「暴走」の「エンドレスエイト」のハルヒの予定表の「その他」に「カラオケ」は入るでしょうね。とりあえず、山本寛がらきすたEDでカラオケネタやってたので。
商業だと権利関係が難しいので同人向きなネタかもしれませんね。
「同人ですから」と甘えていられない状況になってゆくのでしょうが。フィギュア同様に、きちんと許可を取って同人を作る時代になるかも。
これは使用料を払えない作家を金で差別することになりますが、表現の自由の侵害だと主張するのは、その作家が生活保護を受けてる場合とかになるのでしょうか。
私の脳内設定では周防さんが歌姫なので、カラオケネタは振ってみたかったところです。どうせなら、「陰謀」以前にこういう機会は無かったかと探すと、エンドレスエイトがやり易いかと思いました。「夏だから海」「水着」とやっても良いですが、まあ、佐々木プールネタとか長門水着で入浴ネタはもう振ってるので。
からくり屋さんが「感動を惹起する装置」としての「作品」という考え方を提唱しております。
これは米澤さんが、フィクションなのに感動するところが漫画やアニメのすばらしい所だとして、いたずらにリアルを追求することを批判しているのと対応します。
「クレヨンしんちゃん」の劇場版は、あんな絵柄でも十分泣ける、そういうリアル絵に頼らない「リアリズム」が有るのだというのが米澤さんの主張です。
セーラームーンは、あんな目の大きいキャラでシリアスをやるのがおかしい、リアリズムは目の小さいリアルキャラでやらなければいけない、という押井守のデフォルメ批判と対照的ですね。
大塚英志が、手塚治虫が偉いのは、デフォルメキャラに「血が出る肉体」を与えたことだ、と論じておりますが、これも「外見上のリアル」より「キャラの置かれた世界の設定」がリアルを感じさせるということだと思います。
これは最近までメディアワークスで編集をなさっていた荻野謙太郎さんが「手塚は映画の技法を漫画に取り入れたのが偉い」と論じているのと対照的です。
優劣は無く、二つの立場が漫画には可能であって、各自の能力に応じて二つのリアルを使い分けたり拒絶していけば良いという事でしょう。
これ、じつは、谷川さんのタネ本だと思っている柄谷行人の論で引用されている夏目漱石の文学論なんですけどね。
漱石は、自然主義=写実主義とロマン主義を対立的に捉える批評を否定して、これは二つの技法であって、使い分けたり混ぜたりすればよいと考えていたようです。もう100年前に論じられていたコトを、また論じ直すだけでは間抜けなので、何か付け足せればよいとも思いますが、実のところ、この問題が放置されては蒸し返されるのも、内容がどうであれ、論文書いて原稿料貰えたり、退屈がしのげたりしちゃうからなのかもしれませんね。それなら永久に結論は出ないでしょう。出ても出なかったことにして遊んだ方が面白いのですから。
米澤さんは、感動の発生源を、生物の根源感覚=「快苦」と考えたようで、60、70年代少女漫画雑誌の指導理念、「怖い、悲しい、愉快」の再評価、要するにホラー・サスペンス・悲劇・ギャグにこれからの漫画の果たす役割を求めています。
まあ、これに「友情努力勝利」と「謎解き要素」辺りを付加したらだいたい残るのはニッチですか。癒しとか薀蓄とか萌えとか?
手塚の「キャラが肉体を持つ」は必然的に「スポ根」と「エロ」を可能にします。まあ、コスプレからイメクラまで可能になるわけですが。
米澤さんの「他者との繋がりを求める現代人」図式でゆくと、勝負=葛藤も友情・恋愛・性も「繋がり」の内ですね。対立と結合の混在した「ツンデレ」が、昔から存在していながら、何故今頃になって「命名」されたのかも、このあたりの混同、ぶっちゃけの時代精神に原因が有るのかもしれません。
まあ、敵対=恋愛はやおいの文法か、「いやよいやよも好きのうち」というセクハラオヤジの自己正当化か、そのあたりの起源なんでしょうけど。ツンデレの命名の遅れも単なる偶然かもしれませんしね。
この辺りまで語る前にだいたいイベントや飲み会は終わってしまいます。漱石は小説に集中しだしたら文学論は放り投げてしまったそうですし、結局は踊る阿呆の方が面白いのでしょうか?
