優勝旗を手にファンの声援に応える広島ナイン(1975年10月19日、広島市民球場)
赤ヘルでフルスイングする山本浩二
優勝旗を手にファンの声援に応える広島ナイン(1975年10月19日、広島市民球場)
赤ヘルでフルスイングする山本浩二

▽「恥ずかしかったよ、赤ヘル。でも、赤でよかった」

 「赤(の帽子とヘルメット)は恥ずかしかったよ。キャンプで慣れたと思ったら、オープン戦で相手チームから散々冷やかされてな。何やその格好はとか…」

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 78歳になった「ミスター赤ヘル」山本浩二は1975年春に起きたチームの大改革を懐かしむ。プロ野球セ・リーグで3年連続最下位だった広島東洋カープに球界初の外国人監督、ジョー・ルーツが就任。前年まで球団カラーの紺だった帽子とヘルメットは「燃える赤」に一新された。

 ルーツは選手に全力プレーを徹底し、闘争心を落とし込んだ。意識改革は生活面にも及び、破ったら罰則、罰金も。妥協のないチームづくりは球団初のリーグ優勝へとつながっていった。

 「優勝なんて意識もしてなかった。自覚や誇りを持てと言われ、その気になって…。今は心底思うよ。赤でよかった」。初優勝から50年。真っ赤なマツダスタジアムのスタンドを見渡しながら、ミスター赤ヘルはしみじみと語った。

▽ルーツが変えたもの

 改革者として、広島東洋カープの監督に就任した米国人のルーツはユニホームの一新を球団に求めた。見た目から変革も狙ったが、ユニホームは2シーズン前にニット製で伸縮しベルトがないタイプに変更したばかり。お金もかかる。そこで帽子とヘルメットを「燃える赤」に変えることになった。

 チームの体質一新を図るため、ルーツは規律をとても重視した。この年に日本ハムから移籍してきた大下剛史は春季キャンプ初日の出来事がその象徴だという。

 1975212日、練習前に宮崎県日南市役所での歓迎会に向かうバスに乗り込んでいると、「サチ(衣笠祥雄)ともう一人が出発時間に遅れて、ルーツがものすごい怒った」。

 遅れた時間は1分ちょっと。激しいけんまくに車内に緊張が走った。「主力のサチに対してルーツは一切、分け隔てしなかった。力のあるものを叱る、その意味をみんな一瞬で理解した」。衣笠らは翌日朝に罰則のランニングをし、チームの空気は変わった。

 選手に求めた意識改革は細部にわたる。キャンプ前から「トレーニングの役割」などをテーマに外部講師を招いて勉強会を開き、ミーティングは報道陣に公開した。長髪を禁止し、従わなければ「罰金10万円」。キャンプ中は宿舎で飲酒禁止、常にスマイル、時間厳守を打ち出し、違反すれば罰を科した。

 変わるため、変えるために、やれることは何でもやった。入団4年目だった道原裕幸はキャンプ中の土曜日にあった夕食ルールを明かす。「全員がスーツとネクタイを着用し、ナイフとフォークでステーキを食べた。初めてだから、うれしいやら戸惑うやら…」。野球の本場・米国のメジャーリーグのような紳士の意識を求め、食事面からプロの自覚を植え付けようとしたといわれる。

 内面の意識改革に並行し、外見的な変化を植え付けるのが、燃える赤の採用だった。「最初は違和感だけ」「もう恥ずかしくて」「ファンからも赤帽、赤帽って言われたわ」。50年たった今、初優勝メンバーは笑って回想する。

 後年、ルーツは中国新聞記者の問い合わせに手紙で答えている。「日の丸の赤から思い付いた。赤は明るい色で選手を生き生きとさせる」。3年連続最下位チームに潜む覇気のなさを一掃し、生まれ変わるため、赤ヘルは誕生した。

    ◇

 1975年、カープは監督に就任したルーツ、その後を受けた古葉竹識の下、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。球団創設26年目で悲願の初Vを飾った優勝メンバーが当時何を考え、どう挑んだか。それぞれが秘める栄光への記憶を追った。=敬称略(特別編集委員・木村雅俊)

 カープが初優勝を飾った1975年シーズンを4部構成で季節ごとに振り返ります。第1部の今回はルーツの退団までを7回連載します。
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