BLの「男らしさ」「女らしさ」に満ち溢れた同性愛表象の謎
前の記事では、こちらの同性愛当事者による興味深い発言――「攻め」「受け」の二元的な異なる性〔ジェンダー〕に押し込めて当てはめることは、同性愛の当事者的実感と異なり、異性愛な印象が強いとする意見を紹介した。
また、𝕏で補足いただいたのだが、「攻め」が高身長であることに拘る人が多いようで、この点でも「攻め」側に異性愛における高身長嗜好の投影が伺われる。
私はこれを見て、女性絵描きのムーブメントである「"日韓百合"のときに似たような指摘があったことを連想した。表面的には女性同士の百合と言いつつ、日本女性は女性役で韓国女性が男性役を担当している異性愛的な印象が強いというものである。ついでに言えばこの"日韓百合"は、韓国女性という当事者はほぼ抜きで、日本女性の間で勝手に「韓国女性像」を作り上げながら行われていたものであることも付記しておく。
女性の創作におけるこの2種の同性愛表現――BLと"日韓百合"は、いずれもそれが強く異性愛的であることを指摘されており、筆者もこれに同意する。男性向けの"百合"や、いわゆるきらら系の「男の趣味を若い女の子の皮をかぶせてやっているだけ」な作品では同性の友人といった趣の関係表現が多く、少なくともBLや"日韓百合"ほど強烈なジェンダーのにおいはしない。
ただし、BLが表面的には同性どうしの肉体表象で描かれているのも事実である。結局これらは、端的に言えば「異性愛的な願望があるが、なんらかの理由によって男性表象と女性表象の絡みとして描写することが憚られるため、理想の異性愛を演出する表象として表向き同性愛の形式になっている」と記述するのが適切であると思われる。
異性愛表象嫌悪の仮説(1) 女性の両立しない3相と男女平等主義
筆者は男女平等・女性の自立を推進する立場をとっているが、そうであるがゆえに「親が子を養うのが当然であるように、男は女を養うべきだ、女は庇護される立場であるべきだ」という意見とぶつかる機会が増えた。最近は女性活動家すらそんなことを言っているのを頻繁に目にする。
働け、自分の食い扶持は自分で稼げ、産め、産んだなら責任もって育てろ、甘えるな、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ!(中略)激しい競争に無理やり参加させられている苦しさを感じている女性が無数にいるのが、今の日本だ。そんなときに、「(女性に)働け、働けってやりすぎちゃった」と言う神谷氏の言葉に立ち止まってしまう女の必死さを軽くみることはできないのではないか。
一方で彼女らも従属的な立場をよしとしているわけではない。いまさら儒教的な「婦人從人者也。幼從父兄、嫁從夫、夫死從子」を守ろうとする女性はいないだろう。
全体を概観したとき、「親の娘として立場として庇護される立場のままでいたいが、家父長/男性に庇護された従属的な立場と見られるのも嫌だ」という矛盾した願望を持つ女性はかなり多いように見受けられる(筆者のSNS被リプライ体感のレベルなら多数派とすら思える)。このアンビバレンスは女性活動家の記述内でも衒いもなく書かれている。
「男の俺が女を守る」というのもミソジニーの裏返しでしかないが、怒鳴る男よりマナーはいい。
以前に女性どうしは「女」「妻」「社会人」のいずれかでマウントを取りあう関係になっていると指摘した調査があったが、このマウントの取り合いが成立するのは、これらの価値観が両立しないものでありながら、女性の多くがどの価値観にも魅力を感じているからマウントの取り合いが成り立つ(価値観に優先順位があればそれ一辺倒になるし、価値観が重ならないならマウントにならない)のであって、女性の間ではこの矛盾含みは普遍的なのだろう。
この矛盾を解決する表現として、依存関係を同性どうしにしてしまうという方法が考えられる。日本人女性が日本人女性の自意識のまま庇護されたい(ただし男以外に)となったのが"日韓百合"で、男どうしの中に支配的ジェンダーと従属的ジェンダーを配置して矛盾に対して得心を図ったのがBL、とすれば説明はできそうに思える。
異性愛表象嫌悪の仮説(2) 日本人女性が改めない"No means Yes"癖と男性嫌悪の二律背反
女性に対する性暴行について、女性が拒否的な態度を示しても「嫌よ嫌よも好きのうち」と解して同意のない性行為に及ぶ行為に対して、"No means No"であって額面通りとれ、という運動が行われたことがある。
英語の標語がある通りこの傾向は外国にもかつてあって、「嫌よ嫌よも好きのうち」から"No means No"へ変わる意識のアップデートが男女ともに行われた。だが日本においてはいまだに"No means Yes"をやる女性が多く、性暴力の温床になりかねないという懸念を、女性の安全のために活動する伊藤詩織氏が指摘している。
日本女性の「NO」は「YES」?
