法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「占領期の性暴力」の論文では昭和恐慌で村役場が身売りを斡旋した根拠にならないという主張は、そう主張する側こそが根拠をきちんと確認していない


✖「町役場が『娘の身売り』を斡旋していた」
〇かと思ったら実は✖「実際にあった身売りを防止するために、お金や生活に困ったら相談してくださいという案内を村が出した」
〇「視察に来る内務省の役人に財政支援を求めるため、実際には身売りは無いのに案内を出した」

 id:zaikabou氏による上記ツイート*1経由で、国民民主党の山型県議の梅津庸成氏による興味深い証言紹介を知った。


先日元山形県庁幹部との懇談の際にたまたまこの写真の話になり、大変重要な証言があった。
この写真が教科書で取り上げられた時に「山形県が身売りをさせていたような扱われ方をされておりとんでもない。大変な問題だ」となり、その元県庁幹部(当時は一職員)が調査せねばならなくなって地元の関係者に調べさせたところ、次のような回答だったそうだ。
内務省の役人が滅多にない視察に来た。その時に村長が、伊佐沢村がどれだけ大変でどれだけ頑張っているかを内務省の役人にアピールし、財政的支援をもらう絶好の機会だと勝手に掲げてしまったもの。実際とは全く異なり身売りなどもなかった。内務省の役人とともに○○新聞の記者が一緒にやってきており、その掲示の写真を撮っていってしまった。それが東京で真実とは異なる形で報道され広まることになってしまった」
概ね上記のような話だったが、この調査も何十年も前の話だ。
きちんと伝えていかねばならないと、その懇談の際に思った。
曲解されて流布し、それが教科書で使われて洗脳されることの恐ろしさを感じる。
良い機会なので記しておきたい。

 しかしさらに元となる発言をたどっていくと、そもそも発端となる「ムジ・モジ@x7zMuOJuRncNnTa」氏は写真を根拠として提示していたわけではなかった。


世界恐慌の時、大日本帝国では、町役場が「娘の身売り」を斡旋していたというが、仮にも行政機関が女衒のようなことをしていたとか驚く。
こんな国が「従軍慰安婦など無かった!」と言っても誰も信じないだろうな。

大日本帝国では「女性を売る」ことがあまりにも当たり前の風景だったのだから。

 現在に表示されているコミュニティノートも下記のとおり、何が根拠として主張されているのか確証がないという立場から見当をつけているだけ。

町役場が「娘の身売り」を斡旋していたという主張のソースが見当たらないため、確証はありませんが、見当のつくものであれば、伊佐沢村の「娘売り防止」の張り紙を誤読したものと思われます。

昭和の長井 2:読みもの長井物語
story.jibasan.com/log/?l=404019
kankou-nagai.jp/log/?l=404019
昭和9年 冬 伊佐沢村の「娘売り防止」の張り紙が全国の話題を呼ぶ 防ぐための相談所』

民生委員制度の100年
www2.shakyo.or.jp/old/pdf/100shu…
p10『昭和初期は凶作が続き、農村部を中心に現金収入につながる娘の身売りが相次いだ。この状況に方面委員は「娘身賣の場合は當相談所へ御出下さい」「身に餘る相談は方面委員へ」と相談所を設置し、支援に乗り出した。』

 たとえば元高校教師による近現代史教育サイトでも、膨大なページのひとつに同様の一文がある*2
浜口雄幸内閣と昭和恐慌 | 日本近現代史のWEB講座

「娘の身売り」を村役場が斡旋するようにすらなりました。

 また国会図書館デジタルコレクションでも、消費者金融の社史に同様の記述をさがすことができる*3
プロミス30年史 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

凶作が重なる東北地方では村役場までが娘の身売り斡旋に乗り出す有様である。

 これが斡旋問題に乗り出す、といった表現であれば防止が目的とも解釈できるが、そうではない。
 また「百年前新聞社・社主@laurusesq」氏による下記ツイートでは、さらに多くの資料が検索されている。中立的に読める表現もあるが、村役場が斡旋したと明確に解釈できる表現もたしかにある。


山本雄二郎『新・国富論 (1980)』p.131

東北各地では借金返済のための”娘身売り”を村役場があっせんするという状態であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/11997181/1/69

以上の文中の「身売り相談所」が「身売りをするために相談する場所」ではなく「しないために相談する場所」という読み方は無理があると思います。
このほか「役場が斡旋した」とする著書は、失礼ながらURLと文言だけ並べておきます。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12127823/1/43 斡旋を受け入れて
https://dl.ndl.go.jp/pid/12155237/1/102 娘身売りをあっせん
https://dl.ndl.go.jp/pid/12169392/1/123 人身売買斡旋
https://dl.ndl.go.jp/pid/13200821/1/15 娘を売る斡旋
https://dl.ndl.go.jp/pid/13198614/1/25 身売りをあっせん

「百年前新聞社・社主@laurusesq」氏は問題の写真について、相談所は悪徳業者を防止する目的はあっても、身売りの斡旋をおこなっていたという解釈がされてきたと主張している。
 身売りによる公娼は実際には選別がおこなわれており、その数が多くなればそれだけ排除され、より危険な私娼に流れていったという歴史をふまえた解釈だろう。


