論文の書き方(メモ)
▽はじめに
突然このような仕事を仰せつかったので、現在は準備不充分。最初は自分の著作体験を基礎として話すつもりだったが(A)、東西文章学の歴史を勉強すべきではないか(B)、と思い始めた。しかし今はまだ無理なので、一年後までにはその方向で勉強しておく。今学期はAを基調とし、少しずつBの成果を加えていくという形とならざるを得ない。
○論文執筆作業はテーマ探しから始まる。最初は、「大体こんなテーマはどうかな」と漠然と思っている領域の文献に片っ端から目を通して見る。その中から、「これは存外いけるのではないか」と感ずるようなテーマが出てきたら、少し決断を先延ばしにして、あれこれ考えてみる。web sitesを逐一見たり、WEBCAT[Cinii Books]でどんな文献があるかを当ってみたり、指導教授に相談したり。文献の入手可能性とか、語学力、それに大勢の人が論じているテーマだと、何か新しい問題提起ができるかどうか、等の問題もある。
○テーマを決定したら、関連文献を精読する。中心資料は、copyででも私物で持つべきである。中心文献を読み終えたら、周辺文献にあれこれ眼を通したり、中心文献を再読・三読したり、様々なことを考えながら過ごす。武士の嗜みとして、「目が覚めたら、布団の中でぐずぐずせずパット起きる」というのがあるそうだが、目が覚めた時に、今自分が抱えている問題を一通り考えてみるのは悪いことではない。頭が冴えている上に、昨夜のこだわりから解放され、good ideasが生れることも多い。
○叙述の図式は、壊しては立て直しの連続である。パソコン時代には、旧稿の実質は簡単に再利用できるから、風呂の中で、散歩の途中、吊革につかまって、あれこれ考え直して、図式を再編成する。図式を壊すことを恐れないこと。
○多少内容に関心をもってくれ、議論に乗ってくれる友人を作り、時々付き合ってもらって、喫茶店などで話してみると、有益である。テーマに全然関心のないgirl friendなどにも、一方的にしゃべりまくると、考えが整理されてくることがある。しゃべっている内に、簡単に説明できると思っていたことが、存外合理的に説明できないことに気づくことも、有益である。彼女が「よくは分からないけど、見所がありそうな男だ」と思ってくれるか、「この自己中心性には耐えられない」と振られるかは、分からない(後者のような配偶者をもつと研究者として一生不幸だから、振られるのはいいことだという考え方もできる)(女性研究者に関してはboy friendとなるが、もちろん同性でも構わない)。
○素朴な疑問を大切にする。ちょっと気になったことは、すぐに書き留めて、考え直してみる。本を読んでよく分からなければ、自分の努力不足と著者の努力不足の両面から考えてみる。著者の努力不足(説得力不足)という面をよく考え、他の著者の作品などと読み比べると、独自の着想が生まれてくることがある(専門家を過小評価してはいけないが、その視野の限定を看破することも重要である。少し別の視野から質問してみて、くどくどと元の議論を繰り返すようなら、「この人はこれだけの人だ」ということになる)。
○頭で考えるだけではなく、書いてみる。文章を書くことは、碁や将棋と似ている。一センテンスを書いて次のセンテンスにかかる前に、その文にどういう反論があり得るかを考える。一手を打った(指した)後で相手の応手を色々考えるのと同様で、仮想の批判者との対話である。書いてみないと論理の運びの詰めが甘くなる。一応出だしから結論までの筋書きを頭の中で考えておいても、書き始めてみると、色々反論が頭に浮かんで、筋書きが崩れてくる。
○文献に関しては、自分の大学の図書館と国会図書館等の公共図書館は、問題なくaccessできるだろう。しかし存外欠本は多いもので、それがneckになることもある。しかしWebcatで探せばどこかの図書館にあり、その図書館に電話で相談すれば、現在はたいていある程度(copyなど)の便宜は提供してくれる。国立公文書館・外交資料館などは親切に応対してくれるが、官庁の所蔵書類となるとcase by caseである。明治時代の雑誌などは、東大の明治文庫でさえも、完全には揃っていないことが多い。麻布の外交史料館など、活字になっていない文書の資料館に行って、珍しい資料を発掘すれば、あまり理論的独創性がなくても、「足代」として評価される。古い新聞・雑誌など、滅多に人が読まない資料が引用されていると、努力が評価され、重要資料の再発見ということで学問的価値が認められることがある(18歳の小林多喜二が小樽高等商業学校時代に『国民新聞』に投稿し、掲載された小説『スキー』は、政治思想史を専攻する岡山大大学院生が偶然発見した(諸新聞(4/22/2010))。