伊藤 駐在員として日本に来ている外国人の友だちから聞いた話で、ちょっと驚いたことがあるんです。彼は、これまで四人の日本人女性とお付き合いをしたことがあるそうです。そのうちの三人は、最初に夜をともにした日に性行為を行おうとしたら「NO」と断られた。まだそんな気持ちじゃないんだと思い「本当にごめん、大丈夫」とあやまると、彼女は「なぜ途中でやめちゃうの」と怒りだした。彼は、彼女の真意がわからず、混乱したと言っていました。
中島 「NO」と言っても、本当は「YES」だってこと?
伊藤 そうなんです。インターナショナルなスタンダードだと、「NO」は「NO」でしょう。
"No means Yes"癖が日本人女性に蔓延していることについて、伊藤詩織氏は過去からの慣習的なものに帰着させようとしているが、そうではないという仮説を提示しよう。
創作ものを見てみると、日本における女性向け恋愛作品では、小説と漫画とを問わず、商業でも同人でも、「視点主人公たる女性の意思を無視して〔ハイスぺ〕男性から強引に迫られる」というタイプの展開が鉄板である。女性向け恋愛ゲーム(乙女ゲーム)では"ドS"男が売り上げ上位を独占する。AVのアクセス統計Fanza Report 2018でも不同意性交関連のキーワードは男性より女性で上位に来るが話題になった("性犯罪はAVの悪影響"論に対してよく引き合いに出される)。なぜ女性向け恋愛ものでなぜ不同意性交描写が蔓延っているかは、下記ポストが実直に説明している。
つまり、「相手をものすごく強く求めている、愛している」の究極の表現として「相手の〔表面的な〕拒否を押し切ってまで自分の感情を押し付けに行く、それほどに求めている」という行動として表現されていて、そこまで強く求められると自己承認欲求が強く満たされる――という話である(このあたりを鑑みて、女性には承認欲求と性欲が融合したタイプが多いのではないか、というのが私の推測だった)。
不同意強引シチュ好きはBLに限った話ではなく、現実の"No means Yes"女から少女漫画、AVの検索傾向などと地続きで、日本人女性の間に普遍的にみられる。ただし不同意強引シチュを現実的に受け入れられるかどうかは女性によりさまざまである。実際に自分の身で駆け引きすることを厭わない女性は、伊藤詩織氏が批判する通りの"No means Yes"女になる。自分の身はダメでもある程度のリアリティまではいけるのであればAVや女性主人公の小説/漫画/乙女ゲームで鉄板のドS男キャラを選ぶ。自分の身だけでなく女性表象でも無理だが、女性表象ではない「男役」「女役」であればいけるならばBLになる――というのが私の仮説である。
田中芳樹 (略)男性が女性を暴行するような場面だったら嫌悪感を示すような人が、なんで男同士だったら耽美だと受け取るのか判らないね。それは、男同士ってことは女性は絶対被害者にならずに済むから、自分だけ安全なところにいてセックスをおもちゃしてるんじゃないかと思うところがあります。(略)少なくとも原作者のところに郵送するなよ、とは言いたい(笑)。
このルートでのBLの同性愛的な描写は、「拒否を押し切るほど求められたいが、拒否を押し切って不同意性交されたくない」というヘテロセクシャル女性が抱く矛盾を処理するのに、肉体表象を男性同士に置き換えているに過ぎず、実際の同性愛者への理解やリスペクトなどはみじんも存在しない(当たり前だが同性愛者の間でも不同意性交は犯罪である)。冒頭ポストが指摘する「攻め」「受け」という性行為役割のヘテロセクシャル性、同性愛との相違を説明する理屈の一つがこれである。
念のためだが、女性に不同意強引シチュ好きがいるということは不同意性交を正当化しないし、現実に刑法犯である。ただ、"No means No"へ変わる意識のアップデートが必要なのに、日本人女性は意識のアップデートが遅いことは指摘しなければならない。これに限らず、女性の地位向上を目指す運動において女性の意識のアップデートが必要とされる場面が多いのに、日本では女性自身の意識のアップデートの努力がとかく足りない傾向には苦言を呈さざるを得ない。
