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Jul 2, 2014 / 3 notes

鈴木邦男/すずき くにお

「一水会」名誉顧問。のりこえねっと共同代表。


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1943年、福島県生まれ。早稲田大学を中退し、仙台の実家に帰り、産経新聞社に入社。1972年、新右翼団体「一水会」を創設、翌年、防衛庁に突入して逮捕されて懲戒免職に。

以降は右翼活動のかたわら執筆活動を始め、1975年、初の著書として『腹腹時計と狼』を三一新書から上梓。1981年には、アナーキストである竹中労と民族派の野村秋介、鈴木邦男が対論をした『右翼との対話』が出版される。竹中労との出会いが大きな転機となったことをのちに鈴木邦男は語っている。たしかに左右を分別せず話し合う姿勢は竹中労がこの対論で提示したものだった。また、自分の意見を表明することができるのであれば「書く場を選ばず」の竹中労の姿勢は鈴木邦男の姿勢に通じるところがある。竹中労から学んだ論じ合うことの意義、表現することの意義がその後の鈴木邦男の行動を決定しているように見える。

「行動する保守」とはっきりとした対決姿勢を見せたのも、映画「ザ・コーヴ」の上映をめぐってのことだった。2010年、行動する保守は「ザ・コーヴ」の上映反対運動を展開、なかでも西村修平の「主権回復を目指す会」は配給会社社長の自宅前で街宣するなどの嫌がらせを続けた。6月12日、「主権回復を目指す会」は横浜ニューテアトル前で街宣。そこに鈴木邦男は単身乗り込んだ。


「一対一で話そう」とする鈴木邦男に対して、「邪魔するな」「引っ込んでろ」「愛国を騙る朝日新聞の片棒担ぎ、出来損ないの右翼は日本から出ていけ」「朝鮮半島に帰れ」と西村修平は叫ぶ。そのやり方、その罵倒は桜井誠そのものであり、疑いのないレイシストのそれである。桜井誠のスタイルは西村修平を真似たものという見方はおそらく正しい。

7月3日、渋谷イメージフォーラムでの街宣においても、鈴木邦男は話し合いを求めたが、街宣参加者によってハンドマイクで殴打されて負傷している。

8月3日、新宿ロフトプラスワンで行われた「行動する保守運動vs右翼」では登壇した桜井誠に対して、鈴木邦男は会場から議論を求めた。いい気分でやってきたろう桜井誠は他の客から多数の罵倒を浴びて、これ以降、公開での議論から逃げるようになったと言われている。

翌2011年には反原発運動の場にもしばしば顔を出し、11月21日、「右から考える脱原発デモ」で西村修平と顔を合わせ、「和解」をしているが、あくまでこれは脱原発の一点において共闘し得ることの確認であろう。これ以降も一貫して鈴木邦男は在特会を筆頭とした差別団体を「右翼ではない」と強く批判している。

2013年、在特会やその周辺団体が社会問題化すると、ヘイトデモの現場にも顔を出し、悲しげな表情でデモを見る姿が目撃されている。

2013年3月14日、参議院議員会館で行われた「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」にパネラーとして参加。

以下はその時の発言から抜粋したもの。 

自分が日本人だ、オレは愛国者であると言う人は日本的な精神がありません。また、愛がありません。日本人だ、オレは愛国者であると言う人はたいがい人を批判する道具として使っている。オレには愛国心があるけども、他のヤツらにはない。こいつらは売国奴だ、こいつらは非国民だと言います。自分たちと考えが違う人間は全部北朝鮮だと。

僕もそうですけど、たまたま日本に生まれただけです。それをもって特権のように言っている人間は心が貧しいと思います。

僕が尊敬する国会議員で、新井将敬さんという人がいました。在日の人で帰化しました。その人に言われたことがあるんですね。「鈴木さんは日本人になろうとしたことがあるんですかか」「え、生まれた時から日本人じゃないか」と思ったんですけど、「ないでしょ。みんな生まれただけで安心しているでしょ。でも、僕らは必死になって日本人になろうとしたんですよ。歴史を必死に勉強したんですよ。天皇、あるいは三島由紀夫も勉強した」と言っていた。そういう意味では僕はたまたま日本に生まれただけで、新井さんの方がずっと日本人です。

国籍とかなんとか関係ない。それが日本の素晴らしさだと思うんですね。それが否定されて、たまたま生まれただけなのに、「おまえら出ていけ!」と。そういうことを言うのはもっとも「反日」的です。

日本人だ愛国者だのという言葉は嫌いですね。もう死語にして欲しい。

なぜ鈴木邦男が在特会ら、ヘイト団体をこうも批判し続けているのか、これらの言葉が雄弁に語っていよう。(松)

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