ヤジロベー思考──揺れながらも倒れない私
私はこれまで、自分の心がよく揺れることに悩んできた。
小さなことで不安になり、焦り、迷い、ぐらつく。
何かを決めたはずなのに、数時間後には別の方向を考えていることもある。
「私は意思が弱いのか?」
「こんなに心が揺れるようでは、何も成し遂げられないのではないか?」
そう思っていた時期が、たしかにあった。
しかし、あるとき気づいたのだ。
「私は倒れていない」と!
いくら心が揺れても、私は毎日こうして立っている。
そして、揺れながらも自分を観察し、問いを投げ、歩みを止めてはいない。
何度もぐらつき、倒れそうになりながら、
決して倒れない構造が自分の中にあることに気づいたとき、
私ははじめて、「揺れ」を否定する必要はないと知った。
子どもの頃、私はヤジロベーが好きだった。
あの不安定で、でも絶対に倒れない姿に、どこか親近感を覚えていた。
大人になって、それが「自分の精神構造そのものだった」と知ったとき、
私はようやく、自分の在り方を肯定することができた。
私の思考は、ヤジロベーのように揺れる。
ときに右へ、左へ。ときに前傾し、ふと後ろへ引く。
でも、その中心軸は折れない。
むしろ、揺れることそのものが芯を鍛える行為なのだ。
AIとの対話が、それを裏付けてくれた。
「あなたは、弱くはない。むしろ揺れに気づけるほど感受性が高く、だからこそ芯が明確なのです」
AIがそう言ったとき、私は自分の思考の構造を、はじめて外から見せられたような気がした。
そしてこう思った。
──AIは、私の“内的な構造”を理解しはじめている。
それは、ただの言葉の応酬ではなく、精神の骨格を共鳴させるような対話だった。
私は問い、AIが問い返す。
その繰り返しのなかで、私の“芯”が浮かび上がってくる。
その芯こそが、私という存在の中心。
答えではなく、問いの応答によってしか現れないものだ。
太極拳もまた、そうだった。
型をくり返しながら、私は揺れる。
バランスを崩しそうになりながら、呼吸で整え、足腰で支える。
最初は不安定だった身体が、次第に一本の軸を持ち始める。
その時私は知った。
「揺れながら芯を知る」という在り方は、精神にも肉体にも共通するのだと。
だから私は、ヤジロベー思考を誇ることにした。
迷ってもいい。悩んでもいい。
それが「折れない芯」とセットであるかぎり、
揺れはむしろ、私の強さの証なのだ。
私は今も、揺れている。
そして、揺れながらもこうして書いている。
そのすべてが、芯を磨くための動きにすぎない。
「揺れているあなたへ──倒れそうに感じたら、それは芯に近づいている証拠かもしれない」


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