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正法(三)

【十三】

             松葉ヶ谷法難 
 

日蓮大聖人が入信したばかりの伯耆房とともに駿河の岩本実相寺から帰ってこられ、松葉ヶ谷(やつ)の草庵では弟子たちが集っている。日朗・鏡忍房、三位房らの弟子、四条金吾、富木常忍ら檀越も少年の熊王もいる。これらに伯耆房を紹介すると名を日興と改名させ、久しぶりに師匠の法話と会話で感激した夜。月光が小庵を照らしていた。弟子たちは安堵の息をついて寝静まっている。静かな夜だった。外では黒衣の念仏僧を先頭にして百人ほどの群衆が音もなく近づいて松葉ヶ谷草庵を取り囲んでいる。日蓮を殺そうと眼はギラギラと血走らせ、手にした松明で草庵に火を放った。たちまちパチパチと音を立て火の手が上がる。 大聖人が外の騒ぐ音で目を覚ますと、寝室が灰色の煙に包まれていた。「みなの者、おきよ、火事だ!」 弟子たちがあわてて立ち上がり、外に出ようとしたが、群衆が立ちふさがっているのに驚愕した。
群衆が一様にわめいている。「念仏の敵だ。殺せ、殺してしまえ」 弟子たちは群衆に分け入り、必死に日蓮の退路を確保しようとした。日蓮はまわりを煙に囲まれ迷った。その時、伯耆房が師匠の手を引いて裏口へ向かう。後から弟子たちが続いた。念仏者の群衆が燃え盛る炎に歓声をあげた、草庵は炎につつまれ焼けくずれ落ちた。ここに町役人が多勢駆け付けた。「何事だ。鎌倉で火付けは重罪中の重罪だ。引っ捕らえるぞ。神妙にせよ」 草庵を取り囲んでいた群衆は慌てて逃げる。しかし薙刀を持った黒衣の僧は血眼になって追いかける。暗闇にたいまつの火が走った。これに四条金吾は暴徒と化した悪僧と応戦して大聖人一向の退路の時間をかせぐ、遠い回りであるが名越には切通の幕府が守る要塞がある、追手の目が気になる。やはり名越山の尾根伝いに逃げる。南側は危険な断崖を下らなければならない。それは避けて狭い山道を逗子へ、途中にある山裾の小さな洞窟にひそんだ。大方の予想で、四条金吾が捜しつけて来ると、後を追うように富木常忍と熊王丸もさがし回って洞窟の入口で再会。 四条金吾と富木常忍が手を取り、大聖人のご無事を喜び合うのは申すまでもありません。「鎌倉に居てはご聖人さまの身が危険です。ひとまず下総のわたしの屋敷へ避難しましょう」常忍が四条金吾に提案する。日蓮大聖人はおもわず手をあわせた。「金吾殿。ご聖人はわれわれと共に鎌倉をはなれて、いっとき下総へ避難する」 「名案だ。鎌倉はわしにまかせよ。富木殿、大聖人さまを頼んだぞ、さ、一刻も早く」 一行が金吾をのこし、闇にまぎれて出発した。日蓮大聖人はふりかえり、ふりかえり金吾を見た。

 

【十四】
伊豆流罪(弘長元年5月12日~弘長3年2月22日)


  