○関係者が生きていればinterviewにも挑戦してみる。定年後で閑な人は喜んで会ってくれる。老人はいつ死ぬか分からないから、思いついた時に会っておくと、貴重な証言が歴史に残る。学生の多くは俗物で、マスコミなどでもてはやされている超有名人とinterviewしたいなどと思うが、あまり勧めない。彼らの時間を学生の「有名人に会ってみたい」などという俗悪な欲望で費やすのは、社会的にも浪費である。本の著者も、多忙な人が多いが、本当に熟読して、その人の思想や学説をよく研究した後なら、interviewを申し込んでもいい。研究者の先輩などのinterviewについて行くのは悪くない。
○外国語文献が必須のものについては、語学力が問題となる。締め切りが一年先くらいだったら、語学力をつけながら研究する。語学力は超重要である。英語が読めない者には、図書館の膨大な英語文献は単なる紙に過ぎず、もったいない。外国に関する研究で、日本語の本だけ読んでいては、日本人の水準を越えることが難しい。ちょっと関心をもったテーマについて、外国語のweb sitesに目を通す習慣をつければ、生涯測り知れないほどの利益がある。このweb siteの「populism」の項目参照。
○第二・第三外国語もできるに越したことはないが、やはり英語は重要である。いやおうなしに、世界は英語を第二言語とする人々の言語共同体となりつつある。これは例えば、ヨーロッパ旅行中韓国人と出会ったりすると痛感する。言語共同体は文化共同体であるから、英語ができないと世界文化のoutsiderになる。第二次大戦後の占領史や占領期の立法史などを日本語だけで済ませるなどと考えるべきではない(憲法・行政法・家族法・労働法・経済法・刑事訴訟法などにとって、占領下の立法史は極めて重要である)。国会図書館に占領に関する米国側の大資料集がある(先日、法科大学院ゼミ生で「名誉棄損に対する広告媒体(新聞・雑誌など)の責任について何か書いてみたい」という学生がいたので、「やっぱりアメリカの判例なども調べないとなあ」と言った)。
○他方できないのにできるふりをし、読んでもいない外国語の文章を読んだふりをするのは、どこかでボロが出る。私も生半可なラテン語力で語尾変化の間違いを指摘されて恥をかいたことがある(私の間違いをそのまま敷き写しにして、もっと恥をかいた人もいる。再校段階でhomo religiosusをhomo religiosisと間違えているのに気付きiをuに変えるよう指示したのに、本が出てみるとhomo religiosiusとなっていた。彼はその間違いを引き継いだのである)。綴りの間違いはみっともない。特にRとLの間違いに気をつけること(日本人には難しい。『ドン・キホーテ』(岩波文庫)p.89で、「汝の敵を愛せ」(diligite inimicos vestros)がdirigiteになっていた[最新版は知らない])。英国のBlair首相が日本に来て、行く先々でerection、erectionと頻発されるので閉口したという話がある)。法学部などでは、学部時代には(教養課程の語学が終ると)まずは日本語文献しか読まないのが普通だから、先輩たちもたいていは、大学院などで語学で苦労しながら論文に取り組んだのである。しかしそれが困難な場合は、テーマを再考した方がいい。翻訳に依拠しては文系の学術論文は書けないと思ってよい。
○私は翻訳者だから言うのだが、翻訳は信用できない。完璧な翻訳はない。異言語間の単語や表現に一対一対応がないから当然である。たいていの翻訳は、何を言っているか分からないところを含んでおり、それはたいてい訳者の責任である。よく分からない箇所は、原文に当って見ると、たいてい誤訳である(私は近年、シュミットとケルゼンの著作集の昔の翻訳の再版の仕事をしているが、自分の訳を含めて、これは事実である)。誤訳とまではいえないが不適当や訳語の選択の不適切で意味不明になっている場合は非常に多い。訳者の理解が不正確で分かりにくい場合と、理解は一応正確なのだが不親切で分かりにくい場合とがある。不親切な翻訳は、訳者以上に原語ができる人には、「なるほどこの原語をこう訳したな」と理解できるが、それ以外の人には理解困難なものである。親切な翻訳は「翻訳プラス解説」で、私はそれが翻訳のあるべき姿だと思うが(読者に分からなければ仕方がないから)、「訳し過ぎて」原文への忠実さが問題とされる場合がある。何れにせよ文化系の文章の翻訳は、「ざっとこんなふうなことが書かれているらしい」という推測の根拠以上には用いない方がいい(仮に翻訳を用いても、引用する場合には、原文に当ってみるべきである)。