 そして発端の「ムジ・モジ@x7zMuOJuRncNnTa」氏は後日に立教大学の紀要論文を引いて、村役場が斡旋したという説にはそれなりの根拠があることを示した。


芝田英昭の「占領期の性暴力」という論文では、

「東北地方では娘さんのいそうな町に周旋所が昔あっ て、警察の管理下にある周旋人は、“公周旋人”と呼ばれていたのでした」
「役場や警察が公然 と女性人身売買を斡旋していたことがわかる。」(22頁)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/22553
と書かれており、役場だけでなく警察も「娘の身売り」の斡旋をしていたことがわかります。

また、この論文の中には、「『娘身売りの場合は当相談所へおいで下さい』という役場の掲示板を見て、役場の相談所ではなく、父親の知人の周旋所に行って吉原に売られた女性」の話が載っています。(22頁)
これを見ると、役場の相談所が人身売買の周旋所と同じ機能を果たしていたことがわかります。

少し調べただけで、「役場が娘の身売りを斡旋していたこと」、「役場だけではなく警察も公周旋人と呼ばれて人身売買を斡旋していたこと」がわかりました。

当時の実態は私の予想よりひどかったです…
論文のリンクが間違っていたようなので、貼り直し。
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/21548

芝田英昭「占領期の性暴力 : 国策売春施設R.A.Aの意味するもの (その2)」『立教大学コミュニティ福祉学部紀要』24号、2022年

 ところが上記ツイートを紹介するTogetterでは、タイトルから占領期の性暴力についての論文と判断して*4、「ムジ・モジ@x7zMuOJuRncNnTa」氏が読んだことを疑っている。
戦時中の「娘売り防止」の張り紙を「町役場が「娘の身売り」を斡旋していた事例」として紹介する人が話題に - posfie

ここで示された資料のタイトルが「占領期の性暴力 : 国策売春施設R.A.Aの意味するもの (その3)」なんですが・・・

ムジ・モジさんはちゃんとこの資料読んだんですかね?

 以前にまとめられた別のTogetterのコメント欄でも、「山の手@Yamano_te」氏や「おきらく@信長出陣@GameOkiraku」氏が下記のようにコメントし、多数のいいねを集めている。

世界恐慌時の大日本帝國と言っていたのにツリーで今度は占領期の売春を出してきた(当然大日本帝國は)。この手の人、指摘されると永遠にゴールポストを動かし続けるんだよな

そしてその論文には「警察の管理下にある周旋人は、“公周旋人”と呼ばれていたのでした」とも書いてあるけど、これ吉原の店に3歳から養女として居た人の書いた本からの引用で、「“公周旋人”と呼ばれていた」に裏付けは何もない。こんな適当なお仲間の論文出してきて反論した気になるのがどうしようもないです。

 しかし「おきらく@信長出陣@GameOkiraku」氏の主張が正しければ、梅津氏のツイートもそれ自体には裏付けがないわけだが、梅津氏のツイートを疑わないTogetterにコメントしながら矛盾を感じないのだろうか。
 ともかく「占領期の性暴力」を主題にした論文であるからといって、他の時代の性暴力について記述することが禁じられているわけではない。日本軍慰安所制度をあつかった吉見義明『従軍慰安婦』で諸外国軍の性暴力にも章がさかれているように。

 事実として「ムジ・モジ@x7zMuOJuRncNnTa」氏が引いた論文を読めば、たしかに主張するとおりの記述がされていることがわかるし、その事例は昭和恐慌時のものだ。

福田は、昭和恐慌時に吉原遊廓へ売られてきた女性「ヨシさん」の姿を記している。「誰それは秋田の綱元のところに女中奉公に行ったとか、誰それとかは新潟へお女郎さんに行ったとか、友達の噂がしきりに聞こえてくる頃、おヨシさんは役場の掲示板に『娘身売りの場合は当相談所へおいで下さい』という貼紙が出ているのを見つけました。掲示板からはみ出すくらいの、一目で眼につく貼紙でした。ところがそれを両親に言うと、両親はとっくに知っていて『申し訳ないけど、これよりしょうがないから、おまえ、頼む』と頭を下げ、役場の中の相談所ではなく、父親が前からそれとなく聞き知っていた周旋所に出かけました。東北地方では娘さんのいそうな町に周旋所が昔あって、警察の管理下にある周旋人は、“公周旋人”と呼ばれていたのでした」[福田1993:57]でも、役場や警察が公然と女性人身売買を斡旋していたことがわかる。また、福田は、「そのころのことですが、山形県下で、二千人あまりの娘さんが娼妓になり、年ごろの娘さんが村から消えるという、今では考えられないようなことが実際に起こったんです」[福田 1993:60]とも記している。福田利子 1993「吉原はこんな所でございました」社会思想社、1993 年。

 あくまで別の主題の論文で関連資料を参照した脚注にとどまるので、昭和恐慌時の身売りを主題にした論文とくらべれば根拠として弱いとはいえるかもしれない。紀要論文の質もさまざまだ。
 しかし論文の主題が占領期だからといって昭和恐慌とは別の時代だという批判は、それこそきちんと読まない不適切な判断といえるだろう。

*1:現ポスト。

*2:引用時、文字色変更を排した。

*3:ノンブル10頁。

*4:「その2」へリンクを修正するツイートも引用しているので、「その3」の論文を読んだとしても責任はある。