 大聖人に対し。これら三類の強敵の代表的人物である東条景信・極楽寺良観・平左衛門・北条執権と下は民・百姓から上は鎌倉幕府まで憎しみの眼(まなこ)をさしむけ、文応元年八月、松葉ヶ谷の草庵を奇襲し、弘長元年五月十二日、伊東伊豆の流罪。文永元年十一月、小松原の法難と法難から法難の連続でした。
 大聖人は、小舟で相模灘を護送され、伊豆の川奈の津の波の荒れ狂う俎岩に置き去りにされた。この時の様子を「日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候しに・いまだ名をもききをよびまいらせず候ところに・船よりあがりくるしみ候いき」云云とあるように、時化た海の大岩の上に立ち、危険にさらされたところを、小舟を操り助けに来たのが、川奈の漁師の船守弥三郎でした。弥三郎は、すでに幕府から触れの回っていた大聖人を、我が身の危険を顧みず、妻と共に30日間もかくまい外護し続けたのです。
「かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもすぎたり、みるものは目をひき・きく人はあだむ」というように住民が憎悪するなかを弥三郎夫妻は、大聖人を護り、遂には自ら法華経を信ずるようになった。「過去に法華経の行者に・わたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあわれみ給うか」それに夫の弥三郎だけならともかく、弥三郎の妻も献身的な世話をしてくれたことについて「女房の身として食をあたへ洗足てうづ其の外さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」と述べられ、不思議としか言いようがないと絶賛されています。この時、地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、日蓮大聖人に病気平癒の祈願を依頼してきたことに大聖人はその依頼に応ずべきかどうかを思案されたのでした。それと云うのは、地頭の伊東八郎左衛門尉は念仏の信者であって、法華経の信者ではなかったからで、正しい仏法の祈願は、あくまでも願主の信心が大切になる。願主に正法への信がないのに師が祈っても、それは無益なのである。そこで、「一分信仰の心を日蓮に出し給へば」とあるとおり、地頭が、日蓮大聖人の法華経への信心を起こしてはじめていることに、病気平癒の祈願を決意されたのです。大聖人の祈願により病苦から救われた地頭は大聖人に深く帰依したのはもとより、お礼のしるしに漁師が海中より引き揚げた鱗のついた藻屑の中より出現した仏像を、病気平癒のそのお礼にと差し上げた。これは病悩の故であり、さだめし十羅刹女がせめられたからにちがいない。この功徳も夫婦二人の功徳となるであろうと述べられる。

   一、 松葉谷の法難(文応元年8月27日)
   一、 伊豆流罪(弘長元年5月12日~弘長3年2月22日)
   一、 小松原の法難(文永元年11月11日)
   一、 竜口の法難(文永8年9月12日)及び佐渡流罪(同年~文永11年3月)

 


【十五】  小松原の法難


 弘長3年2月、北条時頼の赦免状により、伊豆より再び鎌倉の草庵に戻られた大聖人は、翌文永元年の秋、御母・妙蓮が危篤との知らせにより、12年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。
 大聖人が帰り着かれたとき、母の様子は病篤く、まさに臨終な状態でしたが、(可延定業御書)に、「日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」とあるように、大聖人の御祈念によって病は回復し、四年間の寿命を延べられました。
その後も大聖人は、安房の地に留まって妙法弘通に専念されていました。大聖人の帰郷を聞いた篤信の信徒である天津の領主・工藤吉隆が大聖人の来臨を請い願ったため、大聖人は11月11日に、十数人の供を連れてその館に向かわれました。それを知った地頭の東条景信は、以前より大聖人を念仏の敵として狙っていたので、大聖人一行が夕刻、小松原(鴨川市)にさしかかったとき、武器を持った数百人の念仏者をひきいて襲いかかりました。この時の様子について大聖人が、「十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり。ものゝ要にあふものわずかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うちたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候云々」(南条兵衛七郎殿御書)と述べられている。弟子一人が殺され、二人が重傷を負うなか、御自身も景信の太刀によって、右の額に深手を負う、左手を骨折されるという、命に及ぶ大難を蒙られたのです。この法難で、弟子鏡忍坊と助けに駆けつけた檀越の工藤吉隆公が殉教した。言い伝えによると、日蓮大聖人がご法難に遭われたその時、そばに立っていた槇の木から鬼子母神が現われ、驚いた東条景信が落馬したという。
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それより八年後の文永八年九月二十一日。平左衛門頼綱は、自ら陣頭に立ち、鎌倉・松葉ヶ谷の草庵を襲う。「平左衛門尉が一の郎従少輔坊と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもてを三度さいなみてさんざんとうちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらしてあるいは足にふみあるいはいたじきたたみ等家の二三間にちらさぬ所もなし。法華経の観持品に八十万億那佗の菩薩の異口同音の二十行の偈(漢訳で20行にわたる偈のこと。菩薩たちが釈尊滅後に三類の強敵の大難に耐えて法華経を弘通することを誓った文)は日蓮一人よめり。誰が出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかずず不軽菩薩は杖木・瓦石と見たれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻でもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたれるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり、されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には、法華経の故とはをもへども・いま凡夫なればうたてかける間・つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします。いま・ざりしせをもひ・いでたる事あり、子を思ふ故にや・をやつきの木の弓をもつて学文せざりし子にをしたり、然る間・此の子うたてかりしは父・にくかりしは・つきの木の弓、されども終には修学増進して自身得脱をきわめ・又人を利益する身となり、立ち還って見れば・つきの木をもつて我をうちし故なり、此の子そとばに此の木をつくり父の供養のためにたててむけりと見へたり、日蓮も又かくの如きあるべきか、日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや、かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。 又涌出品は日蓮がためには・すこしよしみある品なり、其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり、しかるに先日蓮一人出来す六万恒沙の菩薩より・さだめて忠賞をかほるべしと思へば・たのもしき事なり、とにかく法華経に身をまかせ信ぜさ給へ、殿一人にかぎるべからず・信心をすすめいるこそへんじて見へしか、