○言語の理解力と日本語の表現力を兼ね備えた信頼できる訳者の訳でも、どの単語をどう訳したかはきちんとcheckすべきである。
○古文書を読む能力も、外国語能力に準じて考えられる。日本史の専門家と称しながら、活字になったものだけで物を書いていては、専門家仲間に入れてもらえない。古文書は字の読み方と文章の読み方の両方の学習が必要である。戦前の政治家の書簡は国会図書館憲政資料室に大collectionがある。字体も文体も、時代によって違い、個人によっても違う。山縣有朋の手紙が読めたから、伊藤博文の手紙が読めるとは限らない。
○Wikipediaを参考にすることは悪いことではない。英語のものは全体として立派な研究者の作品が多いが、日本のものには質が高くないものもある(理科系では専門家共通の場になっていて、ちゃんとした研究者が書いていることが多い。文科系でも立派なものももちろん多いが)。丸写しは盗作であって、発覚すれば、呼び出されて叱られることも、零点がつくこともあり、専門の学者の場合は、学界から葬られることを覚悟すべきである。Wikipediaを註で引用することは、現在では承認されているが、非常に感心したことだとは必ずしも思われていない。しかし重要項目については、間違いは淘汰されているだろうから、「権威ある学説」とまではいかなくても、参考になる整理としては有用である。理科系ではそういう方式が一般化している。専門の遠い領域について一応の知識を得るのには便利だが、専門の近い項目は首をかしげることも多い。
○学生のリポートの出来がよ過ぎるので、checkしてみたら誰かのweb sitesの引き写しだと判明することはよくある。教師はたいていweb sitesの利用者だから、発覚の可能性は高い。発覚の契機として多いのは、そっくりのreportが複数出てくることである。そのくらいならそのweb siteを註に出すべきである(私の翻訳ケルゼン「アリストテレスの正義論」へのaccessが卒論提出時期とおぼしき頃に急増する。まさかケルゼンの解釈を自説として提出している訳ではないだろうが、同じような文章が何度も出てきて、採点の先生を辟易させているだろう)。
○調べなければ分からないようなことについては、註をつける(「明治維新が1868年だ」など、分かり切ったことには註を付けない)。「周知の如く」というような言い方は、本当に周知でない場合は、註をつける手間を省いた怠慢と解釈される。internetの他人のweb siteの引き写しであるため、格好悪くて註に書けないという場合もあり、註がないとその疑いを受ける。他人のweb siteも出典を明示して註に引用して差し支えないが、質は確かめる必要がある。
○誤字は基礎学力への疑いを抱かせる。「この人は雑だな」という印象を与えると、少なくとも3割くらい評価が下る。手書きの文章はよく似た形の字の間で起こることが多いが、パソコンの場合同音異語で起こる。これは学力より注意力の問題であることが多く、丁寧に読み直す必要がある(一般に書いた文章は繰り返し読み直すべきである)。読み直しの過程で、繰り返しがないか、冗長でないか、misleadingでないか、筋が通っているか、もっと分かりやすい表現がないか等々に、注意を払う。
○学説史を調べ、自分の意見に反する良質な見解にはきちんと反論する。一方的に自説だけを述べる論文は、よほどの独創性の持ち主以外には勧められない(スピノザ『エチカ』、ヴィットゲンシュタイン『トラクタートゥス』のような演繹的体系を試みる場合は別だが、我々凡人には難しい)。
○無理をして大きな結論を出す必要はない。専門家の意見が対立しているような主題、人類精神史の根本問題であるようなことに「自説」を唱えることは、能力以上のこととして、非好意的に評価されることがある。対立する学説を比較検討し、「甲説にはこういう問題点があり、乙説にはこういう問題点があって、現在の私の私的感想としては、丙のような方向に可能性があるような気がするのだが」という程度でもいい。
