「……きゅう」
「……これが清冷の表現する"やばい本"か」
「疲れた……」
「それはこっちの台詞だ、ここまでのことになるとは聞いていなかったが?」
「ごめんね」
「……まあ得難い経験ではあったが」
それはとあるビルの地下に存在する大空間。
今やあちこちボロボロで、転がっているのは水分の抜けた人間の遺体のようなものだけ。ここで何が起きたのか、それは少しの疲労と冷汗を伴った達也の顔を見れば規模感くらいは分かるだろう。実際にはこれ以上の数多の遺体達が分解されているのだが。
「清冷、その本はなんなんだ」
「元はアヘン戦争の時代に作られた薬物中毒者の手記みたいなもの。起源がそれだから、悪用されたんだと思う」
「……薬物による狂気を詰め込まれた一冊を、何者かが改変したということか?どうしたらそんなことが出来る。俺には褐色のゾンビ達が空間に開いた穴から大量に侵入して来たように見えたが?」
「知らない」
「知らないで済むか、ならどうやって押し返した」
「押し返してない。この本に繋がってる相手の位置を逆探知して、ゾンビの発生する指定座標を移し替えただけ」
「……それは、言うほど簡単な作業ではないと思うが」
「本を経由して干渉して来てたから。これが機械とか人だったら無理」
「紙本の上では本当に敵なしだな……敵の正体は分かるか?」
「座標がこの次元じゃなかったから、人間じゃないかも。そこまで干渉するつもりはないし。……とりあえずこの本とのリンクを切るから、もう少し見張ってて」
「ああ……」
そんなことをまるで当たり前のことのように彼女は言うし、また寝転びながら本に何かを書き込みはじめる。まるで落書きをしている子供のように足をパタパタさせながら。
これはゾンビ達のど真ん中でも同じことをしていたし、結果的にそれで出現を止めたのだから決して遊んでいる訳ではないのだろう。
……ただ、なにがどういう理屈で紙本によってこんなことになるのか、そしてそれに対応出来るのか達也には分からない。きっと説明されても理解はできないのだろう。内容を書き換えるだけで座標設定をするだとか、一般的な常識の上に居ては何も分からない。
「……ん、これでいいかな」
「終わったのか」
「うん、この本は持って帰るね」
「管理出来るのか?」
「もう普通の本だから、ただのコレクション」
「その辺りの判断はお前以外には出来ないだろうな」
「そうかも」
「……清冷、もしこの本の対処が遅れていたらどうなっていた?街中にゾンビが溢れていたのか?」
「ん……それもあるかもだけど。あのゾンビ、当時の薬物中毒者達の死体だから。この本が発動してる限り、物質の総量に関するタイムパラドックスが起き続ける」
「……それで?」
「この本の本当の目的は、時間と空間に揺らぎを作ること。脆弱にして干渉しやすくする。安定を失わせる、壊しやすくする。そして犯人は別次元の何か」
「……侵入するにせよ攻撃するにせよ、その準備段階ということか」
「うん……紙本だから対処出来たけど、それ以上は無理。根本的な対処は私には出来ない」
「そうか……こうまで見せられると、流石に他人事では居られないな。老師がお前に拘る理由も分かる」
「ん、そんなに珍しいことじゃないから安心して。少し前にもフロッピーディスクを利用して地球に隕石を引き寄せようとした計画が、フロッピーディスクの専門家に阻止されたから」
「待て、俺は一体どこからツッコめばいい」
「達也も困ったら専門家を頼ってね」
「とりあえず清冷のツテが重要なことだけは理解した」
理解出来ない物に対して恐怖を抱くというのは一般的な話であり、それは魔法師達に常に向けられて来た感情でもある。しかしそんな魔法師達でさえも、オカルトに対しては全くの未知。理解が出来ず、恐怖を抱く。
それこそ達也は恐怖はしなくとも、脅威は抱いている。これまではそんなオカルトを清冷詩織が扱っていたからこそ警戒程度で済んでいたが、よくよく考えれば清冷詩織は紙本という盤面の上にしか乗っていない。