 

 
【十六】   文永八年・竜の口の法難の絵  

   

 文永元年11月11日の小松原の法難より四年目の文永五年、我が国始まって以来の大問題が起きた。嘗て立正安国論で幕府に警告した他国浸逼の難が現実となって大蒙古国より日本を襲うべき牒状がやってきた。日本国中、津々蒲々、大混乱に陥り。大聖人は予言通りの国難について十一通の御抄を認め、時の名だたる邪宗の僧たちに「今こそ邪義を捨てて正法に帰伏(きふく)し国家の安泰を祈る時ではないか」と警告を発した。が、まったく聞き入れようとはしないばかりか、文永八年の大旱魃(かんばつ)が起こった際に、雨乞ひの祈雨(きう)をかけての公場対決(こうじょうたいけつ)の折、敗北を期した極楽寺良観、彼は当時、真言律宗教団の中心者で、の労働力を組織化することで道路や橋の建設、港湾維持管理などの事業をおこなっていた実力者の良観は、他に建長寺道隆らと手を組み、前の執権北条時頼、北条重時の未亡人らに働きかけ、日蓮に処罰を下した。これに鎌倉幕府北条執権で地獄の執事といわれた平左衛門が決断を下し、遂に竜の口に於いて斬首の法難を決行した。文永八年九月十二日、平左衛門尉頼綱は日蓮大聖人を裸馬に乗せて鎌倉中を引き回し、佐渡国守護である北条宣時の舘に「預かり」とした。頼綱は内々で日蓮大聖人を斬首する腹積もりで、夜半、竜の口の刑場に連行されているとき、鶴岡八幡宮の表参道、若宮大路で警護の役人を呼び止め下馬すると、鎌倉武士がもっとも崇める鶴岡八幡宮に向かって、「種々御振舞御書」は次のように述べられています。
「今日蓮は日本第一の法華経の行者なり 其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり、又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか、其の上釈迦仏法華経を説き給いしかば多宝仏十方の諸仏菩薩あつまりて、日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺 漢土日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各各法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状いらせよとせめられしかば 一一(いちいち)に御誓状を立てられしぞかし、さるにては日蓮が申すまでもなしいそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきにいかに此の処にはをちあわせ給はぬぞとたかだかと申す、さて最後には日蓮今夜頚切られて霊山浄土へまいりてあらん時はまづ 天照太神正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしとおぼさばいそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。

 

【十七】  【由比ガ浜から竜の口へ】


   
 ゆいのはまにうちいでて御りやうのまへにいたりて又云く、しばしとのばらこれにつぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子をつかわしたりしかば  いそぎいでぬ、今夜頚切られへまかるなり、この数年が間願いつる事これなり、此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれねずみとなりし時はねこにくらわれき、或は めこのかたきに身を失いし事大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度 頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん、 其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと 申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて・こしごへたつの口にゆきぬ、
 ここの御文で、怖いのは、六道を輪廻して滅し、来世に生まれるときは決して人間に生まれるとは限っていないようである。娑婆世界において、雉(キジ)となって産まれてきた時には鷹(タカ)に捕まって餌にされ、そして、鼠(ネズミ)になって産まれてきた時は、猫(ネコ)に喰われ、或いは、人として生まれてきた時には、妻や子や、そして、敵のために。命を失った事は大地微塵(みじん)の数より多く、法華経の御為には、一度たりとも失ったことはない。そのために、日蓮は、貧道の身となって、生れてとしまいました。故に、思うような父母の孝養も出来ません。また、国の恩を報ずる力もりません。今度、竜の口で頸を法華経に奉って、その功徳を、父母へ回向することに致しましょう。その功徳の余りは、弟子・檀那等に分けることにします。常日頃から申しいきたことが、まさしく実現するのであります。
「日蓮といゐし者は去年九月十二日の子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄(こんぱく)佐渡の国にいたりて」
竜口においては、日蓮と命をともにしようと四条金吾頼基が御傍についている。
「返す返す今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿(との)はとも(供)して馬の口に付きて、なきかなしみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。設(たと)ひ殿の罪ふかくて地獄に入り給はば、日蓮をいかに仏になれやと釈迦仏こしら(誘)へさせ給ふにも、用ひまいらせ候べからず、同じく地獄なるべし、日蓮と殿と供に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」たとい地獄の底なりとも、二人は離れることはないだろう。二人ともに地獄ならば、釈迦仏もまた地獄におわしまそう。と、四条金吾に手紙を送っている。


