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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

横浜市神奈川区

2025年08月20日 | open




転居先を選べるならば横浜
市神奈川区
てのはいいかも
知れないよ
。もろに「ハマ」
の内だし。
交通も至便だし、山の手に
住宅街も多いし、出川の
苔屋もあるしさ(笑
「ワイルド7」の漫画家の故
望月三起也
先生も神奈川区
生まれ育
ちだった。
北斎も神奈川を描いていた
しさ(笑
本当は江戸期には神奈川

横浜ではないんだけど
ね。
外国は神奈川の開港
を幕府
に迫ったけど、江戸に近

から幕府は神奈川は避
けて、
なぁ~んにも無く
てただの
横に出っ張った
浜があった
場所を「ここ
も神奈川にご
ざる」とか
言ってごまかし
て離れた僻地で
田舎の場所
に開港
させた。
それが今の横浜市中区の
浜港。

港周辺の開発がアッという
間に進んで、幕末には大港
になっていた。欧米外国人
の白人たちも横浜にバンバ
ン上陸して住んで。
横浜には大飲食街とホテル
と商取引施設と娼館群が無
数に建ち並んだ。江戸期に。
神奈川区の港付近はジャン

言葉を使うが、山の手の
西寺尾あたりは鶴見区と並
んでジャン言葉が不在の場
所だ。今は使うかもしれな
いけど、昔からの在住者に
よるとそういう文化の歴史
あり。

「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」


これ、今の神奈川区ではな
くてたぶん中区の本牧沖あ
たりだろうけ
どさ(笑
波先が手の形にデフォルメ
されてんだよね。妖怪みた
な恐ろしさの表現で。
あと、手前の大波の形が富
士山と似ていてダブル富士
という畏敬を表している。
構造的な配置も計算済みで、
葛飾北斎(1760-1849)の手腕
が光る一作。
全世界的に北斎の代表作に
もなっている。


北斎ってちょうどおいらの
200年前生れなんだよね。
出自詳細は諸説あり不明。
どうやら武士の出らしいと
いうのがどの説でも定番の
ようだ。
6才頃から絵の才を発揮して
いた模様。

北斎の描いた江能嶌(えのし
ま)もいいぜ~。


弁天橋なんて無くても、潮が

引いたら自然の参道が現れた
のよ。
まるで昔の戦記漫画『あかつ
き戦闘隊』の南洋の島の「幻
の滑走路」みたいに。
あれも小2の時に貪り読んだ
けど、
誰もかれもぼんぼこ死
んで行
って、悲しい物語だっ
た。
あの作品の中に「きんぴらご

ぼう」が出てきて「贅沢だ」
という旨のセリ
フを出っ歯が
発して、きんぴ
らてのは何だ?
と思って母に
作ってもらった
事があった。

「どこできんぴらなんて知っ
たの?」と母から問われたが
マンガからとか言うのがため
らわれて「学校の給食で」な
んてごまかしたりしただよな。
ガッコの給食にきんぴらなん
て出ないのに。クジラの竜田
揚げはばんばん出てたが。
あと、俺らの時代は戦後期の
パン食化政策の真っ最中だっ
たので、給食で米は一回も出
なかっ
た。
ただ、神奈川県は私の通った
江の島のある藤沢の小学校で
は脱脂粉乳というのはすでに
無かった。
ちなみに横浜の小学校は生徒
数が多すぎて給食は無し。学
年で11クラスあったから。そ
れが6学年。校
舎も足りなく
て、校庭にプレ
ハブ教室建て
て授業やってた。歩くと床が
ミシミシいってた。工事現場

の飯場のプレハブと同じやつ。
藤沢では冬は石炭くべるダル
マストーブだったが、横浜は
最初から灯油のストーブだっ
た。5年の時、ストーブ当番
が間違えてストーブのそば

にポリタン置いてて、それ
が溶けかけた事があった。
あわててH君という子がどけ
たけど、事態を掌握していな
かった学級委員の私が教師に
職員室呼び出しくらってお目
玉だ。

でもそれは、クラスのみんな
には「みんな。あぶねーから
互いに気を付けて注意しよう
ぜ」、「は~い」「オッケー!」
でおしまい。

横浜の小学校は給食の牛乳だ
けが配られた。三角パックの。
藤沢時代は牛乳瓶だった。
横浜の小学校ではNという

奴が遊びと称してその牛乳
パックを校舎の壁に投げつ
けて破裂させてて、またお
いらが職員室に呼び出しく
ってお目玉よ。
でも、おいらが発明した一
斗缶の蓋を広げて四角い先
端を全部鉄鋏で△
に切った
手裏剣が大流行し
たが、こ
れまた教壇に投げ
て刺して
た奴がいて、おい
らがまた
もや呼び出しお目玉よ。