○簡にして要を得た題名を考える。教科書のような題名(「証拠法の基礎理論」)は論文にふさわしくない。くどくどと長いものもよくない。エッセー風の題も論文にふさわしくない場合がある。いい題として思い浮かぶのは、末弘嚴太郎「無効の時効」、宮沢俊義「法律学における『学説』」など。末弘「嘘の効用」、宮沢「正義について」などは、大家のエッセーという印象を与え、駆け出しの青年の論文題目としては疑問である。
○ジャーナリストは「ともかく読んでくれなければ始まらない。最初にパッと眼を惹くようなことを書くことが大切だ」と教える。これは重厚さを身上とする学術論文では邪道だという観方もあるが、「起承転結」の「起」の部分、即ち主題の提示で、読者の眼を惹く努力をすることも悪いことではない。しかし論説と違って学術論文は、さりげなく本題に入るのがエレガントだという美学もある。最近送られてきた大学紀要(『東洋法学』115号)掲載の最初の三つの論文の出だしを見ると、「アメリカ合衆国において、裁判所は、合衆国憲法三条により、『事件または争訟』を解決する限りにおいて、その機能を発揮することが認められている」「近年最高裁は、処分性(行訴法三条二項)を拡張的に解釈し、従来適法と認められてこなかった抗告訴訟の提起を適法と認めてきている」「一九九〇年のいわゆるバブル崩壊以降、大企業経営者によるさまざまな不祥事が相次いでいる」と、この美学に適っている。
○総論から各論へ、抽象論から具体的論題へ、という正統派のstyleで一旦書いてみて(第一稿)、その中で自分独自の主張、多少自信のある部分を冒頭に置いて書き直す(最終稿)ことは推奨できる。第一稿で一応理論の骨組はできており、口述試験などで批判を受ければ、きちんとした受け答えができる。このやり方は、「読ませる」という「下賤な動機」からのみならず、読者にこの論文が、誰でも知っていることと異なる独自性として何を訴えようとしているかを理解させるために有益である。自分の本領はある個別的領域に関する着想にあるのに、まず原論抽象論から説き起こして、本来言いたかったところに届かないうちに時間・精力を使い果たしてはつまらない。抽象論の部分がどの本にも書いてあることであったりすると、本来書きたい独創的着想に行きつく前に締切が来たりする。
○教養のひけらかしは、教養のない読者には理解されず、自分より教養の高い読者からはたいてい軽蔑される。自分程度の人間からは感心されることと嫉妬されることがある。一般には勧めないが、センスのいい引用は、「存外この著者は広い関心(いいセンス)をもっているな」と評価されることもある。文頭にmottoとして引用を掲げるのも同様である。Del senno di poi ne son piene le fosse.(「墓地は後智恵で一杯だ」[後になれば誰でも賢い])など、歴史記述の中でちょっと引用したくなるが。
○「起承転結」は中国の詩の作法:「春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少」(孟浩然「春暁」)。文章作法としても優れている。「起」:問題提起、「承」:実証的基礎づけ、「転」は視点の転換、反対論の紹介、「結」:結論。「起」と「承」を合併すれば、These-Antithese-Synthese(an sich-für sich-an und für sich)[正-反-合]という「弁証法」になる。「反」の部分を欠いた論議は「an sich」だと評される(「彼の情熱的な演説も、ちょっとan sichという感じだね」)。澤田昭夫『論文の書き方』は、「起承転結」は論文に応用してもらっては困ると言っているが(講談社学術文庫p.104)、これは「転」を「別のテーマ」と解釈しているからで、「視点の転換」と解すれば少しも「困らない」と思う。
○まずは用いる基本概念を定義してみる。『広辞苑』その他の辞典も参照する。概念の定義を考えることから、考察の糸口が開けることが多い。定義をせずに突然自己主張を始めると、論議が雑になる。私もかつて『政治的殺人』を書いたとき、「テロリズム」や「暗殺」について、内外の色々な辞典類等から集められるだけの定義を集めて、その分類を議論の基礎にした。「テロリズム」については、「味方の行為は正義の執行で、敵のものだけがテロリズムだ」という議論が横行している領域だけに、定義は極めて重要である。権力者による刺客の派遣やヒトラーやスターリンの恐怖政治など権力者の行為をテロリズムの定義に入れるかどうかで、議論は大きく異なる。これは非合法性がテロリズムの要素か、という問題とも関わる。最高権力者が政敵を逮捕・処刑する場合、合法か違法かが区別できるか、という問題もある。「暗殺」については「闇討ち」という東洋的意味と、assassinationという西洋的概念の相違(後者は白昼公然実行されることも多い)の相違が重要である。