【十八】 

  
 刑場に着き、馬から降りられ、砂上に立たれた大聖人の御傍近くで、四条金吾は溢れ出る涙に濡れた頬で大聖人を見上げ、思わず、「御聖人さま!」 声を振り絞り、もはやこれまでかと嗚咽した。
いままさに頸を刎ねんとした瞬間、「江の島のかたより月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへ・ひかりわたる。十二日の夜のあけ(眛)ぐれ(爽)人の面(おもて)も・みえざりしが物のひかり月夜のやうに人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥(ふ)し兵共(つわども)おぢ怖れ・興醒(けふさ)めて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて蹲踞(えずく)まれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人(めしうど)には遠(とお)のくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さて夜あけば・いかに頸切(くびきる)べくはいそぎ切るべし夜明けなば見苦(みぐ)るしかりなんと・すすめしかども・とかくの返事もなし。(種種御振舞御書)
 赫々と夥しく赤い篝火が燃える刑場で陣頭指揮する平左衛門が見守る中で太刀取りの斬首の刑を執行する越智の三郎左衛門が、既に日蓮大聖人の頸を開き打ちに頭上に大刀の振りかざしたその時である。薄闇につつまれた江ノ島のかなたから一瞬目もくらむばかりの強烈光が現われ、「あツ」とその光に目を射られ、太刀忽ちに折れ、親(まのあ)たりに没落して手足動かず、倒れ伏す者、気を失う者、驚く馬のいななきの声、諸天善神の光の玉が飛んで来た、時ぞ、まさしく丑寅の時。丑の終り寅の始めは即ち陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり。是の故に世尊は明星が出づる時、豁然(かつねん)として大悟し、日蓮大聖人は子丑に凡夫の頸を刎ねられ、魂魄佐渡に到る云云。久遠の御本仏という深い御内証を顕わした。
 諸天善神の加護で難を逃れた大聖人を今度は、この年の十月二十八日、佐渡の国に流罪にした。 
越後の国寺泊から舟に乗せられ、流罪地の佐渡へと向かう途中、日蓮大聖人を持ち受けていたのは、暴風が起こり、荒れ狂う日本海で、小舟が今に沈もうとした時、経文を誦したところ、波頭(なみがしら)に「南無妙法蓮華経」と題目が現われて、波も静まり無事佐渡の松ヶ崎に到着することが出来た。 この波題目の出現はあまりにも不思議な事として昭和の御代まで語り継がれ、浪曲「佐渡情話」の寿々木米若の語りにも、―――佐渡が島根に流されし 高僧・日蓮大上人 聞こし召されてそぞろにも 哀れと感じ給いけん 大上人は渦髙く 空に向かって法華経を 念じ給えばアラ不思議 海上遥かに 七字の題目現るる 狂い狂いと狂乱の お光の心静まりて 正気の人と甦る 語り続けて佐渡情話―――と名調子で語り終わるシーンで日蓮大聖人の題目の偉大さを伝えています。 
  

