「#gooblog引越し」で体験談を募集中
goo blog サービス終了のお知らせ 

『原人論』に説く五常と五戒の話

『原人論』とは、『華厳原人論』などともいうが、華厳宗で禅僧でもあった圭峰宗密によって書かれた、仏教で説く理想的人間についての話となっている。そこで、例えば、以下のような文脈が見られる。

 仏の教、浅き自より之れ深まるに、略して五等有り、
 一、人天教、
 二、小乗教、
 三、大乗法相教、
 四、大乗破相教〈上の四、此の篇中に在り〉、
 五、一乗顕性教〈此の一、第三篇中に在り〉。
    『原人論』「斥偏浅第二〈仏の不了義教を習う者〉」


以上の通りである。この場合、『華厳経』を理想としているので、例えば「大乗」と「一乗」との違いについては、多くの大乗経典が「大乗」であれば、『華厳経』こそが「一乗」となる。例えば、「一乗顕性教」の説明について、「一切の有情、皆な有本覚真心有り、無始以来、常住清浄、昭昭にして昧からず、了了として常に知る。亦た仏性と名づけ、亦た如来蔵と名づく」としつつ、更に『華厳経』から「故に華厳経に云わく、仏子、一の衆生の、而も如来の智慧、具有せざる無し、但だ妄想執著を以て而も証得せざるのみ」(実叉難陀訳『八十華厳』巻51「如来出現品第三十七之二」からの引用)としている。

よって、仏性・如来蔵の開展を前提にしつつ、一切の衆生の可能性を信じているのが、本書の特徴でもある。そこで、本書には、わずかながら「戒」に関する話も見えるので、確認しておきたい。

 一、仏、初心の人の為に、且く三世の業報、善悪の因果を説く。謂わく、上品の十悪を造れば、死して地獄に堕す、中品なれば餓鬼、下品なれば畜生なり。
 故に、仏、且く世に類して五常の教え〈天竺の世教、儀式殊なりと雖も、懲悪勧善に別無し、亦た仁義等の五常を離れず、而も徳行有りて修すべき例、此の国の歛手して而も挙げ、吐番に散手して而も垂らす、皆な礼と為すが如きなり〉、
 五戒〈不殺、是れ仁なり、不盗、是れ義なり、不邪淫、是れ礼なり、不妄語、是れ信なり、不飲噉酒肉、神気清潔にして智に於いて益すなり〉をして持し、三途を免れ、人道中に生まれんことを得せしむ。
 上品の十善及施戒等を修すれば、六欲天に生ず。
 四禅八定を修すれば、色界、無色界天に生ず〈題中に天・鬼・地獄を標さざるは、界地同じからず、見聞及ばず、凡俗、尚お末を知らず、況んや本を窮めて肯んずるをや、故に俗に対して教えて且らく原人を標す。今、仏経を敘するは、理、宜しく列を具すべし〉。
 故に人天教と名づくるなり〈然るに業に三種有り、一に悪、二に善、三に不動なり。報に三時有り、謂わゆる現報、生報、後報なり〉。
    『原人論』「斥偏浅第二〈仏の不了義教を習う者〉」


実は、上記の教えは、既に【五戒と五常の関係について】で採り上げたことがある。

ところで、上記はあくまでも、「初心の人」向けではある。そのため、「五戒と五常」の一致を説くのである。五常は世俗の授業の教えであり、それが、仏教の在家信者が守るべき「五戒」と一致しているのである。そして、守った結果について、因果応報の道理を踏まえつつ示し、「人天教」と名づけるとしている。

そういえば、上記の文章にも、「原人」という言葉が出ているけれども、その意味は何であろうか?

然るに当今の学士、各おの一宗に執して、師の仏に就くは、仍ち実義に迷う、故に天地人物、原の源に至ること能わず。余、今、還た依内外の教理に依りて万法を推窮し、初め浅きより深に至る、権教を習うものは、滞を斥け通じ、而も其の本を極む、後に了教に依りて、顯示展転生起の義を顕示し、偏をして円に会せしめ、而も末に至る〈末、即ち天地人物なり〉。文に四篇有り、原人と名づくるなり。
    宗密『原人論』「序」


・・・いや、ちょっと良くハッキリしないけど、でも、まぁ、「人の原」に達する話をしているのかな?とは思う。

当に知るべし、迷悟同一真心なり、大なる哉、妙門、原人、此に至る。
    『原人論』「直顕真源第三」


要するに、原人とは、迷悟が同一真心であることを悟ることにあるようである。まぁ、ただ五戒を守っている状況から、ここに至るには、余程の身心の鍛練が必要なようだが、流れだけは理解出来た。

仏教 - ブログ村ハッシュタグ
#仏教
この広告を非表示にする


サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリー

バックナンバー