○一生の財産としてreference類を可能な限り揃えておく。できなくても、各国語辞典は書棚に並べておく。『世界史辞典』『日本史辞典』『法学辞典』『政治学辞典』『社会学辞典』『経済学辞典』、それに様々な人名索引なども。白川静『字統』などは、何を論ずるにもちょっと見ておくと参考になる。「『□□辞典』でこう言っているように」というように文章を切り出すと、拠点がはっきりする。主題によっては統計資料の整備が必須である(刑法的主題における『犯罪白書』など)。自分で買えない膨大な百科事典については、図書館で内外のものを渉猟し、関連項目をcopyしておく。
○基本概念について、語源を調べることが非常に重要である。森鴎外は西洋語については必ず語源を調べたという。医学用語はギリシャ語源が多いから、医学者として当然であろう。西洋の知識人は、常に語源を念頭に置きながら論じている。私は、radicalという単語を「急進的」と訳すような人は、「こりゃダメだ」と評価する。radixはラテン語で「根」の意味で、radicalとは、根っこから引き抜くような根源性を意味する。そこから「過激」という訳語に連なるが、radicalには「過」という否定的価値判断は含まれていない。「急進」の「進」というニュアンスは語源にはなく、radicalな保守派も反動派もいる(もっとも定訳になっているものは仕方がない。本web siteのMenzel, Naturrecht und Soziologieでも、Socialistes radicauxは「急進社会党」と訳している)。
○関心は広くて差し支えないが、テーマは小さく鋭いものとする。一つの目安としては、必読文献が読み切れる範囲。「戦後日本の防衛政策について」などという修士論文があったが、そんな主題の文献を読み切れるはずがない。「○○内閣の沖縄政策について」くらいでも、佐藤内閣などでは修士論文のテーマとしては大きすぎる感もある。
○自分のことを棚に上げて言えば、「数式が出てきたら読み飛ばす」ような人物は、多くの分野で専門家になれない。
○西洋文章学の中心はrhetoricである。これは演説における説得術の研究に起源があるが(rhetorとは「演説者」の意)、文章による説得にも準用できる。理性的説得と情緒的説得というアリストテレス以来の区別は重要で、学術論文は前者の典型だとされるが、大学教授という肩書をもちながら後者の説得に専念している人もある。法廷弁論における両者の混合比率という問題もある(「天人ともに許さざるところ」という検事の論告)。
○rhetoricの古典的教訓のひとつに、「idealistsとrealistsの両方を説得せよ」というものがある。例えば自社の自動車に欠陥が見つかったとき、会社の首脳会議で、「正義の問題として、過失なきdriverが、車の欠陥で怪我をしたりすることは正義に反する。利益の問題として、いずれ発覚して世論に叩かれ、売れ行きが落ちて、会社の不利益となる。それ故正義と利益の両面から見て、recallに踏み切るべきである」と議論するなど。
○審査員、特に複数の審査員の全部をそのテーマの専門家と考えるのは誤りに近い。読者の予備知識を前提し過ぎてはならない。教科書的知識くらいを前提として、分かりやすく論述するのが正道である。
○人生百般そうだが、謙虚にふるまって損なことはない。「自説にも反論の余地は色々あるだろう。この点についてはもう少し詰める必要がある」というような姿勢をとることが、読者の好意を獲得するのみならず、自己への率直さでもある。自分は真理と正義の独占的所有者で、自分と違う意見の者を徹底的に批判するばかりでなく非難し誹謗するマルクスの論争態度が影響力をもっていた時代には、多くの小マルクスたちが同様の議論をした。現在はそういう議論の仕方をする人は少なくなったが、「右」の側に増えてきた感もある。