【十九】

「かまくらにも御堪気の時、千が九百九十人は堕ち候」とあるように、相当数の者が退転した。そして日蓮を批判し、一般信者をそそのかして転向させる幹部が続出。当時鎌倉での弟子二百六十余人いたが、日蓮聖人が逮捕されたあと、鎌倉では放火・殺人がおきたのは弟子・信徒たちによる仕業だとの噂が広がり、そのために鎌倉から追放して島流しにされるであろう、また入牢中の弟子の首をはねられるだろうとまことしやかに噂が流布した。弟子の能登房・少輔房らが・欲深く臆病・愚痴で知者顔をしながらもろくも宗旨替えね、其の上に多の人々もそそのかせて転向を誘い脱落させた。
 佐渡から門下一同にあてた「佐渡御書」(五十一歳)では、「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑をおこして法華経をすつるのみならず、かえりて日蓮を教訓して、我賢しと思わん僻人(びゃくにん)等」と評し、「螢火(ほたる)が日月をわらひ、蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下(くだ)し、井江(せいこう)が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし、わらふなるべし」
権力に怖れ人の心の変わりやすいことを嘆き、また妻子のある信者には、日蓮信奉が助けにならず、その上、わずかな領地さえ取り上げられ、事情を知らない妻子や家来たちがどれほど嘆くであろう、そのように思うと心苦しくてたまらない。むしろ自分から遠ざかる方が気が楽だ、退転していった者に対して不憫な思いを抱いた。
「弟子等は或は所領を召され或は牢に入れ或は遠流し或は其の内を出だし田畠を奪ひなんどする事・夜打・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者よりもはげしく行はる、此れ又偏(ひとえ)に真言・念仏者・禅宗等の大僧等の訴なり、されば彼の人人の御失(とが)は大地よりも厚ければ此の大地は大風に大海に船を浮べるが如く動転す、天は八万四千の星・瞋(いかり)をなし昼夜に天変ひまなし(中略)。譬えば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く身の毛さかさまにたち・五体ふるひ・面に炎あがり顔は朱をさしたるが如し眼まろになりて猫の眼の鼠をみるが如し、手わななきて柏(かしわ)の葉を風の吹くに似たりかたはら(傍)の人是を見れば大鬼神に異ならず。  
日本国の国主諸僧比丘比丘尼(びく・びくに)等も又是くの如し、たのむところの弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業と云うを聞き真言は亡国の法と云うを聞き持斎は天魔の所為(そい)と云うを聞いて念珠をくりながら歯をくひちがへ鈴(れい)をふるに頸(くび)をどりたり戒を持ちながら悪心をいだく極楽寺の生仏(いきぼとけ)良観聖人折紙をささけて上(かみ)へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等は帛(はく)をつかひてでんそう(伝奏)をなす、これ偏に法華経を読みてよまず聞いてきかず善導法然が千中無一と弘法慈覚達麿等の皆是戯論(けろん)教外伝のあまきある酒にえは(酔)せ給いて酒狂(さかぐる)ひにおはするなり、法華最第一の経文を見ながら大日経は法華経に勝れたり禅宗は最上の法なり律宗こそ貴けれ念仏こそ我等が分にかなひたれと申すは酒に酔える人にあらずや星を見て月にすぐれたり石を見て金にまさり東を見て西と云い天を地と申す物ぐるひを本として月と金(こがね)は星と石とには勝れたり東は東天は天なんど有りのままに申す者をば怨(あだ)ませ給はば勢(せい)の多きに付くべきか只物(もの)ぐるひの多く集まれるなり、されば此等を本とせし云うにかひなき男女の皆地獄に堕ちん事こそあはれにて候へ涅槃(ねはん)経には仏説き給はく末法に入って法華経を謗(ほう)じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く信じて仏になる者は爪の上の土よりも少なしと説かれたり此れを以つて計らせ給うべし日本国の諸人は爪の上の土日蓮一人は十方の微塵にて候べきか、然るに何なる宿習にてをはすれば御衣をば送らせ給うぞ爪の上の土の数に入らんとをぼすか又涅槃教に云く「大地の上に針を立てて大風の吹かん時大梵天(ぼんてん)より糸を下さんに糸の端(はし)すぐに下りて針の穴に入る事はありとも、末代に法華経の行者にはあひがたし」 (妙法比丘尼御返事)

 

【二十】 文永の役

 大蒙古国・国書 「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る、昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることを務めてきた、まして、大蒙古国皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。例えば私が皇帝になってからも、高麗(朝鮮)が蒙古にして家来の国となり、私と王は父子の関係ようになり、喜ばしいことになった。高麗は私の東の領土である。しかも、日本は昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古国皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか? 日本が我々のことを知らないとすると、困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう、これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか、我々は全て国を一つの家と考えている。日本も我々を父と思うことである。このことが分からないと軍を送ることになるが、それを我々は好むところではない。日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事ほしてほしい。不宣至元年八月(1266年・文永三年) 


 


