室に盗聴器が仕掛けてあるかもしれない、と緊張感が解けることはありませんでした。常に監視されているような感覚でした。しかし、父が死亡した約1カ月後の令和3年3月4日に行われた大川原化工機の外為法および関税法違反事件の打合せの際に、弁護人から「被告人相嶋静夫が2月に亡くなった」と述べたのに対し、東京地方検察庁加藤和宏検事は「その事実はまだ把握していない。こちらで除籍謄本を取り寄せるなどの調査をして、必要な手続きをとる」と答えています。つまり、加藤和宏検事は強固に保釈に反対していたにも関わらず、父の動静など関心事ではなかったのです。 父が亡くなってから約半年が経ち、私たち家族の気持ちの整理がつき始めたころ、令和3年7月30日に弁護士から「東京地方検察庁が公訴取消をおこなった」と連絡がありました。その瞬間、私には公訴取消の意味が分かりませんでしたが、翌日の報道を見てその異例さを理解しました。つまり、東京地方検察庁検察官が起訴した外為法違反事件は、法令違反ではなかったのです。そして、逮捕、勾留も必要なかったということだったのです。 令和3年9月8日、国および東京都に対して我々は大川原化工機冤罪事件国家賠償請求訴訟(以下「大川原国賠訴訟」とする)を提起しました。令和5年12月27日、東京地方裁判所は、国と東京都の捜査の違法性を認め、国と東京都に1億6200万円の賠償を命じました。令和7年5月28日東京高等裁判所は、一審判決に加えて外為法違反の根拠となった省令解釈が罪刑法定主義の観点から不相当との判断に基づき本捜査を違法と認め、慰謝料を400万円増額する判断を下しています。