で、教師が「誰がこんな物
考えたんだ」と言うから、
そこは正直に僕です、と。
さらに大目玉だったな。
で、安全な校庭ボールゲー
ムの
「ガンバコ」ていうワ
ンバ
ン遊びをおいらが考案
した
ら、学校で大流行にな
った。

名前が良くない、とか言う
教師もいたが、うっせーっ
てんだよな。構わず俺らは
それで遊んでた。
光化学スモッグ警報が発令
されて、校舎に避難するま
での休み時間中は。
ちなみに、「サケブタ」とい

う一升瓶の蓋の王冠部分を
蹴って外したメダルみたい
な王冠を教室の机の上でビ
ヤードというか今でいう
カーリングのように相手の
王冠に当てて落とすゲーム
も流行らせた。名称はサケ
ブタ。

まあ、メンコの王冠版みた
いな事を王冠弾き落としで
やるのだけど、相手の王冠
を落としたら
いただき。
そしたら、職員会議で問題
になったらしく、「学校で博
打まが
いの事をするな」と
これも
禁止になった。結構
なブー
ムを呼んだ小学生同
士の気合入った技術の勝負
だったのになぁ。
まあ、教師らの言う事にも
一理
あったので、やむなく
学校で
やるのはやめにしと
いた。
学校帰りに空地に「基地」

を作るので、肥後守は男子
はもれなく全員が携帯して
いた時代。文房具屋で安い
肥後守をみんなが買って持
っていた。鉛筆を削る時も
必須だったしさ。教壇横の
備え付けの手動鉛筆削りな
ど使わずに。
ただ、段々文具ではカッタ
ーナイフが主流になって肥
後守は廃れた。
肥後守が消滅したのは、あ
れは刃物狩りよりもカッタ
ーの台頭と鉛筆削りの普及
によるものが大きかったと
思いますよ。カッターナイ
フはずっと最近まで小学生
は必携だったのだし。
カッターナイフで小学生の
殺人事件が起きるまでは。
カッターナイフのような切

れ味鋭い物で斬りつけたら、
すぐ人は死んじゃうがな。
刃物の使い方と危険度を学
校で教えなくなってから、
意味不明な事を子どもたち
がやり始めた。
私が小学生の時代に三派全
学連
の大学生のあんちゃん
たちがとても折れや
すい杉
の角材使ってて、刃
物とか
絶対に使わなかったのにも
そのへんの「自己制御」が
あったからなんだってば。
戦後民主主義教育の中での。

武器としての角材というよ
り、どりゃこりゃと突っつ
いて敵対相手を向こうに行
かせるだけの用具とし
ての
角材の使用、という。

武器使用目的ならば最初か
ら日本共産党のように樫の
棒だ
ったりを使ってただろ
に。後にそれがぬるすぎた

と思って新左翼は爆弾や銃
にまで一気に行っちゃうん
だけどさ。時代と共に。
だけど、一般企業勤務労働
者までも
爆殺したりとか絶
対によく
ねぇよ。海外の空
港で誰彼かまわ
ず射殺した
りとか。


私の娘時代でも学校主催の
キャンプで果物ナイフや薪
割鉈を持参するのは禁止と
か、全く意味わからん。
教育指導から学校側が逃げ
て、それで子どもが真っ直
ぐに育つと思ってか。
そりゃ教育放棄でしょうに。
刃物の安全な使い方と危険
性を教えるのが教師の役目
だろうに。
私の時代には小学校の家庭

科調理実習の時には皆家か
ら包丁持って来てよかった。
あたしゃ自分専用の包丁を
キャンプでも使うから、安
い文化包丁を買っ
てもらっ
て、それを持って行
って使
って、家庭科の通信
簿5よ。
その包丁は今でも使ってい
る。55年以上前の物。

うちには先祖が使っていた
100年以上前の包丁も現存
していて、今でも形状を整
えて研ぎ上げて使用してい
る。

江の島弁天橋のすぐ東側の
ビーチは少し東に行けば鎌
倉市。
藤沢市では
ない。だが、人
気なのは橋の東
側。皆さん、
藤沢の海では
なく鎌倉の浜
辺で海水浴し
てる、という
寸法。
これも撮影は鎌倉市内から。↓


高度経済成長期の大昔は人
が多すぎて、江の島は芋洗
い海岸みたいだったよ。
浜歩けない位に人が多いの。
大抵は自分らのとこが分か
らなくなって迷子になるだ
よな。でもガキンチョも迷
子になっても泣いたりはし
なかった。なんとかなんべ、
と自分でなんとかしてた。
海の家の人のとこに行くと
か、監視員さん探して帰り
場所が分からなくなったと
告げたりとかで。
俺らの時代なんてまだ甘甘
だったよ。戦後直後のガキ
どもはもっと逞しかった。
 ↓これがフツーの湘南海岸


 
  
  


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