奇しくも8月15日にOAされた『火垂るの墓』の視聴率が出た。
まぁ低いこと……。
今の日本人は凄惨な描写が苦手なんだなぁ、と思う一方、やはり清太・節子の「身勝手な」行動に納得いかない人々もいたのだろう。
そしてまた奇しくも今(関東で)再放送中の『北の国から』。
これも反響は余り聞かない。誰か観ているのかな?
高畑勲と倉本聰という、エンタメ界の「東大出身の怪物」が生み出したものは、今の世にはなかなか受け入れられないのかも知れない。
特に「全能感」を剥き出しにした、下等で野蛮なオタクどもには。
コンプラだハラスメントだなんだと、とにかく人間は「清く正しく美しく」あるべきだ!とギャアギャア言ってる割にはその本人は醜悪極まりないゲテモノである、という現代の国民性が良く表れていると思う。
自分のできないことを他人には過激なほどに強要する、これが今の「新しい戦前」となった日本の正体なのかも知れない。
これは先日OAされたNHKの『シミュレーション昭和16年夏の敗戦』でも証明されている。日米開戦前夜、日本が独自に行った調査(シミュレーション)では、日本は「確実に負ける」という結論が出ていたのだ。
しかしだ、そこに世論の圧力が加わった。
「戦線後退許すまじ!!」とマスコミは書き立てた。だってその方が部数が売れるから(バカだ)。
日本人は嬉々としてその記事に飛びつき、「対米戦争不可避!」と囃し立てた。
その結果が、これだ。
日本には独裁者などいなかった。煽動家もいなかった。ただ日本人全体の右へ倣えの「空気」が、無駄で愚かな戦争に導いたのだ。
……なんて話は散々したように思う。
最近「日本はこれだけ美しく、強い国なんだ!」と盛んに吹聴するバカがいる。しかもますます増えて、政界にも影響している。
んな訳ないだろ?もっと身の程を知れよ?
『火垂るの墓』と『北の国から』の二作は、描いた時代こそ違えど、そういう当たり前の「冷や水」を、僕たちにぶっかけているような気がしてならない。
「お前さんたち、そこまで完璧無類で偉いのかい?」
『火垂るの墓』では、反抗期の衝動だけで自立した生活を送ろうとした兄妹の「犬死」が描かれている。
『北の国から』では、母の不倫で崩壊した家族が、富良野という大自然の中でたくましく成長していくかと思いきや、息子はフラフラと東京へ戻り性欲本位で女を孕ませ、娘は父を見捨て不倫に走るという、これまたどうしょうもない顛末を描いている。
どちらも、決して褒められたものではない「ダメ人間」を描いている。
ああそうだろう、こんな「最低最悪なモラル感覚の欠如」の人物に、今の大衆はなびくはずがない。
もっと美しく、強く、完璧な「日本人像」を求めているのだろう。
いや、しかし、そこで問うてみよう。
お前ら、そんなに「完璧」か?
前一度書いたが、僕は一回だけ、倉本聰先生の特別授業に行ったことがある。
そこで先生は、こう仰るのだ。
「『人間が立派で偉い!』というのは、果たして面白いのだろうか?むしろ『こんなやましいことがある!』という方が、僕にはずっと興味深いのだけれど」
そこで先生がたとえ話にしたのが、安部(当時)首相。
「安部首相が立派だ!とてつもない英雄だ!と囃し立てる一方で、裏では奥さんに些細な事で怒られている、というシーンを想像した方が、余程面白くて人間味を感じるんじゃないかい?」
僕はそこで、あの「独裁者」アドルフ・ヒトラーが「完璧な英雄」として振る舞うためにあれやこれやと努力し、当時「事実婚」だったエヴァ・ブラウンとの仲も、女性人気を気にして極秘にしたという事実を思い出した。
改めて言おう。もっと美しく、強く、完璧な「日本人像」とは?
そんなものを求めている世相自体が、今非常に危険な事態に突入しているのではないか?
むしろ、人間の「やましい」姿を目にして、ああ、僕もこの子たちのことを悪く言えないなぁ、彼らのことを罵る立場にないなぁ、そうやって自分の「やましさ」を思うのが、それに向き合うのが、本来の「正しい」人間の在り方だと思うのだが。違うのだろうか?
ちょっと前のフジテレビのドラマだが、『リーガルハイ』で「自分の醜さを愛せ」という名言があったのを思い出す。
日本人はおそらく、『火垂るの墓』『北の国から』を受け付けない時代に突入しているのだろう。
それは相手の瑕疵を決して認めない!自分こそが完璧超人である!と勘違いした、「全能感」に取りつかれた、言わばこれこそ「新しい戦前」と呼ぶに相応しい、実に無様で観ていられないほど非合理的で夢想的な「日本人」の、今の姿を現しているのだと。
今方々で「ダメ人間」を見つけては集団で徹底して叩き、その人生ごと葬り去ることに必死な大衆の、どこが「完璧」なのだろうか?
実に下等な日本人、身の程を知れ。