○しかし、一見謙虚な態度は、逃げ道を予め設ける狡猾な態度だという批判もある。これについてはKarl Popperの議論が参考になる。彼によれば、未来に開かれた経験的事実に関する全称命題は検証不可能で、すべて仮説である。例えば論理学で全称命題の古典として例示される「すべての人間は死ぬ」という命題とて、死なない人間が出てくる論理的可能性はあるから、仮説である。従って科学者が自説の仮説性を前提するのは当然のことである。ただ「未来に開かれた経験的事実に関する全称命題」でないもの、(a)論理的命題や(b)個別的事実についての単称命題、それに(c)価値判断命題はどうか、という問題がある。
○(a)の論理的命題とは、(例えば)三段論法命題の全体を指すものではない。「All the basketball players are tall.」「John is a basketball player.」「Therefore, John is tall.」という三段論法において、論理的なのは「If all the A is B and a belongs to A, then a is B」という骨格のみであって、内容は真偽未確定な経験的命題である。事実としては背の高くないバスケットボール選手もいるだろうし、Johnはたまたま人数不足で雇われたsoccer選手で、basketball playerという名に値するか否か疑問かもしれない。骨格(形式)の正しさは、内容の正しさを保障しない。
○(b)の単称命題も差し当たっては仮説である。「Aは日本人である」という命題において、本当にそうかどうか、まず「日本人」の定義をし(生物学的定義と法的定義があり得る。文化的定義もあるかも知れない)、Aがその定義に該当するかどうかをDNAや戸籍で調べるまでは、この命題は仮説である。調べた結果定義に該当することが認定された場合でも、残るのは認定者の信頼性の問題で、その意味では仮説性を払拭し去ることはできない。自然科学では実験結果は同一条件での再現可能性があるとき、仮説性がなくなる、あるいは減少すると考える。そうなると一回限りしか起らない事象については、どうしようもない、ということになる。人間界の事象については、反復実験は多くの場合不可能で、「経験則」がこの特定の場合に当てはまるか否かは、あくまで仮説的である。
○(c)の価値判断に関しては、まずそれに客観性があるか否かという古典的問題がある。しかし自然法論者のように、客観性があると主張する人々でも、ありとあらゆる価値判断に客観性があると主張する訳ではないであろう。学生は55歳の普通の健康状態の女性に電車の座席を譲るべきか、58歳ならどうか、ハイチの地震に5000円寄付した人物は、チリ地震、青海省地震にはどうすべきか、などという問題については、広い主観性の領域を認めざるを得ないであろう。そこで少なくともその主観性の領域に関しては、「認識と価値判断は別なのだから、認識を使命とする学術論文に主観的価値判断を持ち込むべきではない」という古典的立場がある。これには「認識と価値判断は区別できない」とか、「学術論文とて価値判断することを禁止されてはいない」とかという反論があり、現に一生アジビラのようなもの以外に書いたことのない大学教授も少なくない(そういう指導教授をもつと、遺伝子が、人事権力によって、子々孫々(大学におけるその講座の承継者)に承継される)。しかし「古典的立場」を固守していて広く尊敬されている「怖い先生」もところどころにいるから、主観的価値判断を声高に叫ぶような論文は、その逆鱗に触れる危険を冒している[ゼミでこの箇所について話したところ「アジビラ」が何か知らない大学院生がいて驚いた。かつてVietnam戦争から遠ざかった1980年代に「タカ派」「ハト派」が分からなかった学生がいた。他方老齢の著者は、若者のvocabularyの変化に敏感であるべきか?二三日前、最近頂戴した遠藤誉氏の『拝金社会主義中国』で、時々見かけたが意味が分からなかった「アラフォー」という新語はaround fortyの意味だと知った]。
○「法解釈学とは法廷弁護士の法律論と同様に価値判断だ」という考えもあり、そういう価値判断を書いて一生を送る法学部教授もいる。しかし法学の中にある客観的な部分をふくらます努力をしないと、予め同じ価値判断をもった人々の外に説得力の範囲が拡がらない。
○格調の低い文章を書かない。ある法哲学者の文章で「なくって」という表現を見たことがあるが、これは「赤ちゃん語」である。そうしないためには語彙や表現を豊富にする必要がある。江戸時代以前の文章はともかくとして、明治以降の文章は自由に読めるようにしておくと、適切な語彙や表現が頭に浮かんでくる。