商業だと権利関係が難しいので同人向きなネタかもしれませんね。
「同人ですから」と甘えていられない状況になってゆくのでしょうが。フィギュア同様に、きちんと許可を取って同人を作る時代になるかも。
これは使用料を払えない作家を金で差別することになりますが、表現の自由の侵害だと主張するのは、その作家が生活保護を受けてる場合とかになるのでしょうか。
私の脳内設定では周防さんが歌姫なので、カラオケネタは振ってみたかったところです。どうせなら、「陰謀」以前にこういう機会は無かったかと探すと、エンドレスエイトがやり易いかと思いました。「夏だから海」「水着」とやっても良いですが、まあ、佐々木プールネタとか長門水着で入浴ネタはもう振ってるので。
からくり屋さんが「感動を惹起する装置」としての「作品」という考え方を提唱しております。
これは米澤さんが、フィクションなのに感動するところが漫画やアニメのすばらしい所だとして、いたずらにリアルを追求することを批判しているのと対応します。
「クレヨンしんちゃん」の劇場版は、あんな絵柄でも十分泣ける、そういうリアル絵に頼らない「リアリズム」が有るのだというのが米澤さんの主張です。
セーラームーンは、あんな目の大きいキャラでシリアスをやるのがおかしい、リアリズムは目の小さいリアルキャラでやらなければいけない、という押井守のデフォルメ批判と対照的ですね。
大塚英志が、手塚治虫が偉いのは、デフォルメキャラに「血が出る肉体」を与えたことだ、と論じておりますが、これも「外見上のリアル」より「キャラの置かれた世界の設定」がリアルを感じさせるということだと思います。
これは最近までメディアワークスで編集をなさっていた荻野謙太郎さんが「手塚は映画の技法を漫画に取り入れたのが偉い」と論じているのと対照的です。
優劣は無く、二つの立場が漫画には可能であって、各自の能力に応じて二つのリアルを使い分けたり拒絶していけば良いという事でしょう。
これ、じつは、谷川さんのタネ本だと思っている柄谷行人の論で引用されている夏目漱石の文学論なんですけどね。
漱石は、自然主義=写実主義とロマン主義を対立的に捉える批評を否定して、これは二つの技法であって、使い分けたり混ぜたりすればよいと考えていたようです。もう100年前に論じられていたコトを、また論じ直すだけでは間抜けなので、何か付け足せればよいとも思いますが、実のところ、この問題が放置されては蒸し返されるのも、内容がどうであれ、論文書いて原稿料貰えたり、退屈がしのげたりしちゃうからなのかもしれませんね。それなら永久に結論は出ないでしょう。出ても出なかったことにして遊んだ方が面白いのですから。
米澤さんは、感動の発生源を、生物の根源感覚=「快苦」と考えたようで、60、70年代少女漫画雑誌の指導理念、「怖い、悲しい、愉快」の再評価、要するにホラー・サスペンス・悲劇・ギャグにこれからの漫画の果たす役割を求めています。
まあ、これに「友情努力勝利」と「謎解き要素」辺りを付加したらだいたい残るのはニッチですか。癒しとか薀蓄とか萌えとか?
手塚の「キャラが肉体を持つ」は必然的に「スポ根」と「エロ」を可能にします。まあ、コスプレからイメクラまで可能になるわけですが。
米澤さんの「他者との繋がりを求める現代人」図式でゆくと、勝負=葛藤も友情・恋愛・性も「繋がり」の内ですね。対立と結合の混在した「ツンデレ」が、昔から存在していながら、何故今頃になって「命名」されたのかも、このあたりの混同、ぶっちゃけの時代精神に原因が有るのかもしれません。
まあ、敵対=恋愛はやおいの文法か、「いやよいやよも好きのうち」というセクハラオヤジの自己正当化か、そのあたりの起源なんでしょうけど。ツンデレの命名の遅れも単なる偶然かもしれませんしね。
この辺りまで語る前にだいたいイベントや飲み会は終わってしまいます。漱石は小説に集中しだしたら文学論は放り投げてしまったそうですし、結局は踊る阿呆の方が面白いのでしょうか?