世界には様々な分野と世界があり、オカルトはその上に更に大きく広がっているものだ。彼女だけを警戒すると言うのもおかしな話、オカルトは決して彼女だけのものではない。彼女の管轄は実際のところ、あまりにあまりに狭い物。
(……だが、長い付き合いになるだろうな)
それは否が応でも。
今になって達也は、彼女と密接な関係を築いている国防や九島老師の思いを本当の意味で理解出来た気がした。そして所謂、専門家、有識者という存在の重要性を。
「清冷、このまま上まで送っていく。そこに迎えが来ている筈だ、報告をしておいてくれ」
「達也はまだ仕事?疲れてない?」
「ああ、丁度このビルの屋上でな。気にしなくても良い」
「……飴あげるね」
「……子供か俺は」
手渡された苺ミルク味のキャンディを受け取ると、達也は慣れたように詩織を担ぎ上げてエレベーターのボタンを押す。されるがままの彼女も流石である。
……今回の一件で達也は詩織に対してトライデントを含めた複数の魔法を見せてしまったが、まあ彼女はその辺りを全く気にすることはないだろう。口外もしないはずだ。そもそも彼女は勘なのか何なのか、それとなく自分の実力を察している所もあった訳で。軍との関係だって話してしまったし。
「そうだ、後で本貸してあげる」
「……また突然だな」
ほら、まったく気にしてない。
興味もない。
この脱力感も慣れたもの。
「良い本が手に入ったの、面白いよ」
「どんな本なんだ?」
「『ポンコツどん兵衛の奇天烈冒険譚』」
「……子供用の絵本か?」
「パラパラ漫画」
「それは流石に想定外が過ぎるな」
「全3000ページの超大作」
「規模感が分からないんだが」
「日本で一番分厚い文庫本がその半分くらいかな。ちなみに重さは3kg近い」
「レンガか?」
エレベーターに乗り込みながら、また出て来たよく分からない本の話を続ける。それはまあ漫画だって紙本なのだから彼女の範囲内なのだろうけれど、まさかパラパラ漫画まで出て来るとは思わなかった。しかも3000ページ級の。
「内容は漫画なんだけど、殆どアニメみたいになってる。話は主人公の"どん兵衛"が銀座のスナックで追い出される所から始まる」
「名前に反して時代設定が近代過ぎるだろう」
「どん兵衛はあだ名、なにをやっても鈍臭いから周りからそう呼ばれてる」
「途端に悲しい話になったな」
「スナックを追い出された"どん兵衛"は、今度はキャバクラへと向かう」
「それで?」
「女の子の胸を触って追い出される」
「……」
「けど"どん兵衛"は懲りない。ならばと今度は風俗に……」
「待て」
「?」
「まさかタイトルの"奇天烈冒険譚"は夜の銀座のことじゃないだろうな」
「流石達也」
「3000ページも書く内容か?」
どうして3kg近い本をわざわざ手に持ってパラパラしたにもかかわらず、そんな内容を見せつけられなければならないのか。そんなもの達也でさえも投げ捨てるだろう。落ちたら凄い音がしそうだが。
「夜の銀座を渡り歩く"どん兵衛"。色んな店に行っては追い出され、色んな女の子に会っては叩かれて、そんなことを繰り返すのがこの本の内容」
「……何が面白いんだ?」
「"どん兵衛"の変化」
「変化?」
「それは見てみれば分かると思うから、楽しみにしてて。明日には届けさせるから」
「……明日は九校戦の最終日なんだが?」
「朝にパラっと読めるから」
「3000ページをパラっと読めるか」
「いける、パラパラ漫画だから」
「………」
次の日、本当に早朝に3kgの本が達也の元に届いた。
―――――――――――――――――――――――――
「ま、またとんでもない本を読んでいらっしゃいますね、お兄様。新しい辞典か何かですか?」
「いや、パラパラ漫画だ」
「……なんでしょう。お兄様がパラパラ漫画を読んでいるという現実があまりにも奇妙に思えてしまうと言いますか」
「タイトルは『ポンコツどん兵衛の奇天烈冒険譚』だ」
「わ、私の中のお兄様のイメージが……しかしそうなると、いつもの如く清冷さん絡みなのですね。やはり面白いんですか?どのような内容かお聞きしても?」
「……そうだな、面白いと言えば面白いか。内容は"どん兵衛"という主人公が夜の銀座を飲み歩くものの、全ての店から追い出されるという流れが基本になる」