○適当な語彙を発見するためには、例えば和英辞典→英仏辞典→仏和辞典というように次々に引いていくと、思いがけない用語法が見つかることがある。英和辞典の訳語のstereotypeを越えた視野も開ける。
○歴史的記述については関連事項の年表を作る。それによって物事の脈絡が把握でき、前後撞着のような過ちから解放される(本web site「祖国を敵にして」「『国法学の主要問題の訳者』参照)。
○人名は辞典等で引いてみる。内外のweb sitesを参照すれば、思いがけない発見がある。例えば刑法学者のEdmund Mezgerがナチの旗を振ったとか。
○地名が出たら地図を参照する。そのために世界・日本のいい地図を備えておく。
○法律書を読む時は、言及されている条文に必ず当ってみる。
○『論語』の中の「君子」の用例をすべて調べれば、孔子の理想的人間像がどのようなものか分かる。吉川幸次郎『論語』の巻末索引にあるから簡単である。巻末索引のない書物や、あっても自分の関心には余り役に立たないものもあるから、自分でそれを作る必要がある。ノートに五十音順ないしAlphabet順に項目を書くより、カードの方が融通が効いて合理的であろう。但しカード作りはなかなか手間がかかる。読みながら作っていくと、読書の集中度が落ちるが、読んだ後でまとめて作ると見落としがでてくる。本の中に線を引いたり書き込みをしたりすることを嫌う人もあるが、自分の所有物なら有効な手段である(合法的であれば、図書館等の本のcopyを作って、それに書きこむ)。そうしておいて後でカードを作ることもできる。
○世界は狭くなり、世界中の資料に接近可能性が出てきた。ということは、それをしなければ怠慢だという厳しい評価基準が登場していることを意味する。例えば私の若いころは、自分の属する大学の図書館にあるCarl Schmitt関係の本を読んで何か書けば、「よく勉強した」ということになった。今はinternetで世界のどこにどういう資料があるかを知ることができる。所蔵図書館と交渉してcopyを送って貰ったり、夏休みに現地に行ってcopyしたりすることができ、現にそれをする若い研究者が続々登場している。Du sollst, denn du kannst.(できるのだからすべきだ)という訳で、条件は厳しくなっている。
○1990年代以来の大学院改革によって大学院生は増え、研究者志望者の分母も拡大した。しかし少子化で研究ポストは頭打ちか、分野によってはそれ以下の状況であるから、四十代になっても研究職に就けない人々も増えている。そうなると、論文を書きながらアルバイトもし、また(研究職以外の職に)「就活」もする、という状態の人々も多い。しかし第一次大戦前にMax Weberが研究を志してやってくる学生に、Lasciate ogni speranza(すべての望みを棄てよ)(Dante, La Divina Commediaの「地獄門」に書かれた言葉)とまず言ったように、こういう状況は今始まったことでないことも事実である。例えば私の同僚であった日本大学法学部の長老教授たちにも、ずいぶん長い間浪人的生活をされた方々がおられると聞く。
○しかし「集中」なしにはいい論文を書くことは不可能である。「就活」の故に集中できなかったことは、いい論文を書けなかったことの弁解にはなり得ても、それで論文がよくなる訳ではない。20代のHans Kelsenは、父が破産し、死亡し、研究者にふさわしくないような色々なアルバイトをしながら、驚くべき精神力をもって『国法学の主要問題』という700頁以上の著書(教授資格論文)を完成した(全然彼の専門と関係のないアルバイトの副産物である調査報告書「ルーマニアの工業振興」「電力立法の諸課題」が『Werke 3』に掲載されている)。
○いったん専任の教職についた後、態度が傲慢になり、不勉強になる者の多いことは、呆れるほどである。しかし例えば、大学院に学んだ後予備校教師などをしている人々が、恐ろしく厳しく辛辣な眼でそれを見ている。internetという怖い武器もある。
○古い世代の発想だといわれるかもしれないが、Max Weber『職業としての学問』は今でも感銘深い。現代は専門化の時代であり、専門に集中することのみが論ずるに値する成果を生み出しうること、隣接領域に口を出そうなどという山っ気はたいてい有害無益であること、ある手書き文書の解釈に魂の運命がかかっているように感じない者には学問は向かないこと、どんな仕事でも情熱抜きでまともなものにはならないこと、しかし情熱だけでもダメで、「霊感」(Eingebung=inspiration)が不可欠だが、霊感は情熱をもって集中する者のみに訪れること、しかし訪れるか訪れないかは僥倖(Hazard)に依存し、我々はこの僥倖に服従する運命にあること、それは学問以外の職業においても同様であること、など。自分の書いたものを省みても、「霊感」とまではいかなくても、締め切りまでに「着想」に恵まれないままに書いたものは、見るのも不愉快である。
