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続く学知の植民地主義 旧帝大による琉球人遺骨盗掘問題〈3〉
足立文太郎「琉球與那國島岩洞中ノ頭蓋」(『東京人類学会雑誌』第114号、1895年)という論文がある。足立文太郎は1894年に東京帝国大学医科大学を卒業後、小金井良精教授解剖学教室の助手になった。その後足立は、第三高等学校医学部講師を経て、1904年に京都帝国大学医科大学解剖学の教授に就任した。同論文には次のような記述がある。「(笹森儀助の報告により)與那國島平久保村字河原濱ノ岩洞中ニ人骨ノ数多アルコトヲ知リタリ」。「笹森氏ハ(中略)平久保村ノ頭蓋一個ヲ得テ之ヲ理科大学人類学教室ニ携へ来リ之ガ鑑定ヲ望マレタリ(中略)同教室教授坪井正五郎氏ノ余ヲシテ之ヲ調査セシメタルコト、恩師医科大学教授小金井博士ノ之ニ向ツテ種々便宜ヲ與ヘラレタルコト、及ビ笹森氏ノ研究ニ向ツテ好材料ヲ送ラレタルハ共ニ深謝スル処ナリ」(旧漢字を新漢字にした)
笹森が与那国島から遺骨を持ち出し、東京帝大人類学教室に鑑定を頼んだことがわかる。琉球人を見世物にした学術人類館の企画、運営に深く関わった坪井正五郎が足立に人骨調査をさせた。
しかし「平久保」は与那国島ではなく、石垣島に存在する。笹森は1893年5月から琉球の島々を探検したが、『南嶋探検』の「石垣島再訪」の章には次のような記述がある。「平久保村地内、字河原浜ニ至ル。大和墓、八嶋墓共云フ標木アリ。十歩ニシテ岩窟ノ間ニ人骨アリ。(中略)一洞僅カニ完全髑髏二個アルアリ。伝へ云フ。往昔、平氏壇ノ浦ニ敗レ、後チ逃レテ此ニ上陸ス。コレハ即チ其遺骨ナリト。側ニ髑髏一個ト、刳木箱、丈ケ四尺位、巾方尺余、半ハ土砂ヲ覆ヒ納骨棺ナルヲ疑フ。其一片ヲ拉キ携フ。」(『南嶋探検2』平凡社、以下同じ)
笹森に同行した巡査が、島の住民がこの骨を見て村に帰ると発狂し、死亡したと言い、骨は持ち帰らないように忠告した。しかし笹森は次のように反論した。「平氏忠義士ノ遺骨ニシテ、世上ニ表旌セラレス、空シク恨ヲ此荒野ニ呑ミ千載不祀ノ鬼トナル。余是ヲ携へ帰京ノ上、大学学士ノ判定ヲ請ヒ、弥々平氏ノ遺骨ニ決定セハ、一社ヲ建テテ之ヲ祀ラントノ精神ナリ」。つまり、平家落人の遺骨であるに違いなく、鑑定をさせ、それが判明すれば島に持ち帰り社を建立すると述べた。笹森は石垣島の平久保から遺骨を盗掘したにもかかわらず、足立は与那国島の遺骨と間違えて論文を記載したことになる。
笹森が遺骨を盗掘して村に持って帰ると村の人々が集まり、「土人人骨ヲ見テ神トナス。故ニ之ヲ手ニスルヲ恐ルル甚シ」という反応であった。村人は遺骨を「骨神」として崇敬しており、遺骨持ち出しを了解したのではなかった。
足立は、同遺骨は数百年前のものではなく、「日本人」の頭骨とも相違し、平家落人の遺骨ではないとの結論を下した。笹森が遺骨を石垣島に戻したという記録はない。今も東京大学で保管されている可能性が高いのである。
足立は論文の最後を次の言葉で結んでいる。「他日琉球人並ニ其群島ニ放棄セラレタル頭蓋ニ就テ研究ヲ得ルノ機ニ譲ラント欲スルナリ」。石垣島人骨研究から33年後、足立は自らの弟子、金関丈夫に命じて沖縄島各地から遺骨を盗掘させた。
(敬称略)
(松島泰勝、龍谷大学教授)
研究目的で持ち出された琉球人遺骨を東京大学も保管しているとして「ニライ・カナイぬ会」などが返還を求めている。京都大、台湾大は保管していた遺骨を今年5月までに沖縄側に移管した。背景に琉球遺骨返還請求訴訟で「遺骨はふるさとに返すべきだ」と付言した2023年の大阪高裁判決がある。遺骨返還を巡る国内外の状況について、松島泰勝龍谷大教授に寄稿してもらった。
1963年石垣島生まれ。龍谷大学経済学部教授、ニライ・カナイぬ会共同代表。博士(経済学)。専門は島嶼独立論、琉球先住民族論。著書は『学知の帝国主義』『琉球 奪われた骨』『琉球独立への道』『琉球独立宣言』など。
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