久米島住民虐殺に一兵士としてかかわった人物の手記が沖縄タイムスで報じられ、注目を集めていた。
久米島住民虐殺「残忍極まる行為」 元兵士が手記 隊長と青年のやりとり目撃、その夜に惨劇 | 沖縄タイムス+プラス
住民虐殺を命令した人物については、沖縄返還にあわせて発掘された1972年当時の様子が下記ブログエントリにくわしく引用比較されている。
鹿山正『私の信念はお国の為であった』( サンデー毎日 1972年4月23日)を再読する - Battle of Okinawa
久米島住民虐殺 ~ 鹿山正「私は悪くない」 (1972年琉球新報インタビュー記事) を再読する - Battle of Okinawa
鹿山兵曹長は本土のメディアではいったん謝罪しながら、直後の沖縄のメディアでは開き直っていた。
世論の反応も、本土からは沖縄だけが戦争の犠牲になったわけではないという意見がよせられ、沖縄からは追及が甘いという意見がよせられたという。
そして間接的に引用を読むだけでなく、実際に当時のメディアもいくつか簡単に見てみようと国会図書館デジタルコレクションで「鹿山正兵曹長」を検索したところ、『カラー・続・沖縄の歴史 明治・大正・昭和の百年』*1で列挙されている住民虐殺が引っかかった*2。
カラー沖縄の歴史 続 - 国立国会図書館デジタルコレクション
戦闘らしい戦闘のなかった北部では、やけくそになった日本兵が、住民にまじってひそんでいました。伊豆見の日本軍陣地に、御真影を首から白い布でたらして包んだ、本部国民学校の照屋忠英校長が迷い込みました。歩哨に追い返されて立ち去ったとたん、急に迫撃砲が射ち込まれたため、「スパイだ」と、校長は背後から友軍に射殺されました。
1972年に出版された上記の記述を読んで、すぐに1971年に公開された映画の一幕を思い出した。
『激動の昭和史 沖縄決戦』 - 法華狼の日記
逃亡してきた県民がスパイあつかいされて殺され、持ち物を検査すると御真影が出てきた場面などは印象的だが、沖縄ならではという葛藤は良くも悪くも出てこない。
そうと知って検索すると、この事件が映画のモデルと指摘するページやツイートは見つかるが、有名作品のわりには多くない。
映画でも照屋校長という人物名なのでモデルにたどりつくのは簡単なはずだが、たとえば「照屋 御真影 沖縄」で最初に引っかかる報道記事を読むと、映画で再現された描写とは印象が異なる。
旧日本軍による住民殺害 いま改めて伝え残す|NHK 沖縄県のニュース
母の死に続いた悲劇が、旧日本軍の部隊による父の殺害でした。砲撃が続く中を移動していたことが不審な行動とみられたのか、スパイだとして腹を刺されたということです。
今回より前に虐殺事件を報道で目にしたことがあっても、おそらく映画の描写とは印象が異なる記述だったので、関連づけることができなかったのだろう。
ちなみにNHKの報道によると、照屋校長の顕彰碑がたてられたのは1977年、上記の映画や写真集が公開された後のことだった。
スパイだとされた汚名をそそぐまで30年以上。1977年、教え子や同僚などが本部町に顕彰碑を建てました。父の照屋さんは「人格高潔で責任感が強かった」と刻まれています。