モーターサイクルを愛して
やまなかった革命家の医師
チェ・ゲバラ。
「遠い空の下、僕は世界が
めざめる音を聞いた」
真似してみても、ゲバラには
なれない。僕は僕でしかない。
1959年7月。
革命後にゲバラはキューバ
代表の外交官としてアジア
を歴訪した。日本にも来訪
した。
その際、日本政府からは許
可が下りなかったので、密
かにホテルを抜け出して広
島に夜行列車で行き、原爆
慰霊碑に彼は黙とうを捧げ
た。
戦後、海外の政府首脳が広
島に赴いて原爆戦没者に祈
りを捧げたのはチェ・ゲバ
ラが初めてだった。
《ゲバラ、訪日時に被爆地・
広島を夜行列車でゲリラ的
訪問》
[ 2007年10月9日 毎日新聞 ]
キューバ革命の英雄チェ・
ゲバラが訪日団の団長とし
て1959年に来日し、広島を
ゲリラ的に訪問した際、副
団長と2人で大阪から夜行
列車に飛び乗ったことが9日、
分かった。副団長だったオ
マル・フェルナンデスさん
(76)が明らかにした。
フェルナンデスさんは「チェ
は被爆地・広島訪問を熱望し、
私と2人で大阪のホテルを
こっそり抜け出し、夜行列車
で広島に行ったんだ」と振
り返った。
ゲバラは59年1月の革命後、
同年6月から3カ月間、アジ
ア・アフリカを歴訪した。
訪日団長が当時31歳のゲバラ
で、副団長を2歳年下のフェ
ルナンデスさんが務めた。
7月中旬に来日、10日間滞在
し、自動車工場などを視察し
た。アルゼンチン出身の医師
であるゲバラは、予定になか
った広島の被爆地訪問を強く
希望したが、日本政府の許可
が出なかったという。業を煮
やしたゲバラは大阪のホテル
に滞在中、「ホテルを抜け出
して広島に行くぞ」と決断。
オリーブグリーンの軍服姿で
大阪駅で切符を買い2人で
夜行列車に飛び乗った。
「被爆者が入院する病院など
広島のさまざまな場所を案内
され、私同様、チェも本当に
ショックを受けていた」とフ
ェルナンデスさん。帰国報告
の際にゲバラは、フィデル・
カストロ国家評議会議長(当
時は首相)に「日本に行く機
会があれば、必ず広島に行く
べきだよ」と強く勧めたとい
う。カストロ議長は2003年3
月に広島を訪問。フェルナン
デスさんは「フィデルはチェ
との約束を守ってくれた」と
感激した。
※ゲバラは家族にあてた絵ハ
ガキに「広島を訪れ、ますま
す闘うエネルギーがわいた」
と書いた。
※原爆ドーム訪問後にゲバラ
が通訳に言った言葉「日本は
こんなにひどい事をされたの
に、アメリカの言いなりにな
っているのか」。
広島の原爆慰霊碑に献花し、
直立して佇むチェ・ゲバラ。
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