まとめ
BLにしても日韓百合にしても表面的には同性愛のようでいて、その実、有害さも無害さも混ざった「男らしさ」「女らしさ」の規範がむせ返るほど感じられる。現代において「男らしさ」「女らしさ」を称揚するのが憚られるようになったなかで同性愛という表象に仮託しているというのが今回の仮説になるが、私にはこの仮説以外に、異性愛ですらなかなか出せないヘテロセクシャル臭を説明する手段が思いつかない。
そしてBLや日韓百合その中で語られる「女らしさ」――執着され迫られる側は、どこまでも受け身で能動性がなく、それでいて相手に自分を満足させるよう求める子供のような幼稚さが感じられてしまうのは残念でならないところである。
もちろん、現実にそれを言うのが憚られるので空想の中でそれをいう、というのは構わない。それが言論の自由であり創作の価値である。周りに据え膳を出してもらえるご都合主義は、男性向けでもいわゆる「なろう系ハーレム」としてひとくくりにされるくらい大量に存在する。ただ違いを挙げるすとれば、「なろう系」という言葉は批判的に使われるし、読む側も一定レベルそれに同意しているのに対して、BL周りはそこに無頓着な人が増えてきたなという印象を感じる程度ではある。
もう一つ補足しておけば、「男らしさ」「女らしさ」の規範を都合よく振り回すのは別に創作に限った話ではない。このあたりは女性活動家でもあるエマ・ワトソンが「有害な男らしさ」という単語を使ったあたりで、「有害な」という限定から「男らしさ」の規範のチェリーピッキングを試みているという意見が多く見られたのが好例だろう。実際、「有害な男らしさ」という思想では、男は女を養うのは良いことだという発想が含まれている。
Other traditionally masculine traits such as devotion to work, pride in excelling at sports, and providing for one's family, are not considered to be "toxic".
仕事への献身、スポーツに優れていることへの誇り、家族を養うことなど、他の伝統的な男性的な特徴は「有害」とは見なされません。
しかしながら、「有害」か否かをきれいに切り分けることなど無理だろう。
「有害な男らしさ」論では「仕事への献身」は無害なものと扱われているが、SNSの妻たちを見れば夫に仕事への献身なんてしてないで育児家事を手伝えと言っているような姿はまま目にする(あまつさえ専業主婦を名乗るアカウントすらも)。
「有害な男らしさ」思想では男の強引さは「有害」判定を受けているし、強引に性行為を迫れば普通に刑法犯だが、一方で"No means Yes"を止めない女たちは、その強引さこそを求めるという二律背反の状況にある。
そういった「男らしさ」「女らしさ」の規範に対するアンビバレンスはどこにでもあり、その表現型の一つが「強く異性愛的な内容を表現した同性愛的表象」である、というのが今回の仮説である。
コメント
2創作に自分の性欲を反映していることを自覚したくないのだと思う
私は壁になって二人を見ているだけ! BLは性欲ではない…ということにしたい
男女の恋愛モノだと女に自己投影してるなんて言われてしまう (実際そういう面もある)
推しと自分の恋愛を妄想する「夢」を馬鹿にする腐女子は珍しくない
女である私は第三者という体裁を取りやすいBLは自分を騙す上でも都合がいい
空想の中ですら「自分」を持ち得ないのだとしたら、こんなに情けないことは他にない気がしますね。生きることに向いてなさ過ぎる。