伊豆・伊東の流罪より鎌倉に戻られた翌年の文永五年、戊(つちのえ)辰(1268)閏(うるう)正月、蒙古の国書が到着した。「立正安国論」で他国侵逼(たこくしんぴつ)の難がおきることを予言したのが的中した。 当時、蒙古はアジアからヨーロッパまで勢力を広げ、中国では漢民族を南宋に追いつめ、朝鮮の統一国家の高麗を属国にし、(1259)。さらに日本に触手をのばそうとしていた。国書の内容は、通行関係を結ぼう、もし応じなければ武力行使もやむをえない。そのいずれかを考えて返答せよ、というものです。
幕府では北条時宗が十八歳の若さで執権職につき、以後、数回の使者が強硬な態度で要求をつきつけてきたが、建冶元年(1275)九月に使者がやってきたときは、その首をはねている。
 文永十一年(1274年)二月十四日に佐渡流罪を赦免され、三月二十六日に鎌倉に帰還した。四月八日には、かつて日蓮大聖人を捕らえた平左衛門尉頼綱に呼ばれ、蒙古襲来について質問を受けた。それに対して、今年をすぎることはないだろうと答えた。
蒙古襲来について、侵略を受けた壱岐・対馬の惨状についての詳述には、「男をば或(あるい)は殺し、或いは生取(いけどり)にし、女をば或は取集めて手をとおして船に結付(ゆいつ)け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし」島民は全滅した。20日の夜に日本軍が夜襲を仕掛け、その後、劣勢に立たたされた元・高麗軍は撤退。しかし、撤退の帰路にて暴風雨の被害を受けた。

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【二十一】

三度目の諌暁も幕府が用いなかったため。日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し、文永十二年(1274年)五月に甲斐国(山梨県)波木井郷の身延山に入られた。身延の地は、日興上人の教化によって大聖人の門下となった波木井六郎実長が地頭として治めていました。この容子を次のように述べられている。
日蓮は、南無妙法蓮華経と唱うる故に二十余年所を追はれ二度まで御勘気を蒙り最後には此の山にこもる。此の山の体たらくは西は七面の山 東は天子のたけ 北は身延の山 南は鷹取の山 四つの山高きこと天に付きさがしきこと飛鳥もとぴがたし、中に四つの 河あり 所謂 富士河・早河・大白河・大大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の 候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず冬は雪深く夏は草茂り問うことなし 命を期として法華経計りをたのみ奉り候に御音信あがたく候、しらず釈迦仏の御使か  過去の父母の御使かと申すばかりなく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

 建治三年(1277)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的に回復しても病状は次第に進行していきました。弘安四年(1281年)には大聖人自身、自己の死が迫っていることに自覚するまでになった。同年12月には門下への書簡の執筆も困難になっている。
 弘安五年の秋にはさらに進み、寒冷の身延の地で年を超えることは不可能と見られ、冬を迎える前に温泉での療養を行なうことして、門下や弟子たちの勧めで常陸国(茨城県北部と福島県南東部)へ湯治にと、それまで九年間住まわれた身延山を九月八日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を発たれ、富士山の北麓を回り、箱根を経て十八日に武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上兄弟の舘に到着。しかし、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となる。日蓮大聖人は到着の翌日、日興に口述筆記させ、波木井実長宛ての書簡を記した。その中で実長に対して謝意を表するとともに自身の墓を身延に設けるよう要請。また、大聖人が池上邸に滞在していることを知った、鎌倉の四条金吾、大学三郎、富士の南条時光、下総の冨木常忍、太田乗名どの主要な門下が参集した。九月二十五日には、病を押して、門下に対し「立正安国論」を講義された。これが最後の説法となり、十月八日には御自身の入滅が近いことを悟られ、寒さが近づいた十月のある日、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の本弟子たちの六老僧を定め、仏像やお経本などの遺品分けをされました。肌身離さず持っていたお母さんの髪の毛は、お世話になった日朗上人に託され、ご自身が所持してきた釈迦仏の立像(伊東流罪の時、船守弥三郎の地頭より贈られた仏像)は墓所の横に置くことと。本弟子六人が墓所の香華当番にあたるべきこと、また自らが果たせなかった京都への布教を日像(経一麿)に託し、なすことを成し終え、床の間に本尊を掲げ、弟子信者とともにお題目を唱えながら、十月十三日辰の刻(午前八時)六十三歳の生涯を終えられました。池上の山に季節外の桜の花が咲き、日昭上人の打つ臨終を知らせる鐘の音が悲しく響いていました。

 


            昭和44年  木葉 照秋 作・画
          
 令和元年5月見直し  

龍女の画・文。 松葉谷法難の画・文。 小松原法難の画・文。 蒙古襲来の画・文(参考)。 日蓮大聖人入滅の画・文(参考)。 インターネット・ブログより拝借させていただきました。


 令和二年四月 「新型コロナウイルス・緊急事態宣言中」 公開

               
                     正法・終了

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