アニメを見て、日本に憧れた——。そんな声を聞くことも多い。今やコンテンツ産業は日本の主要な輸出産業の一つであり、世界中でその存在感を示している。その一角を担うのが、日本を代表するアニメ製作会社の一つ、東映だ。
昭和100年にあたる2025年。日本アニメのビジネスモデルと東映の戦略について、ノンフィクション作家の野地秩嘉氏が独自取材を重ね、書籍『東映の仁義なき戦い』を上梓した。前回の記事に続き、著書より、東映のIPビジネスがいかにして生まれたのか、その秘話を紹介する。
泥棒と詐欺以外は何をしてもいい
高度成長時代の終わりには映画人口の減少は顕著だった。映画はすでに娯楽の王様ではなかった。庶民は平日の夜は自宅でテレビを見る。休日は買い物、旅行、スポーツ観戦、遊園地、動物園、水族館、美術館など充実してきたエンタテイメントの体験施設へ出かけるようになった。
映画のヒット作は出ていた。しかし、東映の社員、映画製作のスタッフの生活を支えるには、興行収入が10億円を超えるヒット作を毎週公開できたとしても、それで十分とはいえない。例えば現在(2024年3月期)の東映グループの売り上げは約1700億円超だ。1970年代だったとしても現在の半分の850億円は必要だったろう。850億円の売り上げを得るには10億円のヒット映画を年に85本も公開しなくてはならない。スピルバーグとジョージ・ルーカスとコッポラが東映で映画を撮っても、そんなことはできない。
その頃からすでに映画会社にとっては映画製作と公開だけでは会社を運営していけない時代環境になっていた。東宝が製作をやめ、松竹が歌舞伎に力を入れたのは時代を見ていたからで、日活、大映が消えていったのは時代を見ていなかったからだ。
東映は時代に敏感だった。そして、稼ぐことに貪欲だった。
社長の岡田茂は映画だけで生きていこうとは思っていなかった。「俺たちはカツドウ屋だ」というプライドはあったけれど、岡田は「泥棒と詐欺以外は何をしてもいいから稼げ」と号令をかけていたのである。
今も東映を支える二つのキャラクター、仮面ライダーとスーパー戦隊が出てきたのは、生き残るための強い意志からであり、しかも、キャラクタービジネスは泥棒でも詐欺でもなかった。
『仮面ライダー』が登場したのは1971年である。東映の社長が大川博から岡田茂にバトンタッチした年で、俳優の藤純子が引退する前年のこと。任侠映画の衰えが明らかになった年だ。『仮面ライダー』は子ども向けテレビ番組としてスタートし、その後も続いている。そして、テレビ番組に止まらず、映画、オリジナルビデオ、漫画、小説、ゲームソフト、演劇など複数のメディアでキャラクターとなった。
『仮面ライダー』の企画を原作者の石ノ森章太郎に持っていったのは東映の名物男で当時はテレビ企画営業部長を務めていた渡邊亮徳だった。亮徳はよしのりと読む。しかし誰もそうは呼ばなかった。みんな「りょうとくさん」と呼んだ。渡邊は『仮面ライダー』とスーパー戦隊シリーズの成功で後に東映の副社長にまで出世する。
さて、『仮面ライダー』は渡邊と石ノ森章太郎の会話から生まれた。
「石森(当時)先生、先生は漫画家の他に何かやってみたいことはありませんか?」
渡邊が尋ねたら、石ノ森は「一度、映画監督をやってみたい」と答えた。渡邊は「はい、分かりました。先生、お願いします。まず企画から一緒にやりましょう」と即答した。
渡邊は愛嬌のある男だ。石ノ森は話しているうちに、この男なら映画監督にしてくれるのではないかと思った。渡邊が提案したのは「仮面のヒーロー」である。彼の持論は「過去に流行したものは形を変え、少し進化した形で再び流行する」というものだ。その頃、ヒットしていた漫画『タイガーマスク』を参考にして、かつての『月光仮面』のような仮面キャラクターにしたいと石ノ森に伝えたのだった。
そうしてできあがった『仮面ライダー』は昆虫を思わせるマスクデザイン、変身ベルト、バイクやトランポリンを多用したアクションが話題を呼んでヒットシリーズになった。子どもたちは「へんしーん」と言いながら仮面ライダーの変身ポーズを真似したのである。
売れに売れた「変身ベルト」
『仮面ライダー』はテレビ番組の他、さまざまなメディアで発信されたが、キャラクター商品の新たなマーケットを開拓したコンテンツでもあった。
東映はテレビ番組として『仮面ライダー』の制作を請け負う。ただテレビ局からもらう制作費自体は実際にかかる費用の半分にも満たない。どうして、それで東映が納得しているのか。それはキャラクター商品があるからだ。キャラクター商品の製造販売を委託する企業に権利を売ってビジネスにするから、制作費は安くてもかまわないのである。
『仮面ライダー』以前にも、テレビで放映されたアニメ番組がお菓子やインスタント食品などのキャラクターを展開したことはあった。だが、『仮面ライダー』は商品のフィールドを広げた。菓子、食品に止まらず、高額な玩具である変身ベルトの発明でビジネスを拡大させたのだった。
当初、仮面ライダーの変身ベルトを製造したのは赤胴鈴之助などのキャラクター玩具を出していた「タカトクトイス」だった。ただ、タカトク製変身ベルトは単純なつくりで、子どもにとって魅力のあるものにはならず、売れ行きも低調だったのである。
それを改善したのがバンダイ元会長の杉浦幸昌だ。杉浦はその頃、玩具会社ポピーの役員をしていた。長男が「仮面ライダーの変身ベルトが欲しい」と言ったので、タカトク製のそれを買い与えた。すると、長男は「これじゃダメ。テレビと違う。ベルトが光らないし回らない」と言い、こんなのいらないと不満そうにつぶやいた。杉浦はせっかく買ったものだったし、捨てるのも惜しかったので、機械いじりの好きな知人に頼んでモーターで回転するように改造した。それを長男が腰に回して、友だちに見せていたところ、子どもたちの間で評判となり、「そのベルトはどこで買えるのか」と訊ねられた。
「これは売れる」と確信した杉浦は権利を買い、あらためて変身ベルトを商品化した。タカトクが500円で売っていたベルトを杉浦は3倍の1500円にして売り出した。商品のメインコピーは「光る!回る!変身ベルト」だ。
1971年、映画封切館の入場料金は大人1人600円だった。子どものおもちゃに1500円の値段を付けるのは冒険だった。しかし、杉浦は勝った。ポピー製変身ベルトは発売した1971年からの約2年で380万個を売り上げたのである。