「とても面白そうには聞こえないのですが……」
「いや本当にな。……だが、正直な所かなり集中して読んでしまった。それもパラパラどころか、1ページずつ捲りながら」
「それはまた、不思議な話ですね」
「ああ……まずこの主人公だが、最初はそこそこ身なりの良い服装をしていた。財布も大きく膨らんでいて、羽振りもいい」
「裕福な方なんですね」
「だが店を追い出される度に衣服は破れ、財布から札が抜かれて行く。繰り返して行く度に見た目は見窄らしくなり、財布の膨らみも小さくなって行く」
「ま、まあ妥当な流れとは思いますが」
「しかしな、その度に"どん兵衛"の表情はむしろ明るくなっていくんだ」
「え?」
「高価な洋服は汚れて破れて、財布が破裂しかねないほど詰め込まれた札束は順調に無くなっていき、多くの女性達に殴られて顔はアザだらけ。それでも"どん兵衛"は落ち込むどころか嬉しそうに次の店へと歩みを進める」
「……理解出来ません。それほどお金に余裕があるのでしょうか、それともそういう拗れた趣味が?」
「結論を言えば、どん兵衛はただのサラリーマンだった」
「へ??」
「しかもその日にクビにされたばかりの」
「ま、まさか自暴自棄になって……?では最後は!」
「自殺……………俺もそうなるのではないかと思っていた」
「ち、違うのですか?」
「ああ。何もかもを失ったどん兵衛は、最後には僅かに残った小銭を握り締めて田舎に帰って行ったんだ。満面の笑みで、電車から都会に大きく手さえ振りながら」
「………仕事もお金も失って、それでも笑っていられる」
「結局のところ、田舎から出て来た"どん兵衛"にとって銀座を含めた都会という世界は。それこそ"冒険"と表せるほどの異界だったんだろうと俺は思う」
「つまり、むしろ田舎に帰りたかった?帰れることが嬉しかった?そういうことでしょうか?」
「そうだろうな。"どん兵衛"と揶揄されるほど鈍臭い男にとって、移り変わりの激しい都会での生活は簡単ではなかった筈だ。だがそれでも彼は、何も成せず、何も達せず田舎に帰りたくはないという思いもあった」
「……だから最後に、銀座を巡った。と言うよりは、冒険をした」
「財産を使い切り、多くの店を巡り、多くの女性と接し。それまで自分を振り回して来た都会を、今度は自分が振り回している感覚。あらゆる場所から拒絶されたとしても、吹っ切れた彼にとってはそれもまた楽しかったんだろう。出禁さえも意味がないからな。まあそんな姿も他者から見れば奇天烈にしか映らないが」
「……彼なりの復讐だったのでしょうか」
「さて、どうだろうな。それもまた読んだ人間の解釈によるだろう。人によっては思い出作りとも取れるかもしれない」
「ただ結局のところ、このお話は最初から最後まで楽しく明るいお話だったということですね」
「ああ。会社をクビになったシーンもギャグ調に描かれているし、普通に読んでいる分ではコメディ漫画でしかない。最初から最後まで"どん兵衛"もずっと楽しそうに笑っている」
「ふふ、そういうお話であれば安心して読めますね。私も気になるので一度読んでみたい……………のですが」
「ああ、まあ……………大きいからな……」
「結局お兄様のようにパラパラせず、一枚一枚めくって読むことになりそうです……」
「まあ俺も半分諦めてこう読んでいる。大きさ故にパラパラ出来ないパラパラ漫画。パラパラ漫画として破綻している」
「うっ、改めて触ってみると本当にパラパラし難いですね……ページ全体に描かれているのでスピード感もありませんし」
「ああ、そこが本当に残念だ」
なお、この後に達也が動画サイトで調べたところ、普通にアニメのように動かした動画が公開されていた。しかも公式から。
つまりこの本の存在意義は本当に無いのである。
……いやまあ、紙の本自体が少数派になった現代ではあるのだけれど。
「こうなるとこれはもう本当にただの鈍器だな……」
「流石にそれは電子化されている全ての紙本を否定しているのと同義ですよ、お兄様」
いくらなんでも詩織が怒る発言である。