○しかし「学際性」ということが強調され、私自身「相関社会科学」の発展に手を貸したこともある。「国際性」が国家間の対話であるように、「学際性」は学問間の対話であって、専門性と矛盾する訳ではない。
○「専門」の概念には色々ある。教育上の専門は、広すぎる。中学の社会科の先生は、社会科(歴史・地理・現代社会等)の専門であり、高校の世界史の先生も、東洋史・西洋史・アフリカ史などの、古代史から現代史までの専門ということになる。理科系大学教養課程の法学教授は、法学一般の専門家と看做され、法学部の民法の教授は民法全体の専門家と看做される。この教育上の専門は、講座担当者として制度上の専門となり、民法の教授は総則・物権・債権・親族・相続全体の講義を担当する場合もある。他方研究上の専門とは、ある領域について、内外の(少なくとも日本国内の)最先端の研究成果をフォローした上で、小さな部分でもその水準を一歩以上超えた業績をもつことが目標で、すべての研究者がそのような専門家であるとはいえない。若き日に博士論文でそのような領域を作ったとしても、その後に新研究が出現し、他方記憶も薄れて、現在その領域の専門家とも限らない。Weberが言っているのはこのような専門であって、教育上・制度上の概念ではない。
○「専門内」と「専門外」に明確な線が引けることは滅多にない。
○たいていの「専門」領域は、それ自体が学際的である。例えば歴史学は、政治学・国際関係論・経済学・社会学・思想史・法制史・文化史など、人間界を対象とするあらゆる学科を総合する学際的領域である。「昭和初期」に関する論文には、普通選挙制の導入に伴う大衆化現象、ロンドン条約問題や中国ナショナリズムとの対決という国際関係上の危機、世界恐慌、マルクス主義やファシズムの影響下での思想的危機、治安維持法から国家総動員法に至る立憲制の危機、芥川龍之介の自殺や小林多喜二の獄中死など多様な領域への視野が要求される。
○経済学に「限界効用」という考え方がある。砂漠での一杯目の水は文字通り「いのちの水」で生命に次ぐ重要性をもつが、滾々と水の湧き出るオアシスにおいては効用が下る。「仏の顔も三度」というのはこういう思想である。時間やエネルギーを研究に投入する場合にも似たようなことがあるのではないか。例えば幕末の長州藩の研究をテーマに選んだとして、これにも読み切れないほどの史料や研究書があることは事実で、関係資料や著作を次々に読んで一生を過ごすということもできる。しかしそういうやり方では、投入する時間やエネルギーと、それによって得られる成果の比率が段々低下していくのではあるまいか。それよりも、幕末長州藩をテーマとする者も、土佐藩、あるいは幕府や会津藩、あるいは戦国時代の薩摩藩、あるいは清朝末期の中国史、あるいは19世紀英国の極東政策史、あるいは当時の英露関係史、等々のテーマに移ってしばらく研究してみると、今まで思いつかなかった視野や着想が生れ、限界収益がずっと高くなるのではないか。これは研究者の生涯における長期的な研究主題についての参考意見であるが、院性の修士論文などについても、参考にならないとはいえない。一つの修士論文を書くのに、仮に単行本を15冊、論文を30点くらい読むとして、その選択にも「限界収益の最大化」という考慮は必要である。
○うろ覚えの記憶のままで書かず、必ずcheckすること。昨日の授業に際して、①Thalesが生き物は海から出てきたと言っていたような気がし、②誰か哲学史家が「それは現代科学でもなお有効な仮説だ」と言っていたような気がしていたが、随分調べたが①も②も根拠がなかった。私は時々「おやおやGuthrieがこんなことを言っている」と書かれた箇所を発見する夢を見ることなどがあって、それを現実の出来事と誤解していた可能性もある(講義をする夢をよく見るから、これも現実との混同の陥穽となる)。
○自分の言いたいことを例証する適切な事例を集めておくことは、「読ませる」文章を書く秘訣である。本多勝一氏の『日本語の作文技術』は、「悪文」の事例を豊富に集めている